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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

シリーズ塔(九州・沖縄地方)7<三重塔・五重塔・多宝塔他>

2023年09月29日 | 塔(三重塔・五重塔・多宝塔他)
シリーズ塔(九州・沖縄地方)7<三重塔・五重塔・多宝塔他>
長崎県(西教寺<新規>

42 長崎県
42-01 高野山 最教寺(長崎県平戸市岩の上町1206番地1)
三重大塔
三重大塔は、最教寺が弘法大師の1150年御遠忌を記念して、奥の院本殿横に建立した
相輪までの高さは33.5m









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シリーズ仁王像(九州・沖縄地方)7

2023年09月26日 | 仁王像
シリーズ仁王像(九州・沖縄地方)7
福岡県(鎮国寺)
長崎県(崇福寺<新規>
熊本県(雲巌禅寺、永国寺、長寿寺<新規>
大分県(富貴寺、満月寺、霊山寺、安国寺、両子寺、文殊仙寺)

40 福岡県
40-01 屏風山 鎮国寺(福岡県宗像市吉田)






<新規>
42-01 聖寿山 崇福寺(長崎県長崎市鍛冶屋町)
この2神は、元々は金精(千里眼)、水精(順風耳)と呼ばれる妖怪だったが、媽祖によって祓い清められて改心し、以降媽祖の随神となった
順風耳(青鬼)像
千里先の物音や災いを聞き分ける力を持ち、悪巧みを瞬時に聞きつけて媽祖に報告する役目を担う



千里眼(赤鬼)像
千里先のものを見分ける力を持ち、災害から媽祖を護る




43 熊本県
43-01 宝華山(別名岩殿山)雲巌禅寺(熊本県熊本市西区松尾町平山)









43-02 蓬莱山 永国寺(熊本県人吉市土手町)






<新規>
43-03 雁回山 長寿寺 <通称:木原不動尊>(熊本県熊本市南区富合町木原2040)
仁王像
腹部が強調された面白い写真になった



表情も独特である



正面には柵があるが横には何もないのも珍しい



仁王像は筋骨隆々とした恐い姿を想像するが、人の良い中年の小太りのオッサンのような感じがする



44 大分県
44-01 蓮華山 富貴寺(大分県豊後高田市田染蕗)









44-02 紫雲山 満月寺(大分県臼杵市深田)
木原石仏(特別史跡)
鎌倉時代後期~室町前期に造られたと考えられている



2基の仁王像は膝から下が地中に没しているが、像高は2.4mと推測される
鼻の一部が欠損しているが、病気回復の信仰によって削られたといわれている



吽形は右手首が欠損、その付け根には胸部と同じように10cm径の穴が開けられている



44-03 飛来山 霊山寺(大分県大分市岡川)



普段、目にする筋骨隆々強面の仁王像とは違い愛嬌がある



44-04 太陽山 安国寺(大分県国東市国東町安国寺)









「運慶作 仁王像」
天正年間(1573年-1591年)の島津氏の豊後侵攻の際に全伽藍を焼失した
この像は安国寺創建の時、京都「東福寺」より移管されたもの



44-05 足曳山 両子寺(大分県国東市安岐町両子)
両子寺仁王(安岐町指定有形文化財)



江戸後期の作とされる国東半島最大級(総高245cm、像高230cm)の石造の金剛力士(仁王)像












<鬼橋前の像>






44-06 峨眉山 文殊仙寺(大分県国東市国東町大恩寺)
大分県指定有形文化財
仁王像と書いていなければ見落としてしまうほど周囲の風景に溶け込んでいる











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シリーズ仁王像(中国・四国地方)6-1

2023年09月24日 | 仁王像
シリーズ仁王像(中国・四国地方)6-1
鳥取県(摩尼寺<追加>、退休寺)
島根県(鰐淵寺、清水寺、多陀寺、 萬福寺<新規>
広島県(西國寺、不動院<新規>
岡山県(本山寺)
山口県(西堂寺、月輪寺<新規>

31 鳥取県
<追加>
31-01 喜見山 摩尼寺(鳥取県鳥取市覚寺)






<追加2枚>





<本堂内:四天王>






<追加4枚>
持国天



広目天



多聞天



増長天



31-02 金龍山 退休寺(鳥取県西伯郡大山町退休寺)









32 島根県
32-01 浮浪山 一乗院 鰐淵寺(島根県出雲市別所町)






32-02 瑞光山 清水寺(島根県安来市清水町)






32-03 亀甲山 無量院 初午観音 多陀寺(島根県浜田市生湯町)






<新規>
32-04 清瀧山 浄光院 萬福寺(島根県益田市東町25-33)
持国天像(益田市有形文化財)平安時代



多聞天像(益田市有形文化財)平安時代



33 広島県
33-01 摩尼山 西國寺(広島県尾道市西久保町)






<新規>
33-02 新日山 安国寺 不動院(広島県広島市東区牛田新町3-4-9)
仁王像(広島県指定文化財)
像の高さ2,8メm 檜材寄木造り 玉眼入り
像内に永仁2年(1294年)の銘がある












34 岡山県
34-01 岩間山 本山寺(岡山県久米郡美咲町定宗)













