今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

慈恵山 円隆寺(京都府舞鶴市引土)

2019年04月30日 | 神社・仏閣
慈恵山 円隆寺
真言宗御室派の寺院である
舞鶴は小樽港とのフェリーの発着の場として、よく利用するが寺社の参拝は初めてである



総門(京都府指定文化財)
宝暦3年(1753年)の建立。「三つ棟造り」で、脇間の前後に四天王像を安置するというが撮ることができなかった



扁額には、山号の「慈慧(じけい)山」



弘法大師像



本堂(京都府指定文化財)



円隆寺の創建は不詳で、奈良時代に行基菩薩が開いたとも、長徳年中(995~999年)に皇慶上人が開いたとも伝えられている



最盛期には院坊70を数えたが、文治4年(1595年)の山崩れで堂宇を失った



万治2年(1659年)と享保17年(1732年)に火災に遭い、現存する建物はその後の再建である。



本堂の建立は、天明6年(1786年)である



多宝塔(京都府指定文化財)
境内を散策、目の前に多宝塔が現れた。存在は知っていたが塔好きの私としては嬉しい



宝暦元年(1751年)の建立
塔全体が撮れる場所は限られ、しかも逆光、いつもはカメラ任せだが、今回は久し振りに露出補正をした



雰囲気はあるのだが、それにしても周囲に木が多い…



鐘楼(京都府指定文化財)
宝暦10年(1760年)の建立
繰り返すが、周囲に木が多い…いや、多すぎる



再び、本堂周辺に戻り、周囲を散策する



太子堂



鎮守堂(京都府指定文化財)



観音堂



朝代神社(あさしろじんじゃ)
672年9月に伊弉諾神宮より勧請して創建されたと伝わる
円隆寺の駐車場を探すことができず、隣接していた朝代神社の駐車場を利用させてもらった






鳥居と狛犬



手水舎



中に神輿が見えるので「神輿殿」か



拝殿



本殿



狛犬






撮影 平成30年10月25日
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本光山 馬居寺(福井県大飯郡高浜町馬居寺)

2019年04月29日 | 神社・仏閣
本光山 馬居寺(まごじ)
高野山真言宗の寺院
道の駅で「近くにある有名寺院」と検索、いくつかあったなかの一つが「馬居寺」である



寺伝では推古天皇27年(西暦619年)聖徳太子の創建と伝えている
この不揃いの石段が歴史と風情を醸し出している



石段横にある石仏



山門
額には山号の「本光山」



聖徳太子の創建ということは、「和をもって尊しとなす」の「和」なのか
木槌で叩いてみると、乾いた、いい音が境内に響いた。これが和音だと閃いた(笑)



納経所
境内の清掃をしていた住職と話しをする機会に恵まれた
真言宗の寺院は人里離れた場所にあるため檀家が少なく、多くは他に職業を持ちながら運営しているそうだ



心字池
「心」の字をかたどった池の事だが、住職の説明を受けなければわからなかった
写真を見るとこの角度がわかりやすいが…



当時は、池周辺を歩いても「心」が見えなかった



右の石塔も自然石で造られたそうで昔からあるとのこと。奥には小さな天満宮の社



歌碑「月光に琴の音ひびく山の寺」ふさ女



古刹の境内の片隅にある陶器の置物が妙に可愛い



手水舎



住職は書道教室を開いているとのこと。馬居寺(まごじ)を馬居寺(うまいじ)と読ませるセンスは抜群だと思った



本堂から少し離れた所に観音堂がある



観音堂
太子は摂政の役目を帯びて地方御巡行の道すがら、馬を下り、しばし休息をとった。ちょうどそのとき彼方山上に愛馬のいななくを聞いた
それと刻を同じくして、時ならぬ一大光明がそのあたりに輝くのを見た



この処こそ我日頃求めていた霊地なりとして、太子自ら馬頭観世音菩薩像を刻み、堂を建て、ここにその像を安置した



堂内の様子
本尊の「木造馬頭観音坐像(重要文化財)」は 平安時代末期の作。秘仏で、開帳法要は25年に1度






石仏群
百数十体の石仏は、鎌倉から室町、江戸期のものといわれている



石仏群を撮っていて気になるのがピントが合わないこと。何かあるのか……






神木
昔から雷の落ちた木は不思議な霊力が宿ると云われている。樹齢300年の樅の木



観音堂の右手には「熊野神社」の鳥居



狛犬



熊野神社拝殿



緑に囲まれた参道を下り車に戻る



撮影 平成30年10月25日
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宝篋山 天徳寺(福井県三方上中郡若狭町天徳寺)

