今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

福知山城(京都府福知山市字内記)

2022年09月19日 | 
訪問日 令和4年6月4日

福知山城
福知山城は丹波国を平定した明智光秀によって築かれた城
(横山城を石垣づくりの城として改修)
江戸時代には福知山藩の居城



駐車場からはこの橋を通って城内に入る



織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた
豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った
丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした



天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が昭和61年(1986年)に復元された









石垣の転用石



五輪塔・宝篋印塔・石仏・石臼・灯籠などが利用されている









美しい石垣だがよく見ると「転用石」が使われていることが分かる









銅門(あかがねもん)番所









城の周辺を散策する(石垣を注視してしまう)






「野面積み」「乱石積み」と呼ばれる未加工の自然石が積み上げられている



この石段を上がり城内に向かう



鉄砲石






城内に入る
福知山市郷土資料館の施設となっている

「明智軍記」から抜粋
左ページ1行目
光秀が愛宕百韻で詠んだ「トキハ今 アメガ下知るル五月哉」



「山崎の戦い」



「光秀辞世の句」



木造明智光秀坐像(日下寛治 1959年作 )



「絵本豊富勲功記」より抜粋
「内助の功の図」



「信長嫌て光秀を打擲する図」
快川紹喜が燃え盛る三門の上で「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と喝破したことに感銘を受け恵林寺を訪れたことがある



信長が光秀を打擲する場面との結びつきを思い出すことができた



「三宅藤兵衛 光秀が生害を止める図」







天守閣で将棋の「竜王戦」の対局が行われた






将棋界も顔ぶれが変わり、藤井聡太へ



天守閣からの眺望






豊磐井(とよいわいのい)









いつもは北海道に帰るために舞鶴港へ向かう通過点であったが立ち寄ることができてよかった



撮影日 令和4年6月4日
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竹田城(兵庫県朝来市和田山町竹田)

2022年09月16日 | 
訪問日 令和4年6月4日

竹田城(別名:虎臥城)
平成25年11月に一度訪れたことがある
GoogleのCMで竹田城跡が取り上げられることにより、観光客が約60万人に激増した時期である
当時書いたブログの一部だが
朝の7時半頃には竹田城へと続く道にたどりついたが、車が渋滞していてというよりまったく動かない
Uターンできる場所もなく、反対車線に入り強引に引き返した

車中泊した道の駅から近かったこともあり、現在はどのような状況なのか確認したくて立ち寄った



駅内にある観光課の女性に話しを聞き、立雲峡(城の南東)を目指すことにした
以前は狭い砂利道の山道で危険回避のためタクシーを利用した場所である
現在は舗装され道幅も広く快適に走れるようになっている

環境整備協力金300円を納め山道を歩く



運動不足で直ぐ呼吸が苦しくなる
すると、休息するのにふさわしい岩が現れる



「立雲峡」には3つの展望台がある



第3展望台は下から眺める場所にある(写真右下に町並み)






第2展望台は目線と同じ高さで



単調なので木の枝を入れてみた



第1展望台は見下ろす場所にありここから15分ほど上る
迷ったが15mほど歩いたところで行くのを止めた



戻った場所の駐車場に素晴らしい写真があったので撮して気分を味わった
雲海に浮かぶ城跡を眺める事も出来る条件は
 日本海に高気圧の中心があり、よく晴れている
 朝方と日中の気温の差が大きい
 風が無い、または弱い
 但馬南部地方の濃霧注意報が参考になる




平成25年(2013年)に訪れた時の写真である
この日は雨模様で雲が多く発生していた
タクシーの運転手に「天空の城」が撮れるスポットに案内を頼んだ






車で行ける場所は竹田城と同じ高さの場所で、その運転手は写真の撮れる場所まで案内してくれた



その場所から望遠レンズで撮ったものだが雲が多く何も見えない



とりあえず「ここに来た」という証拠に撮ってみた
運転手の話では写真を撮る人たちは前日の夜から陣取っているという




撮影日 令和4年6月4日(平成25年11月16日)
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姫路城(兵庫県姫路市本町)

2022年09月15日 | 
訪問日 令和4年6月3日

世界遺産 姫路城(別名:白鷺城)
この日の朝には予定していなかったが急遽変更し姫路城を選択した
朝にタイヤがバーストしてホイールにも傷が入り応急処置はしてもらったが不安があったので人の多い場所を選んだ






2年前に5つある国宝の城廻りを終えたが、最後が姫路城だった
国宝に指定された古い順だと、姫路城→松本城→彦根城→犬山城→松江城となる
日本最古の天守は丸岡城。日本三大名城となると、名古屋城・熊本城・姫路城のようだ