35 山口県
35-01 湧出山 西堂寺(山口県萩市大字江崎)






<新規>
35-02 清涼山 月輪寺(山口県山口市徳地上村字蔵場572番地)
仁王像







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シリーズ仁王像(中部地方)4

2023年09月20日 | 仁王像
シリーズ仁王像(中部地方)4
山梨県(大善寺、景徳院)
長野県(北向観音、中禅寺、釈尊寺)
岐阜県(華厳寺<追加>、圓鏡寺、 国分寺、日龍峰寺、大矢田神社、来振寺<新規>
愛知県(龍泉寺、甚目寺、妙厳寺<通称:豊川稲荷>、日泰寺、財賀寺)

19 山梨県
19-01 柏尾山 大善寺(山梨県甲州市勝沼町勝沼)






19-02 天童山 景徳院(山梨県甲州市大和町田野)












20 長野県
20-01 北向山 北向観音(長野県上田市別所温泉)






20-02 独鈷山 中禅寺(長野県上田市前山)
木造金剛力士立像(長野県宝)



12世紀末頃の制作と考えられている



20-03 布引山 釈尊寺<布引観音>(長野県小諸市大久保)






20-04 洞源山 貞祥寺(長野県佐久市前山)
茅葺の山門には増長天と持国天の仁王を左右に配している






<追加>
21 岐阜県
21-01 谷汲山 華厳寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積)






<追加分4枚>












21-02 池鏡山 圓鏡寺(岐阜県本巣郡北方町北方)
木造金剛力士像(重要文化財)
像高218cm、鎌倉初期「雲慶作」 *運慶と雲慶は同一人物?



重要文化財の像だけに金網で保護されている



そこでスマホを取り出し隙間から撮影する






21-03 金銀山 瑠璃光院 国分寺(岐阜県大垣市青野町)












21-04 大日山 日龍峰寺(岐阜県関市下之保)
金剛力士像
典型的な江戸様式阿吽の金剛力士像だという












21-05 大矢田神社(岐阜県美濃市大矢田)












<新規>
21-05 宝雲山 来振寺(岐阜県揖斐郡大野町稲富398)
<四天王>

持国天(東方)






増長天(南方)






広目天(西方)






多聞天(北方)






23 愛知県
23-01 松洞山 龍泉寺(愛知県名古屋市守山区竜泉寺)






23-02 鳳凰山 甚目寺(愛知県あま市甚目寺東門前)
木造金剛力士像(愛知県指定文化財)



寺のホームページによると、仁王像は運慶作と伝えられているとのこと



23-03 円福山 豊川閣 妙厳寺<通称:豊川稲荷>(愛知県豊川市豊川町)
金網が障害となり、一眼レフではうまくいかず…困ったときのスマホ頼み。うまくいった






23-04 覚王山 日泰寺(愛知県名古屋市千種区法王町)
日本の山門では仁王像に睨みつけられるのが普通だが、この寺では僧侶の像(高さ4.5m、楠一木造り)が穏やかに迎えてくれる
阿難尊者(釈尊の弟子で晩年侍者として仕えて最後を看取った)



迦葉尊者(仏弟子の最長老で釈尊滅後の仏教教団を率いて二祖となった)



23-05 陀羅尼山 蘇悉地院 財賀寺(愛知県豊川市財賀町観音山)
木造金剛力士立像(重要文化財)
作風、技法などから平安時代後期、11世紀頃の作と推定される
檜材の寄木造で、前後左右の4材を矧ぎ合わせて根幹部を形成し、これに両腕などに別材を矧いでいる






向かって右の阿形は高さ381 cm, 左の吽形は高さ375 cm
東大寺南大門の像、多禰寺山門の像に次ぐ大きさである






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粟鹿神社(兵庫県朝来市山東町粟鹿2152)

2023年09月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月5日

粟鹿神社(あわがじんじゃ)
但馬国一宮
この周辺には何度も来ていたが訪れたのは初めてである
今回の旅で「一宮神社」を巡る旅を旅の目的の一つ加えたことにより、その存在を知った

鳥居
駐車場の近くに鳥居がある



額には「粟鹿神社」



参道を歩く
「社叢林」は、朝来市天然記念物に指定されている



勅使門(朝来市指定文化財)
造営年代不詳
切妻造の四脚門で、屋根はかつて檜皮葺であったが、現在は銅板葺に改められている



勅使門は、神功皇后が新羅から凱旋して、当社に参拝したことに因むものという



勅使が出入りするための門で、4回の勅使参向があったことが記録に残っている



日の出門(随身門)
厳しい自然環境に曝され耐えてきたという感じがする






木造著色随身倚像(朝来市指定文化財)
江戸時代初期頃の作
天和3年(1683年)に再興され、宝暦5年(1755年)修理されている












木造著色狛犬像(朝来市指定文化財)
江戸時代前期の制作
日の出門(随身門)に安置されている






天満宮
祭神:菅原道真






猿田彦神社
祭神:猿田彦神



狛犬






拝殿



石柱に刻まれた文字
「輸誠」真心を尽くす、「致敬」敬意を表する






本殿
創祀年代は不詳(諸説あり)
粟鹿の名は、粟鹿山に住む一頭の鹿が粟三束をくわえ、村に現われ人々に農耕を教えたという鹿を祀ったとも
第11代垂仁天皇の時代に粟鹿山の「天美佐利命」が荒振る神であるために大彦速命が朝廷に申し出て祀ったとも



