前にデペンデントハウスについてこのブログで書いたことがあります。京都では敗戦の翌年、21年には府立植物園が接収され、占領軍将校家族用住宅DHがおよそ100棟(200世帯ほどか?)も建てられました。当然たくさんの樹木が切り倒されてしまいました。
京都在住の友人の熊井隆一さん、年齢は30歳近くもわたしよりも上ですが、戦後の数年間、京都GHQで働いておられました。「来年の米寿にあわせて自分史の本を出したい」と2年前に話しがありました。人生80有余年の貴重なお話しをこれまで何度もお聞きし、やっと私流の文章にまとまりました。DHにも出入りしておられました。題名はまだ決まっていませんが、88年間の人生の記録はいま出稿前の最終確認中です。年明け早々には本になる予定です。
デペンデントハウスDHの書き替えた文を再録しましたのは、見知らぬ学生さんからDHについての問い合わせコメントをいただいたからです。お名前は坂野さんですが、卒論執筆中で少年野球がテーマだそうです。DH内の小学校にはグランドもプールもテニスコート、室内運動室も揃っていました。そのころ、わたしたち少年仲間は三角ベースで皮グローブもなく、母親に頼んでぼろ布製グローブもどきを自慢しあったものです。
坂野さんの参考になればと思い、書き替えた文を掲載します。いちばん参考になった資料は『占領軍住宅の記録』上下巻(住まいの図書館出版局・1999年刊)。年明け出版の本には参考文献として載せようと思っています。
すばらしい卒論が完成しますことを願っています。なお下記文の「わたし」は戦後、京都GHQで働いておられた語り手の熊井さんです。
アメリカ軍将校用家族住宅、デペンデントハウスDHについて知るひとはいまでは少ない。住宅地区は立ち入り禁止で、GHQの発行した許可証パスポートを持っていないと日本人は入れません。わたしのようなクラブハウスに出入りする者とか、家族住宅で働く日本人メイド、作業員とか以外は敷地内の建物をみたこともありません。京都の植物園周囲は森のように高い木が取り囲み、鉄条網でふさがれています。外からはなかの様子を知ることもできません。DHのことは話しの横道ですが、そんな時代があったということで書いておきたいと思います。
昭和二十年暮れ、GHQは日本政府にDH二万戸の建設を命じました。国民は住む家もないときです。当初は日本住宅、なかでも大きな洋館とか日本式豪邸、ホテルなどを住宅用に接収していましたが、二一年ころからは将校の家族が続々と日本にやって来ます。接収住宅だけでは建物が足りません。アメリカ軍は少尉以上の将校は、どこの国に赴任しようが家族と同居します。戦闘中や戦線に出ているときは別ですが、安全が確保されると家族がみなやって来ます。妻や子が特別な事情で国を離れることができない場合は別ですが。
ところでDEPENDENTはインデペンデント「独立」の反対の語で、「扶養家族」「依存する」とかに訳されます。かつてヨーロッパから未知の新天地に家族そろって移住し、また幌馬車に家族全員が家財道具を積み込んで荒野を目指したアメリカ人です。家族の絆(きずな)を第一に考えて生活する彼らを象徴する言葉のように思います。
独身者や単身者は、ルームサービスや食事のついているホテルに住みました。家族連れはホテルでは部屋数も少なく狭く不便です。日本人なら家族四人か五人でも狭い平家で二間の居間と小さな台所、風呂なしで便所があれば十分恵まれていました。そんな狭いけれども極楽のような住まいに、たとえ賃貸であろうが住むことが日本人家族の夢だったのです。日本の都市はほとんどの住宅が、空襲で燃えてなくなっていたのですから。
GHQが要求した二万戸のDH建設は、当時の日本にとってとてつもない注文です。建築資材は不足していますし、建設費や調度品費などすべて政府の戦後処理費が当てられるのです。復興に全力を注ぐべき時期にこの要求です。
現在の駐留米軍基地も同じです。思いやり予算とかいう名目で、日本政府は米軍のために国民の税金を費やしています。特に沖縄県のいまも続く実質の占領状態は、戦後間もなくとほとんど変わっていないと思います。日本国中にいまも米軍人が五万人近くも住んでいますが、全基地の74%が沖縄にあります。
さてDHですが、東京に駐留する連合軍が圧倒的に多いですから、有名なDH街がたくさん誕生しました。主なものをみてみますと、代々木練兵場跡につくられたワシントンハイツ。敷地は28万坪近くもあり、827戸が建てられました。昭和三九年の東京オリンピックのときには選手村になりましたね。
ほかにも東京都内ですと、三宅坂のパレスハイツ、国会議事堂前のリンカーンセンター五十戸。現在参議院宿舎のある場所にはジェファーソンハイツ七十戸。成増飛行場跡六十万坪、いまの練馬区光が丘のグラントハイツには一二六二戸。立川に四一〇戸。横田は四〇五戸。東京都内のDHは全部で五四三七戸(昭和二五年十月一日)
全国のDHをみると札幌二七七戸、仙台九五九戸、横浜二四四九戸、名古屋五七〇戸、京都三九九戸、大阪九七六戸、呉七二九戸、福岡一三二二戸など。たいへんな数の将校用家族住宅がありました。昭和二五年の記録「占領軍家族住宅内訳」では全国合計一三一一八戸が記されています。その内、新築DHは九六〇九戸で、残りの三五〇〇戸ほどは接収住宅などを改修したものです。新築二万戸計画は結局、半数ほどに縮小されたようにみえます。