池田輝政が築いた姫 路城は、全体がらせん式の縄張りになっていて、内曲輪、中曲輪、外曲輪に分けられている
その面積は約233㌶。甲子園球場の約60倍の広さを持つ



右側が本丸で



左側が西の丸



撮影場所を探して歩いていると、多くの小学生が絵を描いている場所があった



子供達の感性は鋭い、その場所から撮ってみた



有料場所に入城する
要所要所にガイドがいるが外国人だった
これまでも寺院で外国人から説明を受けたことがあるが不思議な感覚だ



前半は石垣を中心に












「姥が石」という伝説が姫路城に残っている
羽柴秀吉が3層の天守を持つ姫路城を築いたとき、 石垣の石が集まらず 困っていた



秀吉に、城下で焼きもちを売る老婆が、店にあった古い石臼を「せめてこれでもお役にたてれば」と献上
この話がたちまち城下の評判になり、人々が競って石を寄進したという



城内では各階に案内板があるが、ガイドに話しを聞く方が楽しい



「東大柱」
姫路城大天守の東西の心柱は、築城当時は東が樅(もみ)の1本材、西は3階床上部分で2本継ぎされていた



多くの城の階段は狭くて急だが、姫路城は比較的楽だ
この上りの階段は築城当時のもので、下りは昭和の時代に設置されたもの



ガイドから案内された普段はあまり注視しない階段の裏話し
この手すりの部分だが高度な匠の技術が使われているという
釘を使わずに造られている(匠の技)
よく見ると確かに凄い木組みになっている



最上階にある神社
「刑部神社」は姫路城が姫山に築かれる以前より、姫山にあった「小刑部宮」という
地元の人たちの信仰の対象となっていた地主神を祀ったもの



額には「刑部大神(おさかべおおかみ)」
火災・災害などの災いの神として崇められている



最上階のガイドは若い男性で普段通り過ぎる場所に案内してくれた
この写真も何かあったのだが忘れた(金具がハート型に抜かれていることだったか)



木に穴が空いた時など、埋木という技術で修復するがここにも匠の技が……



この星形が一番高度な技術だという



これは男性器だが、どの時代にも洒落た男がいるものだ
各所に花などもあり探すと楽しいものだ



鯱も間近で見ることができる
遠くから観ると真っ白な城だが実際は灰色部分も多く、白の漆喰部分だけが見えているようだ



この場所にあるベンチで休んでいると老齢の女性から写真を頼まれた
千葉県から孫の運動会を見に来たという
話しを聞くと亡くなった姉の家の近くに住んでいるということがわかり話しが盛り上がった



撮影日 令和4年6月3日
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弘前城(青森県弘前市下白銀町)

2021年09月17日 | 
訪問日 令和3年6月10日

弘前城<別名:鷹岡城、高岡城>
この日の朝に決めた予定では、弘前城は入っていなかったが、市内を走っているうちに気持ちが変わった



前回は「津軽藩ねぷた村」の駐車所を利用、今回は弘前工業高校周辺の駐車場を利用した
工業高校口の「埋門(うずみもん)跡」から入る(現在位置)



弘前公園内で絵を描いている女性
長閑な風景だ






蓮池



濠の風景も美しい



二の丸南門(重要文化財)
築城時の姿で現存する5棟ある門の一つ









「埋門跡」から目指す天守は近いと聞いていたが、その姿は見えない
またまた方向音痴の本領発揮



伯爵 津軽義孝 篆額



弘前市立博物館



辰巳櫓(重要文化財)
二の丸の現存櫓3棟のうちの一つ






三の丸追手門(重要文化財)



弘前城植物園



杉の大橋
南内門外の大橋。名称は杉材を用いた橋ということから付けられた






未申櫓(重要文化財)









迷ってここまで来たが天守は見えない
疲れたので東屋で休憩し、誰か人が来たら尋ねようと思っていた



園内には明治36年(1903年)以降、桜の植樹が行われ、現在では約2,600本を数える






鷹丘橋
南の端から来たまで歩いてきたようである



遠回りをしたようだが天守は近いと通行人に聞いた
以前、中央高校口から入った時には石垣が多く見ることができたが、今回は初めて目にする石垣となる



石垣が好きな人生の大先輩がいて、城では石垣を探して撮るようにしている



弘前城天守(重要文化財)
工業高校口の「埋門跡」から約1時間(通常10分弱)も要して目的の場所に着いた(笑)



現存12天守に数えられる内の天守1棟



最初の天守は、鷹岡藩2代藩主の津軽信枚により慶長14年(1609年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物
寛永4年(1627年)9月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した



大爆発して焼失した天守の代用として、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた
往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていた



外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いている



一方で、内側である西面と北面には破風を全く付けずに連子窓を単調に並べただけ
いわゆる「二方正面」である






城内に入る「石落とし」



駕籠(男乗物)






屋根瓦には寒冷地のため銅瓦を葺いている



弘前城から見える岩木山



桜のトンネル



撮影 令和3年6月10日
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新発田城(新潟県新発田市大手町)

