ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

左ギッチョ・ギッチョウ  <古代球技と大化の改新 1>

2009-10-12 | Weblog
左利き、ピンクレディの歌うサウスポーを、「ぎっちょ」とか「ぎっちょう」といいます。辞典をみても漢字がなく仮名表示です。不思議な言葉と思います。
 正月15日小正月のころ、全国各地に火祭り「左義長」(さぎちょう)の風習がありました。地方によって「とんど」とか「どんど焼き」「さいとやき」「ほっけんぎょう」などともいうそうです。
 わたしの郷里・播州でも恒例の正月15日の行事でした。いまはもう行っていませんが、長い青竹を立て、竹竿の下は藁(わら)で包む。そして点火するのですが、青竹の破裂する爆音はいまでも記憶に残っています。子どもには、畏怖すべき恐怖や興奮を覚える、すさまじい破裂の音響でした。
 左義長は「さぎちょう」ですが、左を「ひだり」とあえて読めば「左ぎちょう」。どうも左利き「左ギッチョ・ギッチョウ」の語源のヒントはここにありそうに思います。

 『万葉集』巻第六949に「神亀四年正月、数の王子と諸の臣下等と、春日野に集ひて打毬の楽をなす」とあります。原文は「神龜四年正月 數王子及諸臣子等 集於春日野而作打毬之樂」。現代語では、西暦727年正月のこと、多数の皇族や臣下の子弟たちが春日野(かすがの)に集まって、打毬(打球・だきゅう)の遊びを行った。
 正倉院には、少年ふたりが打球棒(打毬杖・球打ちバット・ゴルフクラブに似る)を持つ姿が、まるで現代マンガのように描かれた図が残っています。「花卉人物長方氈二床」ですが、この画は小学館刊『萬葉集』第二巻(日本古典文学全集3)に掲載されています。ふたりは、どうみても中央あるいは西アジアの子どものようです。シルクロードあたりの打球遊びも、いつかは調べてみたいものです。
 この正月の遊び「打毬」(だきゅう)の棒・バット・クラブですが、平安期以降には「ぎっちょう」といい、毬長・毬杖・[求]杖・毬打などの字が当てられます。
 [求]とは横着ですが、マイパソコンでは漢字が出ません。手偏に求という字です。音はキュウ・ク・キウ。意味は、盛る、土をもっこの中に盛る、かき集める。また細長いさま、すくう(救う)、止まる。
 毬長・鞠杖・毬打などの本来の読みは、「きゅうちょう」「きゅうじょう」「きゅうだ」なのでしょうが、すべて「ぎっちょう」と呼ぶようになってしまいます。
 この遊びは、いまのゲートボールにいくらか似ているようです。ただ木球は地上を飛びもする、激しく危険なゲームです。老人は参加しないに限ります。
 バットは古い画ではゴルフクラブ状です。しかし時代が下るにつれ長細い打出の小槌にそっくりになっていきます。江戸時代中期以降には、魔よけの祝い贈答品。新年恒例の美しい飾り玩具になってしまいます。
 球は木製の円球です。また子どもたちだけでなく、青年たちも楽しんだことが、絵巻で知られます。平安末期の作とされる鳥羽僧正「鳥獣人物戯画」や「年中行事絵巻」にも描かれていますが、遊んでいるのは子どもだけではありません。成人も興じています。
 鎌倉時代中期の作「西行物語絵巻 大原本」にも打球に興ずる子どもたちが描かれています。ひとりは女の子ですが、足元をはだけて、何ともかわいい姿で遊んでいます。西行はひとり、陋屋で片肘ついて、柴垣の外の遊児たちを、静かな笑顔で見守っているようです。
 子どもたちが手にする打杖は、棒がみなしなっており、形からみるに木製の鍬鋤(くわ・すき)のようです。「鳥獣人物戯画」「年中行事絵巻」も同様のかたちです。いずれも庶民を描いていますので、バットは木製の鍬や鋤で代用したのかと思います。
 古くからの、おそらく大陸から渡来した遊戯・スポーツですが、本来は正月限定の神事です。独楽回し、羽子板、凧あげ、双六…。不思議と新春に限られた遊びは多いようですね。

 さて火祭りの左義長、三毬長、三毬杖、三[求]杖、三毬打などと書いて「さぎちょう」とよぶ。とんど「左義長」字は、どうも中世以降に用いられ、近世に席捲した語のようです。
 小正月の火祭りのおり、正月遊戯に使った打球の棒・バットを三本、三脚にして立て、竹を中にして縛り、足元を藁(わら)で覆う。そして点火する。一緒に燃やすのは、正月の注連飾りや門松、書初めなどです。元旦から二週間、特別に用いられた正月の道具・品々が火にくべられます。楽しかったお正月のハレの日は終わり、この火とともに歳の神も去っていくようです。
 中世晩期、十六世紀後期作「洛中洛外図屏風」、上杉本や歴博乙本でも、左義長「とんど」をみることができますが、現在も残る風習と同じような形態です。ただし追求考究は当然、必要ですが。

 ところで、左利きのギッチョウに話しを戻します。打球・ギッチョウ遊びで、左打ちプレイヤーを、「左ギッチョウ」と呼んだのではないでしょうか。
 昔の図絵に描かれた打者をみても、みな右打ちばかり…。少し残念な気がします。正月の神事でもあり、もしかしたら左打ちが禁じられていたのでしょうか。左右に差別はあってはならぬ、と思うのですが。
 これから時々、「左義長」のことを書こうと思っています。左ギッチョではなく、「さぎちょう」「とんど」です。それと遊戯の打球「ぎっちょう」のこともあと数度。

追伸:吉川弘文館『国史大辞典』第4巻「ぎっちょう・毬杖」の項があります。「毬杖(ぎっちょう)の図」が掲載されていますが、子どもは打出の小槌に似たバットを手にしています。しかし成人は鍬鋤型の棒で遊んでいます。そして何とその内のひとりは、左利きでした。上記の差別的発言記載を訂正します。なおこの図の正面、上方に描かれた人物に注目。扇子を手に顔半分を隠していますが、綿の帽子からみて、声聞師の万歳法師であろうと思います。
<2009年10月12日 南浦邦仁> [172]
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