≪ 2014・11・29 掲載記事≫
≪ 2019.6.30 再掲載 ≫
そんな佐渡ヶ島の海岸近くを、なんで、それも店が閉まりかけの時刻に「買い物」に行ったのだろうか?
それも、母子2人して・・・・・。
そんな、疑問を、その記者に告げた。
「やはり、行ったことのある人なら、そう思いますよねえ」と、地元記者。
「実はねえ、言いずらいことなんですが、あの当時。曽我さんの父親。茂さんとおっしゃるんですが、毎晩のように、酒を飲んでは、暴れる。家族に手を出してた。それも、手が付けられないくらいに」
「もう、近所でも、酒癖の悪さが知れ渡っていて・・・・。酒飲んで無い時は、ごくフツーのお父さんなんですが。そうなると、もう、お母さんのミヨシさんも、ひとみさんも、ましてや、当時13歳の、ひとみさんの6つ下の妹さんの富美子さんなんか、押さえられるわけも無くて・・・」
「まあ、それで、お父さんの茂さんが酔いつぶれて寝込んでしまうまで、母子して、しばらくの時間、外へあてども無く出て歩いていた。ほとぼりが醒める頃に、家に帰るという姿を、近所の人が、見かけていたそうなんですよ」
そんな事を、拉致犯は、事前に知っていた?
「まあ、そこまでは分からないんですが。偶然出くわして、標的になったのか? それとも、最初からそのことを知っていての、狙っていた、計画的犯行だったのか?までは・・・・・。何しろ、いまだに実行犯が、捕まっていないんですから」
もし、もし、その日、母ミヨシと、妹富美子が、外に出て行っていたら・・・・。
帰国後、ひとみは、確かにこう言っていた。
「もし、あの日。私ではなく、妹が拉致されていたかも知れない」と。
父の、酒癖の悪さ、アルコール中毒ぶりをかばい、隠し、「買い物」に言い換えた娘。
22年振りの、感動の再会と抱擁(写真上)
「父ちゃん、待っとった」と、父・茂。
そして、涙にくれながらこう続けた。
「すまんかった。あの時は、・・・すまんかった」
だが、ひとみが「帰宅」してしばらくは、酒を断っていたが、また落ち着き始めたら酒に手が伸びたと、いうことを聞いた。
茂は、若い時から酒浸りの生活をしており、近所で知らぬ者はいなかった。妻・ミヨシの苦労。その親の姿を見て、姉妹は育った。
その茂も、ひとみが帰国して4年半後、食道ガンに呼吸不全を併発して、病院に入院してわずかで1週間で他界。末期であった。
葬儀・告別式は、佐和田地区にある「黎明」(れいめい)という葬儀会場で執り行われた。
事件を振り返る時、もしも、と、・・・たら、は、しばしば言われること。
あんな、真野町の、四日町を通る国道350号線の歩道を歩いていてか・・・・・。
その地元記者の話してくれたコトは、とても良く実感を伴って理解出来た。しかし、鵜呑みにしてはいけないとも、思い直した。
疑うわけではないが、書かないまま、その翌年の夏。佐渡ヶ島を単身、再訪した。
近所でも聴き込みをし、夜道を何十年か振りに歩いてみて、地元記者の言ってたことは、本当だったと分かった。
あの当時より、この拉致事件があった影響からか、街灯がつけられてこそいたものの、まだまだ薄暗く、店は夜遅くまで、やはり、やっていなかった。人通りも、相変わらず少なかった。
曽我宅へ、ダメ元で行ってみたが、やっぱり、とても気軽に近づける状況と雰囲気では無かった。
ましてや、柏崎に戻って、スパイ指令を受けていた蓮池薫「先生」のところと言ったら、もうガチガチで・・・・・。
その後、「改心」して、身も心も純粋な日本人に戻ったと、聞いてはいるが、はてさて・・・・・。
一度は、拉致前、仲の決して良くなかった蓮池透との、兄弟仲も、帰還を果たし、日が経つに連れ、結局、拉致前に戻ったと聞いた。
なにしろ、透。
兄が参加していた、当時全国の大学に吹き荒れていた学生運動について、聞いたところ、
「学生運動!? フン、あんなもの」と、侮蔑するかのように吐き捨てたほど。思想は、水と油であった。
さらに、聞いた。
柏崎原発立地の時、確か蓮池さん、表現は悪いかもしれませんが、札束で頬をひっぱたくようにして、原発敷地予定地を買いまくって行きましたよね?