2021年09月02日 | 
訪問日 令和3年6月5日

新発田城
新発田市は、学生時代に寮生活で同室だった朋友の出身地でもあり往時を思い出す
別名、菖蒲城(あやめじょう)
初代新発田藩主溝口秀勝が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直のときに完成した

旧二の丸隅櫓(重要文化財)
駐車場から歩いてくると最初に目に入ってくるのが「旧二の丸隅櫓」



石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる技法
白と黒が美しい海鼠(なまこ)壁で仕上げられている



新発田城は山城と違い、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城



堀部安兵衛武庸(たけつね)像
高田馬場の決闘で名を馳せた、赤穂浪士四十七士の一人が何故と思った
調べてみると、寛文10年(1670年)越後国新発田藩 溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として誕生している
武庸が13歳の時、父は溝口家を追われて浪人となる
浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという



19歳になった武庸は、江戸へ出て、堀内正春の道場に入門
天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれた
その後、あの有名な高田馬場の決闘後、赤穂藩へ仕官することとなった



本丸表門(重要文化財)



享保17年(1732年)に再建された現存の櫓門
城内に入る



橋からの眺め



初代藩主・溝口秀勝の銅像
尾張国の出身で慶長3年(1598年)に豊臣秀吉の命により加賀国大聖寺から新発田に入封した
入封当時の藩領は未開墾地だったが、治水と新田開発に努めた結果、美田広がる蒲原平野へと生まれ変わった



上杉景勝と戦って滅びた新発田氏の館跡に築城を開始
入封から56年後の承應3年(1654年)3代宣直の時に完成した






表門の内部に入る






2階に格子窓を設けている



門の真上の床を外して石落しとする構造になっている






櫓の外壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、白と黒が美しい海鼠壁(なまこかべ)で仕上げられている






旧二の丸隅櫓(重要文化財)
層塔型2重2階の移築現存の二重櫓
二の丸北部にあったのを本丸鉄砲櫓の跡に移築されたため旧二の丸隅櫓という名称になった



1階



階段



2階



旧本丸跡






辰巳櫓
かつて、堀部安兵衛の父(中山弥次右衛門)が辰巳櫓の管理責任者
櫓の失火責任を負って浪人となった






礎石が展示されていた



城郭跡の大部分は日本軍解体まで陸軍が置かれていたこともあり、現在も陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている



自衛隊の敷地内にある三階櫓の内部は公開されていない



辰巳櫓






この日、新発田市では東京五輪の聖火ランナーの準備に追われていた
数台の警察車両のために主要な駐車場が閉鎖されている
新発田城近くの駐車場が使用できなくなり困っていたら地元の女性に空いている駐車場を案内していただいた
とても親切な女性のおかげでいったん諦めかけていた城を目指すことができた(感謝)



撮影 令和3年6月5日
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伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内)

2021年06月21日 | 
訪問日 令和3年5月21日

伊賀上野城(白鳳城)
この日も、終日雨予報ということもあり屋内で観光ができる場所を探す
上野公園の駐車場に駐めるといくつかの施設を巡ることができることを知った



いつもはGW後に出発し、梅雨に入ったら帰るという計画なのだが
家庭の事情で出発が遅れ、梅雨が例年より早くきてしまった
公園内の歩道もこのような状態になっている



初めて訪れる城なのでどこに何があるのかもさっぱり分からない
案内表示の通り歩いてみる



「城代屋敷跡」らしいがどのような建物があったのか想像もつかない






「台所門跡」も同じく想像がつかない



小さな石垣から城を眺める



上野台地の北部にある標高184mほどの丘に建てられた平山城である
現在、天守台にある3層3階の天守は昭和初期築の天守



近くに石垣があったので歩いてみる



「高石垣」が有名なようであるがここではなさそうだ



三つの天守閣についての説明があった
1. 筒井定次の城
 天正13年(1585年)に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に伊賀上野城を築いた



2. 藤堂高虎の城
 慶長13年(1608年)徳川家康は、宇和島城主であった藤堂高虎に、22万石を与え国替えさせた
 家康の信任が厚く、築城の名手でもあり、大坂・豊臣方との決戦に備えるための築城であった



3. 現在の天守閣
 現在の復興天守閣は、代議士 川崎 克 が多くの支援者の協力を得ながら私財を投じて藤堂氏の天守台に建てたもの
「伊賀文化産業城」と名付けられた。その優雅な姿から「白鳳城」とも呼ばれている



映画『影武者』(1980年 監督 黒沢明)の舞台ともなった



甲賀と伊賀のみち『街道をゆく』(司馬遼太郎)より
徳川家康が大坂城の豊臣秀頼を攻める計画をたてたとき、万一敗北した場合の手当もしておいた。
その場合、嫡子の秀忠を近江の彦根城まで交代させ、自分はこの伊賀上野城まで後退して、攻撃再開の準備をするつもりだった。
その秘策も藤堂高虎にあかし、高虎をして堅固な城をつくらせた。
高虎は、信頼されたことをよろこび、五層の天守閣という、伊賀のような小国には大きすぎるものをつくった。



