長々と続けている「幸福」連載ですけれども少し疲れます。なかなか仕合せな気分になれませんが、先日はいくらか幸福感に浸ることができました。コメントで教えていただいた和菓子店「幸福堂」を訪れたからです。向日町競輪の駐車場に車を止め、南に少し歩くと商店街のアーチが路上高くにあります。お店の場所がわからず、その辺で通行人の女性に聞くと、「左に曲がってすぐですよ」
訪れたのは夕方でしたが、おはぎは売り切れ。おすすめの金団菓子を三個いただきました。ご夫婦でやっておられる小さなお店ですが、創業は13年前とのこと。看板も目立たず、のぼり旗も出ていません。奥さんは「もっと目立つようにしたらいいのに、というお客さんもありますが、夫婦ふたりで細々やっている店です。お馴染みさんだけに来ていただいたらいいとも思っています」
どうもご主人の定年か脱サラではじめられたようですが、いい店をひょんなご縁で知ったものです。キントンの和菓子はおいしかった。この甘くておいしい味が、わたしに幸福感をもたらしたようです。ご教示、ありがとうございました。近いうちにまた行って来ます。「甘味はひとを幸福にする」という女性がかつておられましたが、本当だなあと納得しました。
さて江戸時代から明治にかけて、字「幸福」がいつ誕生し、また「かうふく」「こうふく」と読まれだしたのはいつなのか? ある程度わかってきましたが、本日は一足飛びで戦後現代の辞事典の「幸福」をみてみます。「幸福」の読みはどれも「こうふく」で、各解釈は幸福の定義でもあるわけです。
わたしには『新明解国語辞典』第5版(1997年)がいちばんぴったりします。これなら幸福に手が届きそうだからです。バブル崩壊の数年後の記述ですが、時代世相が言葉の解釈に影響している可能性を感じます。それから東京堂出版『類義語辞典』(1972)も気に入りました。また傑作は、2002年『事典 哲学の木』。ほかはハードルが高過ぎるように思います。
それにしても漢和辞典はどれも紋切で味気ない。実は近ごろ、明治期の漢語辞典をあれこれみているのですが、同じように金太郎飴です。「しあわせ」か「さいわい」としか書いてないのです。不思議です。しかしどうでもいいようなことを、ムキになって追いかけるわたしは、よほどの暇人なのでしょうね。時間に恵まれていることこそ「さいはひに」でしょうか。
1946年「日本国憲法 第13条」(辞典ではありませんが、戦後官語「幸福」の誕生ですのであえて記します) すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。(1776年アメリカ合衆国独立宣言「生命、自由および幸福の追求の含まれること…」。13条の生命自由「幸福」は、独立宣言のコピーです。戦後最初の幸福宣言は、アメリカの写しなのです)
1954年『日本国語大辞典』 恵まれた状態にあって不平を感じないこと。満足できてたのしいこと。めぐりあわせのよいこと。また、そのさま。さいわい。しあわせ。(第2版2001年も同文)
1955年『広辞苑』初版 めぐりあわせのよいこと。みちたりた状態にあること。さいわい。しあわせ。
1959年『角川漢和中辞典』 しあわせ。さいわい。
1969年『角川国語辞典』 さいわい。しあわせ。
1970年 現代新書『現代哲学事典』 私達日本人は「幸福」ということばはあまり使い慣れていない。「わが子の倖せを祈る」とか「どうぞおしあわせに」ということばは頻繁に使われても、「自分の幸福」を、正面から語るのは少し面映ゆい感じがする。「幸福の追求」が「利己主義」的な形でしか考えられなかったということが「幸福」の意味が未だに消極的であり、曖昧なままでいる一つの原因になっていると思われる。それでも、あの「生きているのはいいな」という一瞬の幸福感や「ああ、もっといい生活がしたい」という幸福への願いは、誰の胸をもよぎる思いなのである。…
1971年 平凡社『哲学事典』 一般に心身の要求を満たされた状態をいうが、要求およびその主体をいかに考えるかによっていろいろな相違が生ずる。…
1972年 東京堂出版『類義語辞典』 幸福は、客観的な状態であるとともに、本人がそう感じているようなときにいい、比較的持続する時期についていう。
1974年 諸橋轍次『大漢和辞典』修正版 しあはせ。さいはひ。
1981年 東京書籍『中村元 佛教語大辞典』 幸福という語は漢訳仏典の中には見当たらないようである。しかし楽・安楽、利、吉祥という語がそれに相当する。
1981年 小学館『国語大辞典』 恵まれた状態にあって不平を感じないこと。満足できてたのしいさま。さいわい。しあわせ。
1982年『大修館 新漢和辞典』改訂版 しあわせ。さいわい。
1983年『学研新世紀百科辞典』第2版 みちたりた状態の中で、生きる喜びを感じること。さいわい。しあわせ。