祭神:天美佐利命(あめのみさりのみこと)
   日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと)
   日子穂穂手見尊(ひこほほでみのみこと)



碑銘
碑銘には「粟鹿大社由緒」とある
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では但馬国朝来郡に「粟鹿神社 名神大」と記載され、名神大社に列している



厳島神社
祭神:市杵島姫命






夫婦杉



稲荷神社
祭神:保食神



床浦神社
祭神:大巳貴神



茗荷神社
祭神:草野姫命
粟鹿神社の神紋は、茗荷と菊の合せ紋
「茗荷紋」は、境内社・茗荷神社に由来するらしい



再び拝殿前



日の出門(随身門)を通り駐車場に戻る



撮影 令和5年6月5日
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祝田神社(兵庫県姫路市林田町上構199番地)

2023年09月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月5日

祝田神社(はふりたじんじゃ)
旅先で声を掛けられた宮司が(体調不良の宮司に代わり)管理しているという神社を訪れた
祝田神社とメモしていたが「はふりた」とは読めなかった
鎮座地の地名の林田は祝田の転称だという



二の鳥居
両部鳥居で、鮮やかな赤で全体が塗られている



宮司との会話の中で「必ず寄ります」と気軽に応えたが、由緒ある古社だったということに正直驚いた



鳥居を背に境内を眺める
神馬が狛犬のように迎えてくれる



総門
石段の上に見えるのが総門



右の石柱上部に菊の御紋が見える



額には「貴船社」
寛治7年(1093年)、当地が林田庄となったとき、貴船神社の祭神を勧請し相殿として祀った
この社を「貴船社」また「貴船大明神」と呼ぶようになつた
その後、源頼朝が建久3年(1192年)に社殿を再建し社号も貴船神社とし祝田神社はその奥宮に祀られた



随身像ではなく、右側の部屋に「神馬像」



更に石段を上がる



手水舎



狛犬



歴史を感じる狛犬



拝殿



額には「祝田社」



幣殿・本殿
創立年代不詳ではあるが、社記によると景行天皇の御代(4世紀前半)
日本武尊が熊襲征伐のとき播磨灘で台風に遭い、当社に祈り浪が静まったとある



江戸時代には藩主・建部氏が累代の氏神として社務は藩庁でとった
天保9年(1838年)藩主の命により毎年5月に守護札を発行したという



本殿
祭神:罔象女神(みずはのめのみこと)
   高龗神(たかおのかみ)






奥殿
本社本殿の後方に桟瓦葺の一間社流造の社殿
かつて背後の貴船山にあった奥宮を移築したもの
江戸時代には式内社「祝田神社」はこの奥宮とされていた



絵馬殿



奉納額には明治・大正・昭和の時代のものが多い















霊社
「志霊社」と「祖霊社」の相殿となっている



鳥居



末社拝殿
左側から順に「聖神社」「三嶋神社」「粟嶋神社」「稲荷神社」「天満宮」「松尾神社」



日本武尊御肖像
本殿奥の高い場所に像があった



石段を上がり近くに寄ってみた
この時は日本武尊とは思わず、聖徳太子かと想像していた



今回歴史を調べているうちに「日本武尊」にやっと結びついた
熊襲征伐のときに、この神社に立ち寄っていた






金刀比羅宮



石灯籠






石段を下りる



神馬






これで、旅先で声を掛けられた宮司との約束を果たすことができた



撮影 令和5年6月5日
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須濱神社(兵庫県姫路市林田町中構344)

2023年09月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月5日

須濱神社(すはまじんじゃ)
旅の醍醐味は人との出逢いだと思っている
この神社を訪れたのは、旅先で声を掛けられた男性との約束を果たす為だ



道の駅の駐車場でその男性に声を掛けられ、鹿児島指宿市の「たまて箱温泉」を紹介してもらった
温泉が好きで時間があると各地の温泉に車で行くようだ
同世代で話しのなかで姫路で神社の宮司をしていると話してくれた



宮司が(体調不良の宮司に代わり)管理している神社が「バズっている」という話しをしてくれた
夕景の写真がSNSで人気になっているという
「スハマ神社」と聞いたので忘れないように付箋にメモしておいた
「姫路に来たら寄って下さい」の言葉に「必ず寄ります」と応じた



国宝の姫路城にも行かず、開催日でない姫路競馬場には行けず「須濱神社」に向かった
ナビに住所を入れたが目的地に案内されたのは田園風景の場所であった
郵便配達の車が来たので尋ねると、池の周辺かも知れないと教えてくれた



須濱神社
ここが噂の須濱神社だ
肉眼で見るとそうでもないが、レンズを通すと風景が一変する



ピントを合わせる場所によって池に映る風景が変わる
日中なら青空に白い雲が映える、夕陽ならSNSで「バズる」ほど美しいはずだ



元和3年(1617年)林田藩祖・建部政長が干害対策として水路とともに西池(鴨池)を築いた
西池を築造する際、池の中に須浜形の小島を築き「市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)」を祀った