2019年04月28日 | 神社・仏閣
宝篋山 天徳寺
高野山真言宗の寺院で、泰澄大師の開基と伝えられている
平安時代に村上天皇の勅願寺となり、その時の年号である「天徳」が名付けの由来と言われている



名勝 方丈庭園の案内があったが、入口の戸は閉められていた
庭園の良さを理解できないので、あっさりあきらめ山門を出る



梵鐘






初めて訪れたので何処に何があるのかまったくわからない



観音堂
およそ1300年前の養老年間、泰澄大師が「宝篋ケ嶽」に上り、馬頭観音像一躯を刻んで山腹の岩窟に安置し去ったことを以て寺の起こりとしている






額には、山号の「宝篋(ほうきょう)山」
本尊の馬頭観音が安置されているようであるが、堂内は真っ暗で拝顔することはできなかった






梵鐘には、「総力必勝」と刻まれている



遠くの丘の上に建物が見える



手前に「平成花苑」の文字が見える
奥の建物の額には「英霊殿」の記載がある



「祈平和」は人類の願いだが、地球上では争い事が絶えることはない






瓜割の滝
駐車場に車を駐めたときから、水の流れる音が耳に聞こえてくる
瓜割の滝は、水の森と呼ばれる一角に湧く冷水のことで、昭和60年に全国名水百選に選定された



「天徳寺門前に岩窟より湧出する清泉あり。此所を水の森といふ



夏の日には其の冷なること氷のごとく、水中の小石を十拾い取るものなし。」



瓜ひやし置かはおのつから破るに俗に瓜割水と呼」とあり
この湧き水を中心に寺が出来、ムラが出来たという



休憩所も周囲の自然に溶け込んでいる



なかなか風情のある造りだ



この日は、毫摂寺から始まり、大瀧神社、気比神宮、そして天徳寺と記憶に残る1日となった



撮影 平成30年10月24日
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氣比神宮(福井県敦賀市曙町)

2019年04月27日 | 神社・仏閣
氣比神宮
越前国一之宮でもあり、北陸道総鎮守ともされ、明治時代には官幣大社となった格式の高い神社である
私には敦賀という地名、氣比神宮という社号から、高校野球の高校名が浮かんでくる






大鳥居(重要文化財)
初代の鳥居は弘仁元年(810)境内東側にて創建されたが、康永2年(1343)暴風で倒壊
正保2年(1645)に旧神領地の佐渡から奉納された榁(むろ)の大木で再建され、西門に建てられたものが現在の鳥居



高さ36尺(10.9m)柱間24尺、木造両部型本朱漆
昭和20年(1945)の敦賀空襲では唯一その戦火を免れている






扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である






末社 猿田彦神社
祭神:猿田彦大神



大鳥居近くに鎮座する。祭神は気比神を案内する神



社務所



手水舎



初めての参拝で境内の配置がわからないまま先へ進む



中鳥居
拝殿前に鳥居がある。人物が入らない画像を撮るには10分程度待たなければならないほど参拝者が多い



外拝殿・内拝殿・本殿
主要社殿は昭和20年(1945年)の空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である



祭神は伊奢沙別神・仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・應神天皇・玉妃命・武内宿禰命の合計7柱






九社の宮
境内の西方に位置し、本殿を向い九社の神社が鎮座する



9社には本宮と関係が深い神々が祀られている



市天然記念物「ユーカリ」






芭蕉の碑
芭蕉は「おくのほそ道」の旅で敦賀の地を訪れている。
中秋の名月を前に、宿屋の主人から「北陸の天気は変わりやすいので今日のうちに月を見るべきだ」との助言を受けた。
芭蕉はそれに従って気比神宮を訪れ、見事な月を見る事になる。



翌日は宿屋の主人の言うとおり、天気が崩れて雨になった
中秋の名月が見れなかった芭蕉は変わりやすい北陸の空模様を憂い、
「名月や北国日和定めなき」 の句を残している

芭蕉は、月明かりに照らされた神前の白砂をいたく感動した
元々泥だった気比神宮の周辺を砂で埋めたとされる遊行上人の功績と知り、
「月清し遊行のもてる砂の上」 という句を残している