少し、眉をくもらせて「ああ、そうだよ」。
それが何か、問題あるの?とでも、言いたげに答えた。
血肉を分けた兄弟といえども、この考えの違いは大きい。ましてや、今度は母国を裏切って、極秘スパイ活動を兄弟がしようとしていたのだから。
透も、論客。当時、テレビに出まくった人。ともかく、何度も徹底的に話し合い、今の日本は北朝鮮が敵対視する国では、まるで無いことを、兄というより、「洗脳されしきった愚か者」相手に、こんこんと説き伏せた。
怪しい兄。大変であったことは、透の書いたとされる本を読んでいても、想像にかたくない。
さて、再び、曽我ひとみと、母ミヨシの拉致の真実に戻る。
曽我ひとみは、こう言っている。あくまで、ひとみの言い分、であるが。
拉致事件の頃。ひとみは、佐渡高校沢根分校の定時制を卒業後、佐渡総合病院の看護婦見習いをしながら、看護学院に通い、その寮に入っていた。実家に行くのは、土曜日。翌日曜日の午後に帰っていくというスケジュール。
その日の土曜日も、実家に戻り、夕方、母ミヨシに、一週間分の積もる話を聞いて欲しくて、「お盆も近かったので、母と買い物に行こうとしたところ、妹が、私も一緒に行くう!と言ったので、少しケンカしたのを覚えています」
で、ミヨシと二人で、夕方過ぎ、先に書いた、国道350号線の歩道を連れだって歩き、あるお店(写真下)に行った。
てっきり、お盆前の買い物ということから、線香などを購入と思ったら、「ウチでは、その日、お菓子やアイスクリ―ムや、ジュースを買いに来られたようですよ」と、お店の人。
実は、曽我の実家も、同じ幹線道路沿いに建っている。店との距離は、何キロもあるわけでは無い。
拉致されたのは、曽我によれば、午後7時前後。
となれば、すぐ帰宅せずに、アイスクリームを舐め舐め。ジュースやお菓子などをクチにしながら、のんびりと心ゆくまで、どこかで座って話し込んだりして、母とおしゃべりを楽しみながら、家へ帰ろうとしていた。
通りは、家と店が連なっているところもあれば、左右両脇に何も無いところもある。
とりわけ、国府川など、大小の川に架かる橋の辺りは、ただ草むらが生い茂っているだけで、街灯すら無い。
時は、うす暗がりにはなっていたが、暗闇までにはなっていなかったと、曽我は言う。
異変に気付いたのは、帰り道。
母子の後を尾行するように、3人の男たちが横一線になって、ついてきていた。
振り向いた時、その姿を見たと言う、曽我ひとみ。3人は、見覚えの無い顔だったという。
のちに、その男たちとは、「招待所」で、何度も顔を会わせている。
おかしいから、気をつけないとと母に言いながら、足早に歩き始めた。
その時、いきなり後ろから3人が駆けてきて、母子のクチをふさぎ、その近くに建っていた家の植え込みに引きずり込み、アタマからすっぽり大きな袋をかぶせ、手足をひもで縛られたと、言う。
母の姿と、声を聴いたのは、ひとみによれば、その時まで。
だが、そのあとのハナシは、いきなり小舟に乗りこむ時に代わる。
実は、国道350号線から真野湾の海面まで、距離がある。おまけに、砂浜もあれば、ゴツゴツした岩場もある。
ソコまで、どのようにして連れて行かれたのか? まったく詳細な説明が無い。車でか? 担がれてか? 叫びはしなかったのか? 暴れは、しなかったのか? 何の説明も無い。
袋をかぶせられていたから、風景は見えないにしろ、そこに育って19年。見ず知らずの風景では無いはずだ。
曽我の言うように、真っ暗で無ければ、土曜の宵闇。行き交う車や、歩行者は、皆無だったのだろうか?
