今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

中道山 円光寺 明王院(広島県福山市草戸町1473番地)

2022年08月31日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月31日

中道山 円光寺 明王院(みょうおういん)
真言宗大覚寺派の寺院
もとは「西光山 理智院 常福寺」といい、大同2年(807年)弘法大師の開基と伝えられている
元和5年(1619年)福山藩主 水野勝成が入府してからはその庇護を受ける
三代水野勝貞は常福寺に、歴代藩主の祈願寺となっていた明王院を合併し、寺号を明王院と改め今日に至る



十王堂
閻魔大王以下十王が祀られている



石段の奥に山門が見える



紫陽花の花霊場と彫られた地蔵が両手を広げて迎えてくれる
山陽花の寺二十四か寺第十八番札所となっている



手水鉢には不動明王の姿も



山門(広島県指定文化財)
慶長19年(1614年)の再建
現在の山門の建築材は新旧二様に分かれている
新様は建物上部の斗供・軒などに、旧様は軸部の柱・腰長押・台輪などに見られ、一部に室町様式の木割を残している



額には山号の「中道山」



本堂(国宝)
鎌倉時代の元応3年(1321年)の建立
入母屋造、本瓦葺き 桁行(間口)、梁間(奥行)とも5間



様式は、全体的に和様の姿をとり、木割や細部には大幅に唐様を採用した折衷様で、外陣の輪垂木天井は極めて珍しい手法



本尊:木造十一面観世音菩薩立像(重文)
33年に一度のご開帳<次回は令和6年>






尾道の浄土寺本堂(国宝 1327年再建)とともに、瀬戸内海地域で最も古い折衷様建築物として貴重



五重塔(国宝)
国宝に指定されている五重塔は9基(羽黒山、東寺、醍醐寺、海住山寺、法隆寺、興福寺、室生寺、明王院)
三重塔(13基)、多宝塔(6基)も回っているので、今回の明王院で目標を達成した



貞和4年(1348年)の建立 高さ29.14m
法隆寺・室生寺・醍醐寺・海住山寺に次ぐ5番目の古さを誇り、中世密教寺院における現存唯一の遺例といわれている



相輪の刻銘には、この塔が当時の繁栄した草戸千軒の経済力を背景に、ささやかな民衆の浄財を募って建立されたことが明記されている



木陰のベンチで塔を眺めていると、地元の男性が隣に座った
九州福岡出身で福山市に来て30年になるがまだ馴染めていないという(笑)



歴史に大変詳しく、話しも面白く長時間聞き入ってしまった






庫裏(広島県指定文化財)
書院とともに福山初代藩主水野勝成により再建されたものと伝えられる
小屋組は、古式で規模も雄大であり、書院形式の初期の技法をとっている



特に玄関や板敷き広間の天井は小屋組を露出させ、また淡彩の山水・花鳥・動物を襖に描くなど江戸初期の風格を示している
昭和38年(1963年)書院とともに解体修理された



書院(広島県指定文化財)
小屋組は古式で手法も古く、1間毎に柱を建てた書院形式初期の技法を用いた、江戸時代初期の建築
明暦2年(1656年) 徳川家光の位牌堂に転用されたが、昭和38年(1963年)解体修理時に元の姿に復されてた
玄関は式台に上り段を設け、屋根は向唐破風






鐘楼(福山市指定文化財)



建立は、正保4年(1647年)水野宗休(勝成の隠居後の号)の寄進によるもの
鐘は明暦3年(1657年)福山三代藩主水野勝貞の寄進によるもの



周辺を散策する

修行大師像









学寮






地蔵堂



地元の男性が一番好きだと教えてくれた場所から撮ってみた
境内が一望できる



自分一人ではこの場所を見つけることはできなかった



時計をみると何と2時間も滞在してしまった



山門から本堂を眺める



この石段から山門の景色も印象に残る







草戸稲荷神社(広島県福山市草戸町1467番地)
明王院の隣にある神社
大同2年(807)明王院の開基空海上人が同寺の鎮守として斎き祀ったものと伝えられる



額には「正一位稲荷大明神」とある



社殿は古くは芦田川の中州に鎮座されたが、しばしばの洪水の厄により社殿が流失破損した
寛永10年(1633年)6月、後水尾天皇の御代に福山藩主水野勝成が再建した



承応4年(1655年)水野家第3代勝貞が父である第2代勝俊の病気平癒を祈願し、今の地に社殿を遷し祀った






拝殿内部



祭神:保食神、宇加之魂神、大己貴神の三神




撮影日 令和4年5月31日
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海潮山 磐台寺<阿伏兎観音>(広島県福山市沼隈町能登原阿伏兎1427-1)

2022年08月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月31日

海潮山 磐台寺(ばんだいじ)<阿伏兎観音>
臨済宗妙心寺派の寺院
瀬戸内海に面する阿伏兎(あぶと)岬にあるので「阿伏兎観音」とも呼ばれる
正暦3年(992年) 花山法皇により石造十一面観音像を本尊に祀り、付近の航海の安全を祈願するために創建

山門
拝観料の100円は驚く



駐車場から山門への道は5分ほどの距離



景色を楽しみながら歩くと山門に着く



境内図は写真を整理する時に大変役立つ



客殿(広島県指定文化財)









