Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

越木岩神社(2014年12月13日参拝)

2015-01-24 | 神社
今日は正月用の酒を買いに兵庫県の某店へ。



飛露喜大吟醸と兼八を定価単品でゲット。
良い正月を迎えられそうです。(^^

その帰りに寄ったのが前から気になっていた越木岩神社です。



所在地:兵庫県西宮市甑岩町5-4
御祭神:市寸島比売命
創建:不明


【由緒】
創立不詳といわれるぐらい由緒深く、
甑岩を霊岩とし、今なお全国的に信仰を集めています。
また、古代信仰の磐境・磐座祭祀と呼ばれ学術上でも貴重とされています。

今を去る千年前の延喜式神名帳に大国主西神社が記録されていますが、
そちらが当社であろうと云われています。

正保年間(西暦1644年頃)に社殿が再建され、
明暦二年(1656)の八月十六日に円満寺の教順僧侶が、
「福神」の総本社西宮神社より蛭子大神を勧請し、蛭子太神宮と称しました。

以後、数回社殿は修復されたましたが、
現在の見事な片削破風羽流造のご本殿は昭和十一年に、
また、拝殿は昭和五十八年に御造営となったものであります。



【拝殿】




無料駐車場に車を停めて、まずは参拝。

なかなか美しい拝殿で気持ちがいい。


【狛犬】



【鳥居】



【噴水】


何故か鯛のような魚のオブジェがありました。(笑)


【土社】





【岩社参道】


良い雰囲気です。


【本殿】



【鳥居】


お目当ての甑岩が見えてきました。
楽しみです。


【土社】


市杵嶋姫命が祀られていました。

後ろの巨石が凄い。


【伊勢神宮・宮中三殿遥拝所】



【大崎稲荷社・白玉稲荷社】



【六甲山社】


とりあえず境内社を先に参拝して、
じっくり甑岩を見るとしよう。


【甑岩】




高さ10メートル、周囲40メートルの形状が酒を造る時の甑に似ているので、
甑岩と名付けられています。






実に立派なものです。






ここだけが不自然に現代的なんですよね。


【刻印】


池田備中守長幸家紋。
大坂城築城する際に切り出そうとしていた時の城主の刻印だそうです。

最初見た時は誰かがイタズラしたのかと思ってたよ。(^^;
正直すまんかった。

触ってもよし、とのことでしたので触っておきました。(笑)


【風景】


大阪方面です。


【参道】


さらに上に行くと北の磐座があるそうなんで行ってみた。

この辺はちょっと寂しい雰囲気で、
普通の参拝者は行かないようです。

すんません、普通じゃなくて。(苦笑)


【貴船社】


雨乞社とも呼ばれ、貴船大神・龍神が祀られていました。


【北の磐座】


稚日女尊が関係あるそうですが、
磐座はどうも男のアレに見えちゃいますよね。

女性の神に男性のシンボル。

遠い昔、妊娠・安産を祈願でもしたのだろうか。


【本殿】


裏参道から見た本殿です。


【境内社】




拝殿横に鎮座しておりましたが、
社名、御祭神は不明です。


【大坂城築城の残石】







【水神社】



【不動明王】


お~、ここでお不動さんにお会い出来るとは嬉しい。


【御朱印】

寛永寺・不忍池辯天堂(2014年12月7日参拝)

2015-01-23 | 仏閣
本日最後の参拝となるのが不忍池辯天堂。

本当は鬼子母神や湯島天神や根津神社とか行きたかったけど、
チャリンコ漕ぎ過ぎて疲れたので、今日はこのぐらいにしといたろ。(笑)


所在地:東京都台東区上野公園2-1
宗派:天台宗
御本尊:八臂大辯財天
創建:寛永年間
開基:水谷伊勢守
札所:谷中七福神、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場


【歴史】
不忍池の中にある弁天堂は寛永寺の堂宇の一つである。

建立は不明だが寛永寺が創建されて間もない頃だといわれる。

天海僧正が寛永寺を創建した時に水谷伊勢守勝隆とはかり、
比叡山の近江の竹生島になぞらえて、不忍池の中に中島を築いて、
弁財天をまつったのがこのお堂だと伝えられている。

弁天堂を配した不忍池の風致は江戸の昔から万人の愛する所で、
大正末期には参道の中程に華麗な竜宮門があり、池の中の竜宮城を思わせたが、
昭和20年3月の空襲により焼失。
 
昭和33年本堂を再建、池の四方八方から見られるようにと、
八角形のお堂にしたといわれる。


【不忍池】


冬はさすがに蓮も枯れて寂しい雰囲気です。

露天でたこ焼き購入。
美味かったけど8個で500円って、たこ焼きも高くなったなぁ。(^^;