いかに「工作員」の拉致の手口が、素早かったにしろ、時間はかかるのだから。
植え込みの有る家の人に向かって、曽我親子は、助けを求めて、叫ばなかったのであろうか?
驚いて、声も出なかった???
状況説明は、いきなり小舟に入る。その時の母が、どうしていたのか?の説明は無い。
舟は、沖へ向かって、なかなか浜を離れなかったという。
その間に、あまりに母・ミヨシが暴れるため、殺されたか? それとも、後姿からは、髪は短く、おまけにズボンを穿いていたため、男、つまり、カップルと見間違っていたのが、中年女性と知り、目的と違ったため殺したのか?
ともかく、娘・ひとみは、声・姿を見聞きしていないと言う。
やがて、ひとみは、船底にぶち込まれた。そして、しばらくして、彼女は、「ザブ~ン!!」と、音をたてて、何かが漆黒の日本海に投げ捨てられた音を耳にしている。
いつ、この言葉・供述を耳にしたのか、今となっては定かではないのだが、ひとみ自身が話している。
だから、自信を持って書いている。
また、のちにひとみの夫となる、ジェンキンスが、北朝鮮の「招待所」での生活のなかで、工作員に妻の母の消息を尋ねた際、「舟の甲板から、海に袋ごと投げ入れた」と聞いたと、日本にきてから、インタビューで証言している。
それでいて、「母よ、還れ」か・・・・・・。
「夫婦生活」。2年間の空白があったにせよ、都合34年間の生活のなかで、夫から一度も聞かされていない訳が無い。
あまりに、暴れ過ぎて、手に負えなくなったからか? それとも、支援・調査に当初から深く関わっている西岡力(つとむ)も言うように、ミヨシが当夜、ズボンを穿いていたため、カップルを標的にしていた北朝鮮拉致犯に男と勘違いされたすえの、出来事であったのか、どうか?
ひとみは、クチと目は、テープでふさがれたままではあったが、耳だけは、ふさがれていなかった。
そして、ひとみによれば、途中の沖合で、より大きな船に乗り換えさせられたとのこと。
その前後も、おかしな日本語を駆使する女性工作員のキム・ミョンスクとは、平気で話しをしている。
やがて、翌日の夕方5時か6時頃と、ひとみは言うが、北朝鮮のチョンジン(清津)港へと、陸揚げされた。
その後、北朝鮮は、かたくなに一貫して、こう言明。
陸に引き揚げたのは、若いオンナ、1人だけだ。あとは、いない。見ていない、と。
2014年秋の、今に至るも、横田めぐみや、その他の日本人の動静、生き死にについては、悲喜こもごも、さまざまに報じられてきたが、こと、曽我ミヨシについては、ただの一度も浮上したことは無い。
海に何か投げ入れられた音は、娘ひとみも、耳にしている。だが、それが、袋に詰められたままの、母であることは、絶対に信じたくないという、かたくなな想いは分からなくも無いが・・・・・。
だが・・・・・・。
1年後に果たしてなるのか? 汚い駆け引きと、条件付けての2年後か?
