今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

天童山 景徳院(山梨県甲州市大和町田野)

2017年07月19日 | 神社・仏閣
天童山 景徳院
「武田家終焉の地」ということで訪れた



額には山号の「天童山」



没頭地蔵尊
門から小道を20m程上って行く見えてくる



武田勝頼正室(北条夫人)の遺骸を葬った場所されている



木の両側にある柵に近づいてみる



右側には「武田勝頼公生害石」
生害石とは自ら命を絶つための場所として選んだ石のことを云う



左側には「北条夫人生害石」



近くにお堂がある



山門(山梨県指定有形文化財)
繰り返された火災から類焼を逃れた1579年の建立の山門



武田遺臣の一部は家康に臣従し、天正10年(1582)7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、景徳院を創建した



寺名の「景徳院」



左右の格子内には仁王像が。運良くレンズが入るほどのスペースがある






足下から撮ることができるのは稀である



顔も体も逞しい。今は丘陵のようになっているが、昔は私の腹筋もこのように割れていた






本堂
左手の松は「旗竪松」といい、勝頼は武田家累代の重宝旗を大松の根元に立て、楯無鎧を世子信勝に着用させ、擐甲の礼を行った



曹洞宗寺院で、本尊は釈迦如来。地名から田野寺とも呼ばれる



鐘楼









勝頼公時世 「おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端」



下調べもしないで旅をしているため、この場所が墓だと思っていたが、実は違う場所にあるらしい



2006年、山梨県指定史跡「武田勝頼の墓」保存修復中に、勝頼の戒名などを記した大量の経石が発見され、江戸時代中期に供養が行われたことが判った
地下には埋納施設が存在する可能性が指摘されている



姫ケ淵の由来(無料駐車場の奥に川がある)
勝頼と共に落ち延びた北条夫人の身の回りの世話をしていた侍女16名も、武田氏の滅亡と共に命を絶ったとされる



その侍女たちが死を選び、身を投げた場所が姫が淵である
大きな石のレリーフに刻まれているのが、北条夫人と16名の侍女の姿。もう一つの物語である



撮影 平成29年5月18日
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柏尾山 大善寺(山梨県甲州市勝沼町勝沼)

2017年07月17日 | 神社・仏閣
柏尾山 大善寺
国宝の薬師堂があることを知り訪れた。国道20号線沿いに入口があり、受付で拝観料を納めると駐車場のゲートが開く

楼門(仁王門)
駐車場から石段を上ると立派な楼門が見えてくる



元禄17年(1704)に創建され、現在のものは、寛政10年(1798年)に再建された。三間一戸の入母屋造
楼門の左右の格子の奥に仁王像が安置されている



額には山号の「柏尾山」



仁王像
寺院で仏像を撮ることができるのは仁王像だけなので気合いが入る



しかも、格子の内部にレンズも入った。久し振りに一眼レフカメラによる撮影ができた



さらに階段が続く。私は興味はないが左右の植物を撮っている人が多い



階段を上りきると正面に金堂(薬師堂)が見えてくる。一目で国宝建築物であることがわかる



薬師堂(国宝)
薬師堂には、弘安9年3月16日(1286)の刻銘があり、元寇(弘安の役)の数年後に建てられた
大きさは24m四方で、5間の正面は、中側の3間は両開きの扉が付き、両外側は、上部が縦桟の連子格子になっている



「薬師如来」の額。内陣には須弥壇を設けて厨子(国宝)を置き、重要文化財の薬師如来(秘仏)を祀る
その両側には日光菩薩・月光菩薩(重文)、更に修復を終え色鮮やかになった十二神将(重文)を配している



