【 2014・11・21 掲載 】
やっぱり・・・・・死んだのかあ・・・・・・。この世に、別れを告げたのか・・・・
なんとも言えない気持ちのまま、コレを打ち始めている。
といって、死因となった「悪性リンパ腫」に至る病状を詳しく知っていたわけでは無い。
ただ、遺作となった、映画「あなたへ」(スチール写真下)。
その撮影時、すでに前作の公開から6年近く経っていたとはいえ、余りの老い、見た目の老け振り!
それには、驚くほか無かった。
白髪混じりの髪。下の歯がかなり抜け落ちたのか、差し歯か、その影響で頬が少しこけ、今までなかったクチの曲がり具合を、否応なく気付かされた。
「文化勲章」を受けた際の顔は、さらに老いをクッキリと際立させていた(写真上)。
この受章によって、日本人・小田剛一(本名)は、年間350万円を亡くなるまで国からもらえることとなった。
彼からすれば少額かも知れなかったが、我々の周りにいる老齢の庶民からすれば、生活安定額といえた。
この折りも、高倉健は、髪を染めたりはせず。ありのままを見せていた。
80歳を越えた老人としては、当たり前とも言うべき容姿ではあったが、なにしろ、そこは、スター、健さん。
行きつけの、それも、奥の彼専用の個室のある理髪店で何とか工夫し、そんな姿は、見せないであろうと想像していただけに、衝撃を受けた!
老いても、変に装わない。ありのままに、ありたい。ありのままを、見せたい。ソコが、小田剛一としての矜持(きょうじ)であったのだろう。
中年時になっても、体を鍛えていたことは、有名だった。
仕事が無く、人柄も悪く、コンサートの集客力もどん底だった武田鉄矢に舞い込んだ、映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」。
そのロケ先の宿舎。健さんの部屋を武田が訪ねた際、腕立て伏せをしていたと言う。
「武田君、役者は身体が資本だよ」
そう言って、毎回、100回を、その身に課していた。
すでに、スポーツジム通いは、知られていた。そんな屈強な肉体でさえ、老いと病が、否応なく忍び寄る。そして、死を迎えざるを得ない。
分かっていることではあるが、改めて、痛感させられた・・・・・。
死因となった悪性リンパ腫は、突然襲う病気では無い。数年前より、人知れず闘病、通院を続けていたと思われる。
加えて、5年前には、前立腺ガンを発症。通院、手術の末、癌巣そのものは除去出来たものの、それが、悪性リンパ腫へとつながった。
公式死去発表では、「都内の病院」でとだけ。
まだ、直接当たってはいないが、死去した時に入院していた病院は、「慶應大学付属病院」であろう。
というのも、爆笑問題の田中のポロリと洩らした発言を待つまでも無く、あの病院は、秘密裏に入退院の措置を、つつがなくやってくれるところ。
加えて、医師と看護師のクチは堅い。
そういう「教育」をされていた。
しかし、病室に出入りする人が、実はいる。その人達に秘かに、さりげなく聞いて、入院中の状態や、日々の様子を聞いて、確証。
かつて、[ZARD]の坂井泉水、そして、重病だった安倍晋三が、この病院に秘かに偽名を使って入院。
しかし、人のクチに戸は立てられない。
聞き込みをして、記事化した。
有名な、コーヒー好き。
だが、この病気の影響か、「あなたへ」の撮影時、ロケ地にあった行きつけのレストランで、彼は「コーヒーは、もうちょっと飲めないんだ」と、言っていた。
コーヒーすらも、病状に影響を与えるまでに弱り始めていたのだ。
「あなたへ」の、製作発表会見の前後。
「もう、そろそろ仕事をしないと、カネも無くなってきたもんですから」と、苦笑しながら、6年ぶりの出演理由を、冗談半分に語っていたが、事務所維持も、社長としての責務。
体調が良くないなか、ギリギリの、決断であったと思われる。
だから、冒頭、やっぱりかあ・・・・と、書いた。
そして、以下に綴っていくが、あの性格。間違いなく、亡くなって全てを終えてから、公式にそのことを発表するはず。
実は、近所に古くからの健さんファンがおり、老いた映像を見て、「もし、亡くなった時は、どうするでしょうねえ?」と聞かれたので、長年の取材経験で、そう答えていた。
そう想っていたし、はからずも、その通りになってしまった。
最近になって、連作4本の「原節子」に関する記事が、多くの人に読まれていることを知ったが、彼女の死も、あの家人たちによって、早くて1週間、ひょっとすると1か月ほどたってから、その死が公表されることと思う。
さて、所属というより、個人事務所の「高倉プロモーション」。
ダメで元々の気持ちで、時折り電話で、健さんの公私にわたって問うことがあったが、いつもいつも、キチンと答えず。
調べた事実について、ひとつ確認したいのですが?
