今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

落柿舎(京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町)

2013年07月31日 | 名所・旧跡
念仏寺からの帰路、京都では多分初めて見る畑、その奥に鳥居が見えた。
近くまで行くと嵯峨天皇皇女の陵であるということがわかったが、その近くに「落柿舎」と書かれた小さな案内札があった。
落柿舎という名前を知っている程度だったが案内札の小ささに逆に大きな興味が湧き入ってみることにした。




見過ごしてしまいそうな案内札。



落柿舎の歴史
松尾芭蕉の十哲の一人として名高い向井去来の別荘として使用されていた草庵で、去来がこの草庵について書いた「落柿舎ノ記」がある。
古い家の周囲には40本の柿の木があったという。



当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちにほとんどおちつくし、かねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。
これが落柿舎の名の由来である。

建物を右側から順に撮してみた。







これまで俳句には全く縁がなかったが、この場所に座ると五七五を頭の中で数えているから笑ってしまう。



去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。
かつて武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。
 その句 「鴨なくや弓矢を捨てて十余年」 はよく知られているそうだ。







私以外の観光客は全て女性で、とてもその場に長居できる雰囲気ではなく、周囲を歩きながら撮影する。












句碑や石塔などもある。



 


松尾芭蕉「嵯峨日記」
芭蕉が初めて訪れたのは元禄2年(1689)、 併せて三度来庵す。
元禄4年(1691年)4月から5月までここに松尾芭蕉が滞在して嵯峨日記を著した。













蓑と笠
落柿舎の入口には常に蓑と笠がかけてある。
これは本来庵主の在庵と不在を示すもので、ここに蓑笠がかけてあったら在庵、なければ外出中というしるしであるが、今は落柿舎の象徴として常にある。




撮影 平成25年5月25日
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華西山 東漸院 化野念仏寺(京都府京都市右京区嵯峨鳥居本化野町)

2013年07月30日 | 神社・仏閣
以前京都のタクシーの運転手と話しをしていた時にお勧めのお寺はないですかと尋ねると「化野の念仏寺」がいいですねと応えてくれた。
比較的遠くに位置していることもあってあまり観光化していない落ち着いた場所だが、石仏しかないので嫌がる人もいるようだとも。
石仏しかないということは石仏があるということだ。その時は時間的に余裕がなく訪ねることができなかったが、今日その時がやってきた。

二尊院からは歩いて1Km弱とのことだが工事中で駐車場が閉鎖されていると今朝庭師に聞いていたので迷わず歩くことにした。
途中、人形館やら名前の聞いたことのある寺などがあり寄りたいとの葛藤もあったが閉門時間のこともあり歩を速めた。

しばらく歩くと「あだし野」「あだし野念仏寺」と判別できる石柱が密かに立っていた。
これまで訪れてきた寺院とはすこし趣が違う。







化野念仏寺の歴史
京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。山号は華西山。
化野は東山の鳥辺野、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。









碑文(パ僧正のお言葉)



仏舎利塔
インドのサンチー僧院と同じ形の舎利塔。古代印度の造塔建築の基礎的様式。
日本の古寺には馴染まない建築物であり足早に通り過ぎた。




お迎地蔵



伝承によれば弘仁年間(810~824)に、空海上人がこの地に葬られた人々を追善するため、小倉山寄りを金剛界、曼荼羅山寄りを胎蔵界と見立てて千体の石仏を埋め、中間を流れる曼荼羅側川の河原に五智如来の石仏を立て一宇を建立して五智山如来寺と称したのが始まりといわれている。
当初は真言宗であったが、鎌倉時代初期に法然上人の念仏道場となり浄土宗に改められ、念仏寺と呼ばれるようになった。



西院の河原 
一見雑然と乱立しているように見える石仏群。






本堂
本尊は阿弥陀如来像(寺伝に湛慶作というが実際の作者は不明)、本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建されたもの。
境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治36年(1903)頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。
境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。
下の写真は本堂横にある寺務所。




阿弥陀如来像(寺伝に湛慶作)


本堂横から案内札の通り進むと墓地内の六面六体地蔵に着くが、その間の数百m(竹の小径)はこの寺では有名で美しい竹林がある。
カメラを構えた記憶はあるが残念なことに1枚も写していなかった。閉門時間のこともあり必死に竹林の緩やかな坂を歩いていたのかも知れない。


六面六体地蔵
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道の六つの世界を六道という。
この六面六体地蔵はそれぞれにお地蔵様がいて人々を救う姿を現している。水をかけてお参りするのは、水によって罪障を洗い流すという意味がこめられている。
天道から人道へ時計回りにお参りする。








  


  


  

みず子地蔵尊






再び本堂前の石仏群に戻る。
先の写真では乱立している感じではあったが角度を変えてみると、縦横がきちんと揃っていて日本人の死者を敬う気持ちが仕事に現れている感じがする。
多くの参拝客も石仏の近くまで足を踏み入れ合掌している姿が印象的であった。







「あだしの」は「化野」と記す。
「あだし」とははかない、むなしいとの意で、また「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往来する願いなどを意図している。
この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。




梵鐘
これより中に入っての撮影は禁止されている。




周辺を歩きながら撮影。






境内に奉る多くの石仏・石塔は往古あだしの一帯に葬られた人々のお墓である。
何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだしのの山野に散乱埋没していた。
明治中期に地元の人々の協力を得て集め、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。
賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた。




この最後の写真を撮影していたとき眼前の石塔が何故か空海や法然などこれまでこの寺に係わってきた人物達と重なり、安堵の気持ちで石仏群を見ているのではないかとの思いが頭によぎり撮った1枚である。



撮影 平成25年5月25日
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小倉山 二尊教院華台寺<二尊院>(京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町)

2013年07月29日 | 神社・仏閣
清涼寺から約500mの距離にある二尊院。五木寛之氏の百寺巡礼のなかの一寺であり、双子の仏像、法然上人の絵の事は知っており訪れて見たかったお寺の一つである。

二尊院の歴史
二尊院は、京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の寺院。山号は小倉山。
正式には小倉山二尊教院華台寺という。二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。


総門
総門は伏見城の遺構と伝える薬医門。



西行の庵跡
我がものと 秋の梢を思ふかな 小倉の里に 家居せしよ里 (西行法師)



紅葉の馬場
紅葉の名所ということだが今の時期は新緑の季節でそれも美しい。緩やかな坂を進むと石段が視界に広がってくる。






藤原定家「軒端の松」
志のばれむ ものともなしに 小倉山 軒端の松ぞ なれて久しき (藤原定家)



本堂
本堂の内陣には入ることはできないが、外から2つの如来像を拝観することができる。
考えていたより小さな像でしかも本堂奥に安置しているため肉眼でははっきり見ることができない。







本堂勅額 - 後奈良天皇宸筆「二尊院」



木造釈迦如来立像・阿弥陀如来立像(重要文化財)
本堂に安置。鎌倉時代の作。像高は両像とも78.8センチ。向かって右に発遣(ほっけん、現世から来世へと送り出す)の釈迦如来、左に来迎(らいごう、西方極楽浄土へ迎え入れる)の阿弥陀如来が並び立つ。
像表面は現状では黒ずんでいるが、金泥塗りとし、截金で文様を表している。
両像はよく似ているが、下半身の衣文の形式などに変化をつけている。
釈迦如来像が右手を上げ、左手を下げる一般的な印相を示すのに対し、阿弥陀像は右手を下げ、左手を上げる形に造り、両像は左右対称形となっている。
また、通常の阿弥陀如来像は親指と人差し指、親指と中指、親指と薬指のいずれかで輪をつくる印相を示すが、二尊院の阿弥陀如来像は下げた右手の指を5本とも真っ直ぐ伸ばしている点が珍しい




絹本著色法然上人像(重要文化財)
通称「足曳きの御影」
法然上人に内緒で描かれたくつろぎのお姿。上人がご覧になったとき、足が出ていたので、それを恥じて念仏をとなえると、描かれていた片足が引っ込んで、お座りになる姿になったという。その言い伝えから「足曳きの御影」といわれるようになった。

足曳きの御影の話しを知っていたので一度は見たいと思っていたが、本堂の入口側にその絵が無造作に掛けられていたので一瞬疑ってしまったほどだ。何を疑ったか。本物なのかということだ。




御霊屋





勅使門



弁財天堂



角倉了以翁像
京都で生まれ、安土・桃山時代から江戸初期にかけて各地の治水の先覚者として数々の功績を挙げた。



撮影 平成25年5月25日
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五台山 清凉寺(京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)

2013年07月28日 | 神社・仏閣
偶然が重なり、奇跡的な再会を果たした友人とも別れ、当初の目的地であった清涼寺駐車場を目指す。
場所は大覚寺に来る途中に確認していたので探さずにすんだ。
駐車料金は少し高いと思われるが1日の料金なのでここに車を駐めて周囲を散策するには最適の場所であると、今朝、道の駅で話しかけられた函館市出身の庭師に勧められた。