建物が大きすぎて正面からは24mmのレンズでも入らない。横に移動する



手水鉢
「お清めの水」にて穢れを少し清め薬師堂内にて拝観
感じの良い係の女性から簡単な説明があった。内容のほとんどは忘れたたが心地よさは残っている



楽堂
延宝5年(1677)再建立。大祭藤切り祭や縁日の日に学童で音楽を奏で稚児堂で舞を参拝者にもてなしていた



楽堂内の仏様



稚児堂
弘化3年(1846)再建立。大祭藤切り祭の稚児舞の舞台として使用



地蔵堂






宝珠石
地中でマグマが石を抱き込みながらできたもの
子抱き石として多くの方に幸せが訪れるよう椅子の形にした



鐘楼
正徳4年(1714)に再興された。以前は寛文8年(1668年)の銘が入った鐘があったが、第二次大戦の折に供出
現在の鐘は昭和58年(1983年)に再興された



木々に囲まれた場所にあり、なかなかいい雰囲気だ



行者堂



ぶどう寺 大善寺
養老3年(718)行基が甲斐の国を訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行した
夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れた
行基は夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺

以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えた
この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられている



武田勝頼と大善寺
武田勝頼は、織田、 徳川の連合軍の前に敗退し、天正10年(1582)3月3日、再興を図ろうと韮崎の新府城を出発
途中柏尾山大善寺で戦勝を祈願して、一夜を明かした
しかし、家臣の大半は夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合う
勝頼主従は天目山を目指したが、織田、徳川の連合軍に行く手を阻まれる
3月11日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来五百年続いた甲斐源氏も滅亡した



勝頼の宿となった薬師堂を後に階段を下りる



庫裏・客殿で冷たいお茶をご馳走になり、中庭を眺める
この寺の仁王像、文化財には指定されていないが、気に入っている



撮影 平成29年5月18日
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市塩山小屋敷)

2017年07月14日 | 神社・仏閣
乾徳山 恵林寺
元徳2年(1330)に甲斐牧ノ庄の地頭職の二階堂出羽守貞藤が、夢窓国師を招き、自邸を禅院とし創建した
武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)には、信玄自ら寺領を寄進し当山を菩提寺と定めた

総門(通称:黒門)



扁額の「雑華世界」(内は静寂なる世界 外は喧騒なる世界)



総門を抜け、木々に囲まれた参道を進む



四脚門(重要文化財)
見えてくるのが四脚門(通称:赤門)、徳川家康の再建と伝えられるもので、国の重要文化財






山号の「乾徳山」の額を掲げている



さらに、参道が続く



正面に門が見えてくる



三門(山梨県重要文化財)
三門には織田信長の焼き討ちで壮絶な火定を遂げた快川和尚の遺偈が掲げられている



この三門は、まさしくその悲劇の現場に建てられている






信長焼き討ちの際に「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と快川和尚が喝破した門である






仏舎利宝塔



鐘楼



この奥に方丈庭園がある






開山堂
「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」と言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに火に包まれ入定した快川国師について…



快川紹喜は恵林寺住職となると、恵林寺を信玄の菩提寺と定めているほか、美濃斎藤氏と武田氏との外交関係にも携わった
天正3年(1575年)4月には武田勝頼が喪主となり信玄の三年秘喪明りの葬儀が行われ、快川紹喜は導師を務める
勝頼の代にも政務顧問的な役割を果たしていた



武田氏滅亡後、恵林寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを要請するが、寺側が拒否したため恵林寺は焼き討ちにあった



堂内には夢窓疎石、快川紹喜(かいせんしょうき)、末宗瑞曷の三像が堂内に安置されている



庫裏
信長による焼き討ちの後、徳川家康によって再建された壮大な伽藍は、明治38年の火災によってそのほとんどを焼失
現在の本堂、庫裏も、明治末期に再建されたものである
拝観受付所にもなっている



