中爺通信

酒と音楽をこよなく愛します。

敬老の日

2016-09-19 23:59:33 | 音楽
 子供の頃、好きだったテレビアニメのひとつが「ゲゲゲの鬼太郎」でした。後にリニューアルされたものより、うらぶれたようなB級感が良かった。お化けには「学校も試験も無い」ことを自慢し、視聴者の子供達を羨ましがらせる例のソングからして、昭和の香ばしさが漂います。

 さて、「目玉のおやじ」について考えてみたい。あれは主人公の「父親」なわけですが、小さな眼球に全裸の体がついているだけで、ほとんどペットのような存在です。頭にちょこんと乗る姿には、「父性」のかけらも無い。「巨人の星」の星一徹とあまりにも正反対で、家長としての父親像を完全に否定している。軍国主義批判のひとつの表れでしょうか。

 では「目玉」氏の存在意義は何なのか?

…それは「情報」です。

 敵が現れると、主人の髪の間からにょっこり出て「奴は妖怪◯◯じゃ!」と的確に教えてくれる。場合によっては弱点まで。あんな姿であっても、「先人の知恵」を伝えるという役割をしっかりと担っている。年長者は、価値観を強要しないで、その知恵だけを正確に伝えればいいのだというメッセージなのかもしれません。。


 しかし、鬼太郎が現代日本の若者だったらどうでしょう。目玉が出てくる前に、ちゃんちゃんこからスマホを取り出し、わからないことはすぐに「ググる」に違いない。知識だけならそれで充分お釣りがくる。もう「目玉いらず」の毎日。茶碗に風呂をたててやる必要もない。

 
 しかし、本当にそうなのでしょうか。

 確かに知識はそうかもしれませんが、言葉や数値にできない、経験に基づいた「知恵」はそうはいかない。感触や塩梅といったようなものは、先人から直接学んだり、先人の背中越しに見て「盗む」しかないのです。ところがネット隆盛の昨今、どうも「知恵」が軽視されているような気がします。

 この状況でただ「敬老」を謳っても、「ググった方が速い」に決まっているのではないかと。


 ということで、今日は「敬老の日」。ですが、世の中に「敬老」は感じられない。


 一方、もはや伝統芸能の一つであるクラシック音楽の世界は、言葉にできない「呼吸」の要素が強いので、「敬老」の精神が日常にある、珍しい現場だと思います。先日のポンマー氏しかり、年長者を「巨匠」として敬う部分が現存している。


 明日から始まる、木曜日の「ユアタウン村山」コンサートには、久しぶりに山響創立名誉指揮者の村川先生が登場します。83歳、文字通りの「巨匠」から、少しでも学ぶことのできる貴重な機会。有意義なコンサートにしたいと思う、敬老の日なのでした。
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