今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

法相宗大本山 薬師寺 その2(奈良県奈良市西ノ京町)

2013年12月28日 | 神社・仏閣
薬師寺では2009年から2018年までの予定で約110年振りの東塔の解体修理が進められている。
今回の旅行中に東塔の水煙が60年ぶりに地上に降ろされ、一般公開され、しかも撮影もできるということを知り気持ちが動いた



普段は寺院に入るとき「撮影禁止です」と強い口調で言われるのが常であるが、ここでは「自由に撮影してください」と言われる

東塔水煙降臨展 
体育館のような大きな建物があり、入口近くで四天王が迎えてくれる。
仏像を撮ることを禁止している寺院がほとんどで、今回のように自由にどうぞと言われると、それはそれで難しい

増長天像(平安時代)



持国天像(平安時代)



多聞天像(平安時代) 



広目天像(平安時代) 



宝生如来像(江戸時代) 



阿閦(あしゅく)如来像(江戸時代) 



不空成就如来像(江戸時代) 



ここまで夢中で撮っていたため、ホワイトバランスの設定が間違っていたことに気付いた
これまでの仏像が肉眼見える色と大きく違うのはそのせいだ
このあとはきちんと設定しなおしたので実物に近い色になっている

水煙 
水煙には、塔を災いから守る祈りが込められている






他の塔では火焔文様をデザインした例が多い中、薬師寺東塔の水煙は飛雲の中に、笛を奏で、花をまき、衣をひるがえして舞う24人の飛天が透かし彫りにされている



 





金箔が残っている部分が確認できる



東塔は東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇るが、見えない部分まで細密な工芸技術が駆使されている所が日本人のすごい所だ



九輪と擦管 


 
九輪は縦に連なる九枚の輪。下から「一の輪」…、と数える。
九という数には「永遠」「尊い」などの意味がある。
写真は「六の輪」までであるが一輪の重さは①92.5Kg ②97.5 ③104.6 ④98.3 ⑤90.5 ⑥76.3Kgとなっている。 ⑦58.5 ⑧78 ⑨65.5Kg






擦管は塔の中心を貫く心柱を包む金属管
相輪は擦管に乗せられているだけで金具等で留められていないというから驚く









東塔の「擦」には創建の経緯を語る「九輪と擦管」が129文字で刻まれている






東塔の組物
 

 
四天王を撮り直したもの









遠くから見ると大きさがわからないが、地上に降りるとその規模が理解できる









 
写真のデータを見て驚いたが、薬師寺には4時間も滞在していたことになる。
これまで観光バス利用の参拝であったため短い時間でも十分満足していたが、個人で時間も気にせず訪れると新しい発見も多く実に楽しい。


撮影 平成25年11月16日
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法相宗大本山 薬師寺 その1(奈良県奈良市西ノ京町)

2013年12月27日 | 神社・仏閣
旅行途中で薬師寺の水煙が一般公開され、写真も自由に撮れるという内容のニュースが流れていた。
薬師寺には何度も訪れてはいるが、最後に訪れてから10年以上も経つ。唐招提寺にも行きたいと思っていたのでちょうどよかった。

薬師寺<世界遺産>
奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山。南都七大寺のひとつ、本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇、道昭、義淵である。
1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録

駐車場から南門へ、以前来たときは世界遺産登録前だったことを思い出す



南門
境内南正面にある小規模な四脚門。室町時代・永正9年(1512年)の建築で、もとは薬師寺西院の門
早い時間帯だったこともあり参拝者の数もまだ少ない



中門
中門は昭和59年(1984)に西塔に引き続き復興された。平成3年(1991)には二天王像も復元






金堂
金堂は享禄元年(1528)この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちた。
昭和42年(1967)高田好胤が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩かれ、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興した



本堂の仏像
堂内撮影禁止と書かれてあったのでお堂の外から

薬師三尊像(国宝)
飛鳥時代後期(白鳳期) - 奈良時代(7 - 8世紀)の作。中尊は薬師如来、左脇侍に日光菩薩、右脇侍に月光菩薩を配している
 











大講堂側から見た金堂、右に西塔、左の覆いは修復中の東塔



西塔
東塔と対称的な位置に建つ。旧塔は享禄元年(1528年)に戦災で焼失



現在ある塔は1981年に伝統様式・技法で再建された



再建当時の朱色も今は周囲に風景に溶け込み、落ち着いた色になっている



大講堂
2003年の再建。正面41m、奥行20m、高さ17mあり、伽藍最大の建造物。
本尊の銅造三尊像(重文)は、中尊の像高約267センチの大作だが、制作時期、本来どこにあった像であるかなどについて謎の多い像である
かつては金堂本尊と同様、「薬師三尊」とされていたが、大講堂の再建後、寺では「弥勒三尊」と称している






東塔 古代釘(国宝)
講堂内に展示されている



鐘楼



東院堂(国宝) 
境内東側、回廊の外に建つ
元明天皇のために皇女の吉備内親王が養老年間(717-724年)に建立した東禅院が前身で、現在の建物は鎌倉時代・弘安8年(1285年)の建築