堂内はこの狭い廊下から拝観することになっている



方丈庭園
枯山水式の庭園、右奥に勅使門がある









本堂
本堂に本尊の釈迦如来が安置されているらしいが観ることはできなかった



うぐいす廊下入り口
内部は暗いが人感センサーにより、入口に立つと電灯が点るしくみになっている



「うぐいす張」の廊下で体重が重いせいもあり、いい音を聴くことができた
奥には撮影禁止区域の「明王殿」があり不動明王が安置されている



案内にしたがって進む



武田信玄公墓所・柳沢吉保公墓所
柳沢吉保公霊廟の奥に墓所があるが、ここも撮影禁止区域になっている



名勝 恵林寺庭園
京都嵯峨野の天龍寺、嵐山の西芳寺(苔寺)庭園とともに、夢窓国師の代表的な築庭庭園






閉門時間まで拝観させてもらった



印象に残ったのは三門「心頭滅却すれば火も自ら涼し」
信長が斃れて後、家康により復興、また五代将軍綱吉の時代に甲斐国主となった柳沢吉保の庇護で寺運は発展した



撮影 平成29年5月17日
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武田神社(山梨県甲府市古府中町)

2017年07月12日 | 神社・仏閣
史跡 武田神社
信玄の父 信虎が永正16年(1519)に石和より移した躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡に鎮座している
この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住し、昭和13年には国の史跡として指定された



神橋
参拝者が写りこまないよう、この瞬間を撮るため、我慢強く待つほど人気のある神社だ



神橋をこえると鳥居が見えてくるが、印象的なのは左右の石垣。館跡には当時からの堀、石垣、古井戸等が残っている



「左近の桜」「右近の橘」






境内にある「三葉の松」は、黄金色(こがねいろ)になって落葉することから、「金運」のご利益があるといわれている

狛犬






参道の一之鳥居
鳥居横の看板に風林火山の軍旗「孫子の旗」の特別公開の案内があった



手水舎



甲陽武能殿
甲陽は、甲斐武田氏の軍学書「甲陽軍艦」より引用、「甲陽」の意は甲斐の国の輝く様を表している



武能とは、武田氏の「武」であり能楽の「舞」とにつながり、武芸を嗜む者は同時に舞をも嗜み、その拍子を己の武芸に取り入れたと伝えられている






名水 姫の井戸
信玄の息女誕生の際、産湯に使用された事からこのように名付けられた
高校生のグループを引率していた女教師が一人の女生徒に「この水を飲むと綺麗になれるよ」と話しかけた
「じゃ、今は……綺麗じゃないってこと」と女生徒
お笑いコンビのハリセンボン近藤 春菜似の女生徒が持つ独特な雰囲気もあり、私も含め周囲は大爆笑になった



水琴窟
水琴窟の音は心地よいが、ここは竹の筒を耳につけ聴くというもの



参道の二之鳥居
鳥居の奥に拝殿



大正4年、大正天皇のご即位に際し信玄公墓前に従三位追贈が奉告されたのを契機に、武田神社ご創建の気運が沸き上がり、浄財によって大正8年には社殿が竣工された



拝殿
武田神社は武田信玄公を御祭神としてお祀りしている
甲斐の国の守護神であるばかりではなく、やはり「勝運」のご利益があるようだ



勝負事が好きなのでいつもより多めの浄財と祈願をしてきた






宝物館にて孫子の旗(長さ376cm、幅83cm)を観る。「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の14文字
「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」 やはり本物は違う



撮影 平成29年5月17日
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定額山 浄智院 善光寺(山梨県甲府市善光寺)

2017年07月10日 | 神社・仏閣
甲斐善光寺
甲斐善光寺は永禄元年(1558年)甲斐国国主武田信玄によって創建された
信玄が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)御本尊善光寺如来をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まる

三門(重要文化財)
寛政八年(1796)に再建された



三門前は車道で注意しながら撮ったが、三門が大きすぎて左右が欠けてしまった
桁行およそ17m、梁間およそ7m、棟高およそ15mとなっている



扁額には山号「定額山(じょうがくざん)」



三門の正面奥に金堂が見える



お咳婆さんの石
百日咳など咳に苦しむ者が、全快したら飴を奉納する約束をして祈願すれば効験が著しいという



市内の中学生のグループが地元の歴史を学ぶために訪れていた



元気に挨拶され、いくつかの質問を受けたが適切に対応することができなかった



手水舎



金堂(重要文化財)
永禄8年(1565年)信濃善光寺のものとほぼ同じくらいの大きさであったが、宝暦4年(1754)2月の火災によって焼失
現在の本堂は寛政8年(1796年)に再建された。寛政8年の再建は明和3年(1766年)から30年を要した