手水鉢



観音堂(重要文化財)
ここから石段を上がる



更に上がると観音堂が見えてくる
観音堂の回廊は土足厳禁になっている



本尊:十一面観音
永禄13年(1570年) 毛利輝元が堂を再建
福山藩四代藩主 水野勝種により、石垣や鐘楼、回廊を増築し現在に近い姿となる



絵馬
観音堂の中には,壁一面に奉納された「おっぱい絵馬」が飾られている



昔から,航海の安全,子授け・安産の祈願所としても知られている



観音堂からの眺望
観音堂は高所に加え低い欄干でスリル満点、とても眺めを楽しむような余裕などない






壁に張り付くようにして撮っている(汗)



先に来ていた若い男性2人は京都からこの観音堂を観るためにきたという
Instagram用の写真を熱心に撮っていた



下に下りる

梵鐘



六地蔵



下から観音堂を観る
右側が階段で左側が観音堂









徐々にアングルを下げて……



まだこの下に海水が流れてきている場所があるが、浮遊物が流れ込み景観が損なわれるのでカットした



岬の突端の断崖に岬の岩頭に建つ朱塗りの観音堂は、歌川広重の浮世絵「六十余州名所図会」になっている



足摺さん






白鳳稲荷



再び客殿横を歩き駐車場に戻る
100円の拝観料でこれだけ楽しめる場所はない(最高)



いろは丸
この後、選んだ場所が分からず、釣りをしていた男性に声をかけた
しばらく話しをしていると変わった形の船が通り過ぎて行ったので尋ねると…



江戸時代末期(1867年)、坂本龍馬が「いろは丸」という船で海運業務を行っていた際、瀬戸内海で紀州藩の軍艦に衝突された
この事故でいろは丸は積み荷とともに沈没。事故現場から一番近くて大きい港が鞆の浦だった
その「いろは丸」を再現した船だという



撮影日 令和4年5月31日
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別宮山 光明寺 金剛院 南光坊(愛媛県今治市別宮町3-1)

2022年08月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月30日

別宮山 光明寺 金剛院 南光坊
四国八十八カ所第55番札所
真言宗御室派の寺院
四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけ
今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する
推古天皇御代2年甲寅(594年)に勅により大三島に造立
その後、越智玉澄公が文武天皇の勅を奉じて、大宝3年(703年)風波のため祭祀がおろそかになるのを憂いて当地に勧請
「日本総鎮守三島の地御前」と称して奉祭した

山門(四天門)
外側と内側に二体づつ四天王を配置し寺を守護する



南光坊の別称『日本総鎮守三島地御前』の扁額



四天王像
四天王は、「天部」に属し、仏教の守護神となる
*持国天/増長天/広目天/多聞天の頭文字をとって「持増広多(じぞうこうた=地蔵買うた)」という語呂合わせがある
 仏教世界を四つに分け、須弥山を中心としてその方角を護る

持国天(東)






増長天(南)






広目天(西)






多聞天(北)









手水舎



大師堂
本尊:弘法大師像



第二次世界大戦時、数多の焼夷弾が落とされたが、この堂の屋根を滑り落ち、堂内にいた避難者の全員が無事であったという



弘法大師(空海)は弘仁年間(810年 - 824年)四国巡錫の時、別宮に参拝して坊で法楽をあげたとされる






金毘羅堂
第二次世界大戦時、大師堂とともに空襲を免れた






薬師堂(瑠璃光殿)






弘法大師像



本堂
本尊:大通智勝仏
脇侍:観音菩薩立像と弥勒菩薩立像
巡礼者が多く、近づく事も写真を撮ることもできなかった



修行大師と本堂



撮影日 令和4年5月30日
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金光山 最勝院 国分寺<伊予国分寺>(愛媛県今治市国分4-1-33)

2022年08月26日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月30日

金光山 最勝院 国分寺<伊予国分寺>
四国八十八カ所第59番札所
真言律宗の寺院
天平13年、聖武天皇(在位724〜49年)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる



参道



鐘楼






正面に本殿



右に大師堂



大師堂
第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納
大師の弟子・真如(?〜862年)も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている



薬壺



握手修行大師像



手水鉢



白皮松(三葉松)



現在の日中関係のような感じかな……



本堂
伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる
 天慶2年(939年)「藤原純友の乱」により灰燼に帰した
 元暦元年(1184年)源平合戦の戦火による焼失
 貞治3年(1364年)南北朝時代 讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれる
 天正12年(1584年)長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失
本格的な復興は江戸時代後期からであった



寛政元年(1789年)に再建されたもの



本尊:薬師瑠璃光如来



「奉納額」には、安政2年(1855年)とある






門の前にベンチが置かれている



山号ではないし気になる




巡礼者のクループがきたので隣接している神社に移動した

春日神社(愛媛県今治市国分四丁目1番62号)
後冷泉天皇の永承5年(1050年)8月に国分寺第12世権大憎部雲海が国分寺の鎮守として春日神杜を勧請して寺内に杜殿を建立
城主加藤嘉明が、慶長16年(1611年)辛亥九月杜殿を再建



明治元年(1868年)4月、神仏分離の政令により合祀の仏体は別当国分寺に奉納した



狛犬









拝殿



本殿
祭神:天児屋根命(あめのこやねのみこと)
   比売大神(ひめのおほかみ)



石灯籠



社務所に駐車料金を支払う



本殿を後に駐車場に戻る



撮影日 令和4年5月30日
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石鈇山 金色院 前神寺(愛媛県西条市洲之内甲1426番地)