京都に入ってから財布の中からお金がどんどん消えていく感じがする。
駐車料金に拝観料、さらに特別拝観料、気に入った寺では御朱印もいただく。一寺につき平均2,000円、記念品やおみやげを買うと金額がかさんでいく。
特に自家用車を利用する場合は事前に駐車場の確認は大切であると痛感した。
勧められた清涼寺の駐車場からは多くの人が耳にしたことのある神社仏閣が近くに8つもあることを知った。


清涼寺(別称:嵯峨釈迦堂)の歴史
清凉寺は、京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗の寺院。山号を五台山と称する。
嵯峨釈迦堂の名で知られ、中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。
宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基(創立者)はちょう然、開山(初代住職)はその弟子の盛算である。

この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係している。
この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(みなもとのとおる、822年 - 895年)の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。
源融の一周忌に当たる寛平8年(896)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。

棲霞寺草創から数十年後、宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(ちょうねん)(938-1016)という東大寺出身の僧がいた。
奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。
その釈迦像は、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれている。

奝然は、永延元年(987)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとした。
三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。
すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。
しかし、その願いを達しないまま長和5年(1016)、奝然は没した。遺志を継いだ弟子の盛算が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。


仁王門
「五臺山(五台山)」と書かれた額が掲げられている門は安永6年(1776)に再建されたもので、楼上には十六羅漢が祀られている。
両脇の赤い阿形吽形一対の金剛力士像は室町後期のものと伝えられている。
















本堂(釈迦堂)
本堂は元禄十四年、将軍綱吉、その母桂昌院、大阪の豪商泉屋(住友)吉左衛門らの発起により再建された。
本堂は本尊釈迦如来立像(国宝)と十大弟子像、四天王像、文殊菩薩像、普賢菩薩像、地蔵立像(いずれも重要文化財)等がある。

古寺と和服を着た女性は写真を撮りたくなる。










木造釈迦如来立像(国宝)
像高160.0cmで、伝承では赤栴檀というインドの香木で造られたとされるが、実際には魏氏桜桃という中国産のサクラ材で作られているという。
縄目状の頭髪や同心円状の衣文の形式など、一見して日本の通例の仏像と異なる様式を示す。

本堂に入ると釈迦如来に対面することができるが今まで観たことのない仏像であり鮮明に脳に記憶されている。
仏像の顔もこれまでの常識を破るもので驚いたが、木目をこのように美しくうまく使っている仏像も観たことがない。こ
の地区では唯一の国宝の仏像だそうだが一見の価値はある。
本堂の若い僧侶が数分ごとに交代しながら仏像の歴史についてわかりやすく説明してもらえるのもうれしい。


阿弥陀堂
棲霞観跡(清涼寺)
嵯峨天皇皇子で皇族賜姓の源融(みなもとのとおる)が、九世紀後半に嵯峨に営んだ山荘。
融は晩年に写経や造仏に着手したが業なかばで他界したので、子供たちが完成させて棲(栖)霞寺とした。
かって棲霞寺にあった阿弥陀三尊像(国宝)は現在、清涼寺の霊宝館に安置されている。







多宝塔
元禄13年(1700)江戸護国寺での出開帳の際、江戸の老若貴賤の寄進によりなったもので、のち元禄16年、廻漕建立したものである。



一切経堂(輪蔵)






弁天堂







鐘楼



豊臣秀頼首塚
昭和55年に大阪城三の丸跡地の発掘現場から出土した首を納められたもの。



霊宝館
年に春と秋の2回特別公開される。
国宝 阿弥陀三尊座像は源氏物語のモデル「源融」が造らせた像で、自分の顔に似せてつくらせたという「光源氏写し顔」の伝説をもっている。
多くの参拝客が立ち止まって見つめるとほど美しい像であり、一見の価値有り。
その他にも国宝や重要文化財の仏像等も多く、特別公開期間をねらって拝観することを勧める。

今回も寺内は撮影禁止区域なので写真の数は少ないが、本堂並びに霊宝館にはすばらしい仏像が展示されていて感動した。
今朝、道の駅で初対面の人に勧められ来たが、旅先では人との出会いと人の言葉を素直に受け入れることの大切さを再確認することができた。

大覚寺のところで忘れていたことがあった。女ひとりの曲の三番に大覚寺が出てくる。
  京都 嵐山(ランザン) 大覚寺  恋に疲れた 女が一人
   塩沢がすりに 名古屋帯  耳を澄ませば 滝の音
    京都 嵐山 大覚寺  恋に疲れた 女が一人


撮影 平成25年5月25日
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嵯峨山 大覚寺(京都府京都市右京区嵯峨大沢町)

2013年07月27日 | 神社・仏閣
昨夜も道の駅で苦労した。温泉が併設されている、あるいは7Km以内に温泉がある道の駅を探していたら「スプリングスひよし」にたどり着いたが、京都市内から随分と離れてしまった。
朝起きて洗顔を済ますと地元の方らしい男性に声を掛けられた。札幌ナンバーだったので声を掛けてくれたようだ。
北海道函館市出身の方で長く京都郊外に住んでいて庭師を職業にしていると話してくれた。
当然お寺については大変詳しく清涼寺の駐車場が便利であると、車の混まない近道まで教えてくれた。

30分程度話しをしたあとお礼を言って別れ、近道を目指して出発したが山の中に入ると土砂崩れのためその近道が通行止めになっていた。
来た道を引き返し、昨日渋滞で苦労した道に戻ったが時間的にかなりのロスがあったので高速道路を使うことにした。

京都市内の渡月橋あたりは特に観光客が多く、車道にも人があふれ出てくる有様だ。
慎重に車を進め清涼寺の駐車場を目指したが、今度は道路が狭くなり対向車に注意を払っているうちに駐車場が視界から消えていった。
急いで地図をみるとこの先に大覚寺がある。「駐車場もあるように」と念じていると願いは叶うから面白い。
前段が長くなったがこれまでの偶然の重なりがこの後友人との奇跡的な再会を果たすのである。


大覚寺の歴史
大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。
山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。

嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。
また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。
また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。

嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。
嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。
嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。
淳和天皇の皇子(嵯峨天皇の孫)恒貞親王(恒寂(ごうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。

鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所とも呼ばれた。
亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。
この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。
元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。

このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。




表門の入口には大覚寺の歴史について書かれた案内板がある。



宸殿を右に見ながら、式台玄関から中に入る。



宸殿(重要文化財)
東福門院(後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものと伝える。
蔀戸(しとみど)を用いた寝殿造風の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺きとし、周囲に広縁をめぐらす。
「宸殿」は門跡寺院に特有の建物名で、「宸」は「皇帝」の意である。
内部は大きく4室に分かれ、中でも南側の「牡丹の間」の牡丹図と北側の「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆 展示物は複製)は名高い。
前庭には一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅(左近の「桜」ではない)がある。

















 







各建物への移動にはこの回廊を通ることになる。
このあたりでバッグに入れてあったスマホの振動を感じたので取り出してみると、先日別府で会った、大分県の友人から短時間に5・6回着信が入っている。
嫌な予感もあったので急ぎ電話の使用できる場所に移動して電話をかけてみると。
「おまえ、大覚寺にいるだろ」「いるけど、なんで知ってる?」
「駐車場で車を見た!」「ところで、おまえはどこにいるの?」「俺か、俺はいま大覚寺にいる!」「えっ?」
「女房と友人夫婦できている、後で会おう!」ということになった。







心経殿(有形文化財)
御影堂の北に建つ。大正14年(1925)建立の鉄筋コンクリート造の小規模な八角堂で、壁面は校倉造風である。
内部には嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の直筆の般若心経を収蔵し、薬師如来像を安置する。
内部は非公開で、開扉は60年に一度とされている。




大沢池(名勝)
大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、当時の唐風文化の面影を今に残す園地は池の北方約100メートルにある「名古曽の滝」とともに1923(大正12年)に国の文化財として名勝に指定されている。



いけばな嵯峨御流~その人を想い、華を捧ぐ~
嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺。
平安の始め嵯峨天皇が菊ヶ島に咲く菊を、殿上に捧げたのが発祥と伝えられる。
1200年経った今でも嵯峨天皇の自然や草木に対する慈しみの精神が受け継がれている。






華道に関しては全くの無知で友人との待ち合わせに時間があったため、周囲を見てみると花が展示してあったので写したという感じであった。
美しいと感じていないと写さなかったと思うのできっと感じるものがあったのだろう。
1枚目と2枚目、3枚目と4枚目は同じ場所で撮っているので制作者には申し訳ないと思う。










玄関で友人と再会した。昼食を駐車場横の蕎麦屋で食べながら話しをする。
二人とも大覚寺へは来る予定がなく彼も私と同じように偶然訪れたようだ。偶然の重なりが奇跡のような再会を果たした。
観光地の蕎麦屋ということで余り期待はしていなかったが、ここの蕎麦屋はうまかったことを付け加えておく。
今回もまた友人にご馳走になった。友人については、7月8日(臼杵石仏)の記事に記載。
 
