ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

『看聞日記』と横井清先生

2009-10-17 | Weblog
千秋萬歳の歴史をみていますと、日記記録では『御ゆとのゝ上の日記』、『看聞日記』、『言継卿記』。この三点が長期間にわたり、また内容もくわしい。ただ『御湯殿日記』は代々、宮中女官によって延々と記された公務日記です。一個人が書き残した後両者とは性格がことなります。

 『看聞日記』には思い出があります。この日記の研究第一者である、中世史家の横井清先生とは、かつて京都にお住まいのおり、また岡山総社市に越されたころ、旧著『看聞御記』との絡みで、手紙や電話をたびたびやりとりしました。そして絶版だった『看聞御記』が、改訂版『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界』として、講談社学術文庫版(2002年)が刊行された。
 その年の暮れ、横井先生からこの本が送られて来、同封の手紙に「お電話を頂きまして、まことに有難うございました。[ちょうどその時]裏山の枯竹の始末を手伝っておりました。お陰さまで体を動かす仕事には事欠きません。…師走三十日」

 わたしは長年、横井先生のこの本をちゃんと読まずに、本棚で塵に任せておりました。また原文『看聞日記』(群書類従)に目を通したのは先週がはじめて…。恥ずかしい次第です。やはり、「千秋萬歳中世史年表」完成?に向け、『看聞日記』に近々、取り組もうと思っています。
 さて本日は、横井清著『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界』から、「四季の伏見」一文を引用します。ルビが多いので、便宜的に送り仮名表記はまとめて後ろに掲出します。
 なお『看聞日記』は、著者の伏見宮貞成親王(ふしみのみや・さだふさしんのう)が書き記した応永23年(1416)正月一日から延々、通算三十三年間に及ぶ大冊の日記です。宮は元旦の記載初日、まずはじめに「日記 自今年書始之以不書」。日記、今年よりこれを書き始む。以前は書かず。四十五歳の新春書初めでした。

<横井清文・四季の伏見>まず正月。元旦には「歯固」といって、餅を食べ、七日には若菜の粥(七種粥)、十五日には粥(小豆粥)を食した。正月早々の屠蘇酒も、むろんである。三箇日が明けると千秋萬歳があり、それに三毬打・風流松拍(松拍子・松囃子)・こぎの子遊びなどが、いやさかの新年の訪れを印象づけていた。千秋萬歳は千寿万財とも記され、一種の門付芸であって、家々をめぐって新年を寿ぐ祝言(寿詞)を述べ、いくばくかの米銭を得た。その芸人の多くは散所者であったらしい。散所者という言葉は『看聞日記』にはみえていないようだが、それは、この時代に河原者と並ぶ“賤民”であった。伏見御所では正月四日にこの千秋萬歳の祝言を受けるのが恒例で、貞成は「賜禄」して彼らの期待に応え、その祝言に耳を傾けていたらしい。
 三毬打は左義長とも記されるが、魔除けの慣習であって、本来は宮廷の行事として十五日頃に清涼殿の東庭に青竹三本を結び立て、これを焼いたものである。それが武士や庶民の間にも広まり、門松や注連飾などを焼いた。
 その三毬打と切っても切れぬ関係にあったのが、祝言の風流松拍。風流とは、いろいろな仮装や、意匠の工夫をこらした作り物をさし、松拍は“おはやし”であるが、これに踊りが添う。やはり門付芸の一種で、声聞師(賤民)の雑芸として知られたが、伏見庄では各村の庄民らによる風流松拍の競合があって、異彩を放っており、毎年壽例のこととして伏見御所[貞成邸]にやって来たものである。一例をあげると、貞成が宮家を嗣いだ直後の応永二十五年(1418)の正月七日には「地下殿原衆松拍」がやって来て、「種々、物学(ものまねヵ)異形、其の興少なからず」であったが、十五日には日暮れに「地下松拍」が来、石井村・山村・船津村の各村民が競い合う風で、あたりの人々も見物に群集。「吾代初度」と、殊のほかに喜んだ貞成は菓子(木の実)や【酒樽】を与えて、彼らの祝福を受けた。
 こぎの子というのは、要するに羽根。そのこぎの子(胡鬼子)を板でつくのだから、要するに羽根つきの遊びなのである。この遊びにも本来は消厄除災の願いが籠められていたようで、胡鬼板は三毬打の際に一緒に灰にされたらしい。…おもしろいのは「負態」が付随して楽しまれたことで、これはなにも羽根つきに限るものではなく、どの遊びにもついて回ったのだが、たとえば永享四年正月五日(1432)の例では、伏見御所の男女は「サルラウ」という千秋萬歳の芸を観たあと、男女両軍?に分かれて「こきの木勝負」に興じ、惜しくも負けた女軍は「負態」のために酒席に加わり、男軍と同様に酒を飲まされた。この「負態」という言葉はなじみが薄いが、勝負事に敗れた側がなにか一芸を演じて償うという形では、今日も脈々と生きている。<以上一月の項了>

