永子の窓

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源氏物語を読んできて(紫式部の略歴)

2008年04月29日 | Weblog
作者と紫式部(その2)

紫式部の略歴
 
 紫式部は藤原冬嗣の後裔の越前守為時と右馬頭・常陸介藤原為信の女(むすめ)との間に生まれた。かりに式部の年齢を寛弘5年、31歳として逆算すれば、円融天皇の天元元年(987年)の出生となる。もとより正確ではないが、大体この頃と見て大過ないであろう。その兄に惟規・惟道・定暹阿闍梨の3人があり、また一人の姉もあったらしい。曾祖父堤中納言兼輔は延喜時代の有名な歌人であり、三十六歌仙の中にも列している。一門に有名な歌人が多い。                                         

 式部は天性聡明で、幼少の頃、兄惟規が父から史記を習うとき、傍で聞いていて、兄より早く習得したので、父をして「口惜しう男子にてもたらぬこそ幸なかりけれ」と歎ぜしめたと日記にみえている。19歳頃、父が越前守として赴任するとき、式部も父に伴われその任国に赴き、約一年後の秋頃都に帰った。その道中で詠んだ歌が家集や続古今集などに見え、帰京後間もなく右衛門権佐藤藤原宣孝との交渉が始まり、長保元年に結婚した。その頃宣孝は四十八歳くらい、式部は22歳くらいであったらしい。宣孝との間に一女賢子(けんし)を生んだ。(賢子は後冷泉天皇の御乳母越後弁で、太宰大貳高階成章に嫁して大貳三位と呼ばれた女である。)

 夫宣孝は、結婚後わづか2.3年にして没し、式部はその後数年わびしい寡婦生活をつづけた。亡き夫の思い出を守りつつ、その遺児賢子を養育した式部の生活は、当時の女性の経済事情もあって、物質的にはかなり苦しかったものと想像される。しかし作家としての式部の本質は、この不幸な生活によって曇らされることなく、帰ってその才能を琢磨し、あの大きな小説に筆をとらせ、ついにこれを完成せしめたのである。

 こうして、式部は寛弘2年あるいは3年(1006~1007年)12月29日の夜、初めて一条天皇の中宮彰子(しょうし)に仕えた。彼女の日記は、この宮仕え生活において見聞した主な出来事を中心に記録し、これに感想を加えたもので、現在の本は寛弘5年7月、御懐妊により中宮の退出されている土御門殿で、修法が行わせられるところから始まり、翌々7年正月、後朱雀天皇の御五十日の御儀で終わっている。この間彰子に白氏文集の楽府を進講したり、一条天皇が源氏物語を称揚せられて、「この人は日本紀をこそよみ給ふべけれ。まことに才あるべし」と仰せられたため、「日本紀の御局」と呼ばれたこと、また、公任に「若紫や侍ふ」と尋ねられたことなどによって、宮仕え中は、源氏物語作者としての名誉と尊敬を一身に集めていたことが窺われる。
 箏の伝授のことも知られ、源氏物語りに音楽の記述の多い点についても、この方面の教養の深さを察することができる。

 しかし、式部の宮仕え生活の以後は、消息が全く知られていない。出家か死没か不明であるが、長和2年5月(1013年)から万寿3年正月(1026年)までの間に宮仕えを止めたであろうとされるのが穏当であろう。
(日本古典全書 池田亀鑑校注より)
 
 

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