幸田露伴(1867~1947年)の次女幸田文(1904~1990年)も優れた文章家。
ですが失礼なことに私は長いこと下の名前の読み方が曖昧なまま過ごしてました。
彼女の随筆「みそっかす」に自分の名前のことが書かれています。
父が最も気をつかってくれたのは、離婚して帰って来たその日からの呼びかたであった。もう誰の妻でもなし、またもとの私の娘に還ったのだからと云い、お嬢様と呼ぶように命じたが、長くいついて強気になっていた召使達はあけすけに、「そんなことおかあしくって」と云い放って従わなかった。命令は絶対に遂行させて来た父が、こういう嘲笑にあって黙々としている心中は、私に対するあふれる情が流れていて、親心のもったいなさにしぼむような気がした。斎藤茂吉先生は何事もなげにごく自然に、「大きいお嬢さん」と私を指し、私の連れた小さい娘を「ちいさいお嬢さん」と云われた。父はこれを聞いて、うむと弱く微笑したのを私は忘れられない。晩年臥ついてしまってからは余計耳も悪くなったので、来客との話のとりつぎに私が介在するようになって、皆は文子さんと呼んだので父もまねて、からかう時などには文子さんと呼んだ。たとえば押売りなどとやりあっているのを蔭で聞いていて、「文子さん凄い勢いだな」という具合である。ひとは読みづらがるが私は鍋蓋に猫の髭の文という字も、あやという音のなめらかさも気に入っている。
世間一般の通念に与しない幸田露伴と斎藤茂吉の姿がダンディ。すごく素敵な父子関係!
実家に戻り「こうだあや」に戻った彼女が自分の名前を誇れたのは、この父あってこそですね。
幸田文の墓は、先月訪れた池上本門寺の幸田家墓所内にありました。父の墓と斜めに向き合う場所に、一人の名前ですっくと建っています。
幸田露伴の本名は、幸田成行というんですね。
ですが失礼なことに私は長いこと下の名前の読み方が曖昧なまま過ごしてました。
彼女の随筆「みそっかす」に自分の名前のことが書かれています。
父が最も気をつかってくれたのは、離婚して帰って来たその日からの呼びかたであった。もう誰の妻でもなし、またもとの私の娘に還ったのだからと云い、お嬢様と呼ぶように命じたが、長くいついて強気になっていた召使達はあけすけに、「そんなことおかあしくって」と云い放って従わなかった。命令は絶対に遂行させて来た父が、こういう嘲笑にあって黙々としている心中は、私に対するあふれる情が流れていて、親心のもったいなさにしぼむような気がした。斎藤茂吉先生は何事もなげにごく自然に、「大きいお嬢さん」と私を指し、私の連れた小さい娘を「ちいさいお嬢さん」と云われた。父はこれを聞いて、うむと弱く微笑したのを私は忘れられない。晩年臥ついてしまってからは余計耳も悪くなったので、来客との話のとりつぎに私が介在するようになって、皆は文子さんと呼んだので父もまねて、からかう時などには文子さんと呼んだ。たとえば押売りなどとやりあっているのを蔭で聞いていて、「文子さん凄い勢いだな」という具合である。ひとは読みづらがるが私は鍋蓋に猫の髭の文という字も、あやという音のなめらかさも気に入っている。
世間一般の通念に与しない幸田露伴と斎藤茂吉の姿がダンディ。すごく素敵な父子関係!
実家に戻り「こうだあや」に戻った彼女が自分の名前を誇れたのは、この父あってこそですね。
幸田文の墓は、先月訪れた池上本門寺の幸田家墓所内にありました。父の墓と斜めに向き合う場所に、一人の名前ですっくと建っています。
幸田露伴の本名は、幸田成行というんですね。
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