皇極天皇3年(644)正月、中大兄皇子が法興寺で打球遊びをしたとき、球を打つとともに、皇子の靴が脱げた。それを中臣鎌足がみて急ぎ走り拾い、ひざまづいて皇子に手渡した。これを機会にふたりはたがいに親密になる。そして極秘裏に、蘇我氏滅亡の策をめぐらせるようになった。悲願なって翌645年に蘇我入鹿を倒す。大化の改新である。打球<ぎっちょう>で靴が脱げたのが、このクーデターを引き起こすきっかけになったのである。
さてこの「打球」だが、これまでみてきたバット・杖を手にした毬杖(ぎっちょう)であるか、それとも棒を用いない公家たちのフットボールの蹴鞠(けまり)であるのか。意見はわかれる。『日本書紀』原文をみてみましょう。
中大兄於法興寺槻樹之下打毬之侶、而候皮鞋随毬脱落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄、對跪敬執。自茲、相善、倶述所懐。
そのころ宮中で用いた遊戯の打毬・毬杖(ぎっちょう)棒は、どのような形をしていたのであろうか。「大宋屏風」に図がある。宮中に古くから伝来している屏風だそうだが、長い柄にヘラが付いたような毬杖です。
このゲームは、大食国から吐蕃国経由で、シナ・唐に伝来したといわれている。そして朝鮮、日本にも渡来した遊戯・スポーツ。日本にたどりついたのは、おそらく7世紀早々。聖徳太子も楽しんだか? その可能性を否定できません。日出るところの天子は、きっと好奇心旺盛なはずですから。
さて中大兄皇子がプレーした「打毬」ですが、「毬」は毛偏である。蹴鞠の「鞠」は革偏。蹴鞠ボールは、鹿皮を馬皮でつないで作られたが、蹴上げるためには軽量がいちばんである。薄皮で作られ、中は中空を原則とする。棒で打ったりするとひしゃげ破れてしまう。「打球」という表現からも、やはりゲートボール式の地上闊歩の「ぎっちょう競技」に違いない。球は毛を丸めたものを使ったようだ。しかし庶民は毛丸ではなく、木製球を使ったであろうと、わたしは信じています。
ところで、毬杖(ぎっちょう)棒を持つ人物の描かれている宮中の「大宋屏風」ですが、元旦寅刻、天皇は清涼殿東庭で、かつて「大宋屏風」八帖を立てかけた密封の狭空間に入る。そしてまず北斗七星中の属星の名を七度称えます。次にこの年の災禍なきを祈る。また天地を拝し、次に山稜を拝す。概容ですがこの「四方拝」は、西暦818年ころか、あるいは遅くとも890年にはじまったといわれています。応仁の乱で数年途絶えますが、1475年以降、毎年行われいまに至っています。天皇は歴代毎年元旦早朝、「毬杖図」の前で四方を拝み、世の平安を祈願しておられたのです。
参考:中大兄皇子:なかのおおえのおうじ・後の天智天皇。
法興寺:飛鳥寺のこと。
中臣鎌足:なかとみのかまたり。後の藤原氏の祖。
蹴鞠:けまり。公家のフットボール。
平安末期作「年中行事絵巻」では、靴が飛ばないように
八人のプレイヤーはみな、鞋を白い紐で縛っています。
大食国:アラビヤ・タージー国。
吐蕃国:チベット。
<2009年10月25日 南浦邦仁> [176]