1989年 有斐閣『新法律学辞典』第3版「幸福追求権(生命、自由及び幸福追求権)」 憲法13条の保障する人権。アメリカの独立宣言(1776)が、他人に譲り渡すことのできない人権の権利の一つとして幸福追求権(pursuit of happiness)を挙げたことに由来する。憲法3章(国民の権利及び義務)に規定する個別の自由・権利は、いずれも生命・自由・幸福追求にかかわるから、この権利は人権の総則的意味をもち、また、それら個別の自由・権利に含まれない一般的な自由権がここから導かれる。プライバシーの権利、喫煙の自由などがその例。
1991年『広辞苑』第4版 みちたりた状態にあって、しあわせだと感ずること。
1994年 小学館『日本大百科全書』第2版 人間は生きていくなかでさまざまな欲求をもち、それが満たされることを願うが、幸福とはそうした欲求が満たされている状態、もしくはその際に生ずる満足感である、とひとまずいえよう。人間はだれしも幸福を求める。しかし、人がどのような欲求の満足を求めているかに応じて、幸福の内容もまたさまざまである。いわゆる幸福論や人生論は、人間にとって真の幸福とは何かを語るが、語り手によって幸福の内容がそれぞれ違うのも、ある意味では当然であろう。
1994年 偕成社『下村式 小学国語学習辞典』 めぐまれて、不平や不満のないこと。しあわせ。
1997年『新明解国語辞典』第5版 現在の環境に十分満足出来て、あえてそれ以上を望もうという気持を起こさないこと。またその状態。しあわせ。
1998年『岩波哲学・思想事典』 一般的に言えば、幸福とはある主体の欲求ないし要求が持続的に満たされた状態を意味する。幸福の追求は人間にとって自然的かつ不可避の要求であるが、その内実は個々の主体のあり方に依存するため幸福概念の一義的な規定は不可能である。……インド古典において「幸福」を意味する最も一般的なサンスクリット語はスカsukhaである。それは「苦」duh-khaに対する語で、漢訳仏典においては「楽」と訳される。……
1998年 弘文堂『ラルース哲学事典』 人は快楽や喜びと、幸福や至福とを区別する。快楽とか喜びは、さまざまな出来事からわれわれのところにやってくる。幸福とか至福は、われわれが自分自身から引き出すものであり、常に自分たちの手の届く所にある。……
2000年『新潮現代国語辞典』第2版 不満がなくみちたりた状態であること。しあわせ。さいわい。
2001年『旺文社 小学漢字新辞典』第3版 しあわせ。
2001年『旺文社 小学国語新辞典』第3版 心が満ちたりているようす。しあわせ。
2002年 講談社『類語大辞典』 苦しみ・悲しみ・不安などがなく、精神的・物質的に満ち足りている状態。
2002年 講談社『事典 哲学の木』 幸福について書くのは難しい。巷にはいつの時代にも、数多くの幸福論が溢れ、哲学者たちもまた昔から幸福とは何かを論じてきた。しかし、幸福論を読むだけで幸福になれるものなら、こんなに安上がりな話しはないし、いまさら新たに幸福という項目を哲学事典で取り上げる必要もあるまい。とは言うものの、困ったことには、我々はどんな幸福論にも満足できないが、さりとて幸福を求め、幸福について考えることを止めるわけにもいかないのである。…
2006年『大辞林』 不自由や不満もなく、心が満ち足りている・こと(さま)。しあわせ。
2008年『広辞苑』第6版 心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ。
2010年『岩波 日本語語感の辞典』 生きている喜びをかみしめるほど心の満たされる精神状態をさして、会話にも文章にも使われる日常の基本的な漢語。
2010年 ベネッセ『チャレンジ小学国語辞典』第5版 めぐまれていて苦労や心配がなく、心が満ちたりていること。幸せ。
2010年 小学館『新レインボー小学国語辞典』改訂第4版 なに不自由なく、こころに不平のないこと。しあわせ。
2011年『岩波国語辞典』第7版新版 恵まれた状態にあって、満足に楽しく感ずること。しあわせ。
2011年 文英堂『シグマベスト小学国語辞典』第5版 しあわせ。さいわい。
2011年 三省堂『例解小学国語辞典』第5版 満足していて楽しいこと。幸せ。
2012年『新明解国語辞典』第7版 現在(に至るまで)の境遇に十分な安らぎや精神的な充足感を覚え、あえてそれ以上を望もうとする気持ちをいだくことも無く、現状が持続してほしいと思うこと(心の状態)
2012年『大辞泉』第2版 満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。
2012年『ウィキペディア』 幸福(こうふく happiness)とは、心が満ち足りていること。幸せとも。
<2012年11月9日 その後もいくらか追記しています 南浦邦仁記>