しかしこのリストでは、地方都市のDH数が記されていません。わたしが知る範囲だけでも、DHは小規模ですが軍港の舞鶴や、空軍が駐留していた小松にもありました。実数はもっと多かったはずです。接収住宅も含めれば、やはり二万戸近かったのではないでしょうか。
広大なDH敷地内には幼稚園も小学校もありました。中学生以上は米国の寮付き学校に入ったり、祖父母や親戚宅に居候したのでしょうね。当然広い運動グラウンドがついています。
オフィサーズクラブという将校倶楽部、オフィサスと発音されます。スーパーマーケットのPX、診療所、美容院に床屋、自動車修理工場、ガソリンスタンド、消防署、門衛所や交番など。大規模な住宅地には教会礼拝堂、大きな劇場などもありました。劇場には二規格があり、小さいものでも二二五人収容、大型の建物は千人分の座席があったといいますから驚きです。
PXはいまの日本のスーパーマーケットと同じで、何でも揃っていました。生鮮食料品、果物、野菜、肉。缶詰、飲み物、日用品、雑貨などなど。当時の貧しい日本人からすれば、別世界の天国のような景色でしたね。なおPXの正式名称は、COMMISSARY POST EXCHANGE。酒保(しゅほ)と和訳されますが、コミサリーは軍隊の糧食販売店です。郵便受付と両替もやっていたわけです。
東京では銀座の松坂屋と和光のTOKYO PXが有名です。基地内やDH街には一般日本人が立ち入れませんので、街のなかにあったPXを外からながめるのが日本人にはたいへんな驚きでした。大きな紙袋一杯に食料品を詰めた兵や婦人が、PXから出てきます。満足な食にありつけない時代ですから、日本人はみなよだれを垂らしそうになったものです。京都は大建ビルの二階にありました。
米軍ではPXですが、もとはヨーロッパの軍隊内にあった兵隊酒場から来た言葉だそうです。日本軍はこれを明治のはじめに酒保と翻訳しました。自衛隊の基地内や駐屯地、自衛艦内の売店は、いまも酒保とPXだそうです。海上自衛隊は酒保、陸上自衛隊はPXと呼んでいます。日本帝国陸海軍と進駐軍の時代からさっぱり進歩していませんね。
ところで一般兵は単身赴任で、カマボコ型兵舎に居住しました。農地に並んでいるビニールハウスを大きくした、もっと丈夫なつくりで、なかにはベッドが整然とならんでいました。アメリカの軍隊を描いた映画にはよく出てきますね。居住者は独身の若者が多いのですが、家族を故郷に残してきた下士官などは、早くアメリカに帰りたかったでしょう。
新築の住宅と接収された日本人の個人所有住宅が将校用家族住宅にあてられましたが、GHQの修理工事仕様にはつぎのように書かれています。
「室内を明るくするように内部天井、壁、木部に明るい仕上げをなすること。この意味において室内各部は監督将校指示に基づき白色または明色を塗装すること」
戦災被害にあわずに焼け残った日本の豪邸の各部屋は、畳をはがしてみな土足の洋間になり、壁も天井も白いペンキが塗られてしまいました。日本が誇る伝統建築の数寄屋内装、書院座敷、床柱などすべてが、真っ白のペンキ塗りになってしまったのです。
ところでDH街に住む将校の奥さんですが、毎日時間を持て余していました。どの家にもメイドがついています。日本人の女性が掃除も洗濯もベッドメークも家事すべてをやってくれます。費用負担はする必要がありません。日本政府が支払っていました。メイドが雑用をすべてこなしてくれます。また幼い子どものいる家では、子守りのベビーシッターもメイドがつとめます。将校婦人は昼はクラブハウスでダベリング、夜は各住宅やクラブハウスでパーティの連続。アメリカに帰国すればたいへんです。メイドを雇うことはまず不可能で、家事や育児に追われるからです。
なお日本人の女性メイドですが、DH内診療所に勤務する看護婦も、みな数週間の訓練を受けてから配属されました。米語だけでなく、アメリカ人の生活スタイルやマナーを知らなければつとまらないからです。研修はメイドスクールとよばれたそうです。メイドの勤務は夕方の五時まで。
パーティのない夜は主婦が主体になっての家族の時間です。昼ご飯は主婦仲間たちとクラブハウスでとり、昼間は何もすることがないアメリカ人の主婦ですが、夫が帰宅する夜になってやっと活躍します。ディナーつくりも主婦の大切な仕事です。その辺は日本人とずいぶん違うようですね。
ところでクラブハウスですが、DH街には必ず建てられました。目的は社交と慰安、運動、修養と娯楽とされていました。室内にはダンスホール・談話室・食堂・バー・カード遊び室・図書館・室内運動場など。屋外にはプールやテニスコートまで揃っています。また遠来客の宿泊用に、ゲストルームもありました。小規模なクラブハウスでも建て坪三三八坪、最大で一三二八坪もあったというから驚きです。
<2012年11月17日 南浦邦仁>
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