「第一次報告」なる、デタラメ、まがい物にでさえ、曽我ミヨシの名前は、一文字も出てこないであろう。
それにしても、今まで報じられたことはないが、姉のひとみと、母ミヨシが、いきなり目の前から消え去ったあとの、妹・富美子の苦労たるや、大変なものであった。
当時、わずか、13歳。残ったのは、あの父との、生活。
父は、昼は、島内にある工場勤務。その工場に、北朝鮮関係者が、日頃から出入りしていたという裏情報があったが、確たる証拠は掴めなかった。
父は、長年の酒浸りの影響で、東京まで行ける身体でもなく、一方で、旅費の捻出にも事欠く日々。
やがて、富美子は、夜の父の酒浸りの姿を見たくないからか、夜のスナック勤めに出る。
なんてことはない、よくある、場末のカラオケ・スナック。
ところが、口さがない連中は、酒だけじゃなく、身体も売ってるらしいよ、などと、根も葉もない噂をでっち上げていたという。
心身共に、辛かったことは、想像にかたくない。
やがて、富美子は父の面倒を見ながらも、幸せな結婚を遂げる。
姉のひとみが、帰還するのを待ちかねたかのように、妹は、父の世話をバトンタッチ。
夫の転勤に伴い、対面の新潟市に当時転居して行った。ホントに、お疲れ様でしたと、一言、言いたい。
酒にまつわるハナシは、まだ続く。
曽我ひとみが、北朝鮮に拉致されて、38日目。引き合わされたのが、19歳も年上の、アメリカ人。
名前は、チャールズ・ジェンキンスと言った。
なんと、北朝鮮に進駐していた自国の軍隊の基地から、敵前逃亡脱走。そのまんま、北朝鮮に、逃げ込んだ。
それも、その夜も、したたかに、泥酔深酒してだ。
この外人と、結婚!? ひとみに、選択の余地は無かった。明治・大正・昭和初期の、写真1枚きりで決めさせられたお見合いでもあるまいし・・・・とは思うが、異常な拘束状況下、そのまま、結婚へ。
また、男の大酒呑みとの、一つ屋根の下の生活・・・・・
なんともまあ、付きまとうアル中。運命?
取材していて、深いため息が、出てしまった。
北朝鮮としては、さほど欲しくもない泥酔兵。欲しいのは、基地・軍事情報だけ。飛んで火にいる泥酔兵。役に立たず。
それでも、彼女の性格なのだろう。ドの付く、従順。いわれるままに、結婚している。
当初、キム・ミョンスクに、北朝鮮のことを言われ、そんな国は聞いたことが無い。金日成? 誰、それ? 分かりませんと、言い返したら、怒っていたと言う。
「朝鮮語の勉強を、一生懸命すれば、日本に帰してやる」
「お母さんのことは、心配しなくても、佐渡で元気に暮らしているから、大丈夫だ」
そう、言われたと言い、それを信じていたようだ。
なんともはや、これまた、従順。素直・・・・・・。
横田めぐみとも、生活するなかで会った。
自分の生い立ちを詳しく書かされ、朝鮮語を覚え、日々の生活に不自由しなくなると、今度は、日本に工作員として将来活動しようとする北朝鮮人に、日本語を教える仕事を、こなしていった。
ひとみの教えた日本語を武器に、日本に素知らぬ顔で工作員たちは侵入し、次の拉致すべき日本人を狙い定めているかも知れない。
結婚生活は、経済的には満たされてはいないものの、米は切れ目なく配給され、月給ももらえた。
住まいは、日本人4世帯も住む、3階建てアパート。
停電はしょつちゅう。暖房は止まり、寒くもあったが、一般の貧しく、餓死する生活をしている国民に較べれば、はるかに恵まれていたと言うべきだろう。
美花。そして、ブリンダという、2人の娘を産み、異国の地で育てあげた。
母の母国へと来たものの、これまた、まったくマスコミの取材に肉声で、答えていない。新潟市にある「新潟大学 国際センター」へ、かつて通っていた、と伝えられている。
娘までも、「特別待遇」。至れり尽くせりだ。
現在、美花(みか)は、もう31歳。保育士の資格を持ち、クラス担任になったばかりで、日々、奮闘中とのこと。
また、次女のブリンダは、28歳。佐渡ヶ島の両津にあホるテルで、韓国人観光ツアー客のガイドをしたあと、ブライダルの専門学校に通った。
