永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(箏・そう)

2008年04月29日 | Weblog
◆箏(そう)
現在のいわゆる十三絃の「お琴」(箏)と基本的に同じであるが、とくに雅楽の箏を楽箏(がくそう)とよぶ。

 古来からあった「こと」や「ふえ」などの素朴な楽器に加えて、中国大陸から雅楽とともに多くの種類の楽器が入ってくると、演奏方法も音色も豊富になった。神楽や舞楽の舞の伴奏音楽としても使われたが、貴族の遊びとして楽器だけの合奏が重視されるようになると、個々の楽器がたいせつに扱われるようになり、名器が生まれ、名前がつけられた。

源氏物語を読んできて(34)

2008年04月29日 | Weblog
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【紅葉賀】の巻 (5)

 宮中には、美しく気だての良い宮仕えの女官が多くいらっしゃいます。源氏は幼少の頃から見慣れているせいか、女の方から冗談めかしてのお誘いにも、適当にお返事をして決して乱れないのを、物足りないと思う女達もいるようです。

 典侍(ないしのすけ)という、年老いた女で、人柄もそれなりに、才覚もありながら、ひどく浮気っぽい性質のものがおります。源氏は「かかるもをかしうて」――こんな老婆もまたおもしろかろう――と、遊び心を出します。頭の中将(葵の上の兄)が嗅ぎつけて、何かの折りの、からかいの材料にしようとしたりして、二人とも似たり寄ったりで、かなりふらついていた時期でした。
ではまた。

 ここでも、作者は、典侍の年甲斐もない無ざまな、あだっぽさを、執拗に書き上げていきます。この辺りは長すぎるので、省略します。

 7月になって、藤壺は中宮にお立ちになり、源氏は参議になります。

 帝は御譲位なさろうと御用意なされて、この藤壺腹の若宮を東宮にと、お思いになるものの、しっかりとした後見人がいらっしゃいません。

「御母方、みな親王たちにて、源氏の公事(おほやけごと)しり給ふ筋ならねば、母宮をだに動きなき様にし置き奉りて、つよりにと思すになむありける。弘徴殿、いとど御心動き給ふ、道理なり」
――藤壺方の人々はみな、皇子で、中には源姓の人がいても、今は藤原氏の世で、摂政関白として政務をみる筋合いではないので、せめて母宮の藤壺だけはしっかりとした地位に、お置き申して、若宮のお力にと思われるのでした。弘徴殿女御は大層ご立腹なさいますのも、これまたもっともで御座います――

 帝は藤壺に「東宮の御世、いと近うなりぬれば、疑ひなき御位なり。思ほしのどめよ」
――東宮のご即位が近くなったのだから、あなたは疑いもない地位(皇太后の地位)だ。
安心なさい――

 しかし人々は「東宮の御母にて二十余年になり給へる女御を置き奉りては、引き越し奉り給ひ難き事なりかし」
――今まで東宮の御母として二十数年おいでになった弘徴殿女御を差し超えては、なかなか難しいことでしょうに――

 源氏は、ますます高い地位にあげらてた藤壺(中宮)との間を
うた「つきもせぬ心のやみにくるるかな雲井に人を見るにつけても」
――思う人が及びもつかぬ所へ昇ったのを見るにつけても、じっとしていられない――

御子は成長されるに従って、ますます源氏に似てこられ、藤壺は大層苦痛に思われるが、帝をはじめ、だれも気づく人はいないようです。
「月日の光の空に通ひたるやうにぞ、世の人も思へる」
――源氏と若宮とが似ておられるのを、まるで月と日とが、大空で似通っているように、世間の人も考えていました――
「紅葉賀」の巻 おわり。

源氏物語を読んできて(紫式部の略歴)

2008年04月29日 | Weblog
作者と紫式部(その2)

紫式部の略歴
 
 紫式部は藤原冬嗣の後裔の越前守為時と右馬頭・常陸介藤原為信の女(むすめ)との間に生まれた。かりに式部の年齢を寛弘5年、31歳として逆算すれば、円融天皇の天元元年(987年)の出生となる。もとより正確ではないが、大体この頃と見て大過ないであろう。その兄に惟規・惟道・定暹阿闍梨の3人があり、また一人の姉もあったらしい。曾祖父堤中納言兼輔は延喜時代の有名な歌人であり、三十六歌仙の中にも列している。一門に有名な歌人が多い。                                         

 式部は天性聡明で、幼少の頃、兄惟規が父から史記を習うとき、傍で聞いていて、兄より早く習得したので、父をして「口惜しう男子にてもたらぬこそ幸なかりけれ」と歎ぜしめたと日記にみえている。19歳頃、父が越前守として赴任するとき、式部も父に伴われその任国に赴き、約一年後の秋頃都に帰った。その道中で詠んだ歌が家集や続古今集などに見え、帰京後間もなく右衛門権佐藤藤原宣孝との交渉が始まり、長保元年に結婚した。その頃宣孝は四十八歳くらい、式部は22歳くらいであったらしい。宣孝との間に一女賢子(けんし)を生んだ。(賢子は後冷泉天皇の御乳母越後弁で、太宰大貳高階成章に嫁して大貳三位と呼ばれた女である。)

 夫宣孝は、結婚後わづか2.3年にして没し、式部はその後数年わびしい寡婦生活をつづけた。亡き夫の思い出を守りつつ、その遺児賢子を養育した式部の生活は、当時の女性の経済事情もあって、物質的にはかなり苦しかったものと想像される。しかし作家としての式部の本質は、この不幸な生活によって曇らされることなく、帰ってその才能を琢磨し、あの大きな小説に筆をとらせ、ついにこれを完成せしめたのである。

 こうして、式部は寛弘2年あるいは3年(1006~1007年)12月29日の夜、初めて一条天皇の中宮彰子(しょうし)に仕えた。彼女の日記は、この宮仕え生活において見聞した主な出来事を中心に記録し、これに感想を加えたもので、現在の本は寛弘5年7月、御懐妊により中宮の退出されている土御門殿で、修法が行わせられるところから始まり、翌々7年正月、後朱雀天皇の御五十日の御儀で終わっている。この間彰子に白氏文集の楽府を進講したり、一条天皇が源氏物語を称揚せられて、「この人は日本紀をこそよみ給ふべけれ。まことに才あるべし」と仰せられたため、「日本紀の御局」と呼ばれたこと、また、公任に「若紫や侍ふ」と尋ねられたことなどによって、宮仕え中は、源氏物語作者としての名誉と尊敬を一身に集めていたことが窺われる。
 箏の伝授のことも知られ、源氏物語りに音楽の記述の多い点についても、この方面の教養の深さを察することができる。

 しかし、式部の宮仕え生活の以後は、消息が全く知られていない。出家か死没か不明であるが、長和2年5月(1013年)から万寿3年正月(1026年)までの間に宮仕えを止めたであろうとされるのが穏当であろう。
(日本古典全書 池田亀鑑校注より)