金堂中陣天井(有料)には巨大な龍(日本一の鳴き龍)が2頭描かれている
また、金堂下の「お戒壇廻り」も体験した



金堂の彫刻









扁額「善光寺」



外陣(無料)の仏様









鐘楼
銅鐘(県指定文化財)は信州から引き摺って運んだ「引き摺りの鐘」として知られている






霊牛碑







大仏



宝物館には平安時代の阿弥陀三尊像(重文)や最古の源頼朝像などが拝観できる
個人的には、絶世の美人小野小町の衝撃的な醜い像が重文以上に印象が残った



撮影 平成29年5月17日

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身延山 久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町身延)

2017年07月09日 | 神社・仏閣
身延山 久遠寺
山梨県に入った時から、日蓮宗大本山である「久遠寺」のことは常に意識していた

三門
「空」「無相」「無願」の三解脱をあらわす三門。間口5間、奥行2間、高さ7丈



79世日慈上人の筆による「身延山」の扁額



菩提梯
久遠寺といえば、この287段の石段
登り切れば涅槃に達するという意味の梯は、南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、7区画に分けられている



斜行エレベーター
当初、石段を登る覚悟はあったが、三門付近に駐車場がなく、車を走らせると行き止まりの場所に駐車場があった



何と駐車場から境内へ階段を使わずに登ることができる無人の優れもの



菩提梯を上からみると、このようになっている。足を踏み外すと大変なことになる



石段を登りきり最初に視界に入ってくるのは、五重塔と本堂



五重塔
初代の塔は元和5年(1619年)加賀前田利家の側室寿福院の建立
2009年5月、明治8年の大火による焼失より134年ぶりによみがえった宝塔



木材は全て国産を使用し、設計から工法にいたるまで400年前に建てられた元和の塔を復元・再建した



手水舎



本堂
1985年、日蓮聖人700遠忌の主要記念事業として再建された。間口32メートル、奥行51メートル



大鐘楼
大鐘は寛永元年(1624)に鋳造。修行僧道順が梵鐘寄進を発願し、諸国を行脚したが志し果たさず逝去した



そのことを家康側室養珠院(お万の方)が道順を哀れんで寄進した。現在でも毎日朝夕撞かれている






棲神閣祖師堂
日蓮聖人の神霊を祀る堂閣。「棲神閣」と称する



11代将軍家斉が天保7年(1836)に建立した。5年後、廃寺となった鼠山感応寺の堂宇を移築した










新客殿



拝殿



拝殿の奥に日蓮聖人御舎利を奉安する「御真骨堂」がある



仏殿
仏殿では朝、昼12時、夕方3時からの勤行と特別法要を営む建物



全国信徒の納骨・納牌・追善法要が行われる



時鐘



開基堂






日蓮を身延に招いた波木井実長を祀っている



境内を回り終えたので本堂から堂内に入る。「久遠寺」の扁額



堂内は撮影禁止となっている。修行僧の礼儀正しさは気持ちがいい



修行僧はこの場所の前で立ち止まり合掌する



奥の院へは身延山ロープウェイに乗り約7分間で到着するが、今回は気持ちが動かず止めた
斜行エレベーターに乗り駐車場に戻る



降りてくる途中で三門横に無料駐車場を発見。ここに駐めて三門の写真を撮る
次回があるとしたら菩提梯に挑戦したい

撮影 平成29年5月17日
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忍野八海(山梨県南都留郡忍野村)

2017年07月07日 | 名所・旧跡
忍野八海(世界文化遺産)
自然の美しさに興味のない私でも知っている「忍野八海」、テレビでも何度か視たことがある
「忍野村観光案内所」があったので立ち寄る。美人で親切な女性から資料にて説明を受ける