2022年08月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月30日

石鈇山 金色院 前神寺(まえがみじ)
四国八十八カ所第64番札所
真言宗石鈇派総本山の寺院
日本七霊山の1つ、霊峰石鎚山 (1982m) の麓に位置する
*富士山・立山・白山(三霊山)+大峰山・釈迦ヶ岳・大山・石鎚山



西日本最高峰石鎚山の7合目標高1400mにあり、発祥より千年法灯を守ってきた山岳寺院であった
江戸時代以降の変遷により、麓の西田(標高50m付近)に本拠を移す



狛犬






惣門
駐車場で雨が止むのを待っていたが、目の前を傘もささず、ずぶ濡れになって歩いて行く巡礼者の姿があった
その姿は神々しく感動すら覚えた。私も傘とカメラを持って車から出た



極楽橋
惣門をくぐって参道を進み左に折れて薬師谷川をわたる



更に進むと正面に大師堂が見えてくる
左手には庫裡・納経所がある



鐘楼堂



大師堂



空海(弘法大師)も2度石鎚山を巡鍚した
虚空蔵求聞持法や護摩修行、断食修行などを行ったことが知られている



全身真っ黒い大師像を祀る
不定期で拝観できるという



彫刻



屋根に鳥がとまっているのかと思ったら違っていた



善識上人像(左)と善堯上人像(右)



宗教家の風貌には威厳がある



金毘羅堂(小堂)



穴薬師(側面に掘られた祠)
右が「薬師如来」左が「地蔵菩薩」



修行大師像(レリーフ石像)



水子地蔵像



十三佛像(舟形石仏)



浄土橋
最初の橋が「極楽橋」だった
「極楽・浄土橋」と聞くと渡りたくなる



御滝不動尊
1円玉を投げて滝下の岩肌に張り付くとご利益があるといわれる



大師堂右の石段を登った場所にあり、滝打修行が行われていた



護摩堂
本尊:不動明王
毎月20日護摩が焚かれる



打出の小槌のようなものが3つ置かれている
石でできているので「石鎚」か……



薬師堂
本尊:薬師如来(秘仏)



屋根に注目



拡大してみた
京都の醍醐寺での僧の説明によると昔の人は屋根に金をかけたという



薬師堂(手前)と護摩堂(奥)



本堂
開創は、天武天皇(在位673~86)時代に修験道の祖「役行者小角」
石鎚山で修行を積んだ後、衆生の苦を救済するために釈迦如来と阿弥陀如来が石鈇山大権現となって現れたのを感得し、尊像を彫って安置し祀ったことに縁起する



その後、桓武天皇(在位781~806)が病気平癒を祈願し成就されたことにより七堂伽藍を建立し、勅願寺「金色院・前神寺」の称号を下賜された
以降、文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かった



江戸時代には、西条藩主 松平家の祈願所となり三つ葉葵の寺紋を下賜するなど寺運は隆盛を極めた
明治維新の神仏分離令により寺領を没収され、一時は廃寺を余儀なくされた



明治22年(1889年)に前神寺として復興をはたし真言宗石鈇派総本山として法灯を伝えている



本尊:阿弥陀如来
扁額には「無量寿」
<阿弥陀仏の寿命は無量である>



権現堂
石鈇山蔵王大権現を祀る。三体の権現像が毎月一度開帳され、加持される
2日前の金刀比羅宮の石段の疲労が残り、この石段を上がる気力がなかった(笑)




実は当初の目的は「前神寺」ではなく「石鎚神社 口之宮 本社」だった
朝からの雨で神社の駐車場で待機していた

小降りになったので外に出て「神門」を撮る



神像が天狗とは驚いた(初めての経験)
調べてみると「大天狗と烏天狗」のようだ












少し歩いたが本降りになったのと、本社までの距離を考え参拝を断念した
山頂への参道には「鎖の行場」で名高い試しの鎖、一之鎖、二之鎖、三之鎖がかけられている

撮影日 令和4年5月30日
コメント (2)
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七宝山 持宝院 本山寺(香川県三豊市豊中町本山甲1445番地)

2022年08月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月29日

七宝山 持宝院 本山寺
四国八十八カ所第70番札所
高野山真言宗の寺院
寺伝によれば、大同2年(807年)平城天皇の勅願寺として、空海が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊、阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したという
天保年間(1830年から1844年)に本山寺と改称された



境内図





仁王門<二王門>(重要文化財)
鎌倉時代後期建立
三間一戸八脚門の切妻造り
*側面の屋根、鬼瓦の表情、仁王門にあるハート形も見所とか



木造金剛力士立像(香川県指定文化財)












鎮守堂(香川県指定文化財)
天文16年(1547年)建立
江戸時代、天徳年間、さらに、昭和60年(1985年)に修復



檜皮葦屋根 五所権現を祀る



満蒙開拓団慰霊堂 奥殿 阿弥陀堂
昭和52年から、地元の開拓団遺族の方たちの熱意により慰霊堂として拝まれるようになる
当時の開拓団の生活を知る資料館としても保存



本尊:阿弥陀如来坐像(伝 釈迦如来)
近隣の阿弥陀院の本尊だったが、明治の神仏分離令廃仏毀釈により本山寺へ移された






和服姿の女性が参道を歩いていく
奥に見える国宝の本堂と和服の女性、いい雰囲気だ



洗心所



十王堂(登録有形文化財)
宝暦9年(1759年)建立。平成5年大修理完成
本堂の影響を受け、近世では珍しい寄棟造り



宝蔵護童子が迎えてくれる



向かって右手に十王像、左手に説法阿弥陀如来坐像、三面大黒天を祀る









五重塔(三豊市指定文化財)
明治43年(1910年)再建立。14年間の歳月を経て落慶に至る
礎石から相輪先端までの高さ31.75m



解体・保存修理(平成の大修復)が行われていて、各所に浄財のお願いの案内がある
四国八十八カ寺のなかで五重塔を擁するのは4ヵ寺と書かれている
偶然だがこれで全部回ったことになる