高石垣
藤堂高虎が本丸の西に築いた石垣
高さ約30メートルの高石垣は大阪城と並んで日本一の高さを誇っている
もっと良い場所があったのかも知れないが、高所恐怖症なので……



初めて訪れる城なので城内に入ることにした
登閣料は600円



「天守閣」は伊賀市有形文化財に指定されている



城内に入ると藤堂高虎像が迎えてくれる



「兜」も市の文化財



藤堂高虎の兜(三重県指定文化財)
現代でも通用するデザインの「唐冠形兜(とうかんなりかぶと)」
藤堂高虎が豊臣秀吉から拝領した兜で、高虎から藤堂玄蕃良重に与えられたもの









徳川葵御紋入軍扇



最上階



「天井絵巻」
1メートル四方の色紙 最上階の格天井には46枚の書画の色紙がはめ込まれている



天守閣竣成を祝って日本画家の横山大観はじめ著名な画家、書家、政治家などから寄贈されたもの



昭和10年(1935年) 衆議院議員であった川崎克の私財により模擬天守が建設された



撮影 令和3年5月21日
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国宝の城(現存12天守:国宝五城)

2021年04月01日 | 
国宝の城(現存12天守:国宝五城)
長野県(松本城<烏城>)
愛知県(犬山城<白帝城>)
滋賀県(彦根城<金亀城>)
兵庫県(姫路城<白鷺城>)
島根県(松江城<千鳥城>)

01 松本城(長野県松本市丸の内)
永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まり
後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく
武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し「松本城」に改名した



天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政に代わりに石川数正が入城
石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う



現存する天守を築造したのは石川康長で、文禄2~3(1593~4)年頃
別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている



月見櫓の様子






02 犬山城(愛知県犬山市大字犬山北古券)
木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名の白帝城



明元年(1469年) 応仁の乱の最中に 岩倉織田氏当主の織田敏広の弟・織田広近がこの地に砦を築いたのが始まり
天文6年(1537年) 清洲三奉行の織田信秀の弟・織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移った



天守は現存する日本最古の様式



現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろである
2004年(平成16年)3月末日までは日本で唯一の個人所有の城であった



この写真を撮影したのは平成15年11月で、城の持ち主は確か犬山市長の娘さんだったと記憶している



03 彦根城(滋賀県彦根市金亀町)
滋賀県彦根市にある彦根山に、井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)
山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう



井伊直政は、関ヶ原の戦いの後、その軍功により佐和山城に入城したが三成の居城であったことを嫌ったという
直政は、関ヶ原の戦傷が癒えず、慶長7年(1602年)に死去
直政の遺志を継ぎ、慶長8年(1603年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した



明治に入り、各地の城は廃城令で破壊・売却されていった



彦根城の天守閣は明治元年に700円で落札され解体される寸前であった
明治天皇が巡幸で彦根を通過した折、城の保存を命じたため破却を逃れたという






04 姫路城<白鷺城>(兵庫県姫路市本町)
姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城



姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力



関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された



明治時代には維新の初期に払い下げが行われ、百円で落札されたが、取り壊し費用が莫大であったことから落札者が願い下げした



国宝の大天守は外から眺めると5階建てに見えるが、内部の造りは地上6階、地下1階の7階構成になっている






05 松江城<千鳥城>( 島根県松江市殿町)
亀田山に慶長12年(1607年)から5年の歳月をかけ築城



慶長16年(1611年)に竣工。完成数カ月前に堀尾吉晴公死去(69歳)
孫の三之助(忠晴)(13歳)が城主となる






廃城令により、松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることとし、ことごとく取り壊された
天守閣は180円で落札されたが、出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより資金を調達、買い戻され取り壊しは中止、保存されることとなった



松江のシンボル松江城は、全国で現存する12天守のうちのひとつで、唯一の正統天守閣ともいわれている



人柱伝説:
天守台の石垣が何度も崩れ落ち、人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た
そこで、盆踊りを開催し、最も美しく、踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという
石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった
人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された
その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る
また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった



石垣積は、築城工事にあたって、全体の半分以上の労力を要した
松江城は5年間で完成したが、そのうちの3年間を石垣に費やされた


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姫路城<白鷺城>その2(兵庫県姫路市本町)