鳥居
可笑しなアングルだが、あと一歩下がると池に落ちてしまう(汗)






祭神:市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
   日本神話に登場する美しい女神で、宗像三女神の一柱
   


全国8,500社で祀られている女神
有名な神社では、宗像大社や厳島神社などがある



社殿からの眺め






高燥の土地で旱害から部落を守るために築いた池と神社が、400年後にスポットが当てられるとは
林田藩祖・建部政長も想像できなかったであろう



私も宮司と出逢わなければここには来ていなかった
私の旅は寺社巡りが中心であるが、これまで寺の方に重点を置いていた
今回の旅で出逢った2人の宮司のお蔭で神社に対する見方が変わってきた



宮司が(体調不良の宮司に代わり)管理しているもう一つの神社が近くにあるので寄ってみる



撮影 令和5年6月5日
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斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町鵤709)

2023年09月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月5日

斑鳩寺
斑鳩寺は何度か訪れ発信しているので今回は解説なしで

仁王像






三重塔(重要文化財)












鐘楼(兵庫県指定文化財)



講堂(太子町指定文化財)









賓頭盧尊者



聖徳殿



聖徳殿前殿(兵庫県指定有形文化財)









聖徳殿後殿(国登録有形文化財)









聖徳殿中殿(国登録有形文化財)



天神社(太子町指定文化財)



ペット観音



聖徳太子尊像



三重塔



撮影 令和5年6月5日
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旧閑谷学校(岡山県備前市閑谷784)

2023年09月13日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年6月4日

特別史跡 旧閑谷学校
平成2年の秋に初めて訪れたが、その時、きっと再訪するだろうと思っていた
岡山県に入ってから道路地図で閑谷学校をずっと見ていた



この門の右側に受付がある
受付担当者やボランティアカイドの親切で丁寧な対応も魅力の一つだ



校門(重要文化財)
貞享3年(1686年)の造営
額には「閑谷学校(しずたにがっこう)」



中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで「鶴鳴門」ともよばれる



屋根は備前焼の本瓦葺き






廟の正門として建てられたもので閑谷学校の校門でもある



正面に最も重要な「聖廟(せいびょう)」がある



石塀(重要文化財)
学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀(せきへい)



300年経つ現在も、石と石との隙間が無く雑草が生えないというから驚く



近くに寄り触れてみてもなめらかである



講堂(国宝)
一際目立つ建物が国宝の講堂
訪れた時期は燕が入るとのことで、障子が閉められていた



創建当時は「茅葺き」だったが、改築され現在の堅牢な「備前焼瓦」に葺き替えられた






講堂内の様子
以前訪れた時、女子中学生に対し論語の講義が行われていた



学而篇の冒頭部分であった
「子曰く 学びて時に之を習う また説ばしからずや
 朋有り遠方より来たる また楽しからずや
 人知らずして慍おらず また君子ならずや」



最初は戸惑っていたが、講師の読んだ後に続けと指示された後は大きな声で読み始めた
それはまるで合唱のように心地よかった



しばらくすると論語で一番重要と思われる「恕(じょ)」についての説明が始まった



2年前の講義の内容と生徒達の真摯な態度を思い出しながら過ごした



小斎(重要文化財)
閑谷学校は江戸時代前期の寛文10年(1670年)に岡山藩主池田光政によって創建された
現存する世界最古の庶民のための公立学校である



小斎は藩主御成の間であるが、子供達が学ぶ豪華な講堂に対して簡素であり下座に位置している場所にある



藩主の池田光政は子供達の学んでいる姿を笑顔で小斎から見ていたのではないかとガイドの女性が話してくれた



簡素とはいえ柱には飾り細工が施されている



飲室門(重要文化財)
日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門



文庫(重要文化財)
閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫



飲室と習芸斎(重要文化財)
飲室は教師と生徒たちが、湯茶を喫した休憩室
習芸斎は農民たちも学んだ、教室として使われた施設



小斎と講堂



公門(重要文化財)
藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう






楷の木(かいのき)
聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本



聖廟(重要文化財)
儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設



最も重要な施設として中央の一番高い所に配されている



「孔子廟、西御堂」とも呼ばれている






奥の大成殿には孔子像が安置されている



閑谷神社(重要文化財)



閑谷学校の創始者、池田光政を祀っている









閑谷神社からの眺め



特別史跡旧閑谷学校 椿山
椿山には約400本近いヤブツバキが植えられている



木に(本物の)猿がしがみついているような感じがする



池田光政の髪・爪・歯などを納めた供養塚「御納所」



撮影 令和5年6月4日
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和気神社(岡山県和気郡和気町藤野1385)

2023年09月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月4日

和気神社
和気 清麻呂については以前から興味を持っていた
訪れたのは今回が初めてである

鳥居1
駐車場に車を駐め案内に従って歩を進める



額には「和気神社」



霞橋
日笠川に架かる橋で「俗界と聖界の境にある橋」とされる
両岸は桜の名所とのこと



清麻呂公銅像
高さ4.63mの青銅製で、故 朝倉文夫氏の作品
昭和58年、清麻呂公御生誕1250年を記念して和気町に寄贈された



和気清麻呂といえば何と言っても「道鏡事件」だが……
女優・気象予報士の「半井小絵」さんが子孫であることにも興味を持っている






参道を歩く



日本一大きい絵馬



鳥居2



さざれ石



狛猪
全国的にも珍しい狛犬がわりに「狛いのしし」



猪が清麻呂の宇佐神宮参拝の際に護衛を行ったり、足を患った際に霊泉に案内したとされることから、清麻呂の守護とされてきたことに由来する






鳥居の額



石段を上がると門の中に青いシートが見える(嫌な予感)



