今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

湯沢ジオパーク(秋田県湯沢市)

2016年06月28日 | 名所・旧跡
秋田県湯沢市に住む学生時代の友人を訪ねる。半年ぶりの再会になる
友人の車で湯沢市周辺を案内してもらうことに
予備知識も全くなく私にとってはミステリーツアーのような新鮮な感じであった

湯沢ジオパーク
湯沢市役所で資料を入手。私と違って真面目な彼は、事前に下調べをした場所を紙に印刷し案内してくれた

「延命地蔵」  ある橋を渡ったところで車が止まった。橋の入口に地蔵像があるのは珍しい



「三途川渓谷」の案内板。 橋の中央から下を覗くと足がすくむほどの高さ(恐怖で下を撮すことができなかった)。
延命地蔵に三途の川、何となくその意味を理解することができた。



川原毛大湯滝(かわらげおおゆたき)
何があるのかわからないで目的地に向かうことはワクワクするほど楽しい



息切れと戦いながら前に進んで行くと、目の前に大きな滝があらわれる



ただ、この滝は普通の滝とは違う。私も長い人生で初めての経験となる



実は、滝そのものが温泉という珍しい滝



滝つぼや渓流は天然の露天風呂になる
手を入れてみるとこの季節では入浴するには冷たすぎる感じがした(写真の男性は友人)



上流で98℃の熱湯が湧き出ており、途中で沢水と混ざり良い湯加減となる。水着着用の注意書きあり



来た道を戻る。息切れを防止するため途中写真を撮りながら呼吸を整える
大湯滝へ流れている様子を見ることができた



川原毛地獄
川原毛地獄山は南部の「恐山」、越中の「立山」とともに日本三霊山に数えられている



硫黄臭が駐車場にも漂ってくる。ここは遠くから眺めるだけにした



「川原毛地蔵菩薩」



車から湖沼らしき景色が視界に入ってくる



苔沼
水面の大半をミズゴケがおおっていて、湿地が大地へ変化しつつある。



宇宙大橋
つながりは不明だが、宇宙飛行士の向井千秋さんが橋名を書いていた



惑星の広がりをモチーフに表現しているそうだ



子安峡「大噴湯」
遊歩道を下っていく。周囲を新緑に囲まれ気持ちはいいが、脚に負担がかかる
遠くに見える赤い橋の下まで歩いて行くことになる



落差60mの階段を下ると温かい川が流れ、その横が遊歩道になっている



橋の下に近づくと岩盤から蒸気がゴーという音をたて噴煙を吹き出している



噴煙が遊歩道まで。側を通ると熱風を感じることができる



岩盤から吹き出ている熱湯は98℃、手で触ってみたが確かに熱い



川向こうの岩盤からも…
幼い頃に戻ったように、嬉しくなり、はしゃいでしまう



新緑を目で楽しみ、豊かな水音を耳で楽しむ、何と贅沢な旅だろう



田舎育ちではあるが最近は自然に接する機会が少なくなり、その良さをすっかり忘れてしまっていた



800mの遊歩道もこの石段が最後になる
この後、友人と温泉に浸かり、その夜は彼の家でご馳走になった



私の車旅では絶対に訪れることのないジャンルだが、友人の案内で旅の幅が広がったように感じた。感謝したい
 
撮影 平成28年5月17日
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山居倉庫(山形県酒田市山居町)

2016年06月26日 | 名所・旧跡
土門拳記念館で声を掛けられた男性に酒田市の人気スポットとして紹介された場所である
何があるかわからず車を走らせ、数分後に着いた。駐車場は満車状態
カメラを持って車外に出ると「来てくれたんですね」と肩をたたかれた

山居(さんきょ)倉庫
明治26年(1893年)、酒田米穀取引所の付属倉庫として旧庄内藩酒井家により建設された
昭和14年(1939年)に取引所は廃止されたが、倉庫は引き続き所轄を移しながら現在も運用されている



肩をたたかれた男性に「山居倉庫裏と欅並木」が有名と案内された。(彼は記念館から自転車で来てくれたらしい)
新緑・紅葉・降雪それぞれの季節に風情があるようだ。土門拳氏も撮っていると話してくれた



「欅並木」の欅は、日本海からの強風(西風)と夏の直射日光(西日)をさえぎり、倉庫内の湿度変化を少なくする目的で植えられた
現在41本の欅が残っている



直線距離で100mほどあるだろうか。半分ほど来たところで振り返って見る
古くなるが、連続テレビ小説「おしん」のロケ地でもある



山居稲荷神社
欅並木の中央に位置している。倉庫鎮守の神社



山居倉庫正面。明治26年(1893年)竣工当時、倉庫一軒当たり、四斗入俵(60キロ)で16442俵を貯蔵することができた



12棟が残り、1棟が「庄内米歴史資料館」、2棟が「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽」として一般開放されている