※<読み参考> 看聞日記:かんもんにっき 看聞御記:かんもんぎょき 歯固:はがため 七種粥:ななくさかゆ 千秋萬歳:せんずまんざい 三毬打:さぎちょう 風流松拍:ふりゅうまつばやし 寿ぐ:ことほぐ 祝言:しゅうげん 門付芸:かどつけげい 寿詞:よごと 散所者:さんじょのもの 賜禄:しろく 清涼殿:せいりょうでん 門松:かどまつ 注連飾:しめかざり 声聞師:しょうもじ 地下殿原衆松拍:じげとのばらしゅうまつばやし 負態:まけわざ
<2009年10月17日 南浦邦仁> [173]
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3 コメント

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Unknown (横井 京)
2019-04-08 01:07:00
はじめまして、ネット検索からこのブログにたどり着き、厚かましくも拝見させていただきました。
清の息子で、京ともうします。
父の著作を大切に読んでいただき本当に感謝しています。
その父ですが、昨日午後四時に、岡山大学病院にて、永眠いたしました。
特に痛みもなく、眠るように、穏やかな様子でした。
前々日までは、歴史の話など、まるで講義をするように、嬉々として私に聞かせてくれていましたので、まだ実感に乏しいというのが本当のところではあります。
いないという実感が、恥ずかしながら乏しいというか。
ただ、父はいなくなっても、父の仕事が残っていくのであれば、こんなに素晴らしいことはないなあ、と思います。
この先も著書をお手元においていただければ、父にとってこんなに嬉しいことはないでしょう。
どうか、よろしく、お願い致します。

ご無礼かなと思いつつも、父とのエピソードを拝見し、とても嬉しく感じましたので、コメントをさせてもらいました。
長くなり、大変申し訳ありません。
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横井京さま (南浦邦仁)
2019-04-10 09:05:32
横井清先生のこと、お知らせくださりありがとうございました。突然の訃報に驚いております。感謝とともに、ご冥福をお祈り申し上げます。
歴史学には無縁なわたしが、先生に京都ではじめてお会いしましたのは、親友の故人・前川む一さんの引き合わせでした。それがきっかけで、本屋業だったわたしは、当時入手が困難だった絶版本の『看聞御記』(横井清著)を、古本屋で見つけては、一冊一冊、先生に郵送しておりました。
当時はアマゾン古書などの便利なインターネットの書籍検索もまだない。そのような時代でした。いまでは化石のような話ですが。
前川さんと三人会。先生からさまざまのお話を聞き、ともに食事を楽しむなかで、わたしは日本中世史の世界にわずかですが、興味を抱きました。
そしてやっと何年もたって原文『看聞日記』(伏見宮貞成親王著)を読み通し、あくまで入門者ですが、まったく新しい世界にほんの少しですが、眼を開くことができたようです。
横井清先生と詩人・前川む一に深く感謝し、合掌いたします。
返信する
ご冥福をお祈り申し上げます (藤正樹)
2020-01-02 12:36:03
横井先生、お亡くなりになったんですね。
桃山学院で大変お世話になりました。
生前に一言お礼を申し上げたかった。
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