ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 プラトン著 久保勉訳 「ソクラテスの弁明」、「クリトン」(岩波文庫 1927年)

2015年05月19日 | 書評
スパルタに破れた後のアテナイの混乱期、「焚書坑儒」の犠牲者ソクラテスの裁判記録 第1回

序(1)

 紀元前399年ソクラテスは、「不信心にして新しき神を導入し、かつ青年を腐敗せしめた」として、市民代表の3名の告発者から訴えられ、裁判の投票の結果死刑を宣告された。この事件は哲学的にというより、社会的・政治的な事件であって、訴状は言いがかりみたいなものです。事の原因は古代ギリシャのアテネとスパルタの都市国家同士の戦争であるプロポネス戦争に始まります。この戦争は俗にいう民主政のアテネと軍事政のスパルタという構図では説明しきれない。プロポネス戦争(紀元前431年 - 紀元前404年)とは、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。この頃、アテナイはデロス同盟の覇者としてエーゲ海に覇権を確立し、隷属市や軍事力を積極的に拡大していた。これに対し、自治独立を重んじるペロポネソス同盟は、アテナイの好戦的な拡張政策が全ギリシア世界に及ぶ事態を懸念していた。つまり覇権主義のアテナイが自主独立のスパルタを挑発して起した覇権戦争だったのです。戦いは10年戦争と第2次プロポネス戦争に続くが、アイゴスポタモイの海戦でペロポネソス同盟軍が急襲し勝利を収めた。この勝利により黒海方面の制海権を完全にペロポネソス同盟が掌握、翌紀元前404年にはアテナイ市が包囲され、アテナイの降伏を以って戦争は終結した。戦争の結果、デロス同盟は解放され、アテナイでは共和制が崩壊してスパルタ人指導の下に寡頭派政権(三十人政権)が発足し、恐怖政治によって粛正を行なった。だが、9ヶ月でトラシュブロス率いる共和制派勢力が三十人政権を打倒し政権を奪取する。共和制政権のもとでは、ペロポネソス戦争敗戦の原因となったアルキビアデスや、三十人政権の指導者のクリティアスらが弟子であったことから、ソクラテスがアリストパネスらによって糾弾され、公開裁判にかけられて刑死したのである。その背景と歴史的事実で本書「ソクラテスの弁明」、「クリトン」を読まないと、哲学道徳論では本書の意義は分からない。ソクラテス(紀元前469年頃 - 紀元前399年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテス自身は著述を行っていないので、その思想は弟子の哲学者プラトンやクセノポン、アリストテレスなどの著作を通じ知られる。プラトンの『ソクラテスの弁明』においてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、ちょっと信じがたい話でよく貴人譚に出てくる神託や夢判断の話であるが、彼の弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロンの神託所において、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられたことにある。これを聞いて、自分が賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会って問答することで、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。しかし、実際に賢者と世評のある政治家や詩人などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまった。こうしてソクラテスの思想が形成されていったという。かなり脚色の入った芸術的な神話的な話であるが、これらの説明をそのまま鵜呑みにするならば、知恵の探求者、愛知者としての彼の営みそのものは、その旺盛な知識欲や合理的な思考・態度とは裏腹に、「神々(神託)への素朴な畏敬・信仰」と「人智の空虚さの暴露」(悔い改めの奨励、謙虚・節度の回復)を根本動機としつつ、「自他の知見・霊魂を可能な限り善くしていく[ことを目指すという、ある面ではナザレのイエスを先取りするかのようである。この胡散臭さに無知を指摘された人々やその関係者からは憎まれ、数多くの敵を作ることとなり、誹謗も起こるようになった。

(つづく)


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