大覚寺はほとんどが撮影禁止ということで誤って写ってしまったという写真はあるが、少ないのはそのような理由。


撮影 平成25年5月25日
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大内山 仁和寺(京都府京都市右京区御室大内)

2013年07月26日 | 神社・仏閣
神護寺からそう離れず駐車場のある寺を探すと仁和寺があった。
有名な寺で名前はよく知っているが訪れるのは初めてだ。駐車場の近くの東門から入ると霊宝館という建物がある。
寺宝を年2回だけ公開しているらしく、今は春季の特別拝観期間ということを係の人に聞き直ちに入館することにした。


霊宝館



金剛華菩薩



世界遺産 仁和寺の歴史
仁和2年(886)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まる。
翌年、光孝天皇が崩御したため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継ぎ、仁和4年(888)に完成。寺号も元号から仁和寺となった。

宇多天皇は寛平9年(897)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となってから、皇室出身者が仁和寺の代々門跡(住職)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保った。
しかし慶応3年(1867)、第30世 純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が門跡となる宮門跡の歴史を終えた。
昭和時代に入ると、仁和寺は真言宗御室派の総本山となり、平成6年(1994)に古都京都の文化財の1つとしてユネスコの「世界遺産」に登録され、新たな歴史を刻んでいる。


二王門(重要文化財)
仁和寺の正面に建つ巨大な門。
高さは18.7mで重層、入母屋造、本瓦葺。門正面の左右に阿吽の二王像、後面には唐獅子像を安置。
同時期に建立された知恩院三門、南禅寺三門が禅宗様の三門であったのに対し、平安時代の伝統を引く和様で統一されている。




仁王像






唐獅子像









御室桜(名勝)



五重塔(重要文化財)
寛永21年(1644)建立。塔身32.7m、総高36.18m。
東寺の五重塔と同様に、上層から下層にかけて各層の幅にあまり差が見られない姿が特徴的だ。
初重西側には、大日如来を示す梵字の額が懸けられている。
塔内部には大日如来、その周りに無量寿如来など四方仏が安置されている。
中央に心柱、心柱を囲むように四本の天柱が塔を支え、その柱や壁面には真言八祖や仏をはじめ、菊花文様などが細部にまで描かれている。







姿の美しい塔である。



金堂(国宝)
仁和寺の本尊である阿弥陀三尊を安置する御堂。
慶長年間造営の御所 内裏紫宸殿を寛永年間(1624〜43)に移築したもの。
現存する最古の紫宸殿であり、当時の宮殿建築を伝える建築物として、国宝に指定されている。
堂内は四天王像や梵天像も安置され、壁面には浄土図や観音図などが極彩色で描かれている。







経蔵(重要文化財)
寛永〜正保年間の建立。宝形造、本瓦葺。正面に両開きの板唐戸、左右に花頭窓を付け、禅宗様で統一されている。
内部は釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩など六躯を安置し、壁面には八大菩薩や十六羅漢が描かれている。
内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)を設け、各面に96箱、総計768の経箱が備えられており、その中には天海版の『一切経』が収められている。







水掛不動
鐘楼と御影堂の間に位置し、石造の不動明王を安置。不動明王に水を掛けて祈願する事から、水掛不動とも呼ばれている。






鐘楼(重要文化財)
入母屋造、本瓦葺。 「鐘楼」の「楼」とは元来二階建ての建物を指す。
階上は朱塗で高欄を周囲に廻らせ、下部は袴腰式と呼ばれる袴のような板張りの覆いが特徴的。
また、通常吊られた鐘は外から見ることが出来るが、この鐘は周囲を板で覆われており見ることが出来ない。




御殿内からの風景 
庭の奥に勅使門が見える



白書院
松の襖絵が部屋全体に描かれている。










 




 
庭から見える五重塔が美しい






宸殿






霊明殿の薬師如来坐像






予想外に規模の大きい寺だった。
この地区の寺はあまり観光化していないので落ち着いて拝観できると思うと受付所の女性の方も話していたがその通りだ。
写真撮影の制限もあまりなく安心してカメラを向けることができたことも嬉しい。
今日は、高山寺、神護寺、西明寺そして仁和寺の4寺を巡拝。肉体的には少々疲れた。
昨夜は温泉のある道の駅を探すのに苦労したので今日は早めに行動することにした。明日も京都に残り計画は立てていないが3つの寺を廻ろうと思う。

最後に大好きな塔の写真を1枚。




撮影 平成25年5月25日
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高雄山 神護寺(京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町)

2013年07月25日 | 神社・仏閣
神護寺の歴史
神護寺は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺迹(ゆいせき)本山の寺院で、山号を高雄山と号する。本尊は薬師如来、開基は和気清麻呂である。

神護寺は,道鏡の天皇即位を阻止した和気清麻呂一族の氏寺と考えられている高雄山寺とやはり和気氏ゆかりの神願寺とが合併して誕生した寺である。
吸収された神願寺が何処にあったかははっきりしないが,その神願寺が朝廷の管理下にあり一定の保護が受けられる「定額寺」の資格を有していたことから,それを神護寺が受け継ぎ格式の高い寺となった。

その神護寺に行くには苦労もある。車を駐めた時に係の方が話してくれたが長い石段である。
最近石段にはかなり慣れてきたが、楽に行くいい方法を思いついた。自分の年齢までの石段は休まず上るということだ。
そうすることによって自分の意志の強さも知ることができるし、正確に階段の数を数えることができる。
私もよい発見と思いさっそく実践してみた。 




硯石
この写真は帰り道に撮ったものだが、休憩するきっかけとなる石。



個人差はあるが20~30分程度で楼門にたどり着くことができる。
楼門が見えたときには多くの参拝者は喜びを感じる。私も写真を写したが動悸や息切れ、体の震えでなかなか焦点を合わすことができなかった。
ここから、さらに年齢分を歩かなければいけないが今まで以上に足が重く感じる。




楼門
参道から急な石段を上りつめた先に建つ正門。毘沙門堂などと同様、元和9年(1623)の建立とされる。









楼門をこえると急に視界が開け、苦労した石段のことが記憶からなくなるから不思議だ。



和気公霊廟






鐘楼
元和9年(1623)の再建とされる。楼造の鐘楼で、楼上に国宝の梵鐘がある。






鐘を見ることができないので鐘楼とは気づきにくい。
この日も日差しが強くこの角度以外は写真が真っ白になってしまい写ってくれない。




金堂
楼門を入って境内奥へ進み、右手の石段を上った先に建つ。
入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂であるが、建築年代は新しく、昭和9年(1934)に実業家の寄進で建てられたものである。




この堂内には写真家の土門拳氏が日本一という「薬師如来立像(国宝)」が安置されている。
土門拳の写真集から印象に残っている古寺を巡礼しているだけに拝観をを楽しみにしていた。
神護寺は境内は無料であるが金堂内での拝観は料金が必要になる。
しかし、こんなすばらしい仏像を間近で観ることができることは幸運である。
ぜひ多くの参拝者にも観てもらいたい仏様だ。


木造薬師如来立像(国宝)
金堂本尊。像高170.6センチ、カヤ材の一木造。唇に朱を、眉、瞳などに墨を塗るほかは彩色などを施さない素木仕上げの像である。
目を細めた森厳で沈うつな表情と体躯のボリューム感は、親しみよりも威圧感を見る者に与える。







金堂を出てからのことだが、入れ違いに僧侶が入ってきて、大きな声で何かを話していた。
その数分後、金堂内でさらに大きな声で口論が始まった。
原因はわかないが係の方が、ここは仏さんの前だから出て行ってくれと僧侶を追い出していたという感じだった。
余韻を楽しんでいただけに、……。


多宝塔
金堂からさらに石段を上った高みに建つ。金堂と同様、昭和9年(1934)、実業家の寄進で建てられたものである。
内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置する。




写真を撮る場所に苦慮する多宝塔。



地蔵院
 





かわらけ投げ 
神護寺の境内の一番奥、地蔵院前の展望広場から錦雲峡に向かって投げる「かわらけ投げ」。 
境内の売店で売られている素焼きの皿「厄除かわらけ」を投げて、厄除けを行う。
普段はしないが、あまりにも素晴らしい景色につい気持ちが動いた。
風景写真など撮ることはないがつい指を押してしまった1枚である。




緑一色の景色の中に咲く花






大師堂(重要文化財)
入母屋造、杮(こけら)葺きの住宅風の仏堂。
空海の住房であった「納涼房」を復興したもので、現存するものは近世初期の再建である。
内部の厨子に正安4年(1302年)作の板彫弘法大師像(重文)を安置する。







神護寺は空海が東寺や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院である。
空海はこの寺で灌頂を行っていて「灌頂歴名」に空海が灌頂を行った者の名が列記されているが,最澄の名が最初にあがっている。
かつて空海がこの地で生活していたと考えるだけでロマンがある。
空海と最澄が出会い別れた場所でもあり一度訪れたいと思っていただけに夢は叶った。
 


