天童山 景徳院
「武田家終焉の地」ということで訪れた
額には山号の「天童山」
没頭地蔵尊
門から小道を20m程上って行く見えてくる
武田勝頼正室(北条夫人)の遺骸を葬った場所されている
木の両側にある柵に近づいてみる
右側には「武田勝頼公生害石」
生害石とは自ら命を絶つための場所として選んだ石のことを云う
左側には「北条夫人生害石」
近くにお堂がある
山門(山梨県指定有形文化財)
繰り返された火災から類焼を逃れた1579年の建立の山門
武田遺臣の一部は家康に臣従し、天正10年(1582)7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、景徳院を創建した
寺名の「景徳院」
左右の格子内には仁王像が。運良くレンズが入るほどのスペースがある
足下から撮ることができるのは稀である
顔も体も逞しい。今は丘陵のようになっているが、昔は私の腹筋もこのように割れていた
本堂
左手の松は「旗竪松」といい、勝頼は武田家累代の重宝旗を大松の根元に立て、楯無鎧を世子信勝に着用させ、擐甲の礼を行った
曹洞宗寺院で、本尊は釈迦如来。地名から田野寺とも呼ばれる
鐘楼
勝頼公時世 「おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端」
下調べもしないで旅をしているため、この場所が墓だと思っていたが、実は違う場所にあるらしい
2006年、山梨県指定史跡「武田勝頼の墓」保存修復中に、勝頼の戒名などを記した大量の経石が発見され、江戸時代中期に供養が行われたことが判った
地下には埋納施設が存在する可能性が指摘されている
姫ケ淵の由来(無料駐車場の奥に川がある)
勝頼と共に落ち延びた北条夫人の身の回りの世話をしていた侍女16名も、武田氏の滅亡と共に命を絶ったとされる
その侍女たちが死を選び、身を投げた場所が姫が淵である
大きな石のレリーフに刻まれているのが、北条夫人と16名の侍女の姿。もう一つの物語である
撮影 平成29年5月18日
「武田家終焉の地」ということで訪れた
額には山号の「天童山」
没頭地蔵尊
門から小道を20m程上って行く見えてくる
武田勝頼正室(北条夫人)の遺骸を葬った場所されている
木の両側にある柵に近づいてみる
右側には「武田勝頼公生害石」
生害石とは自ら命を絶つための場所として選んだ石のことを云う
左側には「北条夫人生害石」
近くにお堂がある
山門(山梨県指定有形文化財)
繰り返された火災から類焼を逃れた1579年の建立の山門
武田遺臣の一部は家康に臣従し、天正10年(1582)7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、景徳院を創建した
寺名の「景徳院」
左右の格子内には仁王像が。運良くレンズが入るほどのスペースがある
足下から撮ることができるのは稀である
顔も体も逞しい。今は丘陵のようになっているが、昔は私の腹筋もこのように割れていた
本堂
左手の松は「旗竪松」といい、勝頼は武田家累代の重宝旗を大松の根元に立て、楯無鎧を世子信勝に着用させ、擐甲の礼を行った
曹洞宗寺院で、本尊は釈迦如来。地名から田野寺とも呼ばれる
鐘楼
勝頼公時世 「おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端」
下調べもしないで旅をしているため、この場所が墓だと思っていたが、実は違う場所にあるらしい
2006年、山梨県指定史跡「武田勝頼の墓」保存修復中に、勝頼の戒名などを記した大量の経石が発見され、江戸時代中期に供養が行われたことが判った
地下には埋納施設が存在する可能性が指摘されている
姫ケ淵の由来(無料駐車場の奥に川がある)
勝頼と共に落ち延びた北条夫人の身の回りの世話をしていた侍女16名も、武田氏の滅亡と共に命を絶ったとされる
その侍女たちが死を選び、身を投げた場所が姫が淵である
大きな石のレリーフに刻まれているのが、北条夫人と16名の侍女の姿。もう一つの物語である
撮影 平成29年5月18日