堂内の厨子に本尊・聖観音立像を安置する 






聖観世音菩薩(国宝) 
金堂薬師三尊像と同じく、飛鳥時代後期(白鳳期) - 奈良時代の金銅仏の代表作の1つ
日本屈指の美しい観音像の一つといわている



礼門






玄奘三蔵院 玄奘塔 
玄奘三蔵は『西遊記』で有名な中国唐時代の歴史上の僧侶



薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の始祖に当たる



平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿(写真左の建物)にお祀りしている

大谷徹奘執事法話 
30分間の法話であるが所々に過去に見聞きした内容が多く含まれていた。
実は学生時代に故・高田好胤氏のテレビ法話を真剣に視聴し、その著書も購入し少なからず影響を受けていた時代があった。
般若心経も購入したが「とらわれない こころ かたよらない こころ こだわらない こころ ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空のこころなり」と説いた高田好胤氏の言葉が当時の自分の心にすっと入ってきたことを今でも思い出す。
大谷氏の法話の最後に参加者全員でこの言葉を唱えた。

 


次回(東塔水煙降臨展)に続く

撮影 平成25年11月16日
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信貴山 朝護孫子寺  その3(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)

2013年12月26日 | 神社・仏閣


多宝塔横の背の低い鳥居を進むと行者堂に通じる



行者堂
修験道の開祖とされる役行者ゆかりの霊場。神変大菩薩はは役行者の尊称として使われている



ここから「空鉢堂(20分)」に行くか「奥の院(40分)」に行くか選択しなければならない。
勿論楽な20分の方を選んだのだが、途中でどちらにもいかないという選択肢もあるなと考えるほど辛かった
特にこの方式の階段は上りはリズムがつかめず、下りは足先に負担がかかり厄介だ



延々と続く上り坂、競走馬なら坂路調教といって足腰強化につながるが、中年男性ではそうもいかない。
鳥居が見えるともう少しなのかと思うが、思い通りには進んでくれない



時間的に考えるとこの福徳地蔵尊が半分の距離になる



空鉢護法堂(一願成就) 
命蓮上人が竜王の教えを蒙り、信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)の如く、空鉢を飛ばして倉を飛び返らせ、驚き嘆く長者に慈悲の心を諭して福徳を授けたという出来事に由来



山頂に竜王の祠を建てて以来、多くの参詣者から、「一願成就」の霊験あらたかな守護神として信仰されている






空鉢護法堂(空鉢堂)からの眺め



やはりここまで来た者でなければこの爽快な気分を味合うことはできない



空鉢護法堂(空鉢堂)周辺の風景









信貴山城址 
標高433mの信貴山雄嶽を中心とする山城で、奈良県下最大規模を有する中世城郭
信長が安土城を建造する際、信貴山城の天守を参考にした



星祭り本尊  
空鉢護法堂の近くに八体の像が安置されている



開山堂
享保17年(1722)建立。信貴山開祖 聖徳太子、宗祖 弘法大師、中興開山 命蓮上人 歓算上人、四国八十八ヶ所ご本尊さまをお祀りしているお堂



係の女性の話によると開山堂と本堂の高さは同じ。開山堂までの石段105段、堂内の階段数3段、合わせて108段、煩悩の数になっているそうだ
終了時間になっていたが、係の女性の強い勧めで、八十八カ所各寺の砂踏みめぐりを経験し、心洗われる仏縁のひとときを過ごすことになった

命蓮塚 
延喜の頃に信貴山を中興した高僧、命蓮上人の墓と伝えられる塚



開運橋(国の登録有形文化財) 
「上路カンチレバー橋」という形式で、開運橋がその形式としては現存する日本最古の橋。
鉄骨を組み合わせた「トレッスル橋脚」であることも珍しい 



夕方5時近くなっても参拝者が途切れることなくやってくる



気がつけば3時間以上経ってしまったが、全てを廻った訳ではなく、この鳥居の先に何があるかもわからない。
次回訪れた時の楽しみとしよう




撮影 平成25年11月15日
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信貴山 朝護孫子寺 その2(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)

2013年12月25日 | 神社・仏閣
朝護孫子寺の境内は案内図なしには、特に方向音痴の私には歩くことができない。
ブログ作成にあたり、雑誌やネット等で調べた結果、山内には「成福院」「玉蔵院」「千手院」の三つの塔頭があることがわかり、少し頭と写真の整理ができてきた。

成福院(じょうふくいん)
本坊を出て参道を歩くと目の前に成福院の朱色の建物が見えてくる



寅大師
昔より大切なお金のことを「寅の子」という。
成福院の修行大師は別名「寅大師」と言われ、修行大師の傍らに「撫で寅」があり、足を撫でれば出ていったお金が直ぐもどる、頭を撫でてはボケ封じ、牙を撫でては立身出世、尻尾を撫でては延命長寿のご利益がある



石室十三仏(平群町指定文化財)



石仏(ようおまいり)
境内で会う僧侶や係の人から必ず「ようおまいり」と声を掛けられる



三福神堂(さんぷくじんどう)
財運と芸事を司る弁財天を本尊として、左脇侍に福運と豊作の大黒天、右脇侍には開運と大漁の恵美酒太神をお祀りしている



玉蔵院 
平安時代、崇徳天皇の御代に、新義真言宗の開祖である覚鑁上人が信貴山に参篭した時、毘沙門天より真陀摩尼(ちんたーまに)という如意宝珠の珠を授けられ、この寺に蔵さめたという伝説から玉蔵院とよばれるようになったという

浴油堂
浴油法(浴油堂でのおがみかた)とは昔から真言密教の秘法中の秘法といわれている



玉蔵院融通堂



縁結び観音



金集弁財天



日本一大地蔵尊



三重塔



萬願の虎(全ての願い事が叶う) 



