ミャンマー、すなわちビルマの補選は予想の結果で終了しました。アウンサンスーチー率いる野党NLDが圧勝です。しかしわずか獲得総数50にも届かない議席数では、国をかえることは困難です。だが新しい一歩を踏み出したことは喜ばしい。
ところでスーチー女史はかつて京都に住んでいました。1985年10月1日から翌年の6月30日までの9ヶ月間、当時40歳だった彼女は、京都大学東南アジア研究センターに留学していたのです。研究テーマは、ビルマ独立運動の歴史。スーチーの実父、故アウンサン将軍を中心にすえた研究です。将軍は建国の父とされる英雄です。
京都大学名誉教授の濱島義博氏は、京都時代のスーチーについて、次のように記しています。「留学中は、二男キム君と修学院の京大国際交流会館に滞在していた。彼女は、自転車で川端通を同センターまで通っていた。あの裾(すそ)の長い民族衣装のロンジー(スカート)が、車輪にからまるんじゃないかとよく心配して見ていたものだった。」
濱島がはじめてスーチーに会ったのは1977年のこと。首都ヤンゴンの医師宅だったそうです。そのビルマ人医師は濱島の教え子でした。
当時30歳を過ぎたばかりのスーチーは「美しく、穏やかで、洗練された英国式淑女という風情が印象的だった。きれいな英語で話しをする、まことに気品の高い素晴らしい女性であった。」
そして1988年8月26日。ビルマ全土で民主化闘争の嵐が吹き荒れたとき、濱島も40万人の大群衆のなかにあった。
「黄金の輝くシュエダゴン・パゴダの特設ステージの真ん前で、スーチーさんが現れるのを待っていた。/その時の彼女の演説は、決して激しい口調ではなかった。興奮する大群衆をなだめるような優しい表現だった。『平和的手段で、すべての民族が仲良く力を合わせて、民主化を実現させよう』。説得するかのような彼女の姿に、私は非暴力主義を提唱したガンジーの姿をダブらせていた。」
ビルマは京都大学と縁が深い。戦後まだ鎖国中の同国に、日本が医療支援を開始したのは1968年、濱島たちの京大医学チームでした。ビルマ第2の都市マンダレーから車で2時間、南に行くとポルパ山に着く。
「驚いたことには、村に住んでいる四千人全員の目が開かないという」。乾燥地帯に位置するこの村の住民全員が、トラコーマという目の結膜炎にかかっている。慢性化すると上下瞼(まぶた)が完全に癒着してしまう。原因は手や顔を洗う水がないためである。遠く離れた川まで、わずかひとつの小瓶を持って往復するだけで半日を要する。
濱島ははじめて訪れたビルマでこの惨状をみて「少々の抗生物質では、どうにもならない。患者さんを治す前にまず水道を引かなければならない。村の人々の気の毒な生活にすっかりショックを受けてしまった。」
この年から京大医学部のビルマ支援は開始されました。いくつもの病院や医学研究センターも建てられました。日本人専門家は度々指導に訪れ、またたくさんのビルマ研究生たちも京大に留学してきました。1990年にはその留学生たちが世界ではじめて、E型肝炎ウィルスを発見するという快挙を成し遂げます。
これから外国に向けて門戸を開くミャンマー。経済開発ばかりでなく、本物の民生を忘れてはならないと思う。ミャンマー国民の幸福のために。
○参考資料 連載「たどり来し道」濱島義博 京都新聞1995年11月掲載
<2012年4月8日 南浦邦仁>