十八世紀後半の京都画壇。錦市場の青物大問屋に生まれた画家・伊藤若冲の生涯を一望すると、彼がかかわった寺からの視点で、若冲の生涯を三区分することができそうです。
まず生誕から三十歳代なかばまで。青物問屋の伊藤家「桝源」は浄土宗の寺・宝蔵寺の檀家であった。宝蔵寺はいまも裏寺町通蛸薬師上ル、錦街の彼の生家から徒歩数分の地にある。父母や弟たちの墓も同境内に並んでいます。
ただ天明の大火、そして幕末禁門の変、すなわち蛤御門の変「どんどん焼け」大火のため、二度の業火にみまわれ、墓石の表面はかなり傷んでいます。「どんどん」とは、大砲の轟音です。「とんど」では、ありません。
ちなみに若冲の傑作「果蔬涅槃図」。大根を釈尊涅槃に見立て、周りを野菜果実たちが、悲しみ囲んでいる。実にユーモラスにして、荘厳な画です。この画は、どうも彼の母の菩提を弔うために描かれ、宝蔵寺に寄進された。そして同寺はすぐ近くに位置する浄土宗西山深草派本山の誓願寺に、上納したという伝承があります。
若冲の母・清寿は1779年、八十歳で亡くなっています。若冲六十四歳、石峰寺に全力を注いでいた時期です。野菜涅槃図は、亡き母のために石峰寺五百羅漢造営の途時に描いた傑作のようです。
彼は家族を大切にしたひとです。「果蔬涅槃図」の由来伝承を、その通りであろうと、わたしは信じています。
しかし若冲の墓は、家族の眠るここ宝蔵寺にはない。相國寺と石峰寺の、二箇所にある。だが相國寺の墓は寿蔵です。存命中に立てた生前墓であり、彼の遺骨はここには埋葬されていません。
1800年9月10日、85歳で亡くなった若冲が葬られたのは、黄檗の寺、伏見深草の石峰寺でした。
三十歳代のなかばころ、若冲はおそらく売茶翁高遊外を通じて、相國寺の大典を知る。そして若冲は菩提寺の宝蔵寺から離れ、大典を通じて相國寺と密接な関係を持つ。大典は、若冲にとっておそらく人生はじめて、深い親交をもった親友かつ師であったろうと思います。相國寺との親密な関係は以降、二十年ほども続く。
しかし彼の最高傑作「動植綵絵」三十幅を相國寺に寄進した後、若冲は五十歳代なかばのころ突然、相國寺と袂をわかち、絶縁してしまう。
そして数年の空白期間、このころの彼は錦市場の青物問屋仲間存亡の危機を救うために、全力で渾身を尽くすのだが、このことは追って記そうと思います。
還暦を迎える前、五十八歳の若冲は黄檗山・萬福寺に帰依する。そして萬福寺末寺である石峰寺に、晩年の力すべてを注ぎ込みました。
これから数度、若冲と各寺のことを記します。
<2009年10月18日 南浦邦仁> [174]
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