千手院 
山内では最も古く由緒ある寺で、信貴山寺を代表する住職の住坊とされてきた

観音堂
本山長谷寺の十一面観世音菩薩のご分身をお祀りしている



護摩堂
命蓮上人が開壇以来1100年間、毎朝欠かさず毘沙門護摩が焚き続けられている



この石に腰を掛けると……



石造十三重塔



多宝塔
祭壇に大日如来を安置。坐像丈三尺、説に恵心僧都作とすることから、古くは天台宗との関わりがうかがえる



元禄2年(1689)に建立、明治15年(1882)に修復






空鉢護法参道から見える多宝塔



鐘堂 




次回に続く

撮影 平成25年11月15日
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信貴山 朝護孫子寺 その1(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)

2013年12月24日 | 神社・仏閣
この日は朝から強い雨が降り続いていた。
昨日の鞍馬寺の疲れもあり、写真の整理をしながら道の駅で過ごしていた。
昼頃になり、急に雨が止み青空が広がってきたため、予定していた朝護孫子寺に向かうことにした。

信貴山 朝護孫子寺 
朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)は、奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)の信貴山にある信貴山真言宗総本山の寺である。本尊は毘沙門天
駐車場近くに鳥居があり迎えてくれる



さらに進むと黄色の虎と上にはお堂が見えてくる



世界一大福虎
寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したことから、寺の至る所に虎の張り子が置かれている






山の中腹に見えるのは舞台造りの本堂



すぐ先には「子虎」



僧侶から「ようおまいり」と声をかけられる

 

赤門



参道を歩いていると、ここが寺なのか神社なのか悩んでしまう



榧の木稲荷
神木 榧(かや)の木 樹齢1500年 蘇我一族と物部一族が政治の実権を握るために争っていた時代のもの



聖徳太子像
物部氏に勝利した聖徳太子は、594年(推古2年)に毘沙門天を祀る寺院を創建し、「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとする



本坊



名木「梅の木(樹齢400年)」 織田信長の攻略に遭い灰燼に帰した本堂を、豊臣秀頼が再建し、梅の木をこの霊地に手植えして祈願所とした



虚空蔵堂



虚空蔵菩薩(丑年・寅年生まれの守り本尊)を安置



石造五重塔






経蔵堂(一切経蔵) 



 


霊宝館 

 

霊宝館の右にある石段を上がると本堂に続く



朝護孫子寺 本堂
902年(延喜2年)に醍醐天皇が、「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺としたことから、「朝護孫子寺」の勅号を賜った
昭和33年(1958年)に復興された朱塗りの欄干をもつ舞台造り(懸造)の建物
昭和26年(1951年)に焼失した旧本堂は豊臣秀頼の本願により片桐且元を奉行として再建されたものだった



毘沙門天王像は『お前立ち』とも呼ばれ、この像の後ろに『中秘仏』、さらに奥に『奥秘仏』が納められている



本堂正面扁額の両側の百足(むかで)は毘沙門天王の使いとされる



本堂からの風景



朝護孫子寺は拝観料がないため境内案内図のないまま迷路のような参道をあるいて、やっとの思いで本堂にたどり着いた。
このような状態なので、ブログを作成して初めてだが自分の撮った写真と記憶が全く一致せず困っている。

不安だが次回に続く 


撮影 平成25年11月15日
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鞍馬山 鞍馬寺 その2(京都府京都市左京区鞍馬本町)

2013年12月22日 | 神社・仏閣
仁王門から出発して本殿金堂までに写真を撮りながらではあるが、一度も休憩せず70分ほど要した。
そのすべては上り坂であり体重上昇、体力低下の体に試練を与えてくれる。境内案内図によるとこの900m先に奥の院があるらしい。
多少迷ったがブログの内容を充実させるためにも行くことにした