随神門
本殿、拝殿に続き、明治28年(1895年)に造営された



和気清麻呂と道鏡事件
僧道鏡が、女帝の「称徳天皇」から特別深い寵愛を得て、太政大臣に次いで法王となり、最後には天皇の位を望むようになった
そこへ、九州大宰府の主神「習宜阿曽麻呂」が朝廷に「道鏡が天皇の位につけば天下は太平となる」という宇佐八幡の神託をもたらした
天皇は驚き、神意を確かめるために和気清麻呂を使いとした

宇佐に到着し、神前に額ずく清麻呂にもたらされた神託は
「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし。」
宇佐から帰京した清麻呂公は堂々と、この神託を言上したのである

当時の大部分の人が道鏡への譲位に疑問をもっていたにも関わらず、左大臣以下だれも声にあげて反対することができなかった
これに対し命をかけて抗議したのが清麻呂ただ一人だった



これにより、清麻呂は大隈国(現鹿児島県)に流罪となる
大隈国に流される途中、道鏡により放たれる刺客などに襲われるが、天変奇異に助けられ、また神の使いか「猪」に守護されながら、無事大隈国へと到着
2年後、称徳天皇の崩御により道鏡は失脚
清麻呂は許され、都に帰り本性本位に復する



和気広虫姫像
和気清麻呂の姉
宇佐八幡宮の神託を請うための勅使に任じられたが、病弱で長旅に耐えないことを理由に、弟の和気清麻呂に代行させた
神託の結果が道鏡及び天皇の意に反していたことから還俗させられた
広虫は別部広虫売(わけべ の ひろむしめ)と改名させられて備後国へ配流に処せられた



和気広虫は、孤児の養育に励んだことが伝えられている
藤原仲麻呂の乱後は、375人の助命のほかに、乱後の孤児83人を養子として育てた
これは、わが国最初の孤児院の開設である



和気清麻呂公像
NHKの気象予報士だった頃の「半井小絵」さんはとても魅力的であった
その後の「虎ノ門ニュース」に出演していた頃の言動も素晴らしかった
その彼女が和気清麻呂の子孫ということを知って驚いた



半井家は、我が国の典薬頭(皇室関係の医療組織の長)として不動の地位を長年保っていた
「半井」の本姓は「和気」であり、和気清麻呂の子孫にあたり、さらに十数代遡ると垂仁天皇へ行き着く
和気家は京都御所施薬院の故地に住み、そこで典薬頭として仕えていた
その邸内に大井戸があり、その水が極めて清らかで美味であったので、その井戸水の半側で主上の御薬を製し、残りの半側を自家の日常用水に充てていた
そのことが後柏原天皇の叡聞に入り、天皇から「半井」という姓を贈られ、以来「和気」を「半井」と改めたという



拝殿
和気氏一族の氏神として遠祖「鐸石別命」が祀られ、和気神と称せられていた
天正19年(1591年)に数町川下にあった社殿が大雨で流されたため、現在地に遷座した






拝殿内部



令和の御大典記念事業 本殿拝殿屋根改修事業
◯事業内容
1 本殿屋根銅板改修 2 拝殿屋根瓦改修 3 本拝殿周り整備
◯工期 令和5年1月~12月
◯総工費 六千万円



絵馬殿
奉納額

































鶴亀石






偶々だが数日前から「古事談」という本を読んでいた
その最初に出てくるのが「称徳天皇が道鏡を愛した事」だった






撮影 令和5年6月4日
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金陵山 西大寺(岡山県岡山市東区西大寺中三丁目8番8号)

2023年09月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月4日

金陵山 西大寺
高野山真言宗別格本山の寺院
日本三大奇祭のひとつ「会陽(えよう、裸祭り)」が有名

仁王門(国登録有形文化財)
1740年(元文5年)再建
三間一戸の楼門で、和様(二階三手先、一階四手先)と禅宗様(尾垂木・台輪・頭貫)を併用し、組物を多様する装飾的な建物



鬼瓦の鳥衾(とりぶすま)
鬼瓦の鳥衾は、長く伸びて渦巻き状で、県下でもごく数例しか見られないもの
<鳥衾は鳥が鬼瓦に止まらないように休める場所>



扁額には山号の「金陵山」
「釈逸山」という落款があり、禅僧で書の大家



隣にある三重塔が気持ちが奪われ、仁王像を撮るのを忘れていた(残念)



六角経蔵(国登録有形文化財)
建立は、輪蔵:嘉永7年(1854年)/書架:文化2年(1805年)
六角堂内の回転式書架「経蔵」を回転させるだけで大般若経600巻を読誦したのと同等のご利益がある