 
毘沙門堂
金堂が建つ前はこの堂が金堂であり、本尊の薬師如来像もここに安置されていた。
元和9年(1623)の建築。内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(重文)を安置する。













五大堂






明王堂



遠くに楼門が見える



帰り道楼門を振り返ると






石段の数であるが、自分の年齢で一度休み、二度・三度休んでいるうちに、これは老人には勧めることができないものだということがわかった。
それからは年齢に関係なく疲れたら積極的に休もうとの自分に甘い考え方になり正確な数は把握していないが、390段(±20)だと考えている。


撮影 平成25年5月24日
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栂尾山 高山寺(京都府京都市右京区梅ヶ畑栂尾町)

2013年07月24日 | 神社・仏閣
京都に行くときには、古い歌になるがチェリッシュの「なのにあなたは京都に行くの、京都の町はそれほどいいの、この私の愛よりも」の歌詞が常に頭の中に浮かんでくる。
京都市内の有名な寺院についてはこれまで何度か訪れているが、今日は自家用車での旅でもあるので市内から離れた寺院を目指すことにした。
始めに訪れるお寺は大好きな歌「女ひとり」の2番に出てくる高山寺。人生に疲れた男ひとりの旅である。
 京都 栂尾 高山寺  恋に疲れた 女が一人
  大島紬に つづれの帯が  影を落とした 石畳
   京都 栂尾 高山寺  恋に疲れた 女が一人


栂尾山 高山寺<世界文化遺産>
高山寺は京都市右京区栂尾にある古刹である。
創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。


道路沿いに無料駐車場があり、そこから行く道は裏参道という。苔に覆われた石垣と草木の中をつづら折にのぼっていく。
一木一草をそのままに、手を入れすぎない自然が美しい。段を登り切ると、石積みの上に低い白壁が続く。
壁の向こうが石水院である。境内は昭和41年(1966)「史跡」、平成6年(1994)「世界文化遺産」に登録された。

やはり裏というのには抵抗があったので、表参道の富岡鉄斎筆「栂尾山 高山寺」の石碑まで移動した。




写真には写っていないが、正方形の石敷きが17枚連なっていて美しい。
女ひとりの歌詞「影を落とした 石畳」はこれなのかなと考えながら坂を上がる。




石水院(国宝)
桁行正面3間、背面4間、梁間3間、正面1間通り庇。一重入母屋造、妻入、向拝付、葺。五所堂とも呼ばれる。
創建当時、現石水院は東経蔵として金堂の東にあった。安貞2年(1228)の洪水で、東経蔵の谷向いにあったもとの石水院は亡ぶ。
その後、東経蔵が春日・住吉明神をまつり、石水院の名を継いで、中心的堂宇となる。
寛永14年(1637)の古図では、春日・住吉を祀る内陣と五重棚を持つ顕経蔵・密経蔵とで構成される経蔵兼社殿となっている。
明治22年(1889)に現在地へ移築され、住宅様式に改変された。
名をかえ、役割をかえ、場所をかえて残る、明恵上人時代の唯一の遺構である。







石水院 廂の間
石水院の西正面。かつて春日・住吉明神の拝殿であったところで、正面には神殿構の板扉が残る。
欄間に富岡鉄斎筆「石水院」の横額がかかる。鉄斎は明治期の住職土宜法龍と親交があり、最晩年を高山寺に遊んだ。
落板敷の中央に、今は小さな善財童子像が置かれている。
華厳経にその求法の旅が語られる善財童子を明恵は敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いたという。
吊り上げの蔀戸(しとみど)、菱格子戸、本蟇股(かえるまた)によって、内外の境界はあいまいにされ、深い軒が生む翳りの先に光があふれる。







石水院南縁
石水院の南面は清滝川を越えて向山をのぞみ、視界が一気に開ける。
縁から一歩下がって畳の上に腰をおろすと、風景が柱と蔀戸、広縁によって額縁のように切り取られる。
南面の欄間には伝後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」がかかり、寺号の由来を語る。西面には長く高山寺の中心的子院であった十無盡院(じゅうむじんいん)の額も見ることができる。







「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」額
高山寺は古く「神護寺別院」「神護寺十无盡院」などと呼ばれ、栂尾の地にあった神護寺の別院であった。
建永元年(1206)11月、後鳥羽院の院宣により、華厳興隆の勝地として明恵が栂尾の地を賜ったのが高山寺の起りである。
その際に下賜された後鳥羽院宸翰の勅額といわれる。




明恵上人樹上座禅像(国宝)



草創から現在に至るまで、高山寺は明恵上人の寺である。寺宝の多くが明恵に関わる。
明恵は承安3年(1173)に生まれ、寛喜4年(1232)に没した。八歳で父母を失い、高雄山神護寺の文覚について出家する。
東大寺で華厳を学び、勧修寺の興然から密教の伝授を受けた。
建永元年(1206)後鳥羽院より栂尾の地を賜り、高山寺を開く。
明恵といえば、厳しい修学修行、釈迦への思慕、自然との調和、人間味あふれる逸話、夢幻に彩られた伝説、書き留められた夢などが想起される。
若き日には、求道の思いから右耳を切り落とし、釈尊への恋慕から二度にわたってインド行きを企んだ。

残された和歌も自在な境地を伝える。
あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月 (明恵上人歌集)




仏眼仏母像(国宝)



木彫りの狗児(重要文化財)



鳥獣人物戯画(国宝)






石水院を去る前にもう1枚



 


石水院を出て道なりに進んで行く。周囲の景色からもわかるように歩いていても爽快な気分になる。
 


開山堂
明恵(1173~1232)が晩年を過ごし、入寂した禅堂院の跡地に立つ。明恵上人坐像が安置され、御影堂信仰の対象となった。
建物は室町時代に兵火をうけて焼亡し、江戸時代に再建されたものである。現在、法要はこの開山堂で営まれることが多い。




聖観音菩薩
自然の中にとけこみ、見事に調和している。



明恵上人御廟






仏足石
釈迦の足跡をかたどり礼拝の対象としたもので、千輻輪宝、金剛杵、双魚紋などの紋様をもつ。境内には「仏足石参道」の石碑が2基あり、信仰を集めたことが知られる。



金堂
かつての本堂の位置に立つ。桁行3間、梁間3間の一重入母屋造、銅板葺。
承久元年(1219)に完成した本堂は、東西に阿弥陀堂、羅漢(らかん)堂、経蔵、塔、鐘楼、鎮守を従えた檜皮葺(ひわだぶき)5間4面の堂宇で、運慶作の丈六盧舍那仏(るしゃなぶつ)などが置かれたという。
その本堂は室町時代に焼失し、現在の金堂は江戸時代寛永年間(1624~44)に御室仁和寺真光院から古御堂を移築したものである。釈如来像を本尊とする。










撮影 平成25年5月24日
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上野山 福祥寺<須磨寺>(兵庫県神戸市須磨区須磨寺町)

2013年07月23日 | 神社・仏閣
フェリーの関西のご夫婦が話してくれたもう一つの寺がご夫婦の地元須磨寺だった。
時間的に厳しいものはあったが、高速道路にて向かう。民間の駐車場に駐め、道を尋ねながら急ぎ足で寺の境内に入る。
普通は山門から入るが今日は写経輪堂の横側から。午後4時を過ぎていたので、何も考えずに視界に入る建物を写真に撮る。


真言宗須磨寺派大本山 上野山 福祥寺(須磨寺)の歴史
須磨寺略歴縁起(寺蔵)によれば漁師が兵庫区和田岬沖で引き上げた聖観世音菩薩を安置するために淳和天皇の勅命により、兵庫区の背山恵偈山北峰寺を建立。
後に、仁和2年(886年)光孝天皇の勅命により開祖聞鏡上人須磨上野山福祥寺を建て本尊と祀る。
南北朝時代から江戸時代にかけて歴代住職が書継いだ、当山歴代(県指定文化財)によれば、本尊聖観音は嘉応元年(1169年)源頼政が安置した。

正式名は上野山 福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)であるが、古くから「須磨寺」の通称で親しまれてきた。
平敦盛遺愛の青葉の笛や弁慶の鐘、さらに敦盛首塚や義経腰掛の松など、多数の重宝や史跡があり「源平ゆかりの古刹」として全国的に知られている。
古来より源平の浪漫を偲んで訪れる文人墨客も数多く、広い境内のあちこちに句碑・歌碑が点在している。


寺に入るのにやはり門から入らねばと失礼と思い、近くに門を探しいったん出てから一礼して入山した。
長い階段の下にも門らしきものはあったが閉門時間が迫っていたので今回は行かなかった。




本堂
仁和二年開創当時の本堂には、松風村雨物語で有名な在原行平が参籠して、勅勘を許されたと伝えられるが、その後、火災、洪水、地震などの災害によりたびたび建て直された。
現在の本堂は慶長七年(1602)豊臣秀頼が再建したもので、建築奉行は片桐且元。
但し内陣の宮殿は応安元年(1368)の建造になり、重要文化財。本尊聖観世音菩薩、脇侍毘沙門天、不動明王が祀られている。
昭和47年、文化庁の指導で全面解体修理が行われ、600年前の姿に復原された。
この後、阪神淡路大震災の被災を乗り越え、平成17年にも復元のための修理が行われ現在の姿になっている。