小鵜飼船
最上川舟運において物資の輸送をするために作られた船
近距離輸送に使われ、積載量は50俵程度



上り船では塩、砂糖、海産物などを、下り船では米や紅花などを運んでいた



案内してくれた男性にお礼のことばをのべ、握手をして別れた
旅の楽しさの一つに人との出逢いがある。今日も良い旅をすることができた



撮影 平成28年5月16日
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土門拳記念館<酒田市写真展示館>(山形県酒田市飯森山)

2016年06月25日 | 博物館・美術館・記念館
車旅で神社仏閣を巡ることが多いが、実は土門拳記念館に展示されている写真にかなり影響されている
この記念館の写真を見て感動した寺や仏像巡りをするためにこれまで全国を走り回ってきた
室生寺や永保寺、三仏寺投入堂などは特に記憶に残り、何度か訪れた

土門拳記念館
飯森山公園内に土門拳記念館がある



土門拳は、自分の全作品を郷里酒田市に贈り、酒田市はそれに応え、1983年土門拳記念館を完成させた



土門拳の全作品7万点を収蔵
「古寺巡礼」「室生寺」「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「文楽」「風貌」などの作品を順次公開している



メインの展示室内の様子。この日は入館者もまばらでその少なさに驚いた
この感動を多くの人と共有したい。関係者ではないが、そう願っている



土門拳の愛した室生寺
私の一番好きな仏像が室生寺にある。「十一面観音立像」がそうだ
内陣で拝観したとき「探していたものを見つけた」と確信した。その顔をみるため4度訪れた



この永保寺の写真は何度見ても驚き、感動する
この写真に影響され誘われるように何度か訪れた



館内の売店でいつものように来館記念品を物色する
今回はデザインが変わったキーホルダーと雑誌を購入
記念館を撮るため車に戻りカメラを持参する

「拳湖」と彫られた石



記念館前にある、これが「拳湖」なのか



少し離れた所から記念館を撮ろうとしたときに「私のレンズと同じですね」と同世代の男性から声をかけられた
種類は忘れたが鳥を撮るため3時間ほど粘ってみたが駄目だったと話してくれた
同じ趣味を持つ人間は話が合うし実に面白い
話題が次々と湧き出てきてつい時間が経つのを忘れてしまった



撮影 平成28年5月16日
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象潟(秋田県にかほ市象潟象潟島)

2016年06月24日 | 名所・旧跡
旅をしていると全国各地に芭蕉ゆかりの土地がある
この象潟(きさかた)は芭蕉が訪れた北限の地としても有名である

史跡 名勝 天然記念物 象潟 
元禄2年(1689年)に芭蕉が訪れた
『奥の細道』のなかで、「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛



ここで芭蕉は、中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて、
「象潟や 雨に西施が ねぶの花 」
 


雨にけむる象潟は、あたかもまぶたを閉じた西施のように美しいと詠んでいる



芭蕉が訪れた頃、象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれた
かつては現在の松島と同じ様に無数の小島が浮かぶ入り江だった



その昔、芭蕉は舟で「九十九島」を巡ったようである



芭蕉は雨の日に舟で、私は快晴の象潟をカメラを首にぶら下げ遊歩道で



天気も良く、このような青空も久し振りだ。実に気持ちがいい



文化元年(1804年)の大地震(象潟地震)で突然干潟に変わった
現在は多くの土地で米作りがおこなわれている



地元に人の話しによると「鳥海山」がこれほどはっきり見えるのは珍しい。良いときに来た、運がいいと言われた
 


終着が見えない「九十九島」巡りに、疲れもあり、後悔していたところだったが頑張る力となった



芭蕉が訪れた百年後に大地震で土地が隆起した



鳥海山の別名「出羽富士」「秋田富士」「庄内富士」



九十九島は紀元前466年の噴火で形成された
形成当時は海中の小島であったが 1804年象潟地震により隆起し特徴的な地形となった



さて、九十九島を巡る所要時間だが、私はゆっくり写真を撮りながら歩いたため約1時間



普通の人なら30~40分で回ることができる



普段、歩くという習慣がない私がこうして歩いているのも旅の力だと思う



もうひとつ魅力的だったのが青空の中の雲の形



形のいい雲を探して撮っていたような気がする。この雲、龍に見える



撮影 平成28年5月15日
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皇宮山 蚶満寺(秋田県にかほ市象潟町象潟島)