そう切り出しても、一切答えず。
「お答えできません」
すでに公表されていることの、事実確認を求めても、
「ソレは東宝にお聞きください」
「失礼します!」と、一言。ガチャリ!と、切る。
もう、そんな冷ややかで、極めて事務的な対応にも慣れた。
だから、今回の、さながら「美文」とも言える、死に関わる表現には、驚いた。最初にして、最期のマスコミとその背後にいるファンへのサービスであったように想う。
事務所が入っている港区赤坂のビル前に、多くの取材陣がいたが、これ以上の「サービス」は、しないであろう。
電話は、いつも同じ女性。
それで、充分に間に合う仕事量ともいえる。映画は、数年に一本。掛け持ちは、無い。
さまざまな企画が送られてきて、その整理が主な仕事。
その数は、多く、内容は玉石混交。
この女性と、会ったことは無い。まさか、かつて健さんが、どのような経緯があったのか、お世話をしていた、元スチュワーデス(現・キャビン・アテンダント)がいたが、その女性である可能性は、捨てきれない。
我が国で、一番、ギャラ・出演料が高い高倉健という「映画俳優」。
映画一本出て、近年は5000万円。それにプラス、ビデオ・DVD化による権利分。さらに、テレビの放映権料(基本ベース2回分)など、日本の俳優 にしては珍しく、キッチリ契約書を交わす。
込みで、6~7000万円。
過去には、何本か、自ら主演した映画に、「高倉プロモ-ション」として、出資していた。
その率に応じて、興行収入から、差し引かれた儲けを受け取れる。演技にも、チカラがこもる。
だから、代表取締役の年収も加わった個人収入が、1億円を優に超えた年もあった。
だが、近年の作品には、まったく出資していない。先見の明があったのかどうか? 宣伝文句ほど大ヒットはしていない。
客が、映画館に詰めかけていない。長年のファンが、来ていない。
「あなたへ」は、まだしも、その前作「単騎、千里を走る」の興行成績は、最終的に赤字ギリギリに。
チャン・イーモウの作品に惹かれていた高倉が、出演を快諾したコレ。
そのチャンは、名誉欲に非常にたけた人物。
東京映画祭で、当時最高責任者のチェアマンであった角川歴彦(つぐひこ)が、洩らしたことがある。
「面識も無く、親しくもなかったのに、いきなり僕のところに来て、自分を東京映画祭の審査委員長にしてくれ! その任に、俺が一番ふさわしいはずだ! と言うんだよ。驚いたねえ、その押しの強さに。もちろん、やんわりと、お断りしましたがね」
中国で、30数年前に公開されたにも関わらず、いまだ「君よ、憤怒(ふんぬ)の河を渉(わた)れ」の人気がある高倉を起用し、チャンは、自分のステータスを上げようとしたとしか、思えない。
その映画。
東北の漁港に独りで住み、自宅の固定電話に入っていた息子の入院と急変を知らせる嫁からの留守番電話を、再生して聴く操作すら、まったく出来ない武骨な健さん扮する漁師。
それは、今まで通りのイメージであった。
それなのに、あれっ? 息子とまったく疎遠だったはずの老漁師が、コロッと変心。
すぐさま、東京の病院に駆けつけるわ、息子が撮影途中だった中国ロケまで、単身引き継ぐ。おまけに、時も置かずして、携帯電話を器用にあやつるし、撮影VTRカメラも、難なくあやつりまくる。
はあ????
