ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

坂本龍馬とノロウィルス

2007-11-03 | Weblog
十一月十五日は、坂本龍馬の命日です。河原町通蛸薬師下ル、いまは京阪交通社のある場所に、石碑「坂本龍馬/中岡慎太郎/遭難之地」があります。慶応三年(1867年)の師走は冷え込んだ。この日は、新暦に直すと十二月十日にあたります。いまの暖冬と違って、当時の京は、底冷えしたのです。
 龍馬は二三日前から、風邪に悩まされていた。新撰組など、体制派から狙われている彼の身を案じる友人に紹介され、越前福井から京都に戻った竜馬は、海援隊京都屯所であった材木商「酢屋」ではなく、後に受難することになる醤油商「近江屋」に仮寓していました。酢屋も近江屋も、ともに土佐藩御用達でした。そして近江屋前、河原町通の真向かいは土佐藩邸。近江屋の主人、井口新助は龍馬のため、自宅奥の土蔵を住みやすいようにと急遽改築した。龍馬のいた蔵二階の窓外には、はしごを沿え、危急時には裏の称名寺墓地に逃げ込めるようにまで工夫がなされていました。
 しかし龍馬は腹風邪のために厠の遠い土蔵から、河原町通に面する母屋二階に移ってしまう。下痢がひどかった。おそらく生牡蠣を食したための、ノロウィルス感染であろうと思います。
 十五日夜七時ころ、陸援隊隊長の中岡慎太郎が白川土佐藩邸・陸援隊屯所から龍馬を訪ねて来る。白川の藩邸は、いまの京都大学農学部のある所です。近江屋の斜め南向かいにある本屋「菊屋」に慎太郎は下宿していたことがあり、河原町に出るといつも彼は顔を出した。いまは、あぶらとり紙屋「象」という店がある所。この店前には碑「中岡慎太郎寓居跡」があります。
 菊屋の倅、十七歳だった峯吉は土佐藩士や他藩の志士連中からかわいがられた人物ですが、中岡の用をことづかり、八時ころに近江屋に帰ってくる。龍馬と慎太郎の雑談がはずむが、九時ころのこと、龍馬が峯吉にいった。「妙に冷えこむのう。一杯やって暖まろうぜよ。今日はわしの生まれた日じゃ。腹が減った。峯、軍鶏(しゃも)を買うて来よ」。慎太郎は、「それはめでたいのう。俺も腹が減った。みな一緒に喰おうぜよ」。十一月十五日は、龍馬・満三十二歳の誕生日でした。
 この晩の龍馬には、よほど寒気がこたえたようです。下に真綿の胴着を着ていましたが、これは近江屋の主人・新助の妻、スミが龍馬のために四条の真綿屋で買ってきたものでした。そして舶来絹の綿入れを重ねて着ていましたが、これは龍馬がかつて長崎で買い求めた品。その上に黒羽二重の羽織を着て、さらに火鉢を引き寄せていました。龍馬はこの厚着のおかげで、胴体に傷を追うことはなかったのですが、身動きもままならず、額を深く左右に、また右肩などを斬られてしまいます。
 峯吉が木屋町四条の鶏肉屋「鳥新」から半時間ほど後に帰ってきたとき、刺客たちは龍馬、慎太郎、そして従僕の山田藤吉の三人を斬り倒し、去った後でした。龍馬はすでにこと切れていました。峯吉と新助は手分けして志士仲間たちにこの凶行を知らせに走ります。
 刺客逃走後も、ほんの数分、息のまだあった龍馬は、「残念々々」「慎太、慎太。どうした手が利くか」。慎太郎は両手両足と後頭部など十一箇所に深手を負い、右手はほとんど切断の状態でした。しかし彼は「手は利く」と答える。瀕死の龍馬はなおも行燈を提げて隣の部屋までいたり、「新助、医者を呼べ」と階下の主人に声をかける。そして龍馬は「慎太、僕は脳をやられたから、もう駄目だ」を最後の声にして、畳の上に倒れこみ息絶えた。藤吉は翌日、慎太郎は翌々日十七日に死去した。三人の葬儀は十八日に行なわれ、東山霊山に三基の墓はならんでいる。数え年の享年は、龍馬三十三、慎太郎三十、もと力士の藤吉は二十五歳。みな若かった。
 ところで龍馬がトイレの用のために、安全な土蔵二階から、無用心な近江屋母屋に移ったのは、ノロ・ウィルスのためであろう。百科事典「ウィキペディア」によると、このウィルスのため「死に至る例はまれである」と書かれている。龍馬はこのウィルスがために死にいたった、初めての例であろうか。生牡蠣を誰かと一緒に食したのであろうが、当時の記録を読んでみても、仲間や関係者に腹風邪感染者がみあたらない。ご存知の方があれば、一報いただきたい。龍馬暗殺を、ウィルスから解明したいと望んでいます。
<2007年11月3日 南浦邦仁>


 
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