気比宮古殿地



神宮北東部に残る「土公」は氣比大神降臨の地とされ当神宮鎮座にかかる聖地である
「土公」とは陰陽道における神の名である
土公は神宮の聖地とされており調査が行われておらず詳細は明らかでない



狛犬
基壇正面には「蒲生氏」と刻まれている






「享和元年(1801)辛酉八月」の陰刻銘文がある






末社 大神下前神社



祭神:大己貴命、合祀に稲荷神・金刀比羅神






摂社 角鹿(つぬが)神社
祭神:都怒我阿羅斯等命、合祀に松尾大神



「敦賀(つるが)」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている



末社 兒宮(このみや)
祭神:伊弉冊尊






狛犬の前左足 亨保十一午歳(1726)前右足 加賀屋 正利造立






ハイエースを改造した私の愛車である。私の行きたい場所に文句も云わずに運んでくれる
撮った写真をPCに整理をする作業場でもあり、時にはくつろぎの空間にもなる。私の動く家である



撮影 平成30年10月24日
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大瀧神社(福井県越前市大滝町)

2019年04月26日 | 神社・仏閣
大瀧神社・岡太(おかもと)神社
重要文化財の社殿があるということで気軽な気持ちで訪れたのだが、この社殿の美しさには目を奪われた



「縣社 大瀧神社」の社号標を越え数十メートルの所に駐車場がある
寂れた雰囲気だっただけに、観光バスが2台も駐まっていたことに驚いた



鳥居



額には「大瀧神社・岡太神社」が併記されている
上宮(奥の院)には大瀧・岡太両神社の本殿が並んで建つが、下宮(里宮)の本殿・拝殿は両神社の共有となっていることかららしい



狛犬






手水舎



観音堂(絵馬堂)
団体の参拝者が説明を受けていたので、近くの建物に入ることにした



木造十一面観音坐像



堂内には絵馬が掲げられている



色彩のはっきりしているものを選んでみた



境内の様子



神馬



神門
少し離れた場所から全体を眺める



階段を上がると、神門の正面に社殿が見えてくる



拝殿・本殿(重要文化財)
これまで多くの神社を訪ねてきたが、これほど魅力的な社殿にはお目にかかったことがない
室生寺の十一面観音像を間近で拝観したときの感動と同じように、探していたものが見つかったと思った






曹洞宗本山 永平寺の勅使門を手がけた、大久保勘左衛門棟梁による屋根が特徴の社殿
ガイドの話によると最も美しい社殿を造りたいと、設計図とは違ったものができたようである



普通の神社とは違い、一間社流造り本殿の屋根を入母屋造り妻入り拝殿に連結して葺きおろした複合社殿建築になっている



この社殿のもう一つの魅力は彫刻だ

「洗耳の図」 許由が、尭から帝位を譲ろうと言われ、汚れたことを聞いたとして耳を洗ったという故事から
(汚れたことを聞いたので、その耳を流れで洗い清める。俗事にかかわりなく暮らすことのたとえ)



本殿の壁面はこのような彫刻で飾られている






さらに魅力的なのは、社殿周囲に柵などの障害物がなく、木の質感などを肌で感じることができることだ



参拝者が感動したことをSNSで発信して隠れた人気スポットになっているようだ



背面の彫刻



社殿を横から眺める






右側に移動する。光や背景を考えると左側が撮影に適していると思われる






詳細はすでに記憶にないが、ガイドによると本殿下の組み物も珍しいそうだ






拝殿の彫刻












神輿殿



最後に
約1500年前、大滝町の岡本川上流に美しい姫が現れ、村人に紙漉きの技術を伝えたのが始まりとされている
この伝説の姫『川上御前』を、和紙の神様・紙祖神として祀ったのが岡太神社である



撮影 平成30年10月24日
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出雲路山 毫摂寺(福井県越前市清水頭町)