塔の下には工事用の囲いなどがあるため上部のみ
重要文化財なら国や県からの補助金があるが、そうでないので費用捻出に苦労があるようだ



美しい塔だ



本堂(国宝)
正安2年(1300年)に京極氏と佐々木氏の寄進によって再建された



桁行(正面)五間、梁間(側面)五間の寄棟造、本瓦葺









賓頭盧尊者






本堂と五重塔



神馬



大師堂(登録有形文化財)
寛政7年(1795年)建立 昭和62年大修理完成。入母屋造り



扁額には「弘法大師」
弘法大師坐像。八祖大師、十大弟子を祀る






鐘楼(登録有形文化財)
17世紀末建立。入母屋造り
戦時中に金属供出によって取られ、戦後の昭和24年に再鋳造された



弘法大師と五重塔



撮影日 令和4年5月29日
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七宝山 神恵院(香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号)

2022年08月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月29日

七宝山 神恵院(じんねいん)
四国八十八カ所第68番札所
真言宗大覚寺派の寺院

開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれている
大宝3年(703年)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見
琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀った
大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、後に院号を「神恵院」とし、六十八番霊場とした



2つの札所が同じ境内に存在する、珍しい霊場



大師堂
元の本堂(現 薬師堂)横にあった神恵院大師堂は台風で失われたため、十王堂の右半分が大師堂になっている






本堂入り口
コンクリートの建造物で違和感がある



本堂
平成14年(2002年)の大師堂改修に併せて、現在地に本堂を移築した



巡礼者の邪魔にならないように待つ



堂内



本尊:阿弥陀如来



撮影日 令和4年5月29日
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七宝山 観音寺(香川県観音寺市八幡町1丁目2番7号)

2022年08月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月29日

七宝山 観音寺(かんおんじ)
四国八十八カ所第69番札所
真言宗大覚寺派の寺院
市名は「かんおんじし」であるが、寺名は「かんのんじ」である

仁王門



境内図
68番札所神恵院(じんねいん)と同じ境内にある



仁王像












仁王門からの眺望



閼伽井



鐘楼
石段を上がる途中に鐘楼内の彫刻が見えてくる



四隅に龍を配し、天井一面に渦巻く雲海模様が彫られている



扁額の文字は「醒夢」



衝撃的な彫刻でカラフルさで驚いた「成田山新勝寺の鐘楼」を思い出した



本堂<金堂>(重要文化財)
*重要文化財指定名称は「観音寺金堂」
伝承によれば、創建は大宝年間(701年 - 704年)法相宗の日証上人による



本堂は、観音寺金堂とも呼ばれ、元あった東・西・中の三金堂の内の中金堂であり、平安時代初期に建立された



現在の建物は、大永5年(1525年)12月の再建
昭和36年(1961年)に解体修理



本尊:聖観世音菩薩
脇侍:釈迦如来、薬師如来



「観音堂」の額





大師堂
寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年 (807年)空海(弘法大師)が第7世住職として入山



奈良の興福寺を模して、中金堂に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、薬師如来を納めた西金堂や弥勒菩薩を納めた東金堂など七堂伽藍を整備
さらに、仏塔を建てて瑠璃・珊瑚・瑪瑙などの七宝を埋め地鎮したことから、名称も「七宝山観音寺」と改めたという









愛染堂






大楠から愛染堂と大師堂を見る



五智如来石像









案内によると石段上に薬師堂があるようだ



石段途中に十三重石塔



薬師堂
元神恵院(68番札所)本堂で、西金堂である薬師堂



本尊:薬師如来坐像、向かって右脇には胎蔵大日如来坐像









心経殿



経塚堂



本堂には巡礼者が絶えない



撮影日 令和4年5月29日
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常徳寺(香川県三豊市仁尾町仁尾丁930)

2022年08月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月29日

常徳寺
臨済宗妙心寺派の寺院
重要文化財を擁するということで訪れた
ナビの案内する道路はとても車が通れるような道ではなかったので近くにいた女性に道を尋ねた
その女性が近くの家の男性に声をかけ、寺の場所を確認することができた



鐘楼
この日は朝から天気がよく、鐘楼門の下に車を駐め日差しを避けていたので上部だけ






本堂
この寺に関する資料がなく、ネットで検索しても境内にある説明文が掲載されているのみ
この建物が本堂であるかどうかも定かではない



「絹本著色八相涅槃図」について



よく整備された境内の奥に、それらしき建物が見えてくる



圓通殿(重要文化財)
建立は応永8年(1401年)でその後文明元年、宝永2年、天保12年に修理が行われている



桁行三間、梁間三間、入母屋造り、本瓦葺きで軒は二軒繁垂木






禅宗様式仏殿として四国唯一の貴重な建物
本尊:聖観音






扁額の文字だが残念だが読めない






柱は凡て円柱で上、下に粽を施し石の上に建ち、禅宗様の特色を示している



背面に回ってみる






再び本堂を横から






屋根の置物



境内は綺麗に整備されている












撮影日 令和4年5月29日
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金刀比羅宮 その2(香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1)

