ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

山本覚馬と「八重の桜」 後編

2013-01-12 | Weblog
山本覚馬は薩摩藩邸の牢から解放された後、京都府の顧問に迎えられた。盲目で歩行もできぬ彼は、新知事の槇村正直を京都府参謀として支える。そして京都の復興再生のために精魂を傾注した。しかし槇村の革新の姿勢は年月とともに、自由を離れ独裁専制に堕す。覚馬は府顧問を9年つとめた後、独裁者と化した槇村と訣別した。
 翌明治12年春、はじめての府会選挙が実施される。選挙権を持つのは5円以上の地租(税)を納める成年男子のみ。また10円以上の納税者は全員が自動的に被選挙人名簿に記載された。立候補制ではない制限選挙であるが、覚馬は予期もせぬことに府会議員に選出された。

 吉村康著『心眼の人 山本覚馬』から、府会議場に現れた覚馬のことを紹介します。
 門人の背に負われて議場に入ってくる覚馬の姿は、なんといっても奇異に映った。京都市民は、よりによって目も見えず足も立たぬ者を議場に送りこんできたーーそんな驚きと侮蔑の入り混じった気分が、多くの議員たちの目の色にあらわれていた。
 そしてこの日の第1回府議会で議長に選出された。
 「あれで、議長がつとまるんかいな」
 「ほんまや、盲目では誰が手を挙げてるか、それさえもわからんやないか」
 「選んだほうも無責任やで」
 しかし山本覚馬の見識そして人物は、議員たちにも府市民にも大きな驚きをもって知られ、認められて行くことになる。

 同明治12年6月12日、同志社の第1回卒業生15人に向かって、山本覚馬ははなむけの言葉を贈った。
 目が見えないということは確かに不自由です。しかし、目が見えないために見えるものがある。物の本質、本当のものといってよいでしょうか。私たち盲人は、目が見えないから、それらが身にまとっている衣裳に惑わされることがないわけです。たとえ衣裳が貧しくとも、美しい心は美しく見えるし、いくら立派な衣裳をまとっていても、よこしまな心はよこしまに見える。あなたがたは目が明いているが、ときには目を閉じて世の中を見てほしい。そうすれば、なにが本物か、なにがニセモノかが判るだけでなく、あなたがたの描こうとする構想が美しい虹となって闇のなかに浮びあがってくるにちがいありません……

参考書 吉村康著『心眼の人 山本覚馬』1986年 恒文社
<2013年1月12日 南浦邦仁>
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