2021年01月28日 | 
訪問日 令和2年10月3日

世界遺産 姫路城 その2
城外に出た。正直な話し城内では何処を歩いているかも分からなかった



国宝の大天守は外から眺めると5階建てに見えるが、内部の造りは地上6階、地下1階の7階構成になっている
この場所は休憩用のベンチもありゆっくり眺めるには良い場所だ



石垣の形状を眺めながら下に下りて行く
石垣の積み方や加工は、羽柴氏時代は「野面積み」
池田氏時代は「打ち込み接ぎ」「算木積み」になっている






修理を終えたばかりの建物



遠くからは白が強調して見えるようになっている






「お菊井戸」
私の前を歩いていた若い女性が真剣に何かを覗いている
気になり近寄ってみるとあの有名な「播州皿屋敷」の井戸らしい



『番町(ばんちょう)皿屋敷』と覚えていたので、最初は聞き違いだったのかと思っていたが……
日本各地に「いちまーい、にまーい……」の怪談話があるようだ



「明治時代の鯱」



制作者名などが刻まれている。別の場所には明治43年の刻印



「昭和時代の鯱」



「平成時代の鯱」
並べて展示されているのを見ると、明治の職人が造ったものが一番だ



「扇の勾配」
開いた扇の曲線に似ていることから「扇の勾配」と呼ばれる石垣









「井戸」



「西の丸」の方に移動してきた

「武者溜まり」
集団で軍事行動をする兵士を一時的に駐屯させる場所






撮影スポットの表示のあった場所から撮る



西の丸



ソーシャルディスタンスと聞いても爺には何のことか分からないが「間合いをとる」ならすぐ理解できる



ここが入り口となる



「百間廊下」 300mもあるという



「廊下の大戸」
建物内の扉とは思えない頑丈な造りの大戸
この扉の内側は女性が居住していた場所であったため、毎夜閉ざして厳しい守りをしていた



廊下に面して納戸のある小さな部屋が並んでいる
これが長局で西の丸御殿で働く女中の住んだ部屋とみられている






千姫は徳川家将軍・秀忠の長女、家康の孫娘である。7歳の時に豊臣秀頼(11歳)に嫁いだ
「大坂夏の陣」で秀頼と淀殿は自害して果てたが千姫は救い出された。18歳の時である
有力な公家や武家との関係を深めるために婚姻は大事な手段である。千姫はうってつけの「政治の駒」だった
相手は夏の陣で大功を立てた臣下 本田忠政の息子 忠刻
千姫の意志が強く働いた結果だったという
実は千姫、大坂から江戸に戻る道中を護衛していた忠刻に一目惚れしていた



西の丸の化粧櫓や曲輪は千姫夫婦のために新築された
城に移った翌年、待望の第一子となる長女、さらにまた翌年には嫡子となる長男が生まれた
愛する夫とかわいい我が子に囲まれる生活は長くは続かなかった
長男がわずか3歳で、忠刻も31歳の若さで亡くなってしまった
千姫は娘・勝姫と共に本多家を出て、江戸に移り住む
落飾(髪を落として仏門に入ること)し、天樹院(30歳)となった



西の丸から天守閣を眺める






駐車場に戻ろうとすると突然眼前に忍者が現れた
私の母方の姓は「伊賀」 天守閣をバックにポーズをとるように命じた(笑)



「官兵衛普請の石垣」



黒田官兵衛は私の好きな武将の一人



無骨な感じがする野面積みだが現存しているのが嬉しい



約3時間も滞在したにもかかわらず頭の整理ができていない
途中から、また来ようと諦めた






撮影 令和2年10月3日
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姫路城<白鷺城>その1(兵庫県姫路市本町)

2021年01月27日 | 
訪問日 令和2年10月3日

世界遺産 姫路城 その1
遠くから眺めたり、車で近くを通り横目で見たりしてきたが何故か姫路城には一度も訪れたことがない



桜門橋
駐車場に駐めたが入り口がどこにあるか分からない
とりあえず、それらしい人の歩いている方向について行く



天守の姿が見えてきた



国宝の城は現在 全国に5つある
訪れた順でいうと、犬山城・彦根城・松江城・松本城そして姫路城となる



門扉も立派だ



「世界遺産 姫路城」



人の流れについて行くと、多くの人がここで記念写真を撮っている



美しい城だ



城を見ながら歩き、撮影場所を探す



青空だったらいいのにと思うが仕方がない



菱の門
櫓門と呼ばれる型式の二の丸の入口を固めた門でここから有料になる



両柱の上の冠木に木彫りの菱の紋(花菱)のあることから、この名前が付いている
門全体に安土桃山時代の様式を残しており、城内で最も大きな門



菱の門周辺からは違った角度からの天守を眺めることができる






歩を進めると石垣が見えてくる



石垣にはあまり興味がなかったが、私の大学の大先輩の影響を強~く受け石垣を撮るようになった






「姥ケ石(うばがいし)」



石垣の上方に欠けた石臼が「間詰め石」として積まれている(判別できない)









