永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(後宮)

2008年04月26日 | Weblog
後宮(こうきゅう)

 皇后以下の天皇の妻妾の住む内裏の殿舎をさし、后妃や宮人をも総称する。
七殿五舎ある後宮の殿舎のうち五舎は842年に造営されたと思われる。
始め后妃として「妃二名、夫人三名、嬪四名」と規定し、宮人職員として内侍司以下蔵司、書司、薬司、兵司、みかど司、殿司、掃司、水司、膳司、縫司の十二司の職掌と人員を定めた。皇后は例外の地位である。
平安時代には、后、夫人、嬪という名称は用いられなくなって、女御、更衣などの名称になった。

中宮(ちゅうぐう)
 太皇太后・皇太后・皇后の三后または居所を指す名称。

女御(にょうご)
 平安時代初期に后妃が増えたためこの地位ができた。天皇の側室。
平安中期に臣下出身の皇后は女御から出ることになったので、皇后の予備的地位になった。
一人の天皇に対してたくさんいたので、住まわれる殿舎によって、承香殿女御、麗景殿女御、宣耀殿女御、弘徽殿女御、藤壷女御、梅壷女御などがいた。また、地名小路の名称等によって堀河女御、高倉女御や、王族出身の女御は、王女御、かつて斎宮であれば斎宮女御などと呼ばれた。
 
更衣(こうい)
 天皇の着物の着替えに奉仕する役の女官。
後に天皇の寝所に伺候し女御に次ぐ地位になった。
女房(にょうぼう)
宮中や院の御所等で、一室を賜って住み、使える女官のこと。
また、貴族等の家に仕える女性のこと
房には部屋という意味がある。

女官(にょかん)
 宮中に仕える女性の官人。

女蔵人(にょくろうど)
 内侍とほぼ同じ職務内容で一つ下の位。内侍と共に殿上の雑事に従事する。

内侍司(ないしのつかさ)
 常に天皇の側に控え、取り次ぎをし、宮中の礼式等を司る役所。
内侍司の女官のことを内侍(ないし)という。
温明殿内の神鏡を奉っている内侍所(ないしどころ・かしこどころ)に奉仕した。
長官を尚侍(ないしのかみ・しょうし・かんのきみ)といい、官位は初め従五位相当、のち従三位相当。
典侍(ないしのすけ・てんじ)は次官で、定員四人。初め従六位相当、のち従四位相当となる。
掌侍(ないしのじょう・しょうじ)は三等官で、定員四人。初め従七位相当、のち従五位相当。
単に「ないし」と呼ぶことも多い。

源氏物語を読んできて(31)

2008年04月26日 | Weblog
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【紅葉賀】の巻 (2)

 紫の上は犬君(いぬき)を相手に雛遊びに余念がありません。この頃の雛遊びとは、御殿に人形を配したり、物語りしながら遊んだようです。

 少納言は、「十に余りぬる人は、雛遊びは忌み侍るものを、かく御夫などまうけ奉り給ひては、あるべかしう しめやかにてこそ」
――十歳をすぎたのですから、雛遊びなどよくないと、避けますのに。こうして御夫君をお持ちになったからには、奥様らしく落ち着いて――などと言います。

 侍女たちは、源氏と共寝をされている紫の上が、まさか、まだ清らかなままでいらっしゃるとは思わず、そう言ったのでした。

 女房たちの話に、紫の上は「われはさは夫まうけてけり、この人々の夫とてあるは、醜くこそあれ、われはかくをかしげに若き人をも持たりけるかな、と、今ぞ思ほし知りける」
――私は、では、夫を持ったのだわ、この人たちの夫は醜いけれど、私は綺麗で若い人を夫に持ったのだわ、と、この時そう思ったのでした――

  藤壺はその頃、里下がりをされていたので、源氏はまたお逢い出来ないものかと、窺い歩くのに夢中で、左大臣邸の葵の上にはご無沙汰、大殿(おおいどの=母君)に苦情を言われます。紫の上を探し取られた噂も面白くない。