【本堂】


正面から見ると門のように見えますね。






竹生島宝厳寺より勧請された御本尊は慈覚大師の作と伝えられるが、
普段は秘仏で金色の厨子に安置されています。

巳成金大祭の時のみ御開帳だそうです。


【野鳥】






しばし野鳥と戯れる。


【本堂】


横や後ろから見ると八角堂なのが分かります。


【鎮守社】



【鴨】



【鳥居】


小さな橋の向こうに鳥居と祠があった。
聖天島というらしい。

神社名、御祭神とも不明。

祠の横に男の立派なアレの石があった。
ビンビンに勃っていました。(笑)

ズームで撮ったけど、18禁のせいか酷いピンボケで、
写真をアップ出来ないのが残念で仕方ない。(苦笑)


お詫びに梅宮辰夫のシンボルロックをご紹介します。(笑)




【大黒天堂】


豊太閤護持の大黒天が祀られているみたい。

でも、徳川家康は秀吉の墓所をはじめ、徹底的に破壊したはず。

それなのに秀吉が護持していたとされる大黒天を、
寛永寺に祀るのは何か理由があるのでしょうか。


【御朱印】


上手くは無いけど豪快な筆さばきがいい。


これにて東京上野周辺の寺社参拝終了。

以前、浅草寺とかいろいろ巡ったけど、
東京って思ってたより見所いっぱいの寺社が多い。

次は深大寺や池上本門寺とか行ってみたいね~。

花園稲荷神社・五條天神社(2014年12月7日参拝)

2015-01-22 | 神社
バコタ薬師堂と清水観音堂の間に神社があった。
鳥居を見ると稲荷神社のようだ。


<花園稲荷神社>
所在地:東京都台東区上野公園4-17
御祭神:倉稲魂命
創建:不明


【由緒】
御創祀の年月は不祥です。
古くからこの地に鎮座し忍岡稲荷が正しい名称ですが、
石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われていました。

承応3年(1654)、天海大僧正の弟子本覺院の住僧晃海僧正が、
霊夢に感じ廃絶していたお社を再建し上野の山の守護の神としました。

幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地として知られています。
明治6年(1873)に岩堀数馬、伊藤伊兵衛等の篤志家によって再興され、
花園稲荷と改名、五條天神社が現地に御遷座になるに及び、
社殿も南面して造営され神苑も一新されました。

お穴様の左奥にありますお社は、古書に弥佐衛門狐と記され、
寛永寺が出来る時忍岡の狐が棲む処が無くなるのを憐み、
一洞を造り社を祀ったと云われます。


【鳥居】



【狛犬】


耳が垂れ下がっていて初めて見るタイプの狛犬でした。


【朱鳥居】



【拝殿】


こちらで早速お参り。
宝くじが当たりますように。(笑)




こちらは穴稲荷の拝殿のようで、
神徳惟馨と書かれた扁額がありました。

よく見ると伊藤博文と書かれていたので、彼の字なんでしょう。

神徳惟馨とは、
神徳(しんとく)惟(こ)れ馨(かぐわ)し。


【穴稲荷】






感度を上げて撮影していますが、
稲荷さんだけあって薄暗い雰囲気です。

夜に行ったら怖いぞ。(^^;


【蔵】



【御朱印】


同じ境内に鎮座する五條天神社の社務所でいただきました。



<五條天神社>
所在地:東京都台東区上野公園4-17
御祭神:大己貴命、少彦名命
創建:伝・景行天皇朝(伝・110)
社格:村社
札所:東都七天神


【由緒】
景行天皇の御宇、日本武尊東夷征伐の為、武蔵忍岡を御通行の砌、 
大己貴命(大国主命)、少彦名命二柱の大神の奇瑞を現し給うことあるに依って
同所に両神を勧請せられたのが当社の創祀であると伝えられる。

相殿に菅原道真公を祭祀したのは社名の天神と呼ばれたるにより、
菅神の尊像なくてはとて寛永十八年道真公の尊像を造り、
天海大僧正並びに毘沙門堂公海が開眼供養を修したのであると伝う。 

寛永寺拡張のことなどに依り当時の社地天神山より暫く、
当社別当にて連歌師たる瀬川屋敷内に遷座されていたが、
昭和三年九月廿二日に当地に御遷座し奉った。 

当社は古より醫薬の祖神として尊崇されている


【鳥居】


花園稲荷神社と五條天神社はどちらかが境内社かなと思ったけど、
巫女さんに聞いたら別々の法人があるということでした。


【七福社】


江戸時代に上野の繁栄を願い、山内各門に祀られた祠の一つだそうです。


【拝殿】







【舞殿】



【御朱印】


二種類あって印が大きい方をいただきました。
印が小さい方は印が二つ押印されます。

寛永寺・清水観音堂(2014年12月7日参拝)