鐘楼
石段の道が続くが右手に上に鐘楼があり、すでに何人もが順番を待ち次から次へと撞いている



義経公息次ぎの水
牛若丸が毎夜、奥の院僧正が谷へ剣術の修行に通ったとき、この清水を汲んで喉をうるおした



不動堂



伝教大師が天台宗開宗の悲願に燃え、一刀三礼の礼を尽くして刻んだと伝えられる不動明王が奏安されている



義経堂



奥州衣川で若い命を散らした義経の御魂は幼少時代を過ごした鞍馬山に戻ってきたと信じられ、遮那王尊として祀られている



木の根道
硬い地質のため杉の根が地中に入り難く、地表を這っている



奥の院魔王殿
本殿から西の貴船神社へ抜ける山道の途中、奇岩の上にある小堂



650万年前に金星から地球に降り立ったという魔王尊を祀っている



磐座(いわくら)磐境(いわさか)とも称され、神々が降臨された場所として崇拝されてきた



この2キロ先に貴船神社があるが、帰りに撮ろうと思っていた場所もあったので戻ることにした
写真ではわからないが結構苦労してここまできたため、気力も消耗してしていた

参道の風景



義経公背比べ石



遮那王が背くらべ石を山に見て 
  わがこころなほ明日を待つかな 與謝野 寛
 



遮那王と名のって鞍馬山で修行していた牛若丸が、奥州藤原秀衡の許に下りるとき名残を惜しんで背を比べた石といわれる



参道の風景。このような道が続き、多くの人は「山ガール」の服装で歩いている



屏風坂 革堂の地蔵尊






霊宝殿(鞍馬山博物館)
木造観音菩薩立像(重文)は驚くほど美しい



與謝野 寛・晶子の歌碑



何となく君にまたるるここちして
   いでし花野の夕月夜かな 與謝野 晶子

遮那王が背くらべ石を山に見て 
   わがこころなほ明日を待つかな 與謝野 寛


本殿に戻ってきた。これから仁王門への帰り道になる
石段を下りようとすると美人さんが上ってきたので紅葉を撮るふりをして一枚、どちらも美しい



巽の弁財天社
福徳と智慧と財宝の神・弁財天を祀る



皇后陛下行啓御休息所蹟
石椅子の上に腰を下ろし、皇室気分を味わう



中門(勅使門・四脚門) 
上りの時とは違い、下りは何でも美しく感じる



愛と光と力の像~いのち~ 



参道の風景。この4人の中年男性、歴史研究者なのか愛好家なのか各場所で意見交換をしていた



義経公供養塔
800年余り前、牛若丸が7歳の頃から10年間、昼は学問、夜は武芸に励んだ時に住まいした東光坊の旧跡である。義経を偲んで昭和15年に建てられた



川上地蔵堂
遮那王と称した牛若丸の守り本尊である地蔵尊が祀られている。牛若丸は日々修行の時にこの地蔵堂に参拝した



由岐神社前の願掛け杉



拝殿<荷拝殿、割拝殿>(重要文化財) 
鞍馬山では唯一の建築物での重要文化財。屋根も自然と一体化している



鬼一法眼社
鬼一法眼(きいちほうげん)は牛若丸に「六韜三略」の兵法を授けた武芸の達人



魔王の滝





また一人の女性が山に上っていく。
奥の院まで、あるいは貴船神社まで行こうと思うならこの服装がベストである。
私の場合、奥の院までの往復に要した時間は休息なしで約4時間。途中、自販機などなく、それなりの準備が必要だ



最後の一枚は参道から見えた仁王門



 
撮影 平成25年11月14日
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鞍馬山 鞍馬寺 その1(京都府京都市左京区鞍馬本町)

2013年12月21日 | 神社・仏閣
行ってみたかった寺の一つであり念願は叶った。
だが、いつものことではあるが下調べなど全くしていなかったため、甘く考えていた部分もありかなり苦労もした。

鞍馬山 鞍馬寺
京都府京都市左京区鞍馬本町にある。1949年まで天台宗に属したが以降独立して鞍馬弘教総本山となる。
山号は鞍馬山。開基は鑑真の高弟鑑禎(がんてい)。
本尊は寺では「尊天」。「尊天」とは毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるという。
また、鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、能の『鞍馬天狗』でも知られる。

仁王門(山門)
1891年(明治24年)焼失し、1911年(明治44年)再建された



仁王門は俗界から鞍馬山の浄域への結界

 

仁王尊像は湛慶作と伝えられている(帰りに写真を撮ろうと思っていたが)



ここから緩い上り坂になるが300m程歩くと鳥居が見えてくる

由岐神社
祭神は元は宮中に祀られていたが、都で大地震・天慶の乱が起き、当時の天皇である朱雀天皇の勅により、天慶3年(940年)、鞍馬の地に遷宮をし、北方鎮護を仰せつかった



拝殿(重要文化財) 
豊臣秀頼により再建 割拝殿形式の桃山建築



願掛け杉の神木
大杉社の祭神

 

本殿 
豊臣秀頼により再建された



愛と光と力の像~いのち~
毘沙門天を「光」の象徴にして「太陽の精霊」・千手観世音を「愛」の象徴にして「月輪の精霊」・魔王尊を「力」の象徴にして「大地(地球)の霊王」としている



中門
もともとは仁王門の横にあり、勅使門または四脚門と呼ばれ朝廷の勅使が通る門であった



皇后陛下行啓御休息蹟 
大正13年12月に貞明皇后が行啓の際休息された所



九十九折(つづらおり)参道の途中ではあるが、誰しも休みたい気持ちになる
その昔、最澄や清少納言、そして牛若丸も同じ道を歩いていたかと思うと力が涌いてくる

転法輪堂
祖先の恩徳に感謝を捧げる道場。丈六の阿弥陀仏が安置されている



重怡(じゅうい)上人が6万遍の弥勒宝号を書いて法輪に収めたことが転法輪堂の名の由来



 


寝殿
1924年(大正13年)の建築。貞明皇后が行啓の際の休息所



非公開となっている



翔雲臺
中央の板石は本殿後方より出土したもので、平安時代より鞍馬寺に伝えられた如法写経会の経巻を埋納した経塚の蓋石



板石の下から発掘された経塚遺物二百余点が国宝に指定された



本殿
鞍馬寺本殿金堂(本堂)の本尊は「尊天」であるとされる。
堂内には中央に毘沙門天、向かって右に千手観世音、左には護法魔王尊が安置され、これらの三身を一体として「尊天」と称している



石畳は金剛床といい、内奥に宇宙の力を蔵する人間が宇宙そのものと一体化するという鞍馬山の教えの理想を表現する

3年前SMAPの稲垣吾郎が金剛床に立って大きく手を広げたり、天を仰いだりして拝む姿がテレビで紹介された。
その姿を真似てみる女性の参拝者が増えたという。
実際並ばなければこの地点に立つことができない。
写真は外国人女性が合掌している姿だがこちらの方がずっと様になっている