2019年04月25日 | 神社・仏閣
出雲路山 毫摂寺(ごうしょうじ)
浄土真宗の寺院で真宗出雲路派の本山
寺号「本山 毫摂寺」と刻まれた石碑



御影堂門
文化8年(1811)造営の欅造りの総門。旧来は、赤瓦に笏谷石の鬼瓦が乗せられていた









門扉



手水舎



境内案内図は後日、写真を整理するときに役にたってくれる



御影堂
境内案内図でもわかるように、御影堂門の真っ直ぐ先にある






明治17年(1884)の造営。二十間四面の大伽藍で、総欅造り
本山布教伝道の根本道場となる



扁額には山号の「出雲路山」



阿弥陀堂(本堂)
明治17年(1884)の造営。御影堂と同年の造営で、総欅造りの堂宇






御影堂内の様子



宗祖 親鸞聖人の木像を中央に安置している






阿弥陀堂内の様子
襖絵は、菱川師福の作






阿弥陀如来像を安置している



欄間の彫刻









のゑ女の碑



重傷を受けながらも二姫を守り抜いた忠義の行いに対して、福井藩主から姓「猪子」と銀を賜るなど厚く褒賞された



のゑは、その後も79歳で生涯を閉じるまで当山に奉公し続けた



鐘楼
文化8年(1811)造営



東南隅の入母屋造りの鐘楼は、越前笏谷石の重層の上に建立されている



阿弥陀堂から撮る。左から阿弥陀堂門、鐘楼、経蔵



経蔵
文化8年(1811)造営。一切経が収蔵されている



阿弥陀堂門
文化8年(1811)造営



男性的な御影堂門と対照的な優美な曲線を描く唐破風造り、青銅葺の総欅の門



鼓楼
天明8年(1788)造営。木造3階建で、上層に大太鼓が吊るされている
この建物は、本山の諸堂の中で最も古い建造物となる



御影堂門を通り駐車場へ向かう。周辺には立派な寺院が多い



撮影 平成30年10月24日
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山元山 證誠寺(福井県鯖江市横越町)

2019年04月24日 | 神社・仏閣
山元山 證誠寺(しょうじょうじ)
真宗山元派本山
親鸞聖人が越後の国へ御流罪の身として下向の途中、越前の国、山元の庄に立ち寄ったのが、證誠寺開山の基である



山門



山門の先には御影堂が見える



手水舎



御影堂
浄土真宗寺院は堂内に入ることができるのだが、残念ながら戸が閉じられていた






山号と寺号が別々の額に並べて掲げられている



奥に御影堂、手前が阿弥陀堂



阿弥陀堂






梵鐘



御影堂側から山門を見る



撮影 平成30年10月23日
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上野山 誠照寺(福井県鯖江市本町)

2019年04月23日 | 神社・仏閣
上野山 誠照寺(うわのさん じょうしょうじ))
真宗誠照寺派の本山
親鸞が越後へ配流のとき、1208年波多野景之の屋敷で最初に法を説いたのに始まるとされる
その後、如覚のとき現在地に移って真照寺と称した。
永享年間(1429年 - 1441年)になって現在の寺号となった



四足門(福井県指定文化財)
文正元年の創建、現大門は安永8年(1779)の再建、誠照寺最古の建築物






伝 左甚五郎作「駆け出しの龍」



文久2年(1862)の大火の際、この龍が水を吐いて門を守ったと伝えられている



四足門の扉






鐘楼堂
鐘楼・梵鐘は市指定文化財。弘化3年(1846)の建立






手水舎



親鸞聖人尊像



境内の一部が有料駐車場になっていたことには驚いた。もちろん参拝者には無料のスペースがある



御影堂(鯖江市指定文化財)
1862年の火災で焼失してしまったため、現在建っているのは、明治10年の再建されたもの
県内最大の木造建築物



阿弥陀堂
市指定文化財。文久2年(1862)の大火で焼失、明治20年の再建



左から、阿弥陀堂~御影堂と続く。御影堂から堂内に入る



御影堂には、親鸞聖人の木像が安置されている






阿弥陀堂には本尊の阿弥陀如来が安置されている






この豪華さには目を奪われる









忠霊堂



撮影 平成30年10月23日
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鹿苑山 専照寺(福井県福井市みのり2丁目)

2019年04月22日 | 神社・仏閣
鹿苑山 専照寺
浄土真宗の寺院で真宗三門徒派の本山

山門






扁額には山号の「鹿苑山」



山門の正面に見えるのは御影堂である



御影堂(福井市指定文化財)
天保9年(1838)再建。規模は正面11間(約30.3m)、側面9間(約29.1m)総欅造り。



専照寺は、正応3年(1290)、如導上人が仏法興隆のため、現在の福井市大町の地に一宇を建立、寺号を専修寺と称したところからはじまる



如導上人の滅後、浄一上人が中野の地に一宇を建立し専照寺と改称したのが起源



昭和23年の福井大震災で御影堂を残し御本堂、その他、全て倒壊した



梵鐘



阿弥陀堂
昭和34年再建



御影堂から堂内に入る。浄土真宗の懐の広いところで来る者は拒まずである



「見真」は親鸞の諡号
仏教用語で、智慧によって真理を見きわめるという意味もある



外部の印象とは想像できない堂内の豪華さだ



撮影 平成30年10月23日
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長林山 称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎)