高祖堂(国登録有形文化財)
御影堂とも呼ばれ、弘法大師が祀られている
その木像の銘文によると、作者は大阪天満の吉右衛門丞で、延宝3年(1675年)の作



「髙祖堂」の扁額は、佐々南谷という高僧の筆によるもの






建立は、延宝年間(1673~75年)建立/安永9年(1780年)大改築



鐘楼門・朝鮮鐘(国指定重要文化財)
鐘楼門は小規模な入母屋造の建物
建立は、延宝頃(1673~80年)



会陽の祝主・福男の名が記された行灯



三重塔(岡山県指定文化財)
この日の訪問予定場所を検索していたときに、この塔の存在を発見し目的地に決めた
初めて訪れたが塔以外でも予想をはるかに上回る立派な寺院であった



延宝6年(1678年)の建立
塔身と相輪とのバランスもよく、和様を基調としながら一部に禅宗様を取り入れている



「胎蔵界大日如来」を安置している






石門<龍鐘楼>(登録有形文化財)
文政2年(1819年)の建立
下階は石造で2階は一軒扇垂木の木造で、漆喰塗籠め、縁を朱塗りとしたその白亜の姿は、竜宮城を思わせる



正面には鳥居が立つ



身代り水垢離観音
悩みや苦しみを観音様が代わりに水垢り(みずごり)をして流し清めてくれる



垢離場で、西大寺会陽(裸祭り)の2週間前からお祭り当日まで、ここで心身を清める「垢離取り修行」を行う



本堂(岡山市指定文化財)
文久3年(1863年)の再建
県下でも最大級の屋根で、大彫刻を入れ部材も木太く、棟が極めて高い
写真左右に写っている人物と比較するとその大きさが理解できる



本尊:千手観世音菩薩(秘仏)
脇侍:広目天・多門天を従え、裏脇には不動明王・愛染明王を祀る



西大寺の会陽(裸祭り)
日本三大奇祭の一つに数えられる会陽(裸祭り)は、毎年2月の第3土曜日に開催される
本堂の御福窓から裸の男衆の頭上に香を焚きしめられた2本1対の宝木がそれぞれ牛玉紙(ごおうし)に包んで投下される
そしてこの争奪戦を制して2本いずれかの宝木を手にし、仁王門の外に出た者(取り主)がその年の福男になる

西大寺の会陽(裸祭り)



内部は会陽(国重要無形民俗文化財)を行う為、外陣部分が板敷のふきはなし
内陣正面上部には会陽の際に宝木を投下するための御福窓を備えている



普陀南海観音
普陀山から十分の一の大きさの南海観音像の贈呈を受けた



牛玉所殿(国登録有形文化財)
明治13年(1880年)の建立
倉敷の「瑜伽大権現」は四国の「金比羅大権現」と両参りが盛んであった
そこに西大寺「牛玉所(ごおしょ)殿」が加わり江戸時代後期に三社参りとして隆盛をみた



額にある「牛玉所大権現」「金毘羅大権現」を合祀している



水かけ誓願不動



厄難を除くツワブキに囲まれた不動明王に清水をかけて誓願すると成就するという



和合の楠



活力の楠






撮影 令和5年6月4日

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吉備津彦神社(岡山県岡山市北区一宮1043)

2023年09月10日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月4日

吉備津彦神社
平成2年に車で岡山県を走っていたときに国宝の社殿を有する「吉備津神社」を優先し、当社を通過してしまった
今回は「備前国一宮」ということで訪れた
別称:朝日の宮(あさひのみや)



鳥居
駐車場は随神門の近くの第1駐車場を利用した
初めて訪れる神社なので鳥居まで歩き、そこから出発した



狛犬1






参道



案内の通り歩いてみる(参道右に鶴島)



神池






靏島神社(つるしまじんじゃ)



参道左に亀島がある
亀島神社



神池の亀



「五色島 環状列石」の案内があったが、これなのか?



随神門(岡山市指定文化財)
元禄10年(1697年)池田綱政が造営した






狛犬2






拝殿



額の「吉備津宮」の字体が興味深い



立派な社殿で歴史ある神社なのに文化財に指定されていないことに疑問を持っていたが……



昭和5年(1930年)12月、失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失
現在の社殿は昭和11年(1936年)に完成したものだという



横に移動すると社殿の並びに新たな疑問が湧いてきた
後にボランティアガイドから説明を受けて納得した
一般的には「拝殿・幣殿・本殿」という並びだが
当社は「拝殿・祭文殿・渡殿・本殿」になっている

祭文殿(さいもんでん)
神楽を演じる場が「神楽殿」であるのと同様、祭文語りの場が「祭文殿」であるという
夏至の日に正面鳥居から日が差し込んで「祭文殿の鏡」に当たる造りになっている
吉備津彦神社の「朝日の宮」の別称はこれに因むという



渡殿(わたりでん)



本殿(岡山県指定文化財)
現存の本殿は、寛文8年(1668年)岡山藩主の池田光政公が造営に着手し、子の綱政公の元禄10年(1697年)に完成したもの
流麗な三間社流造りの神殿は飛鳥時代の社殿建築の粋がつくされている



祭神:大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)
  「桃太郎」のモデルとしても有名
   大和朝廷の命により吉備の国を平定
   吉備の国を治めた屋敷跡に社殿が建てられた