2016年06月23日 | 神社・仏閣
7・8年前の秋、酒田市の土門拳記念館に向かう途中に偶然立ち寄った寺である
持っていたカメラが急に動かなくなり、悔しい思いもあり再び訪れることになった

皇宮山 蚶満寺(かんまんじ)
駐車場に車を駐め、四方を眺めながら、往時の記憶をたどってみる



この日は「九十九島」散策後に、旧参道から山門へと向かった



参道を覆う木々の奥に山門が見てくる



山門
木造切妻造瓦葺の八脚門(12坪)。年代不詳だが江戸中期の建立と推定



この扁額、薄くて読めず受付の人に聞いて「羽海法窟」と書かれてあることを知る
その意味も聞いたはずなのに、記憶の奥底で眠っている



以前、 蚶満寺を訪れ、この山門を撮っているときに突然カメラのシャッターが反応しなくなってしまった



その時の苦い出来事を思い出しながら、慎重にシャッターを押す
 


山門から中に入る



「地震供養地蔵尊」



位牌堂






夜泣きの椿



本堂
仁寿3年(853年)に天台座主円仁(慈覚大師)の開創と伝えられる



本堂扁額「蚶満珠禅寺」
蚶方(きさかた)の美景と神功皇后の伝説によりこの地を占い、皇后山干満珠寺と号したという
 


司馬遼太郎は、『街道をゆく』でかつての同級生に会うため蚶満寺を訪れたことがある



鐘付堂



観音堂









「木登り地蔵」  木と木の間に小さな地蔵が置かれている



目視では難しいが、その部分を拡大してみると、確認することができる



「北条時頼公のつつじ」



出世稲荷堂



「タブの木」



「親鸞聖人腰掛の石」  肥前島原の西方寺にあった親鸞が腰掛けたとされる石。



安永6年(1777年)切支丹ノ変を避けるために信者が蝦夷地に輸送中、時化にあい、象潟に陸揚げしてここに納めたといわれている
腰掛けたいという衝動もあったが恐れ多くて断念



「芭蕉句碑」 元禄2年6月、俳聖松尾芭蕉が訪れて『奥の細道』のなかで、「九十九島」と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛している
「象潟や 雨に西施が ねぶの花」
 


「舟つなぎの石」



「西行法師の歌桜」



境内には多くの石仏が置かれている






「猿丸太夫姿見の井戸」



「紅蓮尼の碑」






袖掛地蔵堂
神功皇后が三韓征伐の帰路、大時化に遭って象潟沖合に漂着したとき、濡れた着物を乾かすため掛けたのではないか



お世話になったボランティアガイドの方から、境内では一番古いお堂との説明を受けた



藤の花が咲いているので見ていったらいいと案内された。曲がりくねった枝の先に…



美しい花が咲いている



閉門時間の午後5時。居心地が良い寺でつい長居をしてしまった



近くに温泉付の道の駅もでき、便利になった
受付の女性、ガイドの男性の郷土愛溢れる親切な対応はすばらしい。また、訪れることになるだろう



撮影 平成28年5月15日
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正法山 長谷寺<通称:赤田大仏>(秋田県由利本荘市赤田)

2016年06月21日 | 神社・仏閣
奈良県桜井市の長谷寺、神奈川県鎌倉市の長谷寺と並び日本三大長谷観音の一つといわれている
十一面観音立像があるという長谷寺。すでに二つは拝観しているので、意識はしていなかったが目標達成となる



正法山 長谷寺(ちょうこくじ)
大きな駐車場から、やや離れた場所に長谷寺がある。案内板もあるが、入り口がわかり難い
地元の人に聞くと「赤田の大仏さんね」と親切に教えてくれる



石段を上ると、右手に建物が見えてくる



「手水舎」



是山禅師御舎利堂
創建された僧 是山泰覚を祀る



舎利堂の扁額



大仏殿(国の登録有形文化財)
正法山長谷寺は、安永4年(1775年)、亀田藩の僧是山泰覚により創建された寺院



明治21年(1888年)に堂塔伽藍の総てが火事により焼失したが、4年後に観音像が再建、さらに9年後には本堂が再建された



長谷寺と書かれた扁額の「谷」の字が、鎌倉と同じ鳩の形をしている



柱も含め彫刻がすばらしい。この奥に観音像が安置されている
拝観自由というところが他の二つとは大きく違う



十一面観音立像(由利本荘市有形文化財)
天明4年(1784年)に、鎌倉長谷寺の本尊と同木から彫り出されたという小仏を胎内仏として十一面観音立像の製作が始まり…



2年後に完成。明治の火災で焼失、再建されたものである
高さ約9m、木製金箔押しの長谷十一面観音立像



観音像の足下にある扉が開かれている



「蔵王権現」



堂内の様子。撮影禁止の札もなく、係の人もいないためゆっくり拝観することができた



「是山和尚墓地」 大仏殿から離れた場所にある



その横には、歴代住職の墓が



「閑居様お手造りの地蔵さま」






「釈迦三尊 石庭」 堀川達三郎画伯による築庭



石庭から大仏殿を見る



撮影 平成28年5月15日
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萬固山 天徳寺(秋田県秋田市泉三嶽根)