天守閣の入り口が見えてきた



水五門
姫路城には先の菱の門のほか、「いろは……る」の門、「水の一……六」門が現存している
写真の水五門はそのうちの一つ。他に21門が残っている



既にどこに立っているのか分からなくなっているが、「小天守(国宝)」内に居るようである






これまで国宝の城を回ってきたが、姫路城の規模の大きさには驚く



大天守「1/20軸組構造模型」



大天守二階









「武具掛け」



「天井の梁」



「武具庫」



大天守三階



「西大柱」
大天守の心柱は東西方向に2本並んで地下から6階床下まで貫いている
西大柱は従来の材が継がれたものであったため一本材に取り替えようとしたが、その際に折れてしまったので3階床下付近で継いでいる



「東大柱」
太さは根元で直径95cm高さ24.6mの木材が使用されている



「武者隠し」
武者隠と呼ばれる小部屋が数箇所設けられている



「内室(うちむろ)」



大天守四階



「武具掛け」



「高窓」



「破風の間」



「石打棚」
中段を窓際に設けて、屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補っている






大天守五階



「刻み番付」
南北の破風の棟木に「番付の文字」が彫ってある
この部材がどこに使用されるかを示している



「東大柱」
創建当時からあるというこの東大柱はこの階の天井まで通っている



大天守六階



長壁(刑部)神社
長壁(おさかべ)神社が分祀されている









最上階からの景色






遠くから見ると白く見えるが間近でみるとこのような造りになっている



瓦は検査をした上で使える物は再利用し、再利用ができない分は新しい瓦に取り替えられた



「幻の窓」
6階は当初四隅に窓を設ける予定だったが、途中で設計を変更し窓を塞いだ



外に出る。この石の階段は創建当初のもの



次回に続く

撮影 令和2年10月3日
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二本松城跡<霞ヶ城>(福島県二本松市郭内)

2020年03月25日 | 
訪問日 令和元年11月8日
予定していた2つの寺社が駐車場の関係でキャンセル
コンビニ駐車場で「最寄りの観光地」で検索すると200m以内に「霞ヶ城」がヒットした

史跡 二本松城跡<霞ヶ城>
二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城である
江戸時代は二本松藩主丹羽氏の居城となった



二本松少年隊群像<制作:橋本堅太郎>
戊辰戦争「二本松の戦いにおいて、藩の兵力は約1千人、それに対して薩摩・長州・土佐などの西軍は約7千人
徹底抗戦の末、慶応4・明治元年(1868年)7月、二本松城は炎上し、落城した









会津藩の「白虎隊」とは違って、二本松藩の場合は西軍が二本松城下に切迫する直前に、出陣を志願した13歳から17歳までの少年たちが緊急に各部隊へ配属されたため、正式な名称はなかった



戊辰戦没者の50回忌法要の際「二本松少年隊」と命名され、少年隊に対する公然的な顕彰が行われるきっかけとなった



城内案内板



現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門がある



石垣・箕輪門
昭和57年(1982年)箕輪門と附櫓が復元された
平成5年(1993年)から平成7年にかけて本丸の修復、復元工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備された






毎年10月~11月に二本松菊人形展が開催されている



箕輪門から城内に入る






振り返るとこのようになっている



「二本松菊人形展」の入り口付近



このように沢山の菊で飾られている



花には興味の無い私でも綺麗だなあと思う









この辺りまでは無料だが、「菊人形展」からは有料スペースになる






これだけでも十分満足できたので戻ることにした



箕輪門のアカマツ(二本松市指定天然記念物)















撮影 令和元年11月8日
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丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞)

2019年04月19日 | 
丸岡城<別名:霞ヶ城>
今回2度目となる丸岡城。一度目は偶然近くを車で通ったため立ち寄った
夏休みで広場では子供たちがラジオ体操をしていた。その広場も今は立派な駐車場になり年月の流れを感じていた



その時は、早朝のため無料で城周辺を探索したことをよく覚えている



丸岡城天守(重要文化財)
現存天守閣では最古の建築様式を持つ平山城である



霞ヶ城の別名をもつ。由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説によるものらしい



お静慰霊碑(伝説「人柱お静」)






石垣
私の人生の大先輩に石垣に詳しい方がいる。そのことを知ってから、城を訪ねると必ず石垣を撮るようにしている



自然石をそのまま積み上げている「野面積み」手法だ



よく見ると石の色が違っている。1948年(昭和23年)の福井地震によって倒壊した影響かも知れない



急な石段を上り城内に入る



「石落とし」



かつての丸岡城の模型(現存しているのは天守)



階段の狭さや角度から、戦に備えての城だと云うことがわかる



1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、柴田勝家の甥である勝豊により築城された



階段を上から見るとこのようになっている。上りと同じ姿勢で下りるのがベストの選択になる



城ブームということもあり、観光客が多い



八幡神社






牛ヶ島石棺









一筆啓上石碑
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」徳川家康の家臣本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送った手紙






この石碑が縁で、日本一短い手紙文の一筆啓上賞の起こりとなった









歴史民族資料館



撮影 平成30年10月23日
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高知城 その2(高知県高知市丸ノ内1丁目)

