ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文藝散歩 モンテーニュ-著 荒木昭太郎訳 「エセー」 中公クラシック Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ (2003年3月)

2018年06月19日 | 書評
16 世紀フランスのモラリスト文学の祖モンテーニュ-の人間学 第4回

Ⅰの巻 「人間とは何か」
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第1グループ 「人間のありよう」

① さまざまな手段で人は似たような結果に行き着く  (第1巻 第1章)
圧倒的な力を持つ復讐の敵に出会った時、その心を和らげる普通の方法は、相手の同情と憐憫に訴えることである。しかし思い切り勇敢な態度、毅然とした振る舞いはこれと全く反対の手段ではあるが、同じ許しの結果を招来することがある。そのような歴史上の事例を3例引いて、モンテーニュ-は自身が慈悲や寛容に弱いことを白状する。ストア派は憐憫は気の弱い心から出るよくない感情だとする。不屈の魂から出る行為を称賛するのである。テーバイの市民の抵抗精神が征服者の心をくじいた事例を引用して、人間というものは驚くほど空虚で、多様で、変動する存在である。これに一貫した判断は難しいという決断を下した。アレクサンドロス大王は敵将の勇猛さに感心はしたが、結局大王の心は動かすことはできず、車による八つ裂きの刑に処せられたという。結論として心がどう動くかは全く予測は不能ということであろう。

② 本当の目標がない時、どれほど魂は偽りの目標に向かってその情念を吐きだすか  (第1巻 第4章)
揺り動かされた魂も、何かにつかまりどころを与えないと、自分の中で空を切り、前後もなく霧散してしまうものである。魂にはいつも目標にして向かって行く対象を与えてやらなければならない。我々のところにやってくる不幸について、突いてかかる攻撃目標を設定するのである。愚劣さよりは倨傲の要素が強い。神に向かってさえカエサルは挑戦的な態度をとり、狂気の沙汰の行為を執るものである。古代の詩人は「起きて来ることに憤慨してはいけない。我々の怒りなんぞは、向こうに取ってどうでもいい事なのだ」と言っている。我々の精神の度外れは始末が悪い。

③ 我々の幸福について死後でなければ判断してはいけない  (第1巻 第19章)
人間最後の日は常に待ち受けていなければならない。ギリシャの王クロイソスが敗れ処刑される前に、ソロンの忠告を思い出したという。「人間は死ぬときどのようにして過ごすかによって、幸福だったかどうか決まる。それほど人の運命は変遷極まりないのである」と。東洋のことわざにも「人間万事塞翁が馬」という言葉がある。どんな権勢栄華を誇った時代があったとしても、戦国の時代にはどのような死に方をするか予測がつかない。モンテーニュは人の幸福を次のように定義する。「我々の一生の幸福そのものは、立派に生まれついた一つの精神が平静に又満足しているかどうか、一つの魂がしっかりと態度を決め確信をもって生きたかどうかにかかっている」。死を前にして我々にとって取り繕うものは何もない。その死に方が生涯全体にたいして良い評判となるか悪い評判となるかを決める。有終の美を飾るか、晩節を穢してはいけない。

(つづく)


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