2022年08月20日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月28日

金刀比羅宮 その2

賢木門(さかきもん)
「賢木門」(さかきもん)はその昔「逆木門」と書いた
長曽我部元親により献納されたが、建築の際に一本の柱が逆さまに取り付けられてしまい、「逆木門」(さかきもん)と名付けられた
賢木門から御本宮まであと143段



明治12年(1879年)の改築の際に、「逆」の字を嫌い「賢木門」と書くようになった
「賢木門」の扁額は、有栖川宮熾仁親王殿下の筆



遙拝所



遙拝所は、伊勢神宮や皇陵を遙拝する所。神籬殿と拝殿からなる
遙拝所から御本宮までまであと132段



鳥居をくぐると二つの道に分かれる
右に進む階段は一方通行で御本宮へと続く



真須賀神社



八俣大蛇退治の天叢雲剣の神話に登場する勇武絶倫の神様で、大国主神の御祖神
真須賀神社から御本宮まであと133段



御前四段坂
御前四段坂は、133段の石段
各数十段の4段階になっている



石段左横に「あと少し。御本宮まであと133段! 登って幸せ。福が来る!」
多くの参拝者はこの言葉を口ずさみ登って行く



社殿が見えているのに実際登ってみるとなかなか足が進まない
年齢と運動不足を感じさせる石段だ(汗)



御年神社






事知神社






所要時間約30分が普通だそうだが、倍御本宮以上の時間をかけて登ってきた



御本宮
御本宮は、石段785段目、海抜251mに鎮座



祭神:大物主神と崇徳天皇
古来から農業・殖産・医薬・海上守護の神として仰がれている



ベンチで休憩し重い腰をあげる



神饌殿
本殿の向かって右、入母屋造・檜皮葺。神饌を調進する所
*本宮の神饌殿の右の北透垣の奥にある鳥居が本宮エリアから山頂への上り口



神饌殿と拝殿をつなぐ回廊(北渡殿)



本殿は、明治11年(1878年)の再建。桧皮葺・大社関棟造






本殿内は撮影禁止のため、ここまで
「第60回掃海殉職者追悼式」に参列していた多くの自衛官も参拝していた



レンズキャップを落とした際、制服組の上官が素早く拾ってくれた
この日、私は海上自衛隊の帽子を被っていた



展望台
御本宮の前の広場は展望台になっている
讃岐平野の向こうに瀬戸大橋や讃岐富士などを一望できる






神木の楠から御本宮を見る



南渡殿、直所、本殿、拝殿



南渡殿は、本宮と三穂津姫社をつなぐ約40mの回廊



三穂津姫社



拝殿は、檜皮葺・大社関棟造



「三穂津姫社」の額



本殿は、明治9年(1876年)の造営。檜皮葺・王子造
祭神:三穂津姫神



御炊舎
明治7年(1874年)建立



神楽殿



下向道(一方通行)



急石段で注意を要する



大山祇神社






旭社(重要文化財)
本宮を参拝した後に参拝するのが習わしだという



清水次郎長(山本長五郎)の代わりに参拝し、預かった刀を奉納したと伝えられる「森の石松」は、
あまりの豪華さに本殿へ行かず、ここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられる



神仏分離以前は「金堂」であり薬師如来と十二神将を金毘羅大権現として鎮座していた












正面



扁額には「旭社」



楼上の額「降神観」は清朝の書家 王文治の筆



屋根裏の装飾も凄い



参拝者には若者の姿が多い



表書院(重要文化財)



重文の表書院内は円山応挙の障壁画で飾られている(拝観料800円)
90面は重要文化財に指定されている(保護ガラス越しの拝観)



神馬(月琴号)












こんぴら狗
江戸時代、庶民は旅行を禁止されていたが、神仏への参拝の場合はその限りでなかった
「お伊勢参り」と並び「丸金か京六か」と言われ、讃岐の金毘羅大権現と、京都六条の東西本願寺への参拝の旅も人生の一大イベントだった
当時、東日本の各地からこれらの社寺への参拝の旅は大変なことで、当人に代わって代理で参拝に行くことがあり、これを「代参」といった



実は、代参をしたのは“人”だけではなかった
「こんぴら参り」と記した袋を首にかけた犬が、飼い主の代参をすることもあった
袋には、飼い主を記した木札、初穂料、道中の食費などが入っていた
犬は、旅人から旅人へと連れられ、街道筋の人々に世話をされ、目的地にたどり着いた






撮影日 令和4年5月28日
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金刀比羅宮 その1(香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1)

2022年08月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月28日

金刀比羅宮 その1
〝こんぴらさん〟の名で親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう)の御本宮は、琴平山(別名「象頭山」)の中腹に鎮まる

足腰が大丈夫なうちに訪れてみたいと思っていた
駐車場は満車状態、コロナ禍でも参拝者は多い



1段目
表参道から御本宮までの石段は全785段、片道30分ほど
土産物屋、うどん屋、旅館などが並ぶ門前町の通りから石段は始まる



狛犬







一之坂
113段目から大門までは特に急な石段とな り「一之坂」と呼ばれる
一之坂から御本宮まであと672段



灯明堂(重要有形民俗文化財)