本堂右横が奥の院の入口。
経験上奥の院にはよいものがあるとの思いから、時間を考え、いっきにのぼりきった。もちろん、動悸や息切れは激しかったが。


奥の院
宗祖弘法大師が祀られている。毎月第2日曜の奥の院法要には多くの善男善女でにぎわいをみせる。
奥の院参道沿いにある十三佛・七福神巡りは亡き人の追善供養、お子さまや家族縁者の無事と成長、そして自身の現在と後生の安心(あんじん)を願うお参り。










高野山遙拝所。石版を円くくり抜き、のぞきたくなるようにうまくつくっている。



ふれあいの布袋さん
七福神の中では唯一実在の神様で弥勒菩薩の化身といわれている。何事にもとらわれず、いつも笑顔で福のつまった大きな布袋を持ち歩き、全ての生きものに福を与えることを喜びとしている。




大きく変形した木



奥の院参道横の13佛のひとつ
干支でいうと私の仏様はこの「普賢菩薩」である。
 

 
次の写真の後ろに写っているのは悪霊ではなく私自身の姿である。




弁慶の鐘
元は山田村安養寺の鐘。
一ノ谷合戦のとき武蔵坊弁慶がこれを長刀の先にかけ、前に提燈を吊るして鵯越を担ぎまわって陣鐘に代用していた。
釣合わざるを「提灯に釣鐘」というがこれより始まったといわれている。







写経輪堂






大師堂
宗祖弘法大師ならびに真言八祖を祀っている。
毎月20日、21日に「須磨のお大師さん」として縁日があり、十数万の信者の参詣がある。
大正時代の一時期、この堂には孤独奇矯の自由律の俳人尾崎放哉が堂守りとして住み込んでいた。
彼はここで多くの句作を残したが、特に「こんなよい月をひとりで見て寝る」の句は最傑作として、今、本堂前の句碑に刻まれている。平成19年修復。








三重塔
弘法大師1500年御遠忌、当山開創1100年、平敦盛卿800年遠忌を記念して昭和59年に再建された。(旧塔は400年前の文禄大地震の際に倒壊。)
室町時代様式を基調とし、内部には大日如来を祀っている。
内陣の天井と壁面に多数の摶仏を配し、四方扉の内面に八祖像と六ヶ国語による般若心経を刻銘したことや、塔上の水煙に釈迦誕生像を配したことなどがこの塔の特徴となっている。
塔敷地の周囲には四国八十八カ所お砂踏み霊場があり、各札所の砂をガラス越しに踏んでお詣りができる。










敦盛塚(首塚)
この首塚(五輪塔)は、寿栄三年(1184)年2月7日に起きた一の谷の戦いで、熊谷直実に討たれ戦死した平敦盛の菩堤を弔う為に建立された。
因みに、須磨浦公園にある『敦盛塚』には胴体が祀られている。





 

源義経卿腰掛松
義経がこの松に腰を掛けて平敦盛の首を実際に確かめたと伝えられる。よって一名首実検の松ともいわれている。



源平と須磨寺
平敦盛公は平清盛公の弟平経盛公の子で、従五位に叙せられたが、官職が無かったので世に無官の大夫と言われた。
一の谷合戦で、源氏方の熊谷次郎直実公に討たれる。(1169~1184)
平家物語によれば寿永3年2月鵯越えの坂落としにより、平家方が惨敗を喫し、海岸へと味方の船を求め殺到した。
直実も平家方を追って、沖の方へ馬を泳がせている若い武将を見つけた。
「後ろを見せるとは卑怯なり、返せ、返せ」と呼んだところ、若武者は馬を戻した。
二人は一騎討ちとなり、共に馬から落ちて組み合いとなった。直実が勝って、首を取ろうと相手の顔を見た。
あまりに美しいので、名前を尋ねると、自らは名乗らず、直実に名乗らせた。
その名前を聞いて「良き名前なり、我が名は誰かに聞けば知っている者もあろう」と言って、首を差し出した。
直実はためらったが、他の味方の兵士が近付くのを見て、涙をのんで、その若武者の首をはねた。
その時に、若武者の腰の笛に気づいた。その戦の朝、陣中で聞いた美しい笛の音色は、この若武者のものであったのかと思いいたった。
このことから、直実は、殺し合わねばならない戦の世に無常を感じ、出家を決意することになる(後に熊谷蓮生坊)。
この笛が小枝の笛と呼ばれる通称青葉の笛である。


撮影 平成25年5月23日
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刀田山 鶴林寺(兵庫県加古川市加古川町北在家)

2013年07月22日 | 神社・仏閣
3年前フェリーの大部屋で一緒になった全国の山を登り歩いているという関西のご夫婦から加古川の鶴林寺の話を聞いた。
お寺さんをまわっていて鶴林寺に行ってないのは「オカシイヤロ」「アホヤ」といった内容の言葉が耳に残り「ホナ、イッタロヤナイカイ」というリズムで進路を加古川にした。


鶴林寺の歴史
高麗(こま)の僧、恵便法師は、物部氏ら排仏派の迫害を逃れて、この地に身をかくした。聖徳太子は恵便法師を慕い、その教えをうけるため、この地に来た。
のち、秦川勝に命じて三間四面の精舎を建立し、刀田山四天王寺聖霊院と名付け、崇峻天皇2年(589)が鶴林寺のはじまりと伝えられる。
その後、養老2年(718)、武蔵の大目「身人部春則」が太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立し、さらに9世紀の初め慈覚大師円仁が入唐の際に立ち寄り、薬師如来を刻して国家の安泰を祈願した。
天永3年(1112年)に鳥羽天皇から勅額を下賜され、以来「鶴林寺」と寺号を改め、勅願所に定められた。
天台宗鶴林寺は、加古川市街・尾上街道と鶴林新道に囲まれた一角にある。「刀田の太子さん」と親しまれている。
『刀田』は山号、「太子さん」とは鶴林寺を創建した聖徳太子のこと。「播磨の法隆寺」とも言われている。


仁王門(兵庫県指定文化財)
仁王門は、3間1戸の楼門形式で、大伽藍の正門として位置する。屋根は入母屋造、本瓦葺である。
全体を遠くから見れば、屋根と縁張り出しが良く、下層は高く、上層は低く、均衡が取れて美しい。










三重塔(兵庫県指定文化財)
室町時代の創建だが、江戸時代に大修理が行われている。
近年放火で一部損傷したが1980年の解体復元修理でよみがえった。
尾上街道や鶴林新道から朱塗りの塔が松林の中に見え加古川のシンボルにもなっている。







新薬師堂



薬師三尊蔵(重要文化財)



十二神将(一体だけウインクしている)






ウインクしている仏像と言うことで週刊誌に記事が掲載された。







経堂



常行堂(重要文化財)




本堂(国宝)
鶴林寺最大の建物で内陣厨子の棟札に応永4年(1397)の銘がある。
入母屋造り、本瓦葺。日本の仏寺建築は、和様の時代から鎌倉の初期には大仏様・禅宗様が輸入され、和様との折衷様式が流行し始める。
鶴林寺本堂は大阪府河内長野市の観心寺本堂と並ぶ、折衷様式の代表例とされる。











太子堂(国宝)
方三間、一重、宝形造りの建物の前に一間の縋破風をかけ、奥行き一間の礼堂をつけたもので四方を縁ではりめぐらしている。
全体として藤原建築の美点を遺憾なく発揮しバランスの富んだ建物。赤外線で発見することができた太子堂壁画もこの建物に納められていた。







鐘楼(重要文化財)
入母屋造り、本瓦葺き。本堂より10年遅れて、1407年(応永14)に建立された。
朝鮮・高麗時代に鋳造された梵鐘も重要文化財で澄んだ高い音色は黄鐘調(おうしきちょう)といわれる。




護摩堂(重要文化財)
三間四方の入母屋造り、本瓦の均整のとれた小堂。1563年(永禄6)建立。柱上の斗組を省略した簡素な造りである。
外部が和様、内部が禅宗様の折衷様式護摩堂は火炉で護摩木を焚くところで知恵の火で煩悩・罪障を焼き尽くす行方が行われる場所。










護摩堂の近くに宝物館があり、展示物の中でもとりわけ美しい仏像に目がいく。

聖観音立蔵(重要文化財)
像高83センチ。すらっとした気高い立ち姿。流れるような天衣。
腰を少し左にひねった軽やかなポーズ、しかも静中動の気風を漂わすこの像は、まことに美しく親しみやすい‘ほとけさま‘である。
その昔、盗人がこの観音像を盗み出し、溶かしてひと儲けをしようとたくらんだが、「あいたた」という観音様のお声に驚き、像を返して改心した、という言い伝えがあり 「あいたた観音」とも呼ばれいる。
第二次世界大戦が始まる少し前、ドイツで日本古典美術展が開催された時も、また戦後アメリカで同種の催しがあった時も日本の仏像を代表して出展されたのがこの像。