それを聞いての源氏のこころ
「心うつくしく、例の人のやうにうらみ宣はば、われもうらなくうち語りて……。疵もなし、人よりさきに見奉りそめてしかば、……おだしく軽々しからぬ御心の程も、自ずからと頼まるる方は異なりけり」
――素直に、普通の人のように、恨み言でも仰るなら、私も正直に打ち明けて、お慰めもしましょうに。あなたの態度は別に不完全ではないし、他の婦人より先にお逢い申したのですから、私が大切に思う気持ちを何時かは思い直してくださるでしょう――

それにしても紫の上は穏やかで、重々しいご性格が他の方とは別格だ。

桐壺帝には、藤壺以前に入内されている弘徴殿女御(こきでんのにょうご)がおられました。帝が、源氏の母桐壺更衣を寵愛されたのをうらみ、ひどい嫌がらせをして、とうとう死期を早めたのでした。
弘徴殿女御という方は、右大臣の姫君で、お子様は東宮になっていますが、帝のご寵愛が藤壺に傾いている事への不安と、藤壺の懐妊で男子がお生まれになったら、東宮の立場も
あやしくなるので、気の安まることがなく、いらいらの日々を送っています。

 藤壺のお産が、予定の12月を過ぎても、正月を過ぎてもまだだというので、源氏はいよいよ、自分の子かと、かの時を思い合わされて、罪の深さに「かくはかなくては止みなむ、」
――源氏はこのまま藤壺が崩御され、自分との関係も絶えてしまうのか――

ではまた。

源氏物語を読んできて(内裏図)

2008年04月26日 | Weblog
平安京内裏
「うち」ともいって天皇の日常の居住空間(皇居)で、南北百丈(約303m)、東西七十三丈(約220m)に 築地をめぐらせる。これを「 宮垣」といい、この間に開く門を「 宮門」といった。また宮垣の中に長い 廊が巡らせてある。これを「 内の重」といい四つの 閤門がある。内の重に囲まれた部分は南北七十二丈(約218m)、東西五十八丈(約176m)からなっていて、この中に 後宮が建てられている。

小さくて分かりにくいでしょうが、こんな風に建てられていたようです。

源氏物語を読んできて(政ごと)

2008年04月26日 | Weblog
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◆中将という源氏の役職
 近衛府(このえふ)

「さゆうこんえのつかさ」「このえづかさ」「さゆうのちかきまもりのつかさ」ともいう。
六衛府の一つで宮中の警護や行幸の警備にあたる役所。そこの役人を近衛という。
左右二つの近衛府(左近・右近)があり、大将を長官とし、中将、少将、将監、大尉、少尉.....という官職がある。

◆太政官(だいじょうかん)

 東西五十六丈(約170m)、南北40丈(約121m)で、正庁は南門の正面にあり、官の庁・曹司・曹司の庁・庁事・上庁・官の曹司等といった。
南面を表とし、北と南にそれぞれ3つの石階(いしのきざはし)があった。
東庁は東堂ともいい、西庁は弁官庁・朝庁ともいった。
正庁から東西にのびている廊下を卯酉廊(ぼんゆうろう)、そこから南へのびている廊下を子午廊(しごろう)という。
敷地内の石階は全て3段のものだった。

 律令官の最高機関で、 八省及び諸国を司り、政治を管理する所で、現在の内閣のような場所。
 オオイマツリゴトノツカサ・カンノツカサともいう。
 大宝令(701年)の規定では、どの役所も四部官といって役人を四等に分け、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)に割り当てた。

 太政官も大臣を長官、納言を次官としたが、政務が多く忙しいことから、官内を三局に分け、少納言・左右弁官を判官とし、外記・左右史を主典とし、納言・参議以上がこれを司った。(一般に参議以上を公卿と呼ぶ)
 この少納言局・左弁官局・右弁官局の三局の役人をカンノツカサ・上官ともいった。