安政5年(1853年)、備後国因之島浦々講中の寄進により、船の下梁を利用して建てられた
灯明堂の中には、夜の参道を照らす多数の「釣燈籠」が吊り下げられている



琴陵宥常銅像
第19代宮司 琴陵宥常(ことおかひろつね)<1840-1892>の銅像



琴陵宥常が創立した帝国水難救済会の30周年記念として、昭和2年(1927年)に建てられた
琴陵宥常銅像から御本宮まであと497段



戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる
偶然だったがこの日が(平成23年5月28日)「第60回掃海殉職者追悼式」当日だった
全国から7家族15名の遺族をはじめ約200名の来賓、海自制服姿の海上幕僚副長以下掃海部隊乗員ら関係者が参列した



金刀比羅本教総本部
金刀比羅大神様を主祭神とし、教祖立教の志を頂き、全国で信者を教化育成する教師の講習会などを開催している
金刀比羅本教総本部から御本宮まであと434段









鼓楼及び清塚



造りが城に似ていることから「琴平城」とも呼ばれている
中にある「時太鼓」は今も朝夕に打ち鳴らされる



大門
大門は金刀比羅宮の総門
水戸光圀の兄である讃岐国高松藩主 松平頼重から寄進された
大門から御本宮まであと420段



楼上に揚げられた「琴平山」の額は、有栖川宮熾仁親王殿下の筆






随身像



日本の神道において、神を守る者として安置される随身姿の像



門をくぐると鎌倉時代から特別に境内での営業を許された五軒の「五人百姓」が加美代飴を売っている



鳥居の額には「金刀比羅宮 」



桜馬場
大門から150m程続く石畳の道は、桜馬場と呼ばれる
春、爛漫に咲いた桜が道の両側から枝を交えるお花見の名所
桜馬場から御本宮まであと415段



鳥居
鳥居前に広場があり散策してみる



神馬である月琴号・ルーチェ号の2頭の馬がいる(帰りに寄る)



表書院(重要文化財)には円山応挙の障壁画(帰りに寄る)



木馬舎
慶安3年(1650年)讃岐国高松藩主 松平頼重から献納された
木馬舎から御本宮まであと285段



木製の等身大の馬が一頭



木馬は京師田中環中斎弘教宗圓の作



出発する前に階段の傾斜を見て覚悟を決める



狛犬






ここから本格的な上りとなる



祓戸社(はらえどしゃ)






火雷社(ほのいかづちしゃ)






旭社(重要文化財)
祭神は、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・天照大御神・天津神・国津神・八百万神
旭社から御本宮まであと157段



高さ約18メートルの社殿は、40年の歳月をかけて天保8年(1837)に竣工



社殿を眺めながら20分程木陰のベンチで休憩、持参した飲み物も空になった



次回に続く

撮影日 令和4年5月28日
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屏風浦五岳山 誕生院 善通寺 その2<西院>(香川県善通寺市善通寺町 3-3-1)

2022年08月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月28日

屏風浦五岳山 誕生院 善通寺 その2<西院>
四国八十八カ所第75番札所
真言宗善通寺派総本山
和歌山県の高野山、京都府の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられる

総面積約45,000㎡に及ぶ広大な境内は、「伽藍」と称される東院、「誕生院」と称される西院の東西二院に分かれている
金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域
御影堂を中心とする「誕生院」は、弘法大師が誕生した佐伯家の邸宅地にあたる

仁王門(登録有形文化財)
西院(誕生院)の正門
現在の建物は明治22年(1889年)の再建



「遍照金剛閣」の扁額



仁王像(金剛力士像)






金剛力士像は南北朝時代・応安3年(1370年)の製作






参拝者にとって仁王門は一礼して通過するだけで仁王像に注目する人は少ない
仁王像とにらめっこをして写真を撮っている姿が異常に見えるのか視線が気になる(笑)
<他の寺では職務質問を受けたこともある>






観智院 (塔頭寺院)
大同2年(807年)弘法大師の創建






本尊:十一面観音菩薩は子安観音



弘法大師像



親鸞堂
昭和28年(1953年)建築
浄土真宗の開祖、見真大師親鸞を祀る






木造の親鸞坐像(別名:鎌田の御影)が安置されている
親鸞聖人の師である法然上人が参詣した善通寺に自らも訪れたいという願いを果たせず、その願いを込めこの木像を送られたと伝わっている



護摩堂(登録有形文化財)
現在の建物は昭和15年(1940年)の落慶
不動明王坐像を安置し、その正面に護摩壇を設けており、諸願を祈祷する「護摩」の修法が行われる



訪れた28日はお不動さまの縁日で護摩堂ではその準備が行われていた






興味があったので覗いてみようかと思っていたが、信仰心がない者が居ても迷惑かと思い止めた



閻魔堂
昭和33年(1958)再建



閻魔王など13体は宝永2年(1705年)北川運長によって製作



鐘楼



ほやけ地蔵堂
昭和15年(1940年)建築



「地蔵堂」の扁額



ある人が子供の頬やけ(あざ・やけどの痕)の治癒をこの地蔵菩薩に3年間お願いしたところ、きれいにとれた
このことが評判となり、あざや病気の平癒に功徳のある「ほやけ地蔵」として信仰を集めることとなった



地蔵堂の周囲に並ぶ多くのユニークな地蔵尊






ここでも自分に似ているものを探した(笑)