作家の五木寛之氏も印象に残る仏像と言うことで雑誌等で話していると係の女性が話してくれた。
この女性は大変親切な方で普段は館内を暗くしているのだが、明るくするのでゆっくり見てくださと私の好みの明るさまで調節してくれた。
私が境内で熱心に写真を撮っている姿を見ていたようでそのことも話してくれた。
いかに多くの人との出会いがあるかが、旅行の楽しさの大切な要素だと思うが、今日はよい思い出を持ってこの地を去ることができた。


撮影 平成25年5月23日
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大宝山 権現院 千光寺(広島県尾道市東土堂町)

2013年07月21日 | 神社・仏閣
NHK朝ドラ瀧本美織主演の「てっぱん」は尾道がロケ地になっていて、特に千光寺から見える尾道の風景がすばらしく一度行ってみたいと思っていた。
不安なことは尾道は坂が多く道が狭いと聞いているので自分の車でも大丈夫かということだった。


千光寺の歴史
千光寺は尾道市の千光寺公園内にある真言宗系の寺院。山号は大宝山。本尊は千手観音。
寺伝によれば大同元年(806年)に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
戦国時代には備後国御調郡木梨村木梨城主の杉原元恒がこの地に出城を築いている。

こちらの地理はまったくわからないが美術館近くの駐車場にたどり着いた。
親切な駐車場係の人から周辺地図をいただき、そこから案内板に従って歩くと「文学のこみち」と重なっていた。
二通りの楽しみを体験できると喜んだが途中から「二兎を追う者は一兎をも得ず」のことわざを思い出すことになった。

言葉が適切でないかもしれないが、千光寺は断崖の壁にくっついているという感じの寺で狭い空間にあるため、歩いてきた順に紹介していく。


岩割松(いわわりのまつ)
樹齢数百年の大きな松がその根で数トンにもあるような岩を割り、砕いて、厳然と立ち上がっている。



鼓岩(つづみいわ)
鼓岩は別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がする。
右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡といわれている。
ポンポン岩は、「てっぱん」では、オープニングのシーンに出てくる大きな岩として撮影された。

楽しみは思っていたより早くやってきた。ここからの景色をすごく楽しみにしていた。
一方、ポンポン岩では何も知らず石ではなく、手を叩いていたため期待していた音を聞くことができなかった。
なぜ手を叩いたのか、私の前の人が叩いていたからで、私の後ろの人も同じように手を叩いていた。







三十三観音堂
関西一円の西国観音霊場の各札所の御本尊、観世音菩薩33体が祀られ、ここにお参りすると西国観音霊場を巡拝したのと同じ功徳があると伝えられている。
お堂の正面には桜木で造られた百八煩悩滅除大念珠が下げてあり、幸せを念じながらゆっくりと引くと珠が上から落ちてカチカチと音がする。
この音で苦しみの根源である煩悩を打ち消して、観音様の御守護が頂けると言われている。




大仙堂
大山智明大権現は鳥取の大山寺の御本尊、地蔵菩薩のことで、その御分体がここに祀られている。
昔は人が死ぬとその魂は大山へ留まるという信仰があり、大山へお参りできない人は、この大仙堂を参拝していた。
大山智明大権現は表情が非常におだやかで「ニコニコ地蔵」と呼ばれ親しまれている。




六地蔵
釈迦が滅してから弥勒菩薩が出現するまでの間、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に輪廻する衆生を済度する役目をになっている菩薩。



くさり山
千光寺の鎮守は熊野権現と石鎚蔵王権現である。千光寺本堂裏には石の鳥居があり大正時代から石鎚蔵王権現が奉られていた。
大正15年3月に石鎚山へ登る鎖を取り付けたが、戦争の激しくなった昭和18年に鐘と一緒に供出されて以来、今では忘れられた存在だった。
平成15年ごろに住職が、「本堂からとは違う一段上からの素晴らしい眺めと奇岩を見てもらいたい」と石鎚山を整備し始めたことがきっかけで、62年振りとなる平成17年から一般の参拝客にもお参りできるようになった。

万一の時は自己責任でという言葉に誘われて私も鎖を使って違う眺めを見てみようと登ってみた。
鎖を握り力をいれた瞬間、どうもイメージとは随分違う感じがした。
自分のイメージではスイスイと上方に進んでいくはずだったが、鎖の丸い部分に足を入れ鎖を握ると何故か風もないのに体が左右に大きく揺れる。
2mも進まないうちに首にぶらさげていたカメラが岩盤に当たり嫌な予感がする。
さらに進んでいくとカメラが岩に当たる。普段はもう少し粘り強いのだが、大切なカメラのために断念することにした。




夫婦岩
この岩の前で二人が愛を誓うと願いが叶うといわれている。



烏天狗
烏天狗は熊野権現の神使といわれている。



護摩堂
三百余年前までは、境内に当山城主杉原公の守本尊多聞天を祀った三重の宝塔があったが、山上から大石が落下して倒壊し、その跡に建立されている。
本尊は不動明王で、脇侍に阿弥陀如来、地蔵菩薩が祀られている。




梵字岩(曼荼羅岩)
この曼荼羅図絵は徳川五代将軍綱吉公の帰依僧、東京の霊雲寺開基、浄厳大和尚当地へ御留錫の砌、書き遺されたものなりと云う。
円形の中に光明真言、大日如来真言の梵字が刻まれており光明真言曼荼羅。







玉の岩
玉の岩または烏帽子岩と呼ばれ、周り五十米、高さ十五米あり、当山第三の巨岩で、これには次のような伝説がある。
『往古この岩上に如意宝珠あり、夜ごとに異光遥かに海上を照らす、しかるに異国人来たりてこの山に登り、寺僧に向かって、我に金あり、汝これを与えるにより、この大石を我に与えよと、寺僧それに答え、売ることはできぬがこの大石を買いて何にするかとあやしむに、異国人は、この僧が岩上に宝石のあるを知らぬことを確かめ、心中欣び、ひそかにこの大石に登り美玉を奪い去りたり』と。
今でもこの大岩の頂に直径十四センチ、深さ十七センチの穴があるが、この穴が光を放つ宝玉があった跡だといわれている。
この山を大宝山といい、寺を千光寺、港を玉の浦と言い古されたのも、そのゆかりはこの伝説にもとづくものである。




鐘楼
大師堂前の小門をくぐると目前に朱塗り唐づくりの鐘楼が断崖絶壁に建っている。
この鐘は「時の鐘」として名高く、元禄初年より時刻を近郷近海に報じ近年はテレビ、ラジオを通じて「除夜の鐘」としてひろく人々に親しまれ、尾道の名物の一つにもなっている。
この鐘の特徴として鐘の上部に百八個のイボ(乳)がなく、梵字百字の真言と五智如来の種子が浮彫りになっておりこの地方では珍しい曼荼羅の鐘である。
千光寺鐘楼「驚音楼の鐘」は平成八年七月一日、環境庁の選定した「日本の音風景百選」の一つに選ばれた。




鏡岩
昔、玉の岩の宝珠または太陽、月の光を鏡のように反射させていたと伝えられ、鏡には神が宿るという信仰の対象であったと言われている。



本堂
俗に赤堂と呼ばれる千光寺本堂の本尊千手観世音菩薩は、33年に一度開帳の秘仏。俗に火伏せの観音とも称されている。
観音冥応集によると、『元禄十七年二月八日、隣接の栗原村国長の善右衛門という者の長屋から出火した火勢さかんとなり本宅に燃え移らんとした際、一心専念に千光寺観音に祈誓をこめ、この火難を救い給われば、一夜お籠りして念誦申し上げることを誓ったところ、たちまち不思議に風向き転じて猛火は和らぎ災厄をのがれたので、霊験のありがたさに、急ぎ観音に詣うでて礼謝した』と伝えられ、爾来火伏せの観音として巷間ひろく信仰されている。




今年が秘仏のご開帳の年にあたり、本堂の前を通るとしつこく案内される。
33年後は違う世界に旅立つ予定なので見ていこうかなと思っても、しつこく言われると気持ちが萎えてしまう。










毘沙門堂
本尊毘沙門天、脇士禅尼師童子、吉祥天女はともに聖徳太子宮造りの棟梁、鞍作止利仏師の作で、聖徳太子開運を祈願せられた尊像と伝えられ、当山城主杉原公の守本尊。



八畳岩
客殿・庫裡の浦の文学のこみちを鑑賞しながら登ると公園の山頂に着く。
西側広場を千畳敷と呼び、天正年間、木梨城主杉原氏の千光寺山城築城の跡。
北側の当山第一の巨岩八畳岩には、物見櫓の柱穴が残っている。




ここは山の頂上になるため障害物もなく最高の景色。



恋人の聖地



撮影 平成25年5月23日
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御許山 佛通寺(広島県三原市高坂町許山)