2016年06月20日 | 神社・仏閣
久保田藩主佐竹氏の菩提寺であるという雑誌の情報を頼りに訪れた寺である
専用駐車場に車を駐め、門を見た瞬間、期待できると思った

萬固山 天徳寺
寛正3年(1462)、佐竹家当主 佐竹義人(義憲)が夫人(佐竹義盛娘)を弔うため、常陸国に創建したのが始まり



総門(重要文化財)
寺巡りをしていると、門構えの良い寺は経験上期待することができる
この寺の第一印象はすこぶる良く、自然気持ちも高ぶってくる
 


総門の左前に大きな石の塊があり、仏様が彫られている



不動明王のような感じもするが定かではない



切妻造瓦葺きの四脚門。本堂等から離れて建つため延宝4年(1676)の火災をまぬがれた
寺が常陸から秋田へ移転した慶長年間(17世紀初頭)の建立と推定される



山門(重要文化財)
総門から少し離れた先に、風に揺れる新緑の木々に囲まれた山門が見える



宝永6年(1709)の建立。三間一戸(柱間が3間で中央1間を通路とする)の楼門



「仁王像」(秋田市指定文化財)
桂材の寄木造で高さ3.2m 九代藩主 佐竹義和の命令によって造られ、寛政9年(1797)に完成



制作者は京都の大仏師・七条左京(台座に墨書)



本堂(重要文化財)
貞享4年(1687)の建立。入母屋造、茅葺き、間口約30メートルの大建築



扁額の四文字。悔しいが、正確に読み取ることができない



この本堂、大きすぎて一枚の画像に収まらない
内部は左右4室・前後2列の8室に分かれているらしいが、現在、修復中との事でその様子はわからない



茅葺きの屋根は落ち着きがあり、見ていても飽きることはない



横に回ると確かに傷んでいる箇所がある



佐竹家霊屋(重要文化財)
入母屋造、鉄板葺き。歴代秋田藩主の霊を祀る



三代藩主 佐竹義処が寛文12年(1672)に建立



お墓参りに訪れる数人の檀家さんにあったが、礼儀正しく恐縮してしまった






緑に囲まれ落ち着いた雰囲気で穏やかな気持ちになる寺だ



撮影 平成28年5月15日
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神明社(秋田県潟上市飯田川飯塚)

2016年06月18日 | 神社・仏閣
「地図でめぐる神社とお寺」という雑誌に掲載されていた神社に興味を持ち訪れた
駐車場もなく狭い道路の僅かに膨らんでいるスペースに車を駐め、重要文化財の「神明社観音堂」を目指した

神明社
もとは八郎潟湖岸の観音尻にあったといわれ、江戸時代の元禄2年(1989)に現在地に移った



石段を上がると更に鳥居。その奥に拝殿らしき建物が見える



「本殿」らしいが名称については観音堂以外は不明である









神明社観音堂(重要文化財)
創建は元禄2年5月。八郎潟沖合の水底より発見した千手観音を浜飯塚観音尻に堂社を設け祀ったことに始まる



近づいて注視すると、見事な彫刻が随所に見られる



修復の際、シカの足を抱えた白ギツネのミイラが発見され、堂内に保存されている
屋根は入母屋造り。柿葺、唐破風の向拝付き一軒間
「享保19年改築」の棟札があり室町末期の建築様式をとどめている



背部に回って見る。年輪まできれいに揃え、実に見事に造られている



境内にある石仏



貞和年代の石板
貞和3年(北朝、光明帝)銘の自然石板碑 4基



板碑は石塔婆のことで、地位の高い人を弔う墓石か供養塔として建てられた



路上駐車をしていたことも忘れ、時計を見ると午後5時を過ぎ、長い一日が終わった

 

撮影 平成28年5月14日
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真山神社(秋田県男鹿市北浦字真山)

2016年06月17日 | 神社・仏閣
今から10年程前、男鹿真山伝承館(なまはげ館)を訪れた時に立ち寄ったことがある
その時は神社・仏閣に今ほど関心もなく、記憶も曖昧になっている

