ふろむ播州山麓

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万歳(まんざい)の歴史 №4 声聞師

2009-08-23 | Weblog
中世以降、あるいは平安時代末期から、正月の芸能・祝福予祝の千秋萬歳(せんしゅうまんざい)を演じたのは、声聞師・唱門師(しょうもんじ)とよばれた散所民でした。宮家や摂家、有力寺社などに属し、その本所近くにあった地、散所に住む彼らのおおきな仕事は、自らが所属する公卿庭や寺院や神社などの境内清掃でした。
 何も落葉拾いばかりではありません。建造物の修理、作庭とメンテナンス、道路や土塀の築造修理、池さらえ、井戸掘り…。さまざまの雑用を、散所法師とか乞食法師ともよばれた声聞師は、雑用人としてこなしていたのです。
 ところで、境内の鳥獣死骸などの片付けにも当たったか? 意見のわかれるところですが、おそらく河原者を呼んで処理させたであろうと思います。それらに触れれば、ケガレたとみなす時代でした。一時の蝕穢でも、宮中や権門への出入りが当面できなくなってしまいます。長期間にわたって、外出すらも困難でした。
 彼ら声聞師たちは呪能力者とみなされていました。この特殊な能力ゆえ、新年には言葉がもつ呪力によって寿(ことほ)ぎ、祝う千秋萬歳を演ずる、世間が認める資格と能力があったのです。言霊でもって、人間の精神やこころを清める。特殊な呪力者なわけです。しかし彼らは卑賤視され、差別を受けます。畏怖と差別は紙一重、裏と表の関係にあります。
 井戸掘りや池のことも彼らの仕事ですが、どちらも冥界に通じるという土着信仰があります。この世とあの世、生世界と霊死世界の境界にかかわる職業は、往々にして差別されます。

 中世における声聞師たちの仕事ですが、正月早々の萬歳だけでは、生活が困難です。社寺の清掃、その他の祝福芸能にもたずさわりましたが、戦国戦乱のなか、非常に不安定な生活であったはずです。京の寺社はこの時代、ほとんどが何度も燃え尽きています。
 彼らは世の混乱するなか、「金鼓打ち」(こんくうち)を本業としたといわれています。金鼓は金口とも書きますが、江戸期にいう鰐口(わにぐち)のこと。金属の鼓をたたいて、商家などの門口に立ち、唱える経文の威力によって、ケガレをキヨメて回る。
 1446年の記述では「声聞の僧の義にあらず。門に唱えると書くべし。民屋の門に立って、金鼓を打つ者を、唱門師という。家々の門に立ちて、…阿弥陀経を誦して金鼓を打つ故にいう」。室町時代の辞書では声聞師・唱門師は「金鼓打者也」。
 17世紀早々の『日葡辞書』には、声聞師は「舞をする呪術者や占い師のような者で、祈祷や呪術などをおこなう者」とあります。京では1593年より千秋萬歳が豊臣秀吉によって禁止され、多数の声聞師たちが尾張に流されました。そのためか、『日葡辞書』には萬歳マンザイの記述がありません。萬歳は江戸時代に復活するのですが。
 参考:『京都の部落史』巻1前近代編/阿吽社刊
<2009年8月23日 本日より、本名を記すことになりました。南浦邦仁 記>
<追記:その後に『散所・声聞師・舞々の研究』(思文閣出版)を読み、8月に書いた文をいくらか訂正しました。2009年10月10日 南浦邦仁>
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