2019年04月20日 | 神社・仏閣
長林山 称念寺
丸岡城内で資料を読んでいたときに、この寺の存在を知った

山門
右には、「史跡 新田義貞公墓所」、左には「時宗 長林山 称念寺」の石柱



手水舎
寺には人の気配もなく、手水鉢にも水はない。雑草も伸びている



境内にある立派な石碑も最上部がない。「(近衛)中将新田義貞公贈位碑」と読める



境内には二つの建物がある。ここは庫裏か



本堂









養老5年(721年)泰澄により開山と伝えられ、正応3年(1290年)他阿真教によって時宗に改められたという



扁額には「忠誠殿」の文字が
戦乱の中で新田一族は最後まで南朝の後醍醐天皇を裏切ることなく戦い続けた武士だった



新田義貞公墓所(福井県指定史跡)



忠雀門
新田義貞が延元3年・暦応元年(1338年)に越前国藤島の燈明寺畷の戦いで戦死すると、遺骸が称念寺に運ばれたと『太平記』にある






遺骸は時宗のお坊さん8人に担がれて、手厚く葬られた
これにより、称念寺は新田義貞の菩提寺として知られるようになった



敵方であった足利義政もその武勇をたたえ、長禄2年(1458年)安堵状と寺領を寄進し、将軍家祈祷所として栄えた



この時代の歴史は知らないが、日本人的で実にいい話である



明智光秀と称念寺
弘治2年(1556年)に齊藤義龍に敗れ、妻の熈子や家族と伴に、越前大野を経て越前の称念寺へ
永禄5年(1562年)、貧しいながらも夫婦で、門前に寺子屋を開き、仲良く生活していた
永禄6年、二人の間に、後の細川ガラシャが生まれた



松尾芭蕉と光秀の夫婦愛
「夫婦愛の物語」を松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中に、取材
後に、才能がありながら、出世できないことに悩んでいた門弟の山田又玄に、『月さびよ明智が妻の咄せむ』の句を贈って励ました



芭蕉句碑
「月さびよ 明智が妻の咄せむ」が刻まれている



宝篋印塔



忠霊塔



この寺が大切にしているものが「忠」の精神なのか、振り返ってみると建物に「忠誠殿・忠雀門・忠霊塔」が記されている






十三重石塔



大好きな古い建築物も仏像も見当たらない寺であったが、新田義貞の忠誠心、明智光秀の夫婦愛、それに感激して詠んだ芭蕉の句
現代に生きる日本人の心の原点に触れたような心地よさを感じた寺であった

撮影 平成30年10月23日
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丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞)

2019年04月19日 | 
丸岡城<別名:霞ヶ城>
今回2度目となる丸岡城。一度目は偶然近くを車で通ったため立ち寄った
夏休みで広場では子供たちがラジオ体操をしていた。その広場も今は立派な駐車場になり年月の流れを感じていた



その時は、早朝のため無料で城周辺を探索したことをよく覚えている



丸岡城天守(重要文化財)
現存天守閣では最古の建築様式を持つ平山城である



霞ヶ城の別名をもつ。由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説によるものらしい



お静慰霊碑(伝説「人柱お静」)






石垣
私の人生の大先輩に石垣に詳しい方がいる。そのことを知ってから、城を訪ねると必ず石垣を撮るようにしている



自然石をそのまま積み上げている「野面積み」手法だ



よく見ると石の色が違っている。1948年(昭和23年)の福井地震によって倒壊した影響かも知れない



急な石段を上り城内に入る



「石落とし」



かつての丸岡城の模型(現存しているのは天守)



階段の狭さや角度から、戦に備えての城だと云うことがわかる



1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、柴田勝家の甥である勝豊により築城された



階段を上から見るとこのようになっている。上りと同じ姿勢で下りるのがベストの選択になる



城ブームということもあり、観光客が多い



八幡神社






牛ヶ島石棺









一筆啓上石碑
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」徳川家康の家臣本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送った手紙






