ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート C・リード著 彌永健一訳 「ヒルベルトー現代数学の巨峰」 岩波現代文庫

2015年10月19日 | 書評
20世紀を切り開いた「現代数学の父」ヒルベルトの評伝 第22回

21) 「借りられた時間」 (1925年~1929年) 量子力学の公理論 クライン逝去、数学界のスキャンダル

1925年6月フリックス・クラインは逝った。そして一つの時代は終わった。追悼式典でヒルベルトは「我々がリーマンの業績のうえに立って新たな構築を行いうるのは、クラインによって得られた成果によるものである」と述べた。クラインは遠くかけ離れた抽象的事象の連関を見抜く力に卓越していたが、個別の問題を解くことは不得意であった。それはポアンカレ―との競争で挫折した原因でもあった。クラインが亡くなった年にルンゲが引退した。そしてヒルベルトの体調が悪化し、悪性貧血であることが分かった。アメリカのG・R・ミノットによって生肝治療でヒルベルトの体調は持ち返した。1925年に始まる2年間は物理学にとって20歳代の若者の大活躍の歳であった。ハイゼンベルグの新しい量子力学の過程で発生した奇妙な数学的対象について、ボルンと討論した。ボルンは直ちに行列環(マトリックス環)であることを見抜いたが、これは75年以上も前にハミルトンによって考えられた四元数体の中にあった。行列環では積の可換は成立しない。つまりa×b=b×aではないのである。ボルンは行列環に詳しい助手のパスクアル・ヨルダンの助けを受けて、60日後にボルン―ヨルダンによる論文が出され、新しいマトリックス力学にとって厳密な数学的基礎が与えられた。ハイゼンベルグのマトリックス力学に続いて、エアウィン・シュレージンガ-の波動力学があらわれた。この二つの論文は、全く異なる物理学的仮定から、全く異なる数学的道具を用いて同じ結論に達したのである。この2つの論文の前にヒルベルト・クーランの「数理物理学の方法」は色あせるどころか、彼らのために書かれたような感があった。ヒルベルトの無限変数の関数論(スペクトル解析と呼んだ)はヒルベルト空間論は量子力学を扱ううえでまだ強力とは言えなかったが、ジョン・フォン・ノイマンはヒルベルトの2次形式の定式化によって物理学者が使えるようにした。ヒルベルトの物理学に関する最後の論文は、ノルドハイムとノイマンによる量子力学の公理的基礎に関するものであった。これにはヒルベルトの直接の関与はなかったが、精神はヒルベルトのものであった。1927年にノルドハイムはゲッチンゲンを去り、物理学助手はユージン・ウィグナーに代った。ヒルベルト自身は数学の基礎論の研究に埋没していた。ブローウエルの直感主義の影響力は明らかに減退していた。ヒルベルトの抽象的形式主義に対して批判する人は「紙の上に書いた意味のないしるしを巡るゲーム」だと評した。ヒルベルトは「我々の形式主義的なゲームの中で行われる公理と証明可能な定理とは、通例の数学における主題である数々のアイデアのイメージである」と答えた。1927年ヒルベルトはハンブルグを訪問し、「直感主義の中にある主観主義から数学を守ることは科学の任務である」、「この時点で最終的結論が何であるかを述べたい。数学は何ら前提をもたない科学である」と述べた。受ける側の弟子ワイルはもはやブローウエルへの関心も薄れており、ヒルベルトとブローウエルの冷静な評価を行った。ここでヒルベルトがブローウエルをAnnalenの編集委員から追い出すというスキャンダルを記しておかなければならない。これにはカラテオドリの悪智恵が入り組んで、7人の編集員全員の辞任を取り付け、編集者として残るのはヒルベルト、ヘッケ、ブルメンタールの3人となった。アインシュタインは3人の主筆の一人であったが、いったいこの数学者の仲間争いは何事かと言って辞任した。欧州大戦後ドイツの数学者は公式の国際会議から締め出されていたが、イタリアのボローニアで国際会議を開くことになりドイツを招待した。ここでもブローウエルとビーベルバッハはイタリアの招待を受けることを潔しとしないと言って反対したが、1928年8月体調不良をおしてヒルベルトは67人の数学者を率いて国際会議に参加し、数学基礎論に関する論文を発表した。無矛盾性の証明と形式的体系の完全性を証明する問題を提起した。1929年ロックフェラー財団の援助とドイツ政府の支出により、ゲッチンゲン数学研究所の建物が建設された。クラインの夢とクーランの尽力が結実したものであった。

(つづく)