真山(しんざん)神社
12代、景行天皇の御世に、武内宿禰が男鹿島に立ち寄った際、男鹿半島の秀峰、湧出山に登った
武内宿禰が使命達成、国土安泰、武運長久を祈願するために、この地に瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)の二柱を祀ったことが始まりだといわれている
 
「鳥居」
道路上に鳥居がある。道路が狭いこともあり、車中から撮る



駐車場に車を駐め神社に向かう。最初に目に入った不思議な光景。仁王門が見える



「手水舎」



「神門(仁王門)」
貞観時代(859年~877年)、円仁により湧出山は二分され、北を真山、南を本山と称するようになった
それ以降修験の信仰が高まり、天台宗僧徒によって比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合された



「仁王像」
仁王門は江戸時代中期のもので別当であった光飯寺の山門であったものが明治時代より神社の神門となったもの



仁王像は網や柵にによって保護されているが、ここは上部が空いているため楽に撮ることができる



神門(仁王門)を越えると、眼前に石段が現れる



「丸木舟(えぐり舟)」
一本の木から作られる丸木舟は、壊れにくく、安定性にも優れていることから男鹿をはじめ、日本海沿岸各地で広く使われていた



受付横に置かれている「なまはげの面」を見て、記憶が甦ってきた



拝殿
早朝にきたため受付にも人がいなく、拝殿前を清掃している巫女の姿を思い出した



きちんとお詣りをしたが、何を祈願したかは覚えていない



明治維新後は神仏分離令によって元の神域に復し、名も赤神神社から真山神社と改められた



拝殿横に石段がある



石段の左右に置かれている「狛犬」






距離は短いが歩きにくい石段を進む



神社南側後方の小堂。神仏習合時代以来の別当「光飯寺」のご本尊が祀られている



薬師如来座像(秋田県指定有形文化財)
この像は南北朝時代の作と見られ、今日に至るまで篤く崇敬されている



堂内の「天井画」



堂内の様子



更に奥に進む。体重増加(肥満)による体力低下、息切れがひどく、途中何度か引き返そうと思った



真山神社五社殿・宮殿(秋田県指定有形文化財)
五社殿は、かつて五社堂と呼ばれ5つの社があったが、火災で焼失したため1社にまとめられたと伝えられる
木の隙間からお堂が見えたとき、安心と少しの感動が…。足下を照らす光が誘ってくれる



太陽光がお堂を神々しく映している



お堂内部は暗いのだが写真を見ると不思議なオーラが…



十分気をつけてはいたが足を滑らし捻挫し転倒してしまった。体よりカメラを守ったため打撲と擦過傷
足を引き摺りながら降りてくると、眼下にお堂が見える。記憶によると神輿が入っているはずだ



 


真山神社の御神輿(男鹿市指定文化財)
平成7年の神輿(左側)と江戸時代の正徳4年(1714年)に藩主、佐竹義格(よしただ)公により寄進された神輿



佐竹公寄進の神輿保存のため平成7年3月に作成された



男鹿市指定文化財の神輿



本社の特異神事として柴灯祭(せどまつり)がある
正月3日の夕刻境内に柴灯を焚き、この火によってあぶられた大餅をお山に鎮座する神に献じて、その年の村内安全、五穀豊穣、大漁満足、悪疫除去を祈る祭儀である
「なまはげ」はこの神の使者「神鬼」の化身と言われている



拝殿を後にしたときには捻挫と打撲の痛みも消えていた
休憩所で係の方(禰宜か)と話しをする機会を得、「なまはげ」について説明を受けた



撮影 平成28年5月14日
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入道崎(秋田県男鹿市)

2016年06月16日 | 名所・旧跡
青空に誘われて男鹿半島では北西端の入道崎まで車を走らせた
大型駐車場に多くの車が駐まっているのを見て、土曜日であることに気付いた

入道崎(男鹿半島・大潟ジオパーク)
土曜・日曜日の嫌なところは家族連れや恋人に加え、不審なカップルが多いことだ
歩幅の狭い老人がトボトボ歩いていると徘徊していると思われる