ドン引きの、ファン。
とどのつまり、 無理やり中国でのロケに引きずり込むストーリーに・・・・・。
そのロケで、チャンお得意とも言うべき、演技未経験の素人たちを出演させ、エキストラにも大量起用。
その計算の無い「素」の演技に、204本目にして、感激した高倉。
この作品でも投資はしていなかったため、ある意味、難を逃れた。
仕事をしていない時期、誰にもわずらわされない海外に、よく行くといわれる。
実際、自署のエッセイ文のなかで、日本各地、世界各地を訪れた際の想いを、書いている。
また、ボクシングも海外にまで出かけて、その目で観ている。
ラスベガス、パリ、ヒューストン、はたまた、テキサス。
自らも、中学生の時に、見よう見まねでボクシングを練習。試合も8戦ほどこなしており、俳優になってからも、ボクサーに扮して、主演をこなしている。
「ボクシングや格闘技は、好きですね。好きなモノは、どこまでも追いかけてゆく」
「ギリギリに、自分の肉体を磨き上げる」プロボクサーを、崇拝している。いずれ、別稿で、その想いを伝えたいが、こう話していることだけは、今、書いて置こう。
「自分がやるなんて、想いは無いです。それほど、シビアでは無いです。自分の職業の、ずっと上の所にいる人っていうカンジですね」
ハワイに別荘を持ち、イタリア郊外の地に、家を持っていた。
40歳という若い時期に、すでに「鎌倉霊園」に自分の墓を他人に気付かれないようにと、変名で購入。
父母兄の墓がすでにある、現・福岡県中間市の「小松山 正覚寺」に、妹の敏子など親族が近くでいつでも参られるようにと、分骨用の墓地も購入済み。
亡くなった母との、貴重な1枚。その母については、自ら本で想いを明らかにしているので、ここでは詳しく書かない。
かつて、いつか、まだ存命中(当時)の姉や妹らに会って、九州の故郷を訪ね歩き、かつての話しを聞こうと、嫁いだ先の住所などを、調べたりもした。
活動も無く、表に出てこない時期にも、「高倉プロモーション」に問いあわせ。
「企画などは、かなり届いてらっしゃるのでしょうか? 実現しそうなモノは、ございますか?」
「答えられません」
「・・・・・今は、日本のご自宅にいらっしゃるんですか? それとも、イタリアなど、海外に?」
「お答え出来ません。よろしいですか? 失礼します」
ならばと、私生活の高倉の近況、今を知りたく、世田谷区瀬田の自宅を何度か訪ねた。
田園都市線の「二子玉川駅」。そこから、ゆっくりとした、なだらかな坂を上って行くカンジで、20分。
そこの角地に、高倉健の自宅があった。
表札には、「小田」とだけ。表札そばのインターフォンを押すが、「はい」とも、返事無し。
何度も、何度も通ったが、ただの1度も返答は、無かった。
周囲を見渡しても、訪問者を映す防犯カメラは、見えない。だから、本当に不在だったのか? それとも、知らない声と人には出ないのか?
どちらかだったのだろう。
200坪はあろうかという、広い敷地。外からは、2階建てと思われる、2階の上部しか見えない。
夜になっても、室内の電灯が灯らない日もあったので、日本にいない日もあったのか、ふらりと地方に行っていたのか・・・・
近所との親しいお付き合いは、まったく無い。
というより、この地域そのものが、大きな邸宅がズラリと並ぶ高級住宅街。で、親しい近所付き合いも、町内会の実態も、事実上無い。
だから、健さんが特異な訳では無い。
インターフォンを押しても、殆んどの邸宅は、不在なのか、居留守を使っているのか、出ない。
なので、「小田」邸の前で居ると、犬と散歩している女性や男性が行き交う。そこで聞くと、思わぬハナシが聞けた。
外出するときは、車。ガレージが、自動的に上がり、自ら運転して、出て行く。角地のため、左右を良く見て、最大徐行。
そのせいもあり、散歩している人を見かけると、例えサングラスをしていても、必ずと言って良いくらい、ペコリと頭を下げて、車を発進させて行くという。
言葉こそ交わさないが、好感を持って、見かけた人全員にとらえられていた。
ああ、元気で家にいらっしゃるんだなあ、と。
衣食住のうち、衣の凝り具合は有名だし、住は、ココ。
健さんは、ある時、三度の食事のことを聞かれ、苦笑いしながら、こう答えている。
「僕は、自慢じゃないですけど、自分で作ったことはありません」
実は、オンナが通って、食事を作っていた。
いや、オンナは女だが、掃除、食事を見事にこなす、通いの家政婦さんが来ていた。
近所の方たちも、まれに、その出入りを見かけることがあったという。交際している女性ではないことは、一見して、その風情で分かったとも言った。
また、映画の撮影。とりわけ、ロケともなると、周囲にフアンが寄ってきてしまう。近寄りがたい凛(りん)とした雰囲気を漂わせていても、だ。
その他、身の回りの世話をそれとなくこなす、「付け人」代わりの決まった男性がいた。
その2人は、おそらく小田剛一の病や、体調の変化や、衰えを知っていたはず。
密葬などには、行かれたはず。
主のいなくなった「小田邸」の前の路上には、枯葉やゴミが、秋風に吹かれ、さわさわと、かすかな音を響かせていた。
私が通い続けた時は、きれいに掃き清められていたというのに・・・。主のいなくなったこの屋敷は、誰の手に渡るのだろうか?