この石碑が縁で、日本一短い手紙文の一筆啓上賞の起こりとなった









歴史民族資料館



撮影 平成30年10月23日
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摩尼宝山 瀧谷寺(福井県坂井市三国町滝谷)

2019年04月18日 | 神社・仏閣
摩尼宝山 瀧谷寺(たきだんじ)
東尋坊観光の後、近くにあったので気軽な気持ちで寄ってみようと思った寺院である。ところが……






弘法大師像
真言宗智山派の寺院



総門



龍頭の水



寺社を巡拝していると、このような美しい参道にめぐりあうことがある



先に進むと山門が目に入ってくる



山門(重要文化財)
天正年間に、柴田勝家の寄進によって建立されたと伝えられている



「摩尼宝山(まにほうざん)」の扁額は貞享4年(1687年)に智積院第七世瑞応泊如運敝僧正の筆



本堂側から見ると「鐘楼門」になっていることがわかる



本堂(重要文化財)
間口十一間、奥行八間の寄棟造りで江戸時代中期の建造物



本堂横に受付があり入堂する
建物の梁が素晴らしかったので撮ろうとすると堂内の全ては撮影禁止と伝えられた
中央正面の瑠璃殿に本尊の「薬師如来」が祀られている



堂内では係の女性から、寺の歴史等について簡潔な説明があった
この猫は説明する女性の傍らに座り「わかったか」というような目線を送ってくる(笑)



堂内から山門を見



南北朝時代の永和元(1375)年、睿憲上人によって開山された古刹である
5月からの新元号「令和」が発表された際に「永和」の元号を耳にした






石庭






観音堂(重要文化財)






本尊は如意輪観音






大佛



庶民的な風貌の大佛で親しみが持てる



石龕開山堂(重要文化財)
室町石仏または朝倉石仏(笏谷石) 内側石棺に十三仏が浮き彫りにされている



築造した堀江氏は後に織田信長と相通じ、信長より「陣取放火」等の禁制状をうけ、兵火からまぬがれることができたという



聖天堂
観音堂の奥に続く建物



鎮守堂拝殿



鎮守堂(重要文化財)



木造、柿葺、流造り間口199.8cm、奥行250cm



開山睿憲上人により安島雄島の三保明神等を祀っている



鎮守堂からの眺め






日も暮れてきた



歩いてきた道を戻る



総門横の不動明王






地蔵堂



この日は天気にも恵まれ、小松天満宮、那谷寺、菅生石部神社、東尋坊と廻り、最後に初めて訪れた瀧谷寺
調べてみると見逃した場所もあり、もう一度訪れてみたいと思った

撮影 平成30年10月22日
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東尋坊(福井県坂井市三国町安島)

2019年04月17日 | 名所・旧跡
天然記念物および名勝 東尋坊
この日は、朝から晴れていたので景勝地である「東尋坊」も候補地の一つに入れていた



商店街を歩いて海にでるのだが、魚介類の焼ける香ばしい匂いが鼻孔を刺激する



東尋坊は今回で2回目で、初めて訪れた日は雨が降っていた
やはり、晴れの日は気持ちがいい



ブラタモリで東尋坊を解説していたのを視ていたが、すでに内容は忘れてしまった
観光客も岩の上で何やら楽しそうにしている



この男性の数メートル前は崖になっていて、高所恐怖症の私には近づくことができない



この写真を撮るだけでも命がけ。昔、自殺の名所と聞いていたが、飛び降りる勇気があるなら、生きていたら何でもできそうな気がする



観光船乗り場もそれなりの場所にある



人間の大きさと比較すると、高さを想像することができる






若い女性が崖の近くに座っていたので近づいてみた。笑っている



若い男性のグループが崖の突端で笑顔で話している。信じられない



東尋坊は仲間の僧から嫌われていて、酒を飲まされて突き落とされたという
この年齢で高所恐怖の克服は無理だが、仲間から嫌われないような余生を過ごしたい



撮影 平成30年10月22日
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菅生石部神社(石川県加賀市大聖寺敷地)

2019年04月16日 | 神社・仏閣
菅生石部(すごういそべ)神社
加賀国二宮、通称 敷地天神、菅生天神



鳥居
額には社号の「菅生石部神社」



神門(加賀市指定文化財)