2018年03月07日 | 
高知城
鷹城(たかじょう)とも呼ばれている
天守の近くまできた。思っていたよりも小さく感じる。ここから有料(420円)になる

天守(重要文化財)
南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式。四重六階天守、本瓦葺



「功名が辻」はNHK大河ドラマにもなっている
司馬遼太郎の小説はほとんど読んでいるが、この小説は印象が薄い



ドラマで仲間由紀恵が使用した着物が展示されていた



「御茶所」



「うちわけ波の欄間 (波の透彫欄間)」
作者は「土佐の左甚五郎」と称される、武市高朋(通称:甚七)



黒潮の波を表現している



「物見窓」 矢狭間塀に設けられた横連子の武者窓。初めて見たような気がする



「鉄砲狭間」



「竹の節欄間」



「上段の間・帳台構え」 藩主の御座所。武者隠しもある



「石落とし」



「高知城の模型」






天守から俯瞰するとこのようになっている
高所恐怖症なので辛い瞬間である



実は腕を伸ばして適当に撮っている



「漆塗りの高欄」 徳川家康の許可を得て造ったものといわれている






龍馬が着ていたという服(複製品)






西多聞(重要文化財)



天守を後にする



黒鉄門(重要文化財)



分厚い鉄門



詰門(重要文化財)



駐車場へ戻る道を、振り返りながら天守を撮る






四国には現存する天守を持つ城があと3つ(丸亀・松山・宇和島)ある



今回は雨で断念したが、次回訪れた時の楽しみに取っておくことにする



撮影 平成29年10月18日
コメント (2)
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高知城 その1(高知県高知市丸ノ内1丁目)

2018年03月06日 | 
高知城
入浴施設が併設されている道の駅「土佐和紙工芸村」に宿泊。高知市から少し離れた所にある
四国には天守を持つ城が4城あることは知っていた。生憎の雨で訪れることができたのは高知城だけ
雨の降っていない朝を迎えたのは久し振りだったので、早めに行動し、駐車場にうまくたどり着けた

山内一豊の銅像
関ヶ原の戦いの功績により土佐一国24万石を与えられた。高知城の築城と城下町を整備した
信長・秀吉・家康三代の天下取りの間を生き抜いた



駐車場から右手にお堀を見ながら入口に向かう



遠くに天守が見える



追手門(重要文化財)
高知城の表門。櫓門、入母屋造、本瓦葺



門の入り口は枡形の巨大な石垣で囲まれていて、敵を3方から攻撃できるようになっている



追手門左右にある堅牢な鉄製の門



門扉が開かれている状態



板垣退助像
自由民権運動の父とされ、「板垣死すとも自由は死せず」の名言を残した



偉人の銅像を幾度か見てきたが、背景が高知城というのがとてもいい



石樋(いしどい)
高知県が雨が多いというのを、この地を訪れるまで知らなかった



16ヶ所あるなかで、一番大きい「石樋」



山内一豊の妻
本名は「千代」とも「まつ」ともいわれるが、定かではない



夫に馬を買わせるために大金を差し出した話など、内助の功によって、一豊は出世できたと言われている



ここで地元の男性の声を掛けられた
「普通の写真じゃ面白くない。ここから撮りなさい」と…
確かに面白いアングルだ。私にはこういった発想がないため、いつも、つまらない写真になってしまう



この男性は、毎日、高知城に散歩に来ているというので、案内をお願いした
この場所も天守を撮るにはいいと教えてくれた



城の石垣の写真を楽しみにしている方がいることを話すと、いい場所があると案内してくれた



「苔むした感じがとても良いと思うが」と石垣の説明までしてくれた



高知城の石垣も近江穴太出身の北川豊後定信が指揮を執った



日本の城の美しさを支えているのは、石垣だと思うようになってきた
「穴太衆」の石垣は芸術だ



色々な話しを聞きながら時間を過ごすことができた
男性は職人で仕事を辞めた後は、午前中の散歩、午後からの飲酒を毎日の愉しみにしているという



私は散歩も飲酒もしないが、人生の愉しみ方はよくわかる
方向音痴だというと、天守入口まで案内してくれた



旅をしていると人との出逢いがその土地の価値を高めてくれる
そのせいか高知県が好きになってきた感じがした



空も青い部分が多くなってきたような感じもする



撮影 平成29年10月18日
コメント (4)
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松代城(長野県長野市松代町)

2017年11月27日 | 
史跡 松代城(海津城)
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城された
千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城」と呼ばれていた
江戸時代、真田が松代藩主となると、松代城を中心に城下町が発展し



太鼓門
本丸内では一番大きな門



太鼓門前橋



南の櫓門



少し高い場所から。枡形に石垣をまわし本丸を厳重に守っている



海津城址之碑



石垣
本丸周辺や出入口などの重要な部分に用いている



高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さ



十数年前に一度訪れたことがあるが、記憶にある景色とまったく違う



昭和56(1981)年、新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定された



その後、長野市により環境整備工事が行われ、平成16(2004)年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが復元された