出口池(一番霊場) 祭神:難陀竜王
  「あめつちの ひらける時にうこきなき おやまのみつの出口たうとき」

八海の中で一つだけ離れた場所にあり最も面積が広い池



ブログでは一番から八番霊場の順番になっているが、実際に廻った順とは大きく異なる



お釜池(二番霊場) 祭神:跋難陀竜王
  「ふじの根のふもとの原にわきいづる水は此の世のおかまなりけり」

八海の中で最も小さな池



富士山の雪解け水が地下の溶岩の間で、約20年の歳月をかけてろ過され、湧水となって8か所の池をつくっている。



底抜池(三番霊場) 祭神:釈迦羅竜王
  「くむからにつみはきへなん御仏のちかひぞふかしそこぬけの池」

忍野八海で唯一個人所有の池。入館料300円



洗物が消えると云う伝説のある池






有料施設だけに良く整備されていて、とても美しい。



本来なら写真中央に富士山が見えるはずだが、数十分待っても雲に隠れたまま。



銚子池(四番霊場) 祭神:和脩吉竜王
  「くめばこそ銚子の池もさはぐらんもとより水に波のある川」

縁結びの池と伝えられている



酒を注ぐ銚子の形からこの名が付けられたという
池の底の砂地から砂を巻き上げ水が湧いている



湧池(五番霊場) 祭神:徳叉迦竜王
  「いまもなほわく池水に守神のすへの世うけてかはれるぞしる」

八海一の湧水量と景観を誇る池が見えてくる



富士山の頂上付近が視界に入ってきたので望遠レンズで



観光客が覗いて見ている場所にどうしたら行けるのか解らなかった
探すと売店の中に出入口があった。お土産屋の店員から掛けられる声に気持ちが動く



この地を訪れるまで、忍野八海はこのサークルに囲まれた部分だと勘違いしていた



底知れぬ魅力がある場所と感じていたが、水中洞窟を持ち、池の底から最奥部まで約55mあることが確認された
底に光っているのは中国人観光客が投げ入れたコイン。罰金千円の看板もある



周辺の様子



国指定の天然記念物、名水百選に指定



湧水量も豊富で、売店ではこの水も販売している



透明度が高く水草もはっきり見ることができる



水車小屋からの風景



濁池(第六霊場) 祭神:阿那婆達多竜王
  「ひれならす竜の都のありさまをくみてしれとやにごる池水」

みすぼらしい行者が一杯の水を求めたが断わられ濁ったといわれる池



湧水は池底から少しだけ湧き出ている



川に隣接している



鏡池(第七霊場) 祭神:麻那斯竜王
  「そこすみてのどけき池はこれぞこのしろたへの雪のしづくなるらん」

水面に富士山を映す池と説明があった瞬間、富士山の頂上付近が見えてきた



池に富士山をと思ったが、実に難しい



菖蒲池(第八霊場) 祭神:優鉢羅竜王
  「あやめ草名におふ池はくもりなきさつきの鏡みるここちなり」

菖蒲にまつわる美しい伝説が残る池。奥には八海菖蒲池公園がある



八つの池の全てを廻ってみた。所要時間は休憩も含み約2時間



かつてこの地に存在した忍野湖が干上がって盆地になり、富士山や近くの火山山麓の伏流水を水源とする湧水の出口が池として残った姿が忍野八海である
「八海」の名は、富士講の人々が富士登山の際に行った8つの湧泉を巡礼する八海めぐりからきている
1843年に各池に守護神の「八大竜王」が祀られ、出口池を一番霊場、菖蒲池を八番霊場とする巡礼路が整備された

富士山の雪どけ水



周辺が急に賑やかになったと思ったら、中国人観光客を乗せたバスが着いた。一気に雰囲気が変わる



静かな場所を求め、有料施設で「底抜池」のある「榛の木材資料館」に逃げ込むことにした















「はんのき資料館」敷地内の大型の池「榛の木池」は人工池






撮影 平成29年5月16日
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天守君山 願成就院(静岡県伊豆の国市寺家)