御影堂<大師堂>(登録有形文化財)
御影堂のある誕生院は、弘法大師空海が生まれた佐伯家の邸宅跡に建てられた寺院
江戸時代まで独立した寺院として善通寺全体を監督、管理していた
現在の建物は天保2年(1831年)の建立



「御影」とは、真言宗では弘法大師空海の姿を指し、御影堂奥殿の厨子内には秘仏「瞬目大師(めひきだいし)像」を祀る



「弘法大師御誕生所」とされている



御影の松



稚児太子



国鉄四国総局殉職者慰霊碑「聖観世音菩薩」



聖天堂
現在の建物は、平成16年(2004年)に上棟・再建されたもの



歓喜自在天を祀る



遍照閣
昭和59年(1984年)の弘法大師1150年御遠忌の事業の一環として建立された研修道場
昭和61年(1986年)3月に落慶法要






パゴダ供養塔(ビルマ戦没者慰霊塔)
昭和45年(1970年)8月15日建立



正覚門
昭和53年(1978年)建設






救済橋
昭和53年(1978年)建設
駐車場利用者はこの橋が入口となる




撮影日 令和4年5月28日
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屏風浦五岳山 誕生院 善通寺 その1<東院>(香川県善通寺市善通寺町 3-3-1)

2022年08月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月28日

屏風浦五岳山 誕生院 善通寺 その1<東院>
四国八十八カ所第75番札所
真言宗善通寺派総本山
和歌山県の高野山、京都府の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられる

総面積約45,000㎡に及ぶ広大な境内は、「伽藍」と称される東院、「誕生院」と称される西院の東西二院に分かれている
金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域
御影堂を中心とする「誕生院」は、弘法大師が誕生した佐伯家の邸宅地にあたる

南大門(登録有形文化財)
南大門は、東院(伽藍)の南に位置する善通寺の正門
現在の建物は日露戦争戦勝を記念して明治41年(1908年)に再建されたもの
高麗門と呼ばれる形式で造られており、高さは9.7m



善通寺の山号である「五岳山」の扁額



境内図(東院)



境内図(西院)



五重塔(重要文化財)
基壇から相輪までの高さが約43mの五重塔は、国内の木造塔として3番目の高さを誇る
創建以来いくたびかの倒壊、焼失により再建を繰り返し、現在の五重塔は、4代目となり明治35年(1902年)に完成した






密教思想の中心的存在である五智如来(五仏)が安置されている



一般的な木造多層塔とは異なるふたつの特徴
1 五層、すべての階の天井が高くつくられ、人が立って歩けるようになっている
2 善通寺の五重塔の心柱は、地面(基礎の礎石)から浮いている「懸垂工法」



毎年、ゴールデンウィークには1階と2階の内部が特別公開されている



法然上人逆修塔
逆修塔とは、死後の往生をねがって生前に自らが建立するもの
法然上人は讃岐に配流になった際、敬慕する弘法大師空海の誕生地である善通寺に参詣した



足利尊氏利生塔(善通寺市指定文化財)
尊氏・直義が、暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念
国ごとに一寺・一塔の建立を命じたことに由来する多層塔



五百羅漢
東院の塀の内側に五百羅漢が安置されている






近くにあったものから自分に似ているものを探した(笑)



釈迦堂(登録有形文化財)
現在の建物は江戸時代・延宝年間(1673~1680)建立で、もとは西院(誕生院)の御影堂



天保2年(1831年)の御影堂新築にあたり現在の場所への移転された



仏教の開祖である釈迦如来と十大弟子を安置している
木造釈迦如来坐像は江戸時代の製作(作者は未詳)



金堂(重要文化財)
創建期の建物は、永禄元年(1558年)の兵火によって焼失し、元禄12年(1699年)に再建されたもの






善通寺の本尊:薬師如来坐像
御室大仏師・北川運長の製作で、元禄13年(1700年)に完成
像高は3m 桧材による寄木造






上層の「大宝楼閣陀羅尼」の額は有栖川宮幟仁親王の筆






鐘楼



佐伯祖廟
弘法大師の父・佐伯善通卿「佐伯明神」と母・玉寄御前「玉寄明神」を祀っている






東院遠景(左から 金堂・釈迦堂・五重塔)



東院から西院に向かう(次回に続く)



撮影日 令和4年5月28日
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丸亀城(香川県丸亀市)

2022年08月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月27日

丸亀城(別名:亀山城)
現存12天守のうちの一つ
<弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・松山城・宇和島城・高知城>
標高約66mの亀山に築かれた平山城で、別名「亀山城」と呼ばれている

駐車場に車を駐め3分ほど歩くと、遠くに城の姿が見えてくる



丸亀城の石垣は、築城技術が最も発達した時に築かれた



大手二の門(重要文化財)
正面上には天守、入って右には「一の門」がある



二の門の「門扉」



大手一の門(重要文化財)



「大手枡形(ますがた)」
城の出入り口である虎口を石垣や土塁で囲った広場のことを枡形という
敵が直進できないように二つの門を直角に配置している



丸亀城大手枡形は右折れで、櫓門の上から敵に矢を射ることを想定している



この石垣は「切り込みハギ」で石を削り精加工した石を用い、石の合わせ口を精巧に隙間なく積んでいる



「幸運心石」



意図はミエミエだがつい撮ってしまう自分がいる(笑)