史跡 真田邸
関ヶ原の戦いの際に、昌幸の長男信之は徳川方に、昌幸と次男信繁(幸村)は豊臣方についた
徳川方が勝利した結果、信之は沼田・上田・松代と領地を移しながら大名として生き残った



元和8年(1622)以降、明治維新まで約250年の間、真田10代にわたり松代藩10万石領有し続けた



表座敷
年中行事や訪問客との対面が行われた部屋と考えられている
唐紙は武家が好んだ菱形



杉戸
杉戸には「境界」の意味があり、奥の私的な空間と手前の公的な空間を仕切っている



御寝所
主人の寝室。天井は花鳥の唐紙、床は寒さを防ぐ二重床になっている






手洗いの間



庭園
9代藩主幸教に好まれた庭園は「水心秋月亭」と名づけられた






史跡 松代藩文武学校
江戸時代後期に創設された信濃国松代藩の藩校である



剣術所
剣術を指南する道場で、剣術各流派を学ぶことができた






東序(とうじょ)
序は校舎を意味する。軍学を主として教えられた校舎






文学所
漢学、兵学、躾方(小笠原流)



弓術所



西序(せいじょ)



明治6年以降、初等教育の場として昭和40年代まで使われた






公園に置かれているブロンズ像






真田宝物館
1966年(昭和41年)に、真田家12代当主・真田幸治が同家に伝わる大名道具などを埴科郡松代町(当時)に寄贈
真田家から譲り受けた収蔵品は武具・刀剣・調度品・絵画・古文書などで、特に古文書が多く総数数万点ともいわれる



撮影 平成29年5月24日
コメント (2)
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小諸城址「懐古園」(長野県小諸市)

2017年11月21日 | 
小諸城址「懐古園」
布引観音で出逢った地元の方に「小諸城」に行くと話すと「懐古園」の無料券をいただいた
その時、話しが噛み合っていないと思っていたが、城跡は、市営公園「小諸城址懐古園」として整備され、有料で公開されていた



小諸義塾塾長 木村熊二
石垣にレリーフが嵌め込まれている。この人物についての知識はない



二の丸跡
上田合戦時の徳川本陣跡。上田城を訪れたとき敵側の城も行かなければならないと考えていた



第二次上田合戦の総大将は徳川秀忠。小説やドラマでは無能な人物として扱われることが多い
妻は信長の姪で浅井三姉妹の三女の江である



なかなか攻め落とせない上田城と家康からの圧力との狭間で、もがいていたのだろうなと想像しながら旗を見ていた



南の丸跡



小諸城は、武田信玄のころ山本勘助らにより現在の縄張りとし、豊臣秀吉天下統一のとき小諸城主となった仙石秀久により完成された城



周囲には地面が削られた掘割らしき跡が見える



懐古園稲荷神社



黒門橋



黒門跡



荒神井戸
寛保の大洪水の後に掘られた、城内唯一の井戸



藤村記念館
1899年(明治32年) かつての恩師木村熊二に招かれて小諸義塾の英語教師として小諸町に赴任し、以後6年過ごす
小諸で過ごした6年余の間に「雲」「千曲川のスケッチ」「旧主人」などが生まれ、大作「破戒」が起稿された



武器庫



緑一色の城内で花の名前は知らないが、ここだけ暖色の花が咲いていた



水の手展望台からの景色



周辺を歩く。野面石積みの石垣は400年前の当時の姿で残されている









鏡石
山本勘助が愛用したとの説明書き。確かに私の姿も写っている



天守台跡



懐古神社



必勝の字に誘われように祈願をする。私の場合はギャンブルだが



ここまでが有料施設となる
出口で「門」の場所を尋ねると何もありませんよと、その場所を教えていただいた
当時の建造物は石垣と現在の懐古園の入り口の三ノ門、市街地に存在する大手門のみが現存している

三の門(重要文化財)
1615年に建てられたが、1742年に起きた洪水によって大手門、足柄門と共に損壊
現存する三ノ門は1765年に再建されたもの



扁額は徳川宗家16代当主・徳川家達の筆によるもの






大手門(重要文化財)
三の門からJRに線路の下にある地下道を通り数分歩く



近年まで民家として利用されていたが、平成20年(2008年)に再び門として修復、復元された






地元の女子高生が一人歩いてくる。どのような反応を示すのか興味を持っていた
すると相手が立ち止まり「こんにちわ」と挨拶。狭い道ではなかったが譲ってくれている
清々しい気持ちで「ありがとう」と応えた。旅の思い出の一つになった

小諸宿本陣主屋
参勤交代の大名などが休泊。現在は歴史資料館に



長野県をよく訪れる知人から教えられた蕎麦屋の本店が三の門の近くにあったので入店
「ざる蕎麦」を注文し食べてみた



撮影 平成29年5月23日
コメント (2)
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