写真ではわからないが金剛床周辺には多くの参拝者が待機している
ご本尊は秘仏で60年に一度丙寅の年のみ扉が開かれる 



光明心殿
護法魔王尊を祀る


 
次回(奥の院)に続く


撮影 平成25年11月14日
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比叡山 延暦寺<東塔>その4(滋賀県大津市坂本本町)

2013年12月20日 | 神社・仏閣
これまで何度か訪れている東塔(とうどう)だが、すでに20数年経っている。
当時気になっていた(母親を背負っている)看板もすでに取り払われていて時代の流れを感じた。
東塔駐車場に着いたときには午後2時近くになっていたので急がなければならないという気持ちになっていた



横川や西塔と比べると参拝者の数が数倍多い

大講堂(重要文化財) 
寛永11年(1634年)の建築。もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に移築。
重要文化財だった旧大講堂は1956年に火災で焼失している



本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。
いずれも若い頃延暦寺で修行した高僧で、これらの肖像は関係各宗派から寄進されたもの



大講堂周辺の紅葉も美しくカメラを構えている人の数も多かった



鐘楼
若い女性を中心に長い列ができていた



根本中堂(国宝)
最澄が建立した一乗止観院の後身。
現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたものである



堂内に入ろうとしたが何かの行事が行われており、煌びやかな法衣を身にまとった僧侶(後に写真あり)が集団でお経を唱えていた。
遠くからしばらく見ていたがこれはこれで迫力がある

近くにいた若い僧に聞くとしばらく時間がかかるというのでいったん堂内を離れることにした
この石段は文殊堂につながるのだが、上るのは高校2年の修学旅行以来になる



昔は希望と期待で胸が弾んでいたが、今は息切れで胸が苦しい。
石段の途中で休息し振り返って撮った一枚



入母屋造で幅37.6メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.2メートル。
土間の内陣は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造になっている。
内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を安置(開創1200年記念の1988年に開扉された)



本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。
この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている

文殊堂
寛文8年(1668年)の火災後の再建。
二階建ての門で、狭くて急な階段を登ると階上に文殊菩薩が安置されていて拝観できる



根本中堂の真東に位置し、他の寺院における山門にあたる
下りるときも、どのようにして下りたらよいか考える必要があるが、文殊菩薩の力で解決してくれる



近くにある石塔。日本人は石を置くのが好きだということがよくわかる



戒壇院(重要文化財)



僧侶が大乗戒(規律)を受ける比叡山中で最も重要なお堂



天長5年(828年)に創建されたが、現在の建物は延宝6年(1678年)の再建



内陣に得戒和尚釈迦牟尼仏と文殊菩薩、弥勒菩薩が祀られ、年に一度授戒会が行われる






阿弥陀堂
昭和12年(1937)に建立、壇信徒の先祖回向の道場。本尊は丈六の阿弥陀如来






お堂前には、水琴窟があり、美しい響きを聞くことができる



法華総持院東塔
多宝塔型の塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形



下層には胎蔵界大日如来、上層には仏舎利と法華経1,000部を安置する



再び根本中堂に戻り堂内に入ろうとすると、僧侶の集団が出てきた



先導するのは、和楽器を奏でる僧侶、傘の下の僧侶がこの集団の最高位だと思われる












最後の最後に素晴らしいものを見ることができ、感激した



この後、根本中堂にて「不滅の法灯」の説明を受け、国宝館内の展示物を拝観する

最後の一枚は




 撮影 平成25年11月13日
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比叡山 延暦寺<西塔>その3(滋賀県大津市坂本本町)

2013年12月19日 | 神社・仏閣
奥比叡ドライブウエイにて、横川から西塔(さいとう)に移動する。
到着したのは昼過ぎだが食事を摂っている暇などない。案内板を見ながら参道を進む



親鸞聖人ご修行の地
我が家にとって最も大切な、浄土真宗開祖「親鸞聖人」がご修行された場所である



にない堂(重要文化財)
常行堂・法華堂という同じ形の二堂が、渡り廊下でつながっている。
弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、俗に「弁慶のにない堂」と呼ばれている。
法華と念仏が一体であるという延暦寺の教えを建物で表している

常行堂 



山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならない。
三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで90日間修行しなければならない



常行堂で行う修行(常行三昧)は本尊・阿弥陀如来の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許されるが、基本的に禅の一種である



90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものである



手前が「常行堂」、奥に見える建物が「法華堂」である



法華堂(重要文化財)



法華堂で行われる行は常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとる



にない堂<弁慶のにない堂>
左が「常行堂」右が「法華堂」 両堂をつなぐ廊下が「にない堂」
近くで説明していたガイドの説明によると、修行僧にどちらかあるいは両方を選ぶという選択ができるそうだ



私も人生の修行を積んできたつもりだが、いまの自分には立ってばかりもいられないし、じっと座っている訳にもいかない。
ガイドの話によると7月ころになるとこのお堂から念仏の声が聞こえてくるという



にない堂も参道の一部になっていて、中央をくぐりと下りの石段へと続く



恵亮堂
恵亮和尚(800~859)を本尊として祀る。体楽大師と称し修力霊験に最も優れた和尚であり、京都の妙法院を創建した



円戒国師寿塔
寿塔とは生前造ったお墓



転法輪堂<釈迦堂>(重要文化財) 
西塔の中心堂宇で、釈迦堂ともいう



信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595年)、当時の園城寺弥勒堂(金堂に相当し、南北朝時代の1347年の建立)を豊臣秀吉が無理やり移築させた