2015-01-21 | 仏閣
バコダの後は清水観音堂へ。

この上野公園には寛永寺のお寺が点在してるんですね。

観音堂の前に来ると長蛇の列。
後で調べてみると上野の森美術館で進撃の巨人展がやっていたようですね。

それにしても凄い人気です。


所在地:東京都台東区上野公園1-29
宗派:天台宗
御本尊:千手観音菩薩
創建:寛永8年(1631)
開山:天海大僧正
札所:江戸三十三観音霊場、東京三十三観音霊場30


【沿革】
寛永8年(1631)に天台宗東叡山寛永寺の開山、
慈眼大師天海大僧正によって創建されました。

天海大僧正は寛永2年(1625)に、二代将軍徳川秀忠から寄進されていた、
上野忍が岡に平安京と比叡山の関係に倣って東叡山寛永寺を開きました。

比叡山が京都御所の鬼門を守護、王城の鎮護を担うと伝えられるのに倣い、
江戸城の鬼門の守りをも意味しました。

比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を、
次々と建立した中の一つが清水観音堂です。


【紅葉】


後ろに見えるのが観音堂です。


【参道】



【観音堂】


堂内は狭いながらも良い雰囲気でした。

撮影は残念ながら不可。
寛永寺は撮影不可ばっかりだなぁ。(泣)


【御堂】



【月の松】


枝を○にすることが出来るんですね。

関西ではあんまり知る人はいないと思いますが、
歌川広重の連作浮世絵シリーズ名所江戸百景と同じらしいですね。

昔の人々と同じような風景を見たかと思うと感慨深いですが、
参拝した時は知らなかったので、丸い枝が珍しいなぁ、と思っていただけでした。(^^;


【観音堂】


舞台から不忍ノ池方面を見るよりも、
ここから観音堂を見る方がいいですね。

桜が咲いている時は最高だろう。


【紅葉】







【御朱印】

寛永寺・パゴダ薬師堂(2014年12月7日参拝)

2015-01-20 | 仏閣
上野東照宮から上野公園を少し歩いてパゴダ薬師堂に到着。

パゴダと上野大仏が見所らしい。



所在地:東京都台東区上野公園8
宗派:天台宗
御本尊 薬師瑠璃光如来



【沿革】
正面の丘はかつて大仏山と呼ばれ、丘上にはその名の通り、
大きな釈迦如来坐像が安置されていた。 

最初の大仏は越後村上藩主堀直寄が寛永8年(1631)に造立した、
2.8メートル前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであった為、
正保4年(1647)の地震により倒壊してしまった。
 
明暦~万治年間(1655-1660)には木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、
3.6メートルをこえる青銅製に堂々たる釈迦如来坐像を像立した。

その後、元禄11年(1698)輪王寺宮公弁法親王が、同像を風雨から覆うための仏殿を建立。
天保12年(1841)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、
天保14年(1843)には、最初の造立者堀直寄の子孫堀直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建。

しかし明治6年(1873)上野公園開設の際に仏殿が取り壊され、
大正12年(1923)の関東大震災では大仏の面部が落下、
第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出した為、
面部のみが寛永寺に遺った。
寛永寺では、昭和47年(1972)丘陵上野左手に壁面を設け、
ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。


【紅葉】




まだ紅葉が残っていますね。
関西より一週間遅いって感じですかね。


【パゴダ】



 
お~、これはなかなか印象的な仏塔ですね。

これは上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとする為に建設したもので、
昭和42年(1967)3月着工、同昭和42年(1967)6月に完成。

中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。
この薬師三尊像は江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、
明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管しパゴダの本尊として迎えられた。

残念ながら撮影禁止でした。




後ろに行くと苔生していい感じでした。


【上野大仏】


しかし関東大震災でよりによって頭部が落ちたとか、
当時の寺の方々は衝撃を受けたでしょうね。


【時の鐘】


寛文6年(1666)に鋳造の鐘で、
近辺に住んでいた江戸市民に時刻を知らせていたそうです。

私がこちらに参拝している時に良い音を響かせていました。


【御朱印】




清水観音堂でいただきました。

売店がありましたが、女性が何かいろいろ粘っていましたので、
ここでいただけるかは確認出来ませんでした。