楽御崎神社(らくおんざきじんじゃ)



写真左下の狭い通路を通り反対側に移動する
ここで傍にいたボランティアカイドに社殿の並びについて尋ねた
とても親切なガイドで分かりやすい説明を受けた



ガイドから是非観て欲しい場所があると案内された
それがこの欄干で、一本の木から削り出して造ったという
火事で焼失後はこのような場所まで元の社殿を忠実に再現しているようだ



説明の流れで拝殿内に案内された




神饌所(しんせんしょ)



随神門に戻る



境内図



石造大燈籠(岡山市指定文化財)
高さ11.5m、笠石8畳の日本一大きな燈籠
文政13年(1830年)から安政4年(1857年)の27年にも渡り寄付がよせられ
安政6年(1859年)に天下泰平を祈願して建立された



さざれ石



桃太郎像
どこにあるのか分からずガイドに尋ねるとこの場所まで案内してくれた
予想とは違いかなりユーモラスな像であった



ガイド曰く、何時、誰が造ったのかも分からないそうだ
駐車場の端の目立たない場所に置かれていた



撮影 令和5年6月4日
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草戸稲荷神社(広島県福山市草戸町1467)

2023年09月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月3日

草戸稲荷神社
創建は平安時代の大同2年(807年)と古く、明王院を開基したとされる空海上人が同寺の鎮守社として祀ったことに始まるとされる
当初は社殿が芦田川の中州に鎮座していたが、洪水により流失
寛永10年(1633年)6月に初代備後福山藩主・水野勝成が現在地に再建した

鳥居
額には「正一位稲荷大明神」



稲荷橋
社殿が大きく少し離れた場所から撮りたいと思い橋の近くまできた



数メートル後ろに下がっただけだが、良い場所を見つけた



さて、昨年に続いて訪れたのには理由がある
境内の清掃をしていた巫女に(心のこもった)挨拶をされたのだ



今年はどうかなと思い鳥居を潜ると遠くから小鳥のような軽やかな挨拶の声が聞こえてきた
昨年は嬉しい気持ちを賽銭箱に入れたが、今年も同じようにした



鳥居
額には「草戸稲荷神社」
五穀豊穣、商売繁盛、良縁祈願、起業成就、病気平癒、無病息災、家運降昌の御利益があるため参拝者が絶えない



拝殿
拝殿は1階にある



普通、拝殿奥に本殿があることが多いが、この神社は階上にある



笑ってしまったが賽銭箱の上に「油揚げ」があった
<稲荷神社と油揚げについて調べてみた>
日本は古くから農耕をしていたので農作物を食い荒らすネズミは迷惑な存在で、そのネズミを好んで食べる狐が崇められていた
地域によっては、狐の巣穴の前にネズミを油で揚げた「ネズミの油揚げ」を置いていく習慣があった
仏教が伝来し肉食や殺生はよくないという思想が広まり、豆腐を薄切りにした油揚げを供えるようになった



稲荷神社は稲荷神という農耕神を祀る神社
農耕物を食い荒らすネズミを食べてくれる狐を崇め、「白狐」を神の使いとして祀っている
狐の好物の油揚げをお供えするようになったため、油揚げを使った料理を「稲荷(いなり)」と呼ぶようになった



境内社
境内には草戸八幡神社や摂社・末社が20社ほど鎮座している






本殿
最上階に本殿がある
この場所に来たのは初めてである



額には社号の「草戸稲荷神社」
祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
   保食神(うけもちのかみ)
   大己貴神(おおなむちのかみ)【別称】大国主命



本殿からの眺望
芦田川は、広島県の東南部に位置する備後地方の中心を流れている
当初は社殿が芦田川の中州に鎮座していたが、洪水により流失し現在地に



広島県では広島市に次ぐ人口(46万人)を誇る、福山市街が見える






撮影 令和5年6月3日
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中道山 円光寺 明王院(広島県福山市草戸町1473番地)

2023年09月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月3日

中道山 円光寺 明王院
真言宗大覚寺派の寺院
もとは「西光山 理智院 常福寺」といい、大同2年(807年)弘法大師の開基と伝えられている
元和5年(1619年)福山藩主 水野勝成が入府してからはその庇護を受ける
三代水野勝貞は常福寺に、歴代藩主の祈願寺となっていた明王院を合併し、寺号を明王院と改め今日に至る



十王堂



石段の上に山門が見える



途中、小さくて可愛い石仏が手を広げて迎えてくれる



山門(広島県指定文化財)
慶長19年(1614年)再建と考えられる



山門横の「不動明王」



額には山号の「中道山」



書院・庫裡(広島県指定文化財)



書院(広島県指定文化財)
入母屋造り、本瓦葺。桁行8間、梁間6間半(桁行13.5 m、梁間12.7 m)
向唐破風屋根の玄関が附属する



寺記によると元和7年(1621年)庫裏とともに、福山初代藩主・水野勝成により再建と伝わる



庫裡(広島県指定文化財)
入母屋造り、本瓦葺。桁行12間、梁間12.2間(桁行17.9 m、梁間14.1 m)
書院同様に寺記によると元和7年(1621年)書院とともに福山初代藩主・水野勝成により再建と伝わる