明治31年(1898)に建造された白黒対称の縞模様の「入道埼灯台」が岬のシンボルとなっている



「緑の大地、紺碧の海、青空の絶妙なコントラストは、訪れた人の心を奪う」と観光協会のHPに書いてあった
天気も良く、それを感じ取ることができる



岬からの夕陽が黄金色に輝き美しく、日本の夕陽百選にも選ばれている



日本海の荒波の波食によって築かれ、落差30mもある荒々しい海岸を見せる



北緯40度線上にあることから、それを印した安山岩のモニュメントが配置されている



この線上が北緯40度線



更に先まで続く



幼い頃から海の近くで育ったが、久し振りに水平線を見た
時に牙を剥く海だが、この日は穏やかで頬にあたる海風も気持ちがいい



白黒の縞模様の灯台は「日本の灯台50選」に選ばれている
灯台を見ると学生時代に流行っていた「岬めぐり」の歌詞が頭をよぎる… 
「あなたがいつか 話してくれた 岬を僕は たずねて来た」



空腹だったこともあり、旅行雑誌に紹介されていた店に行ってみた
昼食にしては価格が高すぎ、年金生活者には無理があり、あっさりあきらめた

撮影 平成28年5月14日
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寒風山(秋田県男鹿市)

2016年06月15日 | 名所・旧跡
10年ほど前に訪れたことのある場所だが、その時は台風の影響もあり悪天候であった
晴れていたら、どのような景色を眺めることができるのか急に興味が湧いた

寒風山(男鹿半島・大潟ジオパーク)
男鹿半島の中央部に位置する寒風山。全山が芝生で覆われている
寒風山は古くは、妻恋山(つまこいやま)あるいは羽吹風山とも呼ばれていた

今よりも体力があった10年前、台風による風雨に耐え、途中何度も立ち止まり、この遊歩道を歩いた記憶が鮮明に甦ってくる
 


この日は天気も良く爽快な気分で……と思っていたが、何と今度は「息切れ」で何度も立ち止まってしまった



「小展望台」
自然の美しさに関心のない私が、何故10年前に訪れたのか
それは、旅行雑誌の影響だった。この場所に立っているモデルの姿が美しく、自分も行ってみたいと思った



私がこの場所に立っても様にならず滑稽なだけだが、景色は実に美しい



今度は山の上にある展望台を目指す



「世界三景」と書かれてある。調べてみると、平成27年4月に回転展望台ロータリーに設置されたようだ
あとの二つが気になるが、追求されたら「第三者委員会で」と応えるか、こっそり看板を抜けば済むことだ



熱心に写真を撮っている人がいたので左に見える海は日本海だと思うが、右側の海は? と頓珍漢な質問をしてしまった



両方「日本海」ですよ言われて、恥ずかしながら男鹿半島の地形が頭に浮かんだ



彼が話すには「この時期でしか撮れない貴重な光景」が目の前に広がっているそうだ



山頂付近には、五ヶ条の御誓文を石に刻んだ誓いの御柱がある
正面には 「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」 と刻まれている



寒風山の魅力は「山からの眺め」にある。眼下に小展望台が見える



来たときにはパラグライダーで空中散歩を楽しんでいる人もいた
私の関心は上昇気流を利用しコントロールされ飛んでいるグライダー
上昇気流に乗れずにここまできた私だが、飽きずにずっと眺めていた。


 
一番高い場所にある回転展望台がはっきり見える



この時期だけの光景とは「大潟村の田んぼに水が張ってある」ことらしい
日に照らされ輝いている時期は短く貴重だと話してくれた
しばらくするとこの風景が緑一色に変化していく



私が訪れた日はとても幸運だったようで
「よく晴れ渡り、遠くに山々が見える」「左右の海が見える」「雲がきれいで」「昼間なのに月も見える(真ん中より左上)」
地元の人が話してくれた

撮影 平成28年5月14日
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潜竜山 多宝院(秋田県能代市檜山字小間木)

2016年06月13日 | 神社・仏閣
青森県から秋田県に入る
情報がなかったため、以前購入した雑誌「地図でめぐる神社とお寺」の秋田県のページに載っていた寺を目指す事にした
寺へと続く出入口の道が狭く、右折で入ることができない
しばらく走ったところでUターンし駐車場にたどり着いた

多宝院(秋田県指定文化財)
多賀谷氏の菩提寺の多宝院は下総国下妻に創建
佐竹義宣の久保田藩移封による多賀谷氏移封に随行して慶長15(1610)年に檜山に常陸国より移転した 



山門(秋田県指定文化財)
文化15年(1818)の建造。二階は禅宗様高欄に「花頭窓」がついている



一階四隅に獅子の木鼻をつけている






鐘楼(秋田県指定文化財)
上部・下部の境に擬宝珠高欄をつけた縁が廻り、下部に袴腰をつけている



建立年代は18世紀後半のものと思われる



本堂(秋田県指定文化財)
現在の本堂は明和8(1771)年に再建されたもの。施錠されていて内部の様子を見ることができなかった



本堂から山門を見る



鐘楼と山門



しだれ桜の名所。訪れるのが少し遅かったようだ



苦労して訪れた割には …… 滞在時間10分



車を走らせていると数キロにわたり、道路の両側に菜の花が咲き乱れている
花の中を爽快な気分で走り、次の訪問地に移動する



撮影 平成28年5月14日
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弘前城(青森県弘前市大字下白銀町)