この後、丸亀城内観光案内所にて「案内絵図」をいただき、ルートについての説明を受ける

石垣の美



頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」と呼ばれる石垣
城内には「野面積み」「打ち込みハギ」「切り込みハギ」を用いた石垣が見られる



丸亀城築城にまつわる伝説
<丸亀城人柱伝説>
丸亀城築城の際、石垣の工事が難航したため、人柱を立てることとなった
雨が降る夕暮れ、工事現場付近を通り掛かった豆腐売りが捕えられ、無理矢理に人柱として生き埋めにされてしまった
豆腐売りは雨で豆腐が売れないため、普段は通らない城の付近を偶然通り掛かったのであった
その後、石垣の工事は完成したが、それ以来、雨が降る夜にはその石垣の辺りで「とーふー、とーふー」という豆腐売りの声が聞こえて来たという

丸亀城の石垣は、割って加工された石を積み上げた「打ち込みハギ」という組み方が多い



丸亀城築城にまつわる伝説
<二の丸井戸の伝説>
丸亀城築城の折り羽坂重三郎という男がいた。彼の働きもあって壮麗な石垣が完成した
殿様も「この城壁ならば飛ぶ鳥以外は乗り越えられまい」とご満悦であった
何を思ったのかその男は「鉄の棒で登れます」とすいすい城壁を登ってしまった
そんな男が敵に寝返ったら大変だと恐れた殿様は、二の丸井戸の内部を探させる口実で
男を井戸に入らせている間に石を投じて殺してしまった



見返り坂
大手門から山上に向かう山道
不思議だが坂の名の通り振り返ってしまう



高浜虚子の句碑
「稲むしろあり 飯の山あり 昔今」 



この「見返り坂」結構辛い(汗)



三の丸「隅櫓跡」
高所恐怖症の私には嫌な場所だが……



やはり、先までは行けなかった(冷汗)
正面に見えるのは「讃岐富士(飯野山)」






石垣崩落
平成30年 三の丸坤櫓跡石垣の帯曲輪南面(7月)と帯曲輪西面(10月)が崩落した



修復しなければならない石垣は約6,000個で、令和6年3月末までの5ヵ年での復旧を目指しているという



過去に小規模の石垣修復作業を見たことがあるが、一つ一つの石に番号が書かれ元の場所に戻すという
下には沢山の石が置かれているが同じような作業が行われるのだろう



それにしてもこのクレーン車の高さは凄い



高さ日本一の石垣
現在地である「三の丸」の石垣の高さは50.5m 「二の丸」は58.6m 「本丸」は66.3m






左側の石段を上がり天守を目指す






丸亀城の美しさは大手門側からが一番だと思う



本丸に到着した
気温は高かったが風があって気持ちがいい
周囲を歩きながら呼吸を整える






丸亀城天守(重要文化財)
唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られ高さは15mあり、現存天守の中で最も小規模
城跡の全域は国の史跡に指定されており亀山公園となっている



城内に入る(200円)

石落とし・狭間



燧梁(ひうちばり)
隅柱の左右に添端を建て、柱頭に梁をかけて堅牢な構造にしている



京極家をめぐる戦国の人びと
万治元年(1658年) 播磨国龍野より京極高和が6万石で入封。以後、明治時代まで京極氏の居城となる
京極家といえば、浅井三姉妹の次女「初(常高院)」が出てくる



太鼓壁
長押(なげし)の高さまで壁を厚く塗り、防御を固めている



高さ15mとなる三層三階造りの最上階



大砲狭間



国宝丸亀城天守閣修理工事修理銘板
昭和25年の修理時のもの






天守からの眺望



急な階段を下りる



現存12天守を巡る旅も目標の一つにしている(残り3城)



撮影日 令和4年5月27日
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神谷神社(香川県坂出市神谷町621)

2022年08月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月27日

神谷神社(かんだにじんじゃ)
本殿が国宝に指定されていると知り訪れた

創建について社伝では
弘仁3年(812年)に空海の叔父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)が社殿を造営し、相殿に春日四神を勧進したと伝える

鳥居



鳥居も額も石造で社号の「神谷神社」と刻まれている



手水舎



漱盤と刻まれた鉢(お参りの時に口を漱ぐ水を入れる鉢の意)
(写真上部に)境内図があるのを今知った



狛犬






拝殿
昭和2年(1927年)大晦日の夜に、燈明の火が拝殿に引火するという火事が発生した
拝殿は焼亡したが、住民が焼け落ちる拝殿を本殿の反対側に引き倒したため、本殿は難を逃れた



現在の拝殿は昭和3年(1928年)より昭和5年(1930年)にかけて再建されたものである









本殿(国宝)
鎌倉時代初期の建保7年(1219年)に荘官の刑部正長により旧本殿より再建された三間社流れ造りの社殿



建造年の明らかな神社建築としては日本最古であり、国宝に指定されている



祭神
火結命 (ほむすびのみこと)
奥津彦命 (おくつひこのみこと)
奥津姫命 (おくつひめのみこと)



社殿裏手約50mの地には、「影向石」と呼ばれる巨岩が立つ
当地では古代に磐座として祭祀が行われていたという






収蔵庫



木造随身立像 2躯(重要文化財)などが収められている



観光バスでは道路が狭く社殿の傍までは来ることができない
近くに民家があり離合不可の生活道路を何度か譲ってもらいながらの参拝であった



撮影日 令和4年5月27日
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