2017年07月05日 | 神社・仏閣
天守君山 願成就院(がんじょうじゅいん)
伊豆の修禅寺に行く途中に道路地図で「願成就院」を発見、縁起のいい素敵な寺院と興味本位で立ち寄ってみた
雨が降っていたので小雨になるまで駐車場で昼食を食べながら待った

山門
雰囲気のよい山門から中に入る



普通のお寺の感覚で中に入り記念に写真を撮っていた






北条時政公御墓
北条政子の父親である時政のお墓があった。俄然興味が湧いてくる



源頼朝が奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願(願成就)して建立された寺であることがわかった
その後、2代義時、3代泰時三代にわたり堂塔が建立された



鐘楼






空海像
高野山真言宗寺院



繁栄を誇った境内も北条早雲に攻め滅ばされ、秀吉の小田原攻めの兵火で多くの堂塔が灰燼に帰した

大御堂
昭和30年以降、文化財の護持顕彰を目的に大御堂が再建された
受付所で拝観料を納めた時に国宝の仏像が安置されていることを知った



堂内に「運慶」作の国宝「阿弥陀如来坐像」「毘沙門天像」「不動明王像」「制吒迦(せいたか)童子像」「矜羯羅(こんがら)童子」の5体が安置されていた
寺名に魅力を感じ偶然立ち寄った寺ではあるが、私の「願いも成就した」



小雨になったので境内を散策



足利茶々丸公方御墓
初代堀越公方の足利政知の子。父の死後に一族間で内紛を起こして家督を相続



北条早雲に攻められて各地を転戦の果てに願成就院で自刃



長居したかったが傘がなかったため、駐車場に戻る



史跡 願成就院跡
現在は小さな境内であるが、裏山一帯は往時の願成就院の敷地であった






守山八幡宮
源氏の守護神・八幡神を祀る社



1180(治承4)年に高倉宮以仁王から平家追討の令旨を受け取った頼朝は、守山八幡宮を遙拜した



階段上に社殿がある



本来の目的地である修禅寺に向かったが、雨脚がさらに強くなり止めることにした

撮影 平成29年5月15日
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三嶋大社(静岡県三島市大宮町)

2017年07月03日 | 神社・仏閣
三嶋大社
道路地図に大きな字で「三嶋大社」の記載があったので目的地とした
狭い商店街の道路を走っていると繁華街に鳥居が見えた

大鳥居
鳥居の前が道路、右横に大型の駐車場がある。三島市は三嶋大社の門前町として発達した



たたり石
大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていた
今日では交通安全の霊石として信仰がある



若山牧水の歌碑
三嶋大社の夏祭りを見て歌を詠んだ
 「のずえなる 三島のまちの あげ花火 消えて散るなり」






先に進むと異臭とともに水の枯れた(抜かれた?)池が見えてきた



神池
天長4年(827)にこの神池の水が枯れ天下大旱し、神官の訴えにより朝廷は三嶋神殿において雨乞いを行い、6月11日から15日まで大雨が降ったとある
案内板の内容より鳩に見られている方が気になる