歴史を感じる額で、社号が浮き出て見えるような気がする



神門の両側には、弓矢を持った男神像






神門の前方に社殿が視界に入ってくる



拝殿



中世には、一帯は北野天満宮の社領となっていた
「天神」の通称はそこからきたものであり、現在もその名残で境内に牛の像が残っている



馬が好き(といっても競馬だが)なので、神馬には自然目がいく



狛犬









社号の記された額の形が神門と同じだということを、写真を整理していて気付いた



本殿
祭神は「菅生石部神」
古来より朝廷・武門からの崇敬が篤く、天慶3年には正四位下の神階が授けられた



毎年2月10日の例祭では、「竹わりまつり」の異名を持つ御願神事が行われる



定かではないが、神楽殿ではないかと思われる






再び神門へ。駐車場に戻る



撮影 平成30年10月22日
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自生山 那谷寺(石川県小松市那谷町)

2019年04月15日 | 神社・仏閣
自生山 那谷寺(なたでら)
高野山真言宗別格本山
私が愛読しているブログの投稿に刺激を受けての、十数年ぶりの再訪である

山門



数日前の出来事さえおぼつかないこの頃、かつて訪れた山門の記憶などまったく甦ってこない



扁額には山号の「自生山」



門扉に彫られた仁王像



昭和51年松久宗琳師の作



何とも可愛らしい「護・美小僧」



緑の木々に囲まれた美しい参道が視界に入ってくる



江戸期に寄進された石灯篭









名勝 奇岩遊仙境



この「三尊石」と呼ばれている奇岩の事はよく覚えている



現在は安全と景観保護のため立入禁止となっているが、この岩に上り、写真を撮ったことがある



写真ではわからないが、高所恐怖症の私には苦手な場所ということで記憶に残っている






不動明王の霊水



念珠や指輪などに願いを念じながら霊水をかけると、不動明王の加護を受けられると言われている



自生稲荷明神
名勝に指定されている。立入禁止になっている



大悲閣(重要文化財)
一向一揆の兵乱で荒廃したが、前田利常の庇護により寛永19年(1642年)に再建された



狛犬






西国三十三観音の1番「那智」と33番「谷汲」の山号から一字ずつを取り「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名した



岩壁に寄って建てられている
「いわや胎内くぐり」も体験できる






先に進む



三重塔(重要文化財)
寛永19年(1642年)、徳川家綱の生誕祝に前田利常が建立したものと伝えられている



最初に訪れたときには高い場所から撮った記憶があるのだが、周囲をみてもそのような場所が見当たらない






胎蔵界大日如来
塔の扉が開いていたので幸運にも撮影することができた



元は那谷寺根本堂の本尊
昭和16年(1941)に国宝指定を受け、昭和25年(1950)に重要文化財に新指定されたという






ここで高級一眼レフを持っていた地元の若者に声をかけられた
カメラの話しから始まり地域の観光に関する情報を得ることができた



「ふうげつ橋」を渡り、共に展望台に移動する



遠くの景色を眺めながらしばらく歓談し、別れた。実に気持ちのいい青年であった



芭蕉句碑



「石山の石より白し秋の風」
句碑は天保14年(1843)芭蕉150回忌に建立したもの



庚申(こうしん)塚
縁結びの神様として信仰されている






思いの届かない、願いが叶わない人は、「南無青面金剛(なむしょうめんこんごう)」と3回唱えると良いかも



若宮白山神社
参道の途中にあったので立ち寄ってみた






由緒を記したものはなかったが、歴史を感じさせる社殿だ









狛犬



御霊場巡拝記念之碑



岩を削って造られた石段を上り、護摩堂へ向かう



護摩堂(重要文化財)
慶安2年(1649年)建立



禅宗様を基調にしながら、和様の手法を折衷させた設計になっている



壁面には沈思や柔和、雅戯などの八相唐獅子、四面には干支の動物と牡丹を彫刻












鐘楼(重要文化財)
慶安2年(1649年)建立



入母屋造、檜皮葺の和様建築で袴腰の上部まで石造となっているのは、全国でもその例がない



石段を下り平地に、建物に「護摩祈祷所」の札がある



金堂華王殿
平成2年(1990年)の再建で鎌倉時代の和様建築様式、総桧造り
南北朝の戦火で消失以来、650年ぶりに再建



参拝は2度目になるが、長い時間の経過と共に記憶が薄れ、新鮮な気持ちで時間を過ごすことができた



撮影 平成30年10月22日
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