ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

タイタニックの日本人 (1)

2012-05-22 | Weblog
ちょうど100年前の1912年4月15日、豪華客船タイタニックは沈没しました。このブログで4月に2度、タイタニックのことを書きました。
 ひとつは「タイタニックと宮沢賢治」。童話『銀河鉄道の夜』に、同船に乗って犠牲になった3人、家庭教師の青年と姉弟が登場します。
 それから「タイタニックとマッカーサー」です。マッカーサーが愛した詩に、サムエル・ウルマン作「Youth」<青春>がありますが、この詩にもやはりタイタニックの無線電信のことが出てきます。

 タイタニックには日本人がひとりだけ乗っていました。生還した細野正文(1870~1939)です。彼は後の国鉄、鉄道院の官僚ですが、留学でロシア・ドイツ・フランスをまわり、帰国のためイギリスからタイタニックに乗り込み、アメリカ経由で日本に向かっていました。
 細野の長男は日出児(新潟県中蒲五泉実業高校教諭)、二男は日出男(中央大学名誉教授・交通学)、そして六男の子がミュージシャンの細野晴臣さんです。晴臣氏はなんと、アニメ映画「銀河鉄道の夜」(1985年)の音楽を担当しました。タイタニックからと思われる無線電信のことが、アニメ「銀河鉄道の夜」には出てきます。讃美歌が電信されてきましたが、宮沢賢治の原作にはこの話しはありません。
 タイタニックに乗船したただひとりの日本人の細野は、婦女をさしおいて生き残ったとして受けた非難中傷。また「銀河鉄道の夜」のこと、そのようなことを数度記したいなと思っています。まず第1回はタイタニック沈没時の様子です。乗客総数2207名。死者1500名以上。

 1912年4月14日午後11時40分。タイタニックは氷山に衝突し、わずか10秒ほどで90メートルもの長さの亀裂が生じ浸水がはじまる。

 翌15日午前0時5分。スミス船長は救命ボートの準備と船客(1等と2等客)を甲板に集めるように指示。救命ボートは16隻、折りたたみ式ボート4隻、合計20隻のみが備えられていた。本来、不沈が信じられていたタイタニックには不要なボートである。

 0時15分より、無線係のフィリップスは救助信号CQDと、タイタニックを意味する符号MGYを、繰り返し繰り返し打った。その後0時45分より、当時最近の国際会議で定められていた新救助信号のSOSのことを知り、旧規格のCQDから切り替えた。

 0時30分。「ご婦人と子どもさんは、ボートにお乗りください」とアナウンスされた。乗客の緊張を緩和するために、船のバンドはジャズを演奏していた。

 0時45分。はじめてボートが海面に着水した。しかし乗ったのは定員の半分以下。まだ乗客の危機感は緩く、夫婦連れや独身男性の移乗も認められた。以降、続々とボートが降ろされた。

 0時45分から、急難花火信号を打ち上げる。

 1時。船首から沈みかける。甲板ではバンドが曲「ラグタイム」を演奏した。船尾では3等室の移民たちが押し合いへし合いし、先を争って残ったボートに乗ろうとした。乗務員は空に向って銃を発射した。

 1時20分、それまで定員以下のボートが多かったが、残った艇は定員以上に乗せ出した。

 1時30分、ボートが海面に降ろされると、運転士のひとりが小銃をつきつけて、3等客の移民たちの割り込みを防いだ。

 ある婦人は、愛犬を連れてボートに乗り込もうとして同乗を拒絶され、船に戻って愛犬と運命をともにした。
 デパート王として有名なストラウス夫妻の妻が乗舟を断った。「私はいままで、主人のそばを離れたことはありません。どうして、いま離れなければならぬのでしょう」。夫は乗舟を懇願したが、妻は強く拒み通した。
 アリソン夫妻は、幼いロレーヌと親子3人で船に残った。夫と別れることを拒んだ妻は娘と夫を抱きしめた。1・2等船客の子ども30人のうち、亡くなったのはただひとり、ロレーヌだけである。

 1時45分、前甲板はすでに海中に没し去った。

 2時、タイタニックは船首を海中深くに沈め、船尾は空高く突出していった。

 2時5分。最後のボート、折りたたみ式D号が海面に向って降りていった。2等船客だった細野はこのボートに奇跡的に助けられた。漂流ののち救助船カルパシア号に収容されたとき、生々しい印象の消えない内にと、偶然上着ポケットに入れていたタイタニック備えつけ反故の便せん2枚に当時の模様を書きつけた。ペン書きの細字で、4000字あまりをぎっしりと綴った。このタイタニックのマーク入り便箋は、いまも細野家に保管されている。

 2時10分、甲板ではバンドが讃美歌「主よ、みもとに近づかん」を演奏し始める。「うつし世をばはなたれて、天がける日きたらば、いよよちかく、みもとにゆき、主のみかおを あおぎみん」
 バンド・マスターのハートレイは、仲間とつぎに讃美歌「秋」を演奏した。「友という友はなきにあらねど、たぐいあらねど、たぐいもあらぬは、主なるイエスきみ、うから同胞もおよびはあらじ、誰かわがためにいのちを捨てし。」甲板の上のひとびとは、つぎつぎと極寒の海に放り出される。

 2時17分。タイタニックからの救難信号が終わった。讃美歌の演奏はまだ続いていた。「波ほえたけり、雲きりたてど、ゆく手をさやに示させたまえ。みひかりみつる、とこ世の国へ、わが主イエスよ、ともないたまえ。主よ、主よ、あらしになやむ、この身をつねにみちびきたまえ。」

 2時18分、タイタニックの灯火がすべて消えた。

 2時20分。不沈船とみなが信じていた世界最大の鋼鉄豪華客船が、永久にその姿を消した。

参考『タイタニック号の最期』ウォルター・ロード著 1998年 ちくま文庫
 『海の奇談』庄司浅水著 1961年 現代教養文庫
<2012年5月22日 南浦邦仁記>
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