訪れた日は6月15日、このあと小雨から大雨になった



厳島神社
北条政子が勧請し信仰したと伝えられる



狛犬






総門(外構えの門)
建設中に伊豆震災に遭う。初めて台湾檜が使用された昭和の神社建築









矢田部盛治の像
寛永7年(1854)東海大地震で倒壊した社殿を復興した






手水舎



神馬舎
古くから三嶋大社の神馬は毎朝神様を乗せて箱根山を登るという伝説がある



神馬は慶応4年に完成したもの



源頼朝・北条政子「腰掛石」
治承4年5月、平家追討の心願を込めて百日の日参をした折り、腰を掛けて休息したと伝えられる
右側が北条政子が腰掛けた石



神門
慶応3年(1867)竣工



神門の彫刻



舞殿(ぶでん)
古くは「祓殿」と呼ばれる神楽祈祷を行う場であったが、のちに舞の奉納が主となったので「舞殿」と称されるようになった。



東五社



見目(みるめ)神社
三嶋神の后神で、「見目(みめ)」とは「御妃(みめ)」を意味するともいわれる



若宮神社
祭神の物忌奈乃命は三嶋神の御子神



本殿(重要文化財)
嘉永7年(1854)11月4日の東海地震で罹災し、その後再建された社殿



本殿・幣殿・拝殿からなる権現造の複合社殿
雨脚が強くなり傘を持っていなかったため近づくことができなかった



この時は重文とは知らず、遠くから眺めるだけでもったいないことをしたと反省している



芸能殿
雨宿りをしていた場所である。旧総門を一部改造し芸能殿として保存している



小雨になるのを待って走って駐車場に戻る。駐車場は平日にもかかわらず満車状態だった

撮影 平成29年5月15日
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市宮町)

2017年07月01日 | 神社・仏閣
世界遺産 富士山本宮浅間大社
全国に約1,300社ある浅間神社の総本社だけに、外すことのできない場所である
ネットでは駐車場が分かり難いとの書き込みがあったので注意深く走った



狛犬






浅間大社の流鏑馬は、社伝によると建久4年(1193)源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬を奉納し武運長久・天下太平を祈願したことから始まるとされている



800余年の伝統を持つ神事で、この台座には祭儀の様子が彫刻されている






楼門
本宮社殿は、慶長9年(1604)徳川家康が奉賽のために造営
寛永安政等の大地震で破壊したものもあるが、当時の建物で現存するのは本殿・幣殿・拝殿・楼門



楼門に掲げる扁額「富士山本宮」は聖護院入道盈仁親王の筆で文政2年に制作されたもの



鉾立石
楼門前の石段上にある自然石



明治初年まで行われていた山宮御神幸の際、神鉾を休め奉った所



手水舎



楼門の先にみえるのが拝殿



境内の案内板



参拝者を避けるため拝殿西側を歩く

南極の石
昭和基地に赴いた砕氷船「ふじ」の乗組員が採取し奉納した



火山弾
富士山噴火時に地中の岩漿が溶けて空中に吹き上げられ落下した際に酸化して冷却したもの



富士山「浄砂(きよめずな)」



拝殿
屋根は檜皮葺、外側・内側は丹塗となっている






極彩色は蟇股・虹梁彫刻のみ



祈願絵馬



本殿(重要文化財)
二重の楼閣造で棟高45尺、浅間造りと称しその構造は他に例がない
1階は5間4面葺卸の宝殿造り



2階は間口3間奥行2間の流れ造り



古神札納所



手水鉢
東門から外に出る



社殿の朱色から緑の風景に変化する
富士山からの湧き水で透きとおる美しさだ



水を容器にいれていく参拝者も多い。



天神社



天然記念物 湧玉池
富士山の雪解け水が何層にもなった溶岩の間を通り湧出している。





禊祓所



稲荷神社



人慣れした鴨にカモンと声を掛けたら



泳ぎ去ってしまった。



厳島神社



御神幸道首標の碑
明治の初めまで行われていた「山宮御神幸」に利用された御神幸道に起点の碑



湧玉池に架かる「神路橋(左)」と「神路枚橋」



東鳥居
手前の「神幸橋」の下を流れる神田川の水も美しい



駿州赤心隊の碑



富士山御霊水 水屋神社
東門横にある「水屋神社」に戻る



奥の建物が神社になる



ここから眺める景色が一番美しく感じる。



参拝者が途切れることのない拝殿を見ながら帰路につく



駐車場に戻ろうとすると何か行事でもあったのか神職が歩いていく
調べてみると、この日に月例祭・大社講家内安全祈願祭が予定されていた



撮影 平成29年5月15日
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする