ふろむ播州山麓

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伊藤若冲 生涯と画業 (続)

2013-03-28 | Weblog
 若冲(1716~1800)の謎のひとつに年齢加算があります。享年は数え年齢で85歳です。ところが86、87とか88歳と自ら記した作品が残っている。実年齢に3歳を加算しているわけです。この年齢書きについて、岡田秀之氏は「伊藤若冲 生涯と画業」で、ふたつの説を紹介しておられる。

 まず狩野博幸説では、還暦以降の改元に際してその都度1歳を加算したという「改元一歳加算説」。例としてあげられるのが茶人の川上不白(1719~1807)で2歳か3歳を加算しているが、どうも改元ごとに1歳ずつを足したようだ。ところが若冲が還暦以降に迎えた改元は2度です。安永から天明へ、天明から寛政への2回の改元です。3年上乗せの88歳には届きません。

 もうひとつ紹介されているのが辻惟雄説。若冲は「四」という数字が「死」に通じるため、還暦以降は四のつく年を忌避し、四を五に変えてしまったという説です。65、75、85歳。この3度の1歳加算で享年は88歳になったとします。

 岡田氏は小学館『日本美術全集』卷14ではふたつの説を紹介しておられるが、同氏は「國華」1408号(2013年2月発行)の「伊藤若冲の年齢加算について」で、より詳しく論じています。
 まず民俗学による戦前の調査から、年増し、年違え、耳ふさぎの風習を紹介しておられる。身近な同年齢者が亡くなると、「同齢感覚」という不安畏怖の民間信仰心から、歳をひとつあわてて加えた事実が数多く報告されている。
 また文献史学からは平山敏次郎氏が中世から近世にかけて、年違え、耳ふさぎの加齢があったことを、文献上からたくさんの例をあげておられる。
 耳ふさぎ・耳ふたぎとは、家族のなかのだれかと同年齢者が亡くなったことを知ると、家人は同年の本人には知らせずにあわててモチをつく。正月をいち早く迎え、1歳加齢するのです。そして搗いたばかりの餅を当人の耳に当て、亡者が同年の生者を呼ぶ声をふさぐ。
 また凶作の年にはその年を早く終えるために地域あげて餅をつき、今年におさらばし夏や秋に正月を迎えてしまう。豊作の兆候でも台風などの被害を恐れて、いち早く門松をたてて正月を迎えてしまうこともあった。ただこの風習では地域共同体の全員が早めの加齢を迎えるので、終生の加算が続くとは考えにくい。ただ年に2度正月祝いをすれば年齢加算になりますが。
 なお昔の数え年計算では元旦に、すべてのひとが1歳加齢しました。蛇足ですが。

 個人の年齢加算の例では、まず富岡鐵斎(1837~1924)。彼は数え89歳の大晦日に亡くなった。後1日で90歳を迎えるはずだった。ところが生前にいち早く90歳と年記している。実は89歳の秋に予祝を行い、一足早く卒寿の祝いを済ませて90歳にしていたようです。
 改元加算の代表的人物とされる川上不白について、岡田氏は年齢書きのある遺墨を調査された結果、どの作も「実年齢に一歳加算しているだけで、不白が改元ごとに一歳ずつ加算したような事実は確認できない」としておられる。定説を覆す大発見です。
 司馬江漢(1747~1818)は還暦を期して、実年齢に9歳か10歳も加算している。そのため享年は71・72歳説と81歳説がうまれてしまい、研究者の間ではいまも混乱しているそうです。
 長崎の大悟散人(養老山人)はある年、一時に9歳を加算した。『荘子』の「九年而大妙」か、あるいは禅の「面壁九年大悟」か? また江漢は大悟散人をまねたのではないかともいわれています 
 狩野永岳(1790~1867)は65歳のときに67歳と款記し、その後もずっと2歳の加算を通している。彼も改元とは無縁です。京から江戸に出向いた折り、天気晴朗のなかで不二の山を往復で2度拝んだからではないかとも言われています。

 さて不思議で興味深い年齢加算ですが、わたしも関心があり岡田氏のアドバイスを得て、いくらか調べてみました。例えば「東海道五十三次」で有名な浮世絵師・歌川広重(1797~1858)。彼は13歳のときに一気に4歳加算しました。安藤家は代々幕府の定火消同心をつとめる幕臣ですが、広重の父が急死し家督をつぐために17歳と称し元服した。幼い少年では幕府役人をつとめられず、そのための4歳加算だろうと思います。
 木彫仏で有名な木喰行道上人・明満仙人(1718・1728~1810)は、遊行僧として北海道から九州薩摩まで巡りました。そして各地にたくさんの微笑仏を残しましたが、彼は66歳のときに一気に10歳を加算し、それ以降ずっと10歳上の年齢を押し通す。そのため実享年は83歳ですが、どの古記録にも93歳と記されています。
 木喰は66歳の年に念願の五智如来像を完成させたが、自らの名を「五行菩薩」に改名し年齢も10歳加算した。小島梯次氏は「大きな懸案事項を成し遂げた充実感の中での心機一転のために改名に連動して改年齢が行われたと思われる」(『円空・木喰展 「庶民の信仰」の系譜』図録)

 何人かの年齢加算の例をみてきましたが、歌川広重のやむにやまれぬ加算以外は、すべて還暦を過ぎてから足されています。還暦は人生の一周なので、「還暦過ぎれば歳知らず」という言葉が生きていたように思えます。数え還暦の61歳までは正確に数えますが、過ぎれば年齢加算は個々人、ある程度自由だったようです。先日ある方が「現代では還暦からが誕生です」と言っておられたのが印象深い。
 そして上記のどの人物も江戸後期の生まれです。そのころ画家文人や宗教者には、還暦後の加算は特殊なことではなかったのではないでしょうか。生年は若冲1716年、川上不白1719年、木喰上人1728年、司馬江漢1747年、狩野永岳1790年、歌川広重1797年、富岡鐵斎1837年。実例はこの程度ですが、大悟散人も含め圧倒的に18世紀の生まれが多い。
 これからもっとたくさんの加算例が発見報告されることでしょう。それらによっていつかは解明されるでしょうが、年齢加算にはさまざまの個人の事情がありそうです。それにしても年違え、耳ふたぎ餅の年齢加算は、わたしには理解困難です。
<2013年3月28日>

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1 コメント

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へええ (Unknown)
2013-03-31 19:29:05
年齢のこと、ほんとに、へへえええと驚きました。また続編を期待してます。
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