おそらく、40年も前に、自分の眠る墓を買った男のこと。キチンと、死を覚悟しつつ、書面にしたためているはずだ。
家政婦のことも、付き人のことも、事務所の女性は、一切、イエスともノーとも、答えなかった。
さらに書くなら、江利チエミの前に、本気で惚れた女性がいた。
上京する前、地元で熱い想いを寄せていた年上の女性がいた。
明治大学に入学するのは、口実で、実際には、その女性が遠い東京へと嫁いで行ったというのを耳にして、ホントかどうか、自分で確かめたい! ひと目、人妻になっていないのなら逢いたい!
「そういう目的が主で、不純な想いがあって、実は上京したんです」と、自らかつてラジオ番組で話していた。
ネット上では、時期も違うことが、事実であるかのように、載っているのには困ったものだ。
で、これまた、追いかけて、すでに新妻となっていた彼女の姿を確認。失意のどん底に落ち込んだとも、懐かしそうに語っていた。
そのヒトは、まだ存命であろうか・・・・・・・。
明治大学時代、そして、若き俳優時代。
遊郭にも、カネが無くても売春宿にも行ったことは、自身、話している。
女好き、とまでは、いかないけれど。
なのに、かつて、日本を長く不在にして、消息が芸能マスコミに分からなかった頃のこと。
行方不明説。死亡説。女嫌い説。ホモ説などなど、流布された。
さすがに、苦笑いして帰国し、元気な姿を現し、諸説を全否定。
「ボクだって、ごくフツーの男です。そ~ゆう所にも、行きますよ」と、笑って答えていたのを、今でも記憶している。
親交は、広いように見えて、心底打ち解ける人は、極めて少なく、限られている。
石倉三郎や、「オンナ遊びが、ちょっと過ぎてるんじゃないのか!」と健さんが注意したことがある小林稔侍などは、彼らが敬愛。
逆の立ち位置にいたのが、「山麟」(やまりん)こと、山本麟一。
明治大学時代からの、強烈な先輩。東映映画に引き入れたのも、山麟。ともかく、終生、怖いヒト。アタマが、上がらないヒト。
主演、脇役なんて、些細な枠はまったく関係無い。
山麟が若くして、俳優を辞めて、自分の産まれ故郷である、北海道の旭川市に定住。居酒屋を21歳も年下の美人妻と開業した際には、駆けつけている。
その後、山麟が、わずか53歳で急死。
その後も、健さんは、ふらりとそのお店を訪ねては、想い出話しに花を咲かせていた。
「網走番外地」シリーズを始め、長期ロケーションも多く、知り合いもいる北海道に、先輩のように、将来、定住しようかな?と、相談したりもしていたが、山麟はあまり勧めなかったと、伝え聞いている。
今回、死去に際して、「八甲田山」の雪中行軍のシーンが、多く流れた。
その撮影を陣頭指揮したのが、かの「巨匠」木村大作。
見栄えの良いシーンをフイルムに焼き付けようと、木村は、何度も何度も、繰り返し雪深い所を、歩かせた。もう、必要以上、使う数十倍。
キレた健さん。
「誰だ!? このキャメラマンは!」
生前、「大ちゃん」「健さん」と呼び合う仲になった2人の出会いは、このようにして始まった。
そんな映画界の巨匠でさえ、健さんには一目も二目も、距離を置いている。
「そりゃあ、健さんの電話番号は知ってはいるよ。でも、自分から電話を掛けたことは、ただの一度もない。そんな、恐れ多いこと、出来る訳ないよ」
「健さんから掛かってきたら、そりゃあ出ますよ」
「オーラというのかなあ、そうなあ・・・・、たたずまいと言うのかなあ。俳優としても、1人の人間としても、すごい、そう、スゴイ人ですよ」
自身、監督として「剱岳(つるぎだけ) 点の記」を製作した。
その時、健さんに出演してくれないかなあ?とは、思わなかったんですか?
