ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート C・リード著 彌永健一訳 「ヒルベルトー現代数学の巨峰」 岩波現代文庫

2015年10月16日 | 書評
20世紀を切り開いた「現代数学の父」ヒルベルトの評伝  第19回

18) 「数学の基礎」 (1919年~1922年) 基礎論の危機再来 ブローウエルとの戦い

若者がゲッチンゲン大学のクラスに戻ってきた。その間にアインシュタインは、空間、時間、物質の概念を変革し、それによって全く新しい幾何学の誕生が望まれるようになった。若いオランダ人のブローウエルは短い論文で、これまでの論理学の法則が絶対的に正しいとする考えに異議を唱えた。彼は20世紀初めの集合論の矛盾の発見で引き起こされた「基礎論の危機」に決着をつけるプログラムを提出した。チューリッヒにいたヒルベルトの弟子ヘルマン・ワイルはこの問題に夢中になった。ワイルは1918年「連続体の論理学的基礎」を発表していた。心穏やかならないヒルベルトは、ブローウエルの考えはクロネッカーの亡霊の再来と思われた。ブローウエルは1911年にトポロジーの基礎を開き、点集合論は多くの数学者から評価された。ブローウエルにとって言語も論理学も数学の前提にはなりえず、直感のみが信じられるものであったという。ブローウエルは論理学の原理である排中律(アリストテレス以来、Aであるか非Aであるかのどちらかで第3の立場はありえない)を無限集合については認めることを拒否した。なぜなら無限であれば確認のしようがないからだ。1904年のハイデルブルグ会議以来、ヒルベルトはブローウエルの論文は一切読まないで、信念として「数学基礎論と数学的演繹法に関するいかなる疑念をも根拠のないもの」として退けた。1919年9月ヒルベルトはチュリッヒを訪れスイス数学会で「公理論的方法論を讃えて」という講演を行った。これはヒルベルトが1904年以来はじめての数学基礎論に関する発言であった。しかし彼自身はこの基礎論の危機には立ち入らないでいた。戦後のドイツの生活はすさまじいインフレに悩み、生活および大学の状況は厳しかった。チュウリッヒにいたフルヴィッツが1919年11月に亡くなった。ヒルベルトにスイス行の誘いがあったが周囲の人は猛反対し結局ゲッチンゲンに留まった。ヒルベルトの関心は物理から数学に戻りつつあった。1920年には原子力学の公理化に関わっていた。その時の数学助手はベルナイスで、物理学助手はアドルフ・クラツアーであった。1920年ー1921年のヒルベルトの関心は数学基礎論を論理学を用いて形式化することであった。若い人の中に広がりつつあったブローウエルの直感主義的考えはまさしく数学への脅威と映った。ヒルベルトは存在論的発想を生涯の原理とした。「存在証明こそ科学の発展史上最も重要な里程標であった」と彼は主張した。1922年に行われたハンブルグの会議で、ヒルベルトは「ブローウエルとワイルは間違っている」と恫喝し、直感主義者(論理の約束事を無視する)のプログラムを受け入れると失われる数学の宝として、無理数の概念、関数、カントルの超限数、排中律、無限個の自然数が持つ最小値定理などを挙げた。彼は数学をあるシステムに形式化し、そのシステムにおける事象は論理学の言葉をもって記述され、そこにおいて構造のみが重視され命題の意味は問題とされないというかっての「幾何学基礎論」で展開された公理主義を繰り返した。

(つづく)