現存する延暦寺の建築では最古のもので本尊は釈迦如来立像(重文)






鐘楼






釈迦牟尼佛



西塔政所(延暦寺学問所)


 



浄土院に向かう途中、4・5台の乗用車に追い越された。乗用車の中には僧侶が乗っていて、追い越す際に一礼していくなどとても礼儀正しいその車が浄土院前に駐まっていた

浄土院(伝教大師御廟)



帽子をとり、門前にて一礼して足を踏み入れたが、その瞬間言葉では言い表すことのできないほどの圧迫感を体全体で感じた



お堂では先ほどの僧侶の読経の声が重々しく聞こえてくる。
ここを訪れた時はここがどのような場所か全く理解していなかった



お堂の裏に回った時にだれかの御廟だとわかったが、この時は「最澄」に結びつかなかった



ただ、「高野山奥の院」とこの雰囲気はとても似ているとは感じていた



弘仁13年(822年)6月4日、56歳で入寂した大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854年)7月ここに移して安置した



東塔地域と西塔地域の境目に位置し、所属は東塔地域になっている
現在は十二年籠山の僧が毎日、生身の大師に仕えるごとくに奉仕している 



次回(東塔)に続く


撮影 平成25年11月13日
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比叡山 延暦寺<横川>その2(滋賀県大津市坂本本町)

2013年12月18日 | 神社・仏閣
この旅で訪れた松尾寺(11月28日付公開)の住職もかつては比叡山で修行した経験を持ち比叡山参拝を薦めてくれた。
廻るのに1日かかることも事前に聞いていたが、最初に訪れた「横川」は歩く距離も長く案内図のすべてを廻ることが時間の関係でできなかった。

恵心院 
恵心僧都の旧跡で、藤原兼家が元三慈恵大師のために建立した
門前に「極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽」とあるように念仏三昧の道場



恵心僧都は恵心院に籠もり、仏道修行と多くの著述に専念し、浄土教の基礎を築いた



秘宝館(重要文化財)



海軍通信学校慰霊碑



ここから日蓮上人修行の地「定光院」を目指すことにした

定光院 
定光院が歴史に登場するのは、元三慈恵大師が四季講堂で法華経の講義を行ったときの修行僧の坊舎としてだ



日蓮聖人御使用の「手水鉢」



比叡山には「論(法論の日々)・湿(多湿な気候)・寒(厳しい寒さ)・貧(ひもじい思い)」という言葉がある



叡山三大地獄の修行の一つ、横川の看経(かんきん)地獄<昼夜読誦三昧>を若き日の日蓮はこの地で修行に励んだ



日蓮聖人銅像 大正14年(1925)生誕700年を記念して建立



日蓮聖人御真筆の題目碑



写真ではわからないが、定光院までの往復約20分の道のりは、舗装された石段そして手すりもあるが、途中で止めようかなと思うほど苦労したことを付け加えておく



行院(天台宗修行道場)



修行道場のため立入禁止区域となっている。紅葉の美しさに囲まれているが凜とした雰囲気が漂っている



門前に数人の人がいたが参拝客ではなく、家族のようであった



根本如法塔



横川中堂から道路を挟んだ所にある



大写しが好きなのだが、周囲の紅葉が綺麗なのでつい引いてしまう



 


最後の一枚は「横川中堂」 


 
次回(西塔)に続く


撮影 平成25年11月13日
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比叡山 延暦寺<横川>その1(滋賀県大津市坂本本町)

2013年12月17日 | 神社・仏閣
比叡山を最初に訪れたのは高校2年生の修学旅行。
根本中堂で正座させられ僧侶から罵倒された記憶があり、信長の焼き討ちにあったのは当たり前とその当時は思っていた。
その後、4・5回は訪れていたが根本中堂のみであった。数年前から比叡山に行きたいという気持ち強くなり、今回は20数年ぶりにその機会に恵まれた。

仰木ゲートから奥比叡ドライブウエイを利用した関係で「横川~西塔~東塔」の順で紹介していく

天台宗総本山 比叡山 延暦寺<世界遺産> 
滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。
延暦寺の名より比叡山、また叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。
平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。

横川(よかわ)
慈覚大師円仁によって開かれ、源信、親鸞、日蓮、道元など、名僧たちが修行に入った地で、横川中堂を中心に聖域の雰囲気が漂う

横川中堂



第3世天台座主慈覚大師円仁によって開かれた。本堂は、遣唐使船をモデルとした舞台造り



旧堂は1942年、落雷で焼失し、現在の堂は1971年に鉄筋コンクリート造で再建された






本尊は聖観音立像(重文)



堂内の後陣には、数え切れないほどの小さな観音像が安置されている



本堂前の「護法石」



参道を歩いていくと左手に「虚子乃塔」の案内板が見える



虚子乃塔 
高浜虚子は比叡山に登り「叡山詣」を書き、横川中堂の政所一念寺に泊まり「風流懺法」を書いた。
横川中堂が雷火で焼失(昭和17年)した際、虚子が多額の見舞金を送ったことから、後に虚子の塔を建立(昭和28年)
 清浄な 月を見にけり 峰の寺 <虚子>



鐘楼



元三大師堂(四季講堂)  



時折降っていた雨もあがり青空も見えてきた。この周辺の紅葉も美しく映える



比叡山中興の祖・元三慈恵大師の住居跡



四季ごとに学徒を集めて法華経の論議を行うことから四季講堂とも呼ばれる




 