庫裡入口左奥の建物の屋根






本堂(国宝)
入母屋造、本瓦葺き。桁行(間口)、梁間(奥行)とも5間で、11.812 m
和様建築に鎌倉時代以降の新様式である大仏様、禅宗様を加味した折衷様建築の代表例とされている



本尊:木造十一面観音立像<伝 最澄作>(重要文化財)
   秘仏:33年に一度公開(次回は令和6年の秋)



外陣の様子



額には「観音堂」



鐘楼(福山市指定文化財)



建立は、正保4年(1647年)水野宗休(勝成の隠居後の号)の寄進によるもの
鐘は明暦3年(1657年)福山三代藩主水野勝貞の寄進によるもの



さて、この像どこで撮ったのかまるで記憶がない
ガラスの反射を防ぐため正面に立っているのだが……



開運大黒天



五重塔(国宝)
旅の目的の一つに国宝・重要文化財の塔(三重塔・五重塔・多宝塔)巡りがある
京都醍醐寺とここ明王院を残していたが、年齢的にもそろそろ車旅も終わりかと思い、昨年この2つを訪れた



特に明王院はそれまで何度も近くを通っているのに立ち寄ることはしなかった
昨年、訪れたことにより国宝の塔の全てを回り旅の目的の一つを果たした



今回は塔の姿でも見に行くかという気軽な気持ちで訪れた
拝観料が無料というのもいい



国宝の五重塔は9基ある
京都府(海住山寺、東寺、醍醐寺)奈良県(興福寺・法隆寺・室生寺)
山形県(羽黒山)広島県(明王院)山口県(瑠璃光寺)



撮影 令和5年6月3日
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素盞嗚神社(広島県福山市新市町大字戸手1-1)

2023年09月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月3日

素盞嗚神社
備後国一宮
「祇園祭発祥」の神社で、境内は巨旦将来の屋敷跡と伝わる

鳥居



額には「素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)」



参道を歩くとピクニックをしている家族や遊具で遊ぶ子供達の姿があり、地域に根ざした神社だと感じた
神門前の石柱には「八紘一宇」「武運長久」の文字が彫られている



狛犬1






随神門



随神像






鳥居から社殿までは直線で結ばれ、周囲は高い木々に囲まれている



手水舎



神楽殿
例祭「祇園祭」7月15日
素盞嗚神社の祇園祭は、喧嘩神輿で有名となっている
祇園祭にはここに3基の神輿が納められる



現在では、京都の祇園祭をはじめ、博多祇園山笠など日本全国に広がっている祇園祭
その祇園祭の発祥が、こちらの素盞嗚神社だという



元々祇園祭は、疫病神であるスサノオを鎮めきれず、町中から退去して頂くために行われていた祭りだった
町を神輿で巡りスサノオの分霊をすべて集め、御旅所(現在では新市神社)に引っ越して頂くというもの



狛犬2






拝殿
入母屋造瓦葺



社伝によれば天武天皇の7世紀ごろ(679年か)に創建したとされる
後に遣唐使であった吉備真備が天平6年 (734年)に素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請
さらに貞観11年(869年)、広峯神社から平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)勧請されたとされている



後に神仏習合によって仏教系の神である牛頭天王を祭神とするようになり、「早苗山天竜院天王寺」という真言系の別当寺が作られた
本堂である本地堂(現 天満宮)には本尊本地仏として聖観世音菩薩が祀られた



明治の神仏分離により、神社の道を選んだ
当社の別当僧は還俗して神官となり、祭神は本来の素盞嗚尊に改め、現在の社名に改称した



本殿
入母屋造檜皮葺
備後福山藩の初代藩主水野勝成の再建と伝わる
祭神:素盞嗚尊
配神:稲田姫命 - 素盞嗚尊の妃
   八王子- 素盞嗚尊の御子神



蘇民神社・疱瘡神社



「茅の輪くぐり」発祥の地
素盞鳴尊が旅の途中で、蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで宿を求めた
弟の巨旦将来は、豊かな生活をしていたのにそれを断った
兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていたが、素盞鳴尊を泊めて厚いもてなしをした
素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れて、「もし悪い病気が流行することがあったら、茅で輪を作って、腰につけていれば病気にかからないですむでしょう」 と教えた
茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものだったが、時代がたつにつれて大きくなり、これをくぐって罪やけがれを取り除くようになった



因みに当社の敷地は、素盞嗚尊に滅ぼされた弟 巨旦将来の屋敷跡といわれる



戸手天満宮
瓦葺き入母屋造りの仏式の建物
元々は当社の「本地堂」で、神仏習合時期の別当寺「早苗山天竜院天王寺」の本堂






明治維新後の廃仏毀釈の際、祭神に菅原道真を奉祀して守り通した



平成10年(1998年)広島大学の三浦教授監修のもと修復がなされ現代に蘇った(平成の大修理)



福山市にある二つの「一宮神社」
両者には規模の大小はあるものの、歴史を調べると二つとも興味深い



帰り際、境内で遊んでいる子供達に元気のよい挨拶をされた
気持ちよく駐車場に戻り、次の目的地に向かうことができた



撮影 令和5年6月3日
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