2013年07月20日 | 神社・仏閣
知人の悪口を書くとやはり神仏からの罰があるもので、昨日は朝から体調が悪く、今日の昼頃まで布団の中で苦しんでいた。

佛通寺には関しては予備知識も全くなく、道路地図に赤文字で記載されていたため訪れることになった。
駐車場も第1・第2駐車場と大型バスが何台も駐められるスペースがあったが当日は私の車しかいなかった。
到着したのは午後4時を過ぎていたので駐車場から急ぎ境内を目指した。

境内にも参拝客どころか人の気配すら全くなく、これはこれでどのように過ごすかが難しい。
左の観音堂から順にここにきたという記録写真を撮る。




佛通寺の歴史
臨済宗佛通寺派大本山佛通寺は仏通寺川沿いの「佳き山水の地」を選んで建立された。
そもそも佛通寺は,應永4年(1397)小早川春平公が愚中周及(佛徳大通禅師)を迎え創建した臨済宗の禅刹である。
佛通寺の名称は,愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし,彼の諡号(佛通禅師)を寺名にしたことを起因とする。
小早川家一族の帰依を受けて瞬く間に寺勢は隆昌し,最盛期には山内の塔中88ヵ寺,西日本に末寺約3千ヵ寺を数えるに到った。
しかし,応仁の乱の後に荒廃にむかい,小早川隆景の治世になってやや再興したものの,福島家そして続いて浅野家と権力者が変わるにつれて,しだいに当時の面影を失ったのである。
しかし,明治期に入ると一転して法灯は大いに挽回され明治38年, 初代管長の寛量思休禅師のもと臨済宗佛通寺派として天龍寺から独立復旧し,参禅道場をもつ西日本唯一の大本山として今日に到っている。


巨蟒橋(きょもうきょう)
現在の地図には佛通寺川と記されているこの渓流は、往古より「活龍水」と呼ばれ、佛通寺本寺の結界である。
橋を渡る者は一切の俗塵を捨て去ることが必要とされ、不心得者が渡ろうとすると、どこからともなく蟒蛇が現れて威嚇したという。







山門
佛通寺の正門。寛政の回禄(1796)の後、広島藩主浅野家の外護で文化年間に再興されたもの。






観音堂
 





仏殿
佛通寺の中心の伽藍。須彌壇上には釈迦三尊像を祀る。公式的な説法問答の場である法堂を兼ねる。
寛政の回禄(1796)の後、広島藩主浅野家の外護で文化5年(1808)に再建。
天井の雲龍図は文化7年備中松山の画工、菅南山筆。龍は仏法の守護神であり、また雲を呼び雨を降らせるところから火難除けの意もある。



 






写真を撮っていると航空機の音がして私がカメラを向けている仏殿の屋根に向かっていた。
普段なら遣り過ごすところだが2度シャッターを押したうちの1枚がこれである。記念すべき航空写真、自分では結構気に入っている。




大方丈
佛通寺の本堂。儀式法要、法話説法の場。
方丈とは、もともと一丈四方(3m×3m)の居室の意で、住持の居間であったものが後に大伽藍として建てられるようになった。
この建物は「降魔殿」と呼ばれ、第三代管長山崎益洲老師筆の「降魔」の扁額が掛かっている。
初めは毘沙門像が祀られていたが、現在は十一面観世音菩薩像が本尊である。







 
大玄関






鐘楼
足下の砂がきれいに掃き清められている。
通行禁止の立て札もないが、この時間になってこの状態が保たれている日本に誇りを感じる。










経堂






多宝塔(登録有形文化財)






開山堂、地蔵堂



多宝塔周辺の石仏









自然と一体化している石仏。
私が一番魅力を感じている石仏だが、足下が悪く近づくことができないため、同じ角度でしか写すことができないのが残念だった。













三安観音
「家・安かれ、身・安かれ、子・安かれ」と過去、現在、未来の三世の安穏を祈願するため、尾道出身の篤志家山口玄洞氏夫妻から奉納された。





 

紅葉時のみ拝観料があるようで、紅葉の季節には駐車場に車が入れないほど混雑する寺のようだ。
写真の緑が紅色に変化する風景も見たいものである。
このお寺にははじめてきだが開山堂や多宝塔に行く階段から見える景色と石仏たちの表情が素晴らしい。
望遠レンズがあればまた違った表情の写真になったかもしれないので悔いが残る。


撮影 平成25年5月22日
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大和ミュージアム<呉市海事歴史科学館>(広島県呉市宝町)

2013年07月18日 | 博物館・美術館・記念館
広島市を抜け呉市にある大和ミュージアムに向かって車を走らせている。
酔うと人事不省に陥る知人がいるが、数年前にそんな状態でも大和ミュージアムに行くと広島のホテルから朝出かけていった。
帰ってきて、体調不良でも行ってよかったとの感想も、今回、目的地に設定した大きな理由になっている。
私自身も宇宙戦艦ヤマトは知らないが、プラモデル世代だけに戦艦大和は子供の頃よく組み立ててきた。
戦争映画も昔から好きで多くの日本人の期待に反して撃沈していった大和の無念も自分の無念のように感じるほど思い入れは強い。
駐車場を探していると潜水艦が視界に入ってきた。




呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)
呉市海事歴史科学館は広島県呉市にある科学館。
愛称は大和ミュージアムで、正式名称よりも愛称が広く定着している。
明治時代以降の造船の街あるいは軍港・鎮守府としての呉の歴史や、基幹となった製鋼や造船などの科学技術を展示することを目的に、日露戦争・日本海海戦から100年目、太平洋戦争終戦60年目にあたる2005年(平成17年)4月23日に開館した。
開館以来盛況を続けており、呉市の歴史的観光資源を再発見するきっかけとして同市を全国的観光地に一躍押し上げた立役者である。
館の方針としては、当館を「平和学習の場」として開放するため、実物の兵器や当時の映像フィルムなどの歴史的資料を淡々と提示するかたちで、意見や注釈は一切ない。




戦艦「陸奥」41センチ主砲身
呉海軍工廠で開発したもので「陸奥」の建造当時は世界最大の艦載砲であった。



戦艦「大和」の歴史



軍縮期に設定された艦艇の保有・建造制限に対応するために高められた技術の集大成として史上最大最強の戦艦「大和」が設計された。



「大和」型戦艦は構造がきわめて複雑で、予定通りに工事を完成させるには緻密な計画が必要だった。
また、機密保持も工廠の設備から市民生活にいたるまであらゆる面で徹底され、細心の注意が払われた。










「大和」は、国力面におけるアメリカ側の”量”的優位に対し、日本が”質”で対抗しようとした艦であり、当時の最新技術の結晶と言えるものだった。
その技術は日本の復興と高度成長を支え現代にも受け継がれている。










昭和16(1941)年12月16日に竣工後、「大和」は連合艦隊旗艦として海軍作戦の指揮全般にあたったが、すでに主役の座は戦艦から航空機へと移っており、「大和」は支援任務が多くなっていた。
戦争終局時には沖縄特攻作戦に出撃、最期を迎えた。







乗組員たちは沖縄特攻に際し、遺書・手紙・葉書などに家族への思いを託し出撃していった。






昭和60(1985)年「海の墓標委員会」、平成11(1999)年「大和プロジェクト'99」の2回にわたる潜水調査・一部遺品の引き揚げにより、「大和」の最期を知る多くの手がかりが得られた。
これらの調査は、半ば伝説とされてきた過去の戦艦「大和」と、それにかかわった人々の生きざまを現在に生きる私たちに伝えてくれる貴重な架け橋となった。







九三式魚雷・二式魚雷
九三式魚雷は、それまでの魚雷の欠点であった射程距離の不足、航跡発生の問題を解決するため、燃料酸化剤に純粋な酸素を用いた。
この酸素魚雷を太平洋戦争までに実用化できたのは日本だけだった。二式魚雷は、魚雷艇用として開発された魚雷で、魚雷艇以外にも「蚊龍」などの特殊潜航艇で使用された。




特攻兵器「回天」十型(試作型)
呉海軍工廠を中心に研究開発された特攻兵器「回天」は、海軍の青年士官から提案された。
全長9メートル、重量2.5トン、乗員1名。平均年齢21歳の100名以上の尊い命が失われた。







零式艦上戦闘機六二型
零式艦上戦闘機の開発には、広海軍工廠で研究・開発された技術が活かされた。
機体全てを金属で製作する技術、運動性重視から主翼を片方だけで支える強度維持の技術、桁と外板で主翼の強度を保持する技術などは、日本国内では広海軍工廠からはじまった。







特殊潜航艦「海龍」(後期量産型)
「海龍」は飛行機のように翼を使って自由に潜航・浮上する事を目指して呉海軍工廠などで潜航実験や研究・開発が行われた小型潜水艦。
全長:17.28メートル、水中速力9.8ノット、乗員2名。







その他の展示物から
一等巡視艦「筑波」



戦艦「金剛」



戦艦「長門」



航空母艦「赤城」



局地戦闘機「紫電改」



一等巡視艦「最上」

 

伊号第16潜水艦(写真上)、伊号第52潜水艦(写真下)