忘れていたが、おみくじ発祥の地である 



次回に続く


撮影 平成25年11月13日
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長等山 園城寺<三井寺>その3(滋賀県大津市園城寺町)

2013年12月16日 | 神社・仏閣
「一切経蔵」で雨宿りをしていたが、止む気配がないので次に進むことにした。



唐院(重要文化財)
灌頂堂(重文)、唐門(重文)、大師堂(重文)、長日護摩堂などがある。



智証大師円珍が唐から帰国後、請来した経巻法具などを納めたところ



現在は、宗祖円珍の廟所ならびに灌頂(密教の儀式)の道場として寺内でも最も神聖な場所



潅頂堂(重要文化財) 
五面五間 側面五間 一重 入母屋造 桧皮葺 桃山時代
大師堂と四脚門にはさまれて建ち、大師堂の拝殿としての役割を備えている
内部は前室と後室に分けられ、密教を伝承する道場



長日護摩堂 



潅頂堂と長日護摩堂の奥に大師堂(重要文化財)があり、智証大師像(国宝)と黄不動尊立像(重文)が祀られているが、立入禁止となっているため建物も見ることができない

潅頂堂の右側には三重塔がある



三重塔(重要文化財)
三間三重塔婆 本瓦葺 室町時代



奈良県の比曽寺にあった塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601年)、徳川家康が再度移築させた



 


村雲橋
開祖円珍がこの橋を渡っているとき、中国の青龍寺が焼けている事を聞いた。閼伽井の水をまくと橋の下から村雲が湧き起こり中国に向かって飛び去った。
翌年、青龍寺から鎮火のお礼の使者が来たという



微妙寺(三井寺別所)
本尊は十一面観音(重文)<土・日・祝日のみ開扉>



参拝人が多数押しかけて 人々の笠が破れたことから俗に「笠ぬげの観音」と呼ばれて信仰された



毘沙門堂(重要文化財)
正面一間 側面二間 一重 宝形造 桧皮葺 江戸時代(元和二年 1616)



明治以降に三尾社の下に移築、戦後の修理に際して現在地に移った



内部には文様などが彩色で描かれており、桃山建築の系譜を受け継いでいる



観音堂(滋賀県指定文化財)
貞享三年(1686)に火災にあい、元禄二年に再建された。本尊は如意輪観音(重文)<秘仏>



観月舞台(滋賀県指定文化財)



百体堂(滋賀県指定文化財)



手水舎(大津市指定文化財)



衆宝観音
衆宝とは衆生が求めてやまない財宝のこと、この観音様を信仰すると財宝が貯まり、福徳を授けられ出世が叶うという



もちろん念入りに祈願したが、信仰心がないので期待はできない。しかし、右手を岩に置き、左手を立て膝の上に置くという、この観音様の特異な姿形はすばらしい



朝から石山寺から三井寺と廻り随分歩いた。昼食も摂らず雨にもあたり体力も消耗してきた。
案内によるとあと2つ(水観寺と護法善神堂)残っていたが戻ることにした。

本堂裏にある石仏を撮るために移動した












本堂裏にあるこの小さなお堂だが記憶から消えている



本堂と奥に見えるのは三井の晩鐘



最後に、三井寺で働いている人たちの対応が素晴らしいところも、この寺の魅力のひとつだ。
歴史ある大寺にもかかわらず大変親切で謙虚だ。
三井寺で働かせてもらっているという誇りがひしひしと伝わってくる。 




撮影 平成25年11月12日
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長等山 園城寺<三井寺>その2(滋賀県大津市園城寺町)

2013年12月15日 | 神社・仏閣
三井寺の2回目になる。受付所で渡されるリーフレットは秀逸で、参拝者の目線で図説され、参拝順路や解説などが解りやすく書かれている。
境内においても参拝順路が示されていて、初めて参拝に訪れた人にも迷うことなく目的地に向かうことができる。

鐘楼<三井晩鐘>(重要文化財) 
金堂の左手前にあり、「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊る。
百八煩悩に因んだ数の乳を持つ梵鐘の在銘最古遺品に当たる。
弁慶鐘にならって新鋳しているため、弁慶鐘とほぼ同じ大きさに造られている



この梵鐘は慶長7年(1602年)の鋳造で、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘に数えられている



この鐘は自由に撞くことができるが、近づくと1回300円と書いてある。
「鐘か、金か」迷うところだが、前回訪れたとき2回撞いているので、今回は金を選んだ



閼伽井屋<三井の霊泉>(重要文化財)
金堂の西に接して建つ小堂で、慶長5年(1600年)、金堂と同じく北政所によって建立された



正面三間 側面二間 一重 向唐破風造 桧皮葺



内部には井泉が湧き、天智・天武・持統天皇の 産湯に使われたことが三井寺の名前の由来になっている



堂内には三井寺の名の起こりとなった霊泉が湧出している



左甚五郎作「龍の彫刻」
むかし、この龍が夜な夜なびわ湖に出て暴れるため、甚五郎自ら眼玉に釘を打ち込み鎮めた



熊野権現社
智証大師が入唐求法し法華・密教の奥義を究めた



大峯・熊野三山に入峯練行した事蹟に則り平治元年(1159)当地に熊野権現を勧請し、三井修験道の鎮神とした。
現社は天保8年(1837)の再建



霊鐘堂  
堂内に「弁慶の引摺り鐘」が安置されている



弁慶の引摺り鐘(重要文化財)
山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまった



この鐘は寺に変事があるとき、その前兆として不可思議な現象が生じたという。
良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、 また良いことがあるときには自然に鳴るといいわれている