かと思うと、「今は地元の酒造会社の販売員をしている」と、母のひとみ。マイペースの性格だそうな。
ひとみ自身も、帰国した翌年、真野町の保険衛生指導員を4年勤め、今度は正規の正職員として、佐渡市の養護老人センターで、准看護師として勤めていた。
もっか、家族4人全員が働き、まがりなりにも、収入を得ている。
それに加えて、当初、ひとみが帰還した際、1人、月額税抜き30万円が、国から支払われていた。
そのカネで、数年、働かないままで、のらりくらりと、日本から支給されたカネで暮らしていたジェンキンスのお酒代も、支払われていた。
近所の目撃談では、建て直したのか、増築したのかどうか?までは、詳細に分からないが、外壁が、きれいに塗り替えられ、新築のような家になっているという。
それでも、来年3月末で切れる「生活給付金」が、まだ継続して、引き続き「欲しい」と訴えた、曽我ひとみ。
「この先の、将来の生活に不安がある。夫の介護にも、おカネがいる」
すでに、丸12年。この先、どこまで、国にねだる、すがる、つもりなのであろう・・・・。なにか、この一家に、やりきれない想いがしてしまうのは、私だけであろうか・・・・・。
苦労した、妹の富美子なら、まさに真の被害者。支払うのは分かるが・・・・。
この結婚生活によって、命を救われただけでなく、一番、得し、ラクしたのは、ジェンキンスであろう。
日米の特例裏交渉により、敵前逃亡・脱走罪、軍の機密情報暴露等々による死罪を免れただけではなく、アメリカの故郷を訪ねることが可能となり、母にも、ひと目会うことがかなった。
「告白」という本には、都合の良い、自己弁護に終始した文字が綴られていた。
帰郷した際、国だけではなく、周囲の人々に、白眼視されたのは、当然であろう。石もて追われるように実家と、故郷を、足早に発った。
今は家族4人。故郷の、佐渡ヶ島に暮らす。
ジェンキンスの酒好き、大酒呑みは、変わることはない。
ひとみによれば、すでに夫は74歳。最近は、めっきり足腰が弱ってきていると言う。酒浸りが、たたっている。
妻が、日本に帰ってしまった直後、国から再婚を勧められていたことまで、べらべら話すジェンキンス。
もし、もし・・・・・が、曽我ひとみの人生の軌跡を追うと、どうしても想い至ってしまう。
それにしても、拉致の真実、事実、向こうの本当の生活が見えてこない。詳細に、隠さず話して欲しい。
話すと、いまだ30数年、残って招待所などで暮らしている人達に影響するから、これ以上、話せないとか言っている。
日本人村での、詳細な日々の暮らしぶり。日本人被害者の誰に会い、誰の消息を聴き、どんな状況なのか?
そこから、手がかり、安堵、失意、適切な捜査・調査方法が、相次いで得られるはずなのに、我が国から、生活費のおカネだけ得て、あとは、よくて断片的にしか話さないは、無いだろう!
13人に向けて、徹底した聞き込みも、今だ家族会以下、全員が行なっていない。したいだろうに、してない。出来ない。
おかしい、という他ない。
ヒミツ、秘密、正直に、漏らさず話さない。しかし、おカネは継続して、くれ、くれ。
もうひとつ、盛り上がらないのは、その影響も少なくない。
後に続く人のことを、本気で考えて、助力すらしていない「特別な方々」。
自分たちさえ、今、幸せであれば、それで良い、か・・・・。
情報秘匿姿勢の、公安幹部。国民、被害者家族にとって、糞の役にも、立っていない。いまだに、だ。
帰国、帰還こそしたものの、いまだ、ワラにもすがる思いで待ちわびる被害者家族にとっては、何にもなっていない。手がかりにすら、なっていない。
洗いざらい話したら、再び拉致されるから?
ラチも無い話しだ。
殺される? このニッポンで?
当時なら、いざ知らず、まだ?
ただただ、口先三寸で、内と外に、被害者家族が,だまされ続けて17年。
還れ、帰ってきて!の叫びだけでは、にっちもさっちも行きはしない。一歩も、進みはしない。ましてや、飯塚では・・・・・
被害者遺族は、あと10年。確実に、日に日に他界する人達が増大してゆく。
それが、なんとも、やりきれない。歯がゆい。今に、至っても・・・・・。