「出てくれる訳ないよ。そんな失礼なコト、頼めやしなかったよ」
本来ならば、この秋にも撮影開始だった、健さんの最新作。
題名は、「風に吹かれて」と、報じられている。
父子の物語だとも、九州は阿蘇地方でも異常繁殖している野生の鹿を駆除するための老いたハンターの物語とも、伝えられている。
体力を要する撮影だ。
ロケハンは、とっくに完了。
入院中だった健さんのため、来年の春に撮影開始が延期されていた。
おそらく、撮影は木村大作。
そして、監督は、気心も知り抜いた降旗康男。
その降旗でさえ、距離を置き、深入りする事無く、礼を尽くして親交していた。
「健さんと個人的に逢うことは、ありますよ。でも、なるべく意識して仕事のハナシは、しません」
「映画の企画は、キチンと文書にまとめて、健さんの事務所にお送りします。それで、都合の良い時に読んで戴いて。こちらは、返事待ちです」
ーーー電話などで、どうでしょうか?などと、感触や意向を聞くことが出来るんじゃないですか?
「そんなことは、しません。仕事は、仕事。個人的付き合いとは、別のモノですから」
「向こうから、やっても良いという返事を戴いてから、初めて仕事として、動き出す訳ですから。公私のけじめは、付けなければいけませんよ」
酒に酔うと、面白くなる人ですと、生前、健さんは降旗監督を評していた。
「いやあ、そうですか(笑)。いやいや、いやいやあ、酒には弱くなりましたねえ」
遺作となった「あなたへ」。
その降旗監督も、一回りやせて、病が?と、気になったものだ。
「何人からか、そう言われたんですが、いたって元気ですよ。そりゃあ、年齢はもはや若いとは、とても言えないトシになりましたが。心配をかけられないようにしなければ、いけませんなあ」
そう言って、笑った。
今回の、健さんの死去。
「無念です」「残念です」との、監督の公式コメントが、胸に迫ってきて切ない。
最期の瞬間も、密葬にも立ち会った可能性が極めて高い。
まだ元気でいらっしゃる、実の妹にも、自らの病のことについては、ただの一言も話さないまま、この世に別れを告げた。
先月。亡くなる1か月前に、甥と、剛一の妹が、携帯に電話をかけたが、元気な声で、受け答えしていたと言う。
2014年11月10日。午前3時49分。
極秘で入院した病室に掲げられた患者名は、変名のままであった。
ヒトは、多く、潮の満ち引きに率いられるかのように、まだ陽が昇らぬ未明に、何故か、天に召されていく。
科学で解明できない、神秘でもある。
小田剛一は、苦しみ、悩み、病を抱える我が身の辛さを、誰にも打ち明けぬまま、ひっそりと、凛(りん)とした、たたすまいのまま、去った。
我が身の死すら、かん口令をさりげなく敷いて・・・・・。
かつて、たった1度。インタビューというより、まさに直撃と言い換えていい時があった。
旧TBS局舎で、ある取材を終えて、通りかかったスタジオ横の控え室に、憧れの高倉健が、チラリと見えた。
「あにき」
その連続ドラマの収録の合間、だった。
インタビューを、事前に申し込んではいなかった。記者のインタビューを容易に受けない俳優だと言うことも、身にしみて知っていた。
しかし、まさに一期一会。
今、聞けなかったら、いつ、聞けるというんだ!?という強い想いが、控え室へと歩ませた。
非礼を詫びつつ、想いを端的に伝えた。
困った様な、困惑に満ちた顔。不審そうな、表情。
しかし、ココですっぱりと断るのも出来たはずなのに、椅子に座らせてくれた。
何を聞いたか、テープレコーダーこそ回したが、良く覚えていない。
「・・・・・ええ」
「・・・・・そうですね」
「・・・・・・かも知れませんね」
「・・・・・・でしょうか・・・・」
言葉を慎重に選びながらも、そんな、あいまいな答えぶりだったように想う。
詳しく、答えてくれた記憶は無い。
初めて、上がった。舞い上がった。
初めて、役者にオーラ、輝きを感じられた人だった。
それ以降、そんなヒトに出会ったことは、無い。
「そろそろ、いいでしょうか?」
そう高倉健は切り出し、夢のようなひとときは終わりを告げた。
記者会見で顔を見て、撮影現場でも顔を見た。
安易に休まない。座らない俳優ということも、この目で観てきた。
孤高の俳優で、あったように想う。
他人が、ファンが想う、「俳優・高倉健」のイメージを、守り続けた人でもあった。
加えて、手紙の大切さ、礼と、感謝と、プレゼントと、人知れずの墓参りの数多くの実話。
もう、無理しない、本心から滲み出る、さりげないカッコ良さ。
だから、誰も知らない私生活