伊号第37潜水艦(写真上)、伊号第400潜水艦(写真下)




戦争責任等のこともあり建設の際にはご苦労もあったと聞く。
戦争と聞くと何でも反対する輩も多いが人類の歴史は戦争の歴史でもある。
やはり、きちんと向き合うことは大切だ。この科学館は方針として意見や注釈をつけていない。
ということは目の前の展示物を見たり資料を読むことによって各自考えることができるようになっている。
修学旅行の中学生も若者も多く入館していたが、しっかりした考え方を持って欲しいものだ。
平日なのに駐車場も満車、ナンバープレートも県外車が圧倒的に多い。
私も知人から聞いてここにきたが、そういう人も多いのかも知れない。
有意義な2時間を過ごすことができた。最後に一言、ここは二日酔いで来るところではない。


撮影 平成25年5月25日
コメント (1)
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厳島神社(広島県廿日市市宮島町)

2013年07月17日 | 神社・仏閣
昨夜は道の駅「スパ羅漢」に宿泊、温泉も併設されていて夜も熟睡、快適な朝を迎えた。
宮島口駅周辺の駐車場に車を駐め、朝ドラを視てから出発準備をした。
厳島神社は2度目で着いてから向かう方向もわかっているので精神的には余裕がある。それにしても今日も朝から暑い。

フェリーも船内には入らず外からの景色を楽しんだ。
意識は山の方へ、今日は時間もたっぷりあるので弥山にでも登ろうかと考えていた。




駅を背に右方向に歩いていくと、参道鳥居と海中の大鳥居が見えてきた。少しずつ記憶がよみがえってくる。



外国人観光客の多いが、修学旅行の中学生の楽しそうな雰囲気が後ろ姿からも感じることができる。



目の錯覚かと思ったが新郎新婦が遠くを歩いていく。
国宝の神社でも結婚式を行うことができるのかという驚きと、彼らの人生の記念日を共有できたことに喜びを感じた。




厳島神社(世界遺産、国宝、史跡、名勝)
厳島神社は霊峰弥山を背景に、前面を海に望む入り江に建つ神社建築で弥山などを御神体として祀り、遙拝所をその麓に配置した日本における社殿建築発展の形式の一つ。
社殿構成は平清盛の造営により、当時の寝殿造りの様式を取り入れ整備されたが、その後焼失し、鎌倉時代に再建された。
海に建つ木造建物として過酷な環境下にありながら、大内氏や毛利氏、豊臣氏などの庇護に支えられて、古い様式を今日に伝えている。
また神社建築に加えて五重塔・多宝塔などの寺院建築も加えられ、神道と仏教との混交を示す文化遺産として、世界に類を見ない景観を造りだしている。

拝観料を受付にて払い中へ進む。ここは一方通行のため拝観には注意が必要だ。




回廊
朱塗りが鮮やかな回廊。個人的には朱色は好きではないが、国宝といわれると鮮やかに感じるのは何故か。




客神社



特別史跡・名勝 厳島
厳島(宮島)は周囲30km、全島花こう岩からできている。
弥山(530m)山頂を含む地域は原始林として天然記念物に指定されている。
「いつくしま」の呼び名は「神をいきまつる島」に由来するといわれており、古くは、島そのものが神として崇拝されたもので、厳島神社に対する平清盛一門の信仰は名高く、海に浮かぶ社殿の構想もこの時にはじまる。
檜皮葺、朱色の社殿が緑の山を背負い、おだやかな海にのぞむ景色は自然と人工のすぐれた調和美をなし日本三景のひとつとして賞せられてきた。
大鳥居・社殿・平家納経などをはじめ国宝・重要文化財が少なくない。また、付近には毛利元就と陶晴賢の古戦場など史跡に富んでいる。







御本社(国宝)
市杵島(いちきしま)姫命、田心(たごり)姫命、湍津(たぎつ)姫命を祀る。
推古天皇の元年(593)11月申日の御鎮座。

厳島神社では最も大切な場所であり、財布の小銭をすべて賽銭箱に入れお願い事をした。
もちろん御朱印もいただいたが、大変丁寧でありがたみが湧いてくる。




大国神社(重要文化財)
大国主命を祀る。かつてはお供え物をここに仮に安置し御本社に運ばれていた。



天神社(重要文化財)
菅原道真公を祀る。弘治2年(1556)毛利隆元によって「天満宮」として建立された。
かつては連歌堂とも呼ばれ連歌興行が行われていた。

鳥居前で遇った中学生達もガイドの合図でお参りしていた。




偶然札幌という絵馬を発見したので見てみると「札幌○高校に合格しますように」と書かれていた。
圧倒的に多いのは合格祈願である。あることに気づきしばらく見ていると、ある法則を発見した。
それは、世間一般によく知られている有名進学校は具体的に大学や高校名が記されているが、それ以外は志望大学合格、高校合格と書かれている。
どうでもいい発見だが、希望が叶うことを願っている。
もしかすると、他人の書いたものを盗み見している人間の法則もあるのかもしれない。




能舞台(重要文化財)
以前職場の同僚とここを訪れたのだが、写真の上手な人が小物と一緒に写していたのを思い出してまねてみた。
朱でないところが能舞台の好きなところだが今日は天気がよすぎて壁に描かれている絵がよく見えないのが残念である。







鏡の池(厳島八景の一)
水面に映る秋の名月を詠じた古歌が多く残されている。
 
写真の下の円い部分が鏡の池、満潮時には見ることはできない。




卒堵婆石(そとばいし)
鬼界島(硫黄島)に流された平康頼が母恋しさに千本の卒堵婆に二首の和歌を書いて海に流した。
そのうちの一本が池の中の石に流れついたといわれる。




清盛神社






潮が引いてきているので歩いて大鳥居に行きたいと急に思い、しばし休憩に入る。時間はたっぷりある。
周囲を見ていると地元の方と思われるような人が座っていたので話しかけてみた。
宮島に生まれ宮島で育ち、学生時代は一時東京にいたが卒業後は宮島に戻り就職そして退職した人であった。
人に話を聞かす職業の人かなと思うほど話が上手で、宮島の歴史から名物の牡蠣について幅広く話を聞くことができた。



時間があるので弥山に行く予定だと話すと、弥山は今、工事をしているし、帽子もない、水分もない状態では日射病の危険もあるので次回にしてはどうですかと諭された。
この提案はあっさり受け入れることにして、次に、鳥居に行きたいので干潮時間を聞くとあと2時間と言われた。


大鳥居(重要文化財)
平安時代から8代目、明治8年に再建された宮島のシンボル。



地元の方と別れを告げ、この後の行動を考えた。
あれほど余裕のあった時間が急に時間がもったいないと感じ、潮の引きかけている部分を横断し、水たまりの部分は飛び越えて宮島を後にすることにした。







大願寺
日本三弁財天の一つ厳島弁財天を祀り、明治維新までは厳島神社の修理、造営を司っていた。

仁王門




本堂



平重盛公御手植松



龍神



勝海舟・木戸孝允会談の部屋
明治維新直前世に言う長州征伐の際



毛利元就ゆかりの地 厳島合戦跡
天文20年(1551)中国・九州地方に権威を誇っていた大内義隆は、家臣 陶晴賢(すえはるかた)の突然の謀反により滅亡した。
義隆と盟友関係にあった毛利元就は晴賢に対し挙兵したが戦力的には不利であったため一計を案じた。
平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め陶軍の大軍をおびき寄せた。
元就は暴風雨と夜陰に乗じ陶軍の本陣を急襲した。厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。
この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に努め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。


今日一日宮島で過ごそうと思っていただけに次の行動のことを全く考えていなかった。
計画的に行動できないのに、不慮の出来事に対処する能力にも欠けている。
この後、宮島口から動き出してしばらくして気づいたことだが、宮島通の人に教えられ以前入店した宮島口駅近くの(店名は忘れたが)「穴子飯」の店に寄ることもすっかり頭から抜けていた。
紅葉饅頭も牡蠣も食べていない。




撮影 平成25年5月22日
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岩国城(山口県岩国市横山)

2013年07月16日 | 

 
岩国城の歴史
慶長6年(1601)吉川広家がこの地に赴任した。広家赴任と同時に岩国城の築城が開始。
麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。
築城には8年の歳月が費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。
土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長13年(1608年)に竣工した。本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。
しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。


現在、山上と吉香公園のある山麓はロープウェイで結ばれている。



山上までの道脇には石垣や堀の遺構がある。



10分程度歩くと城の天守閣が見えてくる。



1962年、本丸南側に「天守構造図」という絵図を元に鉄筋コンクリート構造によって復興天守が建てられた。
本来の天守台は約30m離れた本丸北側にあったが、麓からの見栄えを重視して建設された。
現在見られる、天守台は平成7年(1995年)に発掘復元されたものである。










城下と城を隔てる錦川には錦帯橋が架けられ、特徴的な景観を作り出している。
城下町はこの錦帯橋の道筋を基準に整然と整備された。







撮影 平成25年5月21日
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