建武の争乱時には、略奪を恐れ鐘を地中にうめたところ、自ら鳴り響き、 これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれている



一切経蔵(重要文化財)
室町時代の建築。毛利輝元の寄進により、慶長7年(1602年)、山口市の国清寺の経蔵を移築



堂内には高麗版一切経を納める回転式の八角輪蔵がある



天井から 円空仏七体が発見されている



雨が強く降ってきたため、重要文化財の堂内で贅沢にも雨宿りをする。
堂内は暗いため人間の眼には見えないが、カメラの力によりここまで見えてくる



左側(三重塔)から見た一切経蔵 



次回に続く


平成25年11月12日
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長等山 園城寺<三井寺>その1(滋賀県大津市園城寺町)

2013年12月14日 | 神社・仏閣
三井寺も2回目の参拝になるが、最初に訪れた時の写真が操作ミスかなにかで、私のパソコンから消えてしまっていた。
新たな気持ちで境内を廻ったため写真の枚数が増えてしまい、数回に分けての報告になる。

大門<仁王門>(重要文化財)
室町時代(宝徳四年 1452)。三間一戸楼門 入母屋造 桧皮葺



三井寺中院の表門で、東面して建ち、両脇の仁王像が山内を守護している



天台宗の古刹常楽寺(湖南市)の門で、 後に秀吉によって伏見に移され、慶長六年(1601)に家康によって現在地に 建てられた
*常楽寺(湖南市)平成25年12月7日付けで公開 



仁王像を撮ろうとしたが、格子と細かな鉄網が試練を与えてくれる



悪戦苦闘したが私の技術ではここまでが限界



釈迦堂から見える仁王門



釈迦堂<食堂>(重要文化財)
大門を入って金堂に至る道の右側にある。天正年間(16世紀末)造営の御所清涼殿を下賜され移築したもの



「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれている。
この堂も食堂として移築されたものと思われるが、 現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されている



仏像が好きな人は堂中に入ると近くから拝観することができる。
清涼寺式の仏像についてだが、最初は奇異に感じていたが、見慣れてくると病みつきになる不思議な魅力を持っている

歩を進めていくと石段の上に金堂が見えてくる



金堂<本堂>(国宝) 
三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が慶長4年(1599年)に再建した。入母屋造、檜皮葺きの和様仏堂である。なお、移築された旧金堂が延暦寺に現存する。



672年、天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟)が 皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。
壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために 「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の始まりとされている



三井寺の金堂には、本尊として弥勒菩薩が祀られている。
「寺門伝記補録」によると、身丈三寸二分の弥勒菩薩(絶対秘仏)



三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に 御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを後に 智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来。
現在、金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出ている清水が御井そのものとされている



貞観年間(859~877)になって、智証大師円珍が、 園城寺を天台別院として中興してからは、東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、南都北嶺の一翼を担ってきた



円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入る。
この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分された。
その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇した



以前訪れた時、後陣の売店を担当していた男性が、仏像に光を当て表情まで丁寧に説明してくれたことを思い出す。
その親切に応えるため、その時に購入した数珠をいまでも愛用している。

次回に続く


撮影 平成25年11月12日 
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石光山 石山寺 その4(滋賀県大津市石山寺)

2013年12月13日 | 神社・仏閣
心経堂 



参道は綺麗に整備されており周囲の木々も色づき始め美しい
この先にある「豊浄殿」ではこの期間のみ「石山寺と紫式部展」を開催。石山寺の宝物と、紫式部や『源氏 物語』を題材とした美術品などを展示



さらに進むと遠くに光堂が見えてくる

 

以前、訪れたときは建築工事をしていたので完成したものを見るのは初めてとなる



源氏苑「紫式部像」
この旅の前に井沢元彦氏の「逆説の日本史」で源氏物語について書かれていた部分を読み、時代背景には興味を持ってはいたが、源氏物語はまだ読んではいない



「桐壺」の冒頭部分は古典の授業で暗記させられていたので、今でも覚えている



この辺りまでくると観光客も極端に少なくなる。
周囲の風景にはあまり興味は無かったが、北海道では見られない紅葉の美しさに、つい指が動いてしまう



無憂園にて 



宝殿 



雅の台
「懸造の本堂正面が一望できる」と案内板に書いていたが、木々の葉に隠れている






天狗杉



境内図で見逃している大切な所があった

鐘楼(重要文化財) 
重層袴腰、檜皮葺の入母屋造で、様式などから鎌倉時代後期 の造営



上層に吊るされた梵鐘は平安時代を降らない



宝篋印塔 
墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種



源頼朝供養塔(重要文化財)



亀谷禅尼供養塔(重要文化財)



めかくし石(平安朝時代)
目隠しして、この石を完全に抱けば諸願成就する

 

境内図に示されている部分は記録できた。ブログを始めてからというもの他人に見てもらうことを意識して隅から隅まで歩き回っている自分がいる

大黒堂(重要文化財)
石山寺参拝の出口となる



東大門の方へ向かって歩く



約3時間の滞在、疲れもあるが新たな発見も多い



最後の一枚は、天然記念物の石と木々に囲まれた、日本最古の「多宝塔」(国宝) 




撮影 平成25年11月12日 
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