2016年06月12日 | 
弘前城は現在天守台石垣の修復中である
この最先端の技術を持つ日本で、人が綱を曳いて城を現在地に動かしたのである

弘前城(重要文化財)
二代藩主津軽信枚が慶長15年に着手し、翌慶長16年(1611)に完成。寛永4年(1627)の落雷により焼失した
現在の天守は、文化7年(1810)に蝦夷地警備の功績が認められた九代藩主 寧親が隅櫓の改築をし再建された



津軽藩ねぷた村駐車場から、弘前中央高校前を横切り、東口発券所を目指す



桜で有名な弘前公園。時期的にあきらめてはいたが…



遅咲きの桜を見ることができた。青空に映える花びらが実に美しい



「鷹丘橋」から本丸に向かう。正直言って、花には興味はないが公園内は見事に整備されている



天守が目の前に見えてきた。 「小さな城」 これが第一印象である



城らしくない倉庫のような入口から城内に入る



三代藩主 津軽信義が使用した「駕籠」



駕籠には津軽家の家紋 「杏葉牡丹紋(ぎょうようぼたんもん)」



屋根には瓦が一般的であるが、木材の上に鉄板を葺き降雪の重量に耐えるよう軽量化を計っている



最上階は資料館になっている。ここで警備の方に城の歴史などを教えていただいた



江戸時代には築城が禁止されていた
そのため改築した際、検分に来た幕府の役人に物置と思わせるよう工夫したためこのような形になったという



違った角度からみると城の姿に



ここには人が暮らすことはなく、物置として使われていたという



近くに3m程の高さの櫓が組んであり、遠くに岩木山が見えるこの光景も今だけの貴重なもの



この場所に本来は天守がある



周囲の工事の状況をみることができる



さて、修理されるこの石垣。右側に比べると左側部分が全体に膨らんでいるのがわかる



天守台と東側石垣の膨らみ部分を「解体修理」。明治20年にも同じように修理をしている



「本丸井戸跡」 石製井戸枠
本丸石垣修理に伴いこの場所に移設。一辺136cmの正方形、高さ71cm 2.4t



公園内から岩木山がくっきり見える



本丸を後にして、公園内を散策する









「東内門」



「南内門」



二の丸羊申櫓(重要文化財)
敵を攻撃したり物見のために造られた。櫓の方向を十二支で示したもので、羊申は南西に当たる



二の丸辰巳櫓(重要文化財)
防弾・防火のため土蔵造りとなっている。この櫓で藩主が三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列を見たという 



「玉鹿石」(青森県天然記念物)



「二の丸東門与力番所」



二の丸丑虎櫓(重要文化財)
軒下や出格子の木部は白木のままで飾り気がないが美しい



丑虎は北東に当たる



道の駅「ひろさき」にて…



入浴後、夕陽がきれいだったので撮ってみた



撮影 平成28年5月13日
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禅林街の寺院(青森県弘前市西茂森)

2016年06月10日 | 神社・仏閣
津軽藩2代藩主信枚が、弘前城の南西(風水でいう裏鬼門の方角)の砦として、1610年に津軽一円の主要寺院をこの地に集め、曹洞宗三十三ヵ寺が連なっている

禅林街
地元のタクシーの運転手がここに駐めなさいと言ってくれた場所だが、外に出てみると駐車禁止場所に堂々と駐めているのではないかとの不安が
禅林街の様子を知りたかったこともあり急いで廻ることにした。



長勝寺を背に左側の歩道を歩きながら撮っていった。
 


さっそく聞き覚えのある寺の名「万蔵寺」
長勝寺の重要文化財の銅鐘「嘉元鐘(かげんのしょう)」を寄進した寺












 











「黒門」(弘前市指定有形文化財) 長勝寺の境内入り口を示す総門(表門)
この門を重機が通過した際、貴重な黒門を破壊してしまったようで、現在修復作業中。
長勝寺で受けた説明によると、黒門が「一ノ門」、車を駐めた所が「二ノ門」、そして、重要文化財の門が「三ノ門(三解脱門)」



「六角堂(通称:栄螺堂)」
天保10年(1839) 海難や大飢饉の死亡者の無縁の諸霊冥助のため発願して建立された



内部は栄螺(さざえ)形の廻り階段になって全国でも稀な建築様式になっている






道路の両側に寺院が建ち並ぶ。遠く中央に見えるのが長勝寺。黒門からUターンした


















先に紹介した「六角堂(栄螺堂)」を管理しているのが、少し離れた場所にある「蘭庭院」












この日は気温が上昇し夏日となった
北海道の寒さに慣れた体には辛いが天気がいいのは気持ちが良い
 
撮影 平成28年5月13日
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太平山 長勝寺(青森県弘前市西茂森)

2016年06月09日 | 神社・仏閣
五木寛之氏の「百寺巡礼」では最北にある寺院。ミイラのある寺としても紹介されていた。
東北の旅では欠かすことのできない場所と心に決めていた

太平山 長勝寺
1528年(享禄元年)大浦盛信が父光信の菩提を弔うため、菊仙梵寿を開山として種里に一寺建立
種里の太平城から「太平山」の山号、光信の法名から「長勝寺」と号した
 


三門(重要文化財)
寛永6年(1629年)二代藩主信枚により建立
文化6年(1809年)の大修理で、下層に花頭窓を設け仁王像を置く



歴史を感じる扁額には山号の「太平山」



嘉元鐘(重要文化財)
嘉元4年(1306年)の紀年銘が切られているところから嘉元の鐘と呼ばれる。



この鐘は、長勝寺の創建より200年程前の銅鐘で、満蔵寺( 現万蔵寺 )から寄進されたものと伝えられる
 


三尊仏およびその厨子(青森県宝)



「蒼龍窟」と刻まれている額。 



堂内に入ると何と仏像で溢れているではないか。また、嬉しいことに撮影禁止の札もない



「蒼龍窟」の意味を調べてみる
龍の持つ霊玉を取るには、蒼龍の棲む窟中に乗り込まなくてはならず。洞窟の中に入れば、一瞬にして襲われ命を落とすかもしれない
悟りをひらこうと志を立てたなら、文字通り命をかけて修行をする。ということらしい



「五百羅漢」






左右の壁面



「蒼龍窟は坐禅堂で霊玉は悟り」 この場に立ち、多くの仏様に囲まれると日常と違った感覚になる



庫裡(重要文化財)
昨日までの雨の影響か、雨傘を乾かしている風景もいい
庫裡に入るには拝観料が必要になるが、本堂・霊廟含め境内全域を案内してもらうことができる



たった一人の参拝者に対しても、覚えきれないほど詳細な説明が30分間も。本当に感激してしまう



文亀2年(1502) 津軽の祖 大浦光信が岩木山麓賀田に建築した大浦城の台所



本堂(重要文化財)
慶長16年(1610) 二代藩主信枚造営の書院造り建造物



庫裡から本堂に案内され、拝観することができる



津軽家霊屋<霊廟>(重要文化財)
津軽家歴代藩主及び奥方の霊廟五棟で江戸時代の霊廟建築
外面に津軽家の家紋の牡丹が描かれている

「環月臺(かんげつだい)」 初代藩主正室霊屋 寛文12年(1672)造



「碧巖臺(へきがんだい)」 二代藩主信枚霊屋 寛永8年(1631)造



「明鏡臺(めいきょうだい)」 二代藩主正室霊屋 寛永15年(1638)造
二代藩主信枚正室の満天姫が徳川家康の養女として嫁いだことから、牡丹ではなく徳川家の家紋「葵」の紋が描かれている



「白雲臺(はくうんだい)」 三代藩主信義霊屋 明暦2年(1656)造



「凌雲臺(りょううんだい)」 六代藩主信著霊屋 宝暦3年(1753)造



長勝寺とミイラの話
昭和29年(1954年)8月3日菩提寺長勝寺の墓地移転で、地下7mの場所に茶殻が敷き詰められた座棺に土葬されており自然ミイラ化(死蝋)した状態で発見された

板に描かれているような状況で発見されたようだ



12代藩主になることを嘱望されていた津軽承祐が18歳で病没。副装品とともにこの柩に



副装品の絹麻の帷子、筆、硯等は長勝寺に収蔵。参拝者に公開されている
柩の蓋が厳重に密閉されていたため保存状態が良かったようだ



柩の周囲には小さな仏様がたくさん置かれている



平成7年(1995年)5月20日津軽家よりの要請で火葬にされ再び埋葬された






長勝寺は自然地形が防御面に優れていた事から、出城としての性格を持って築かれた
万一の場合に「第二の城」としての役割を持っていたという

長勝寺横にある広場から津軽富士「岩木山」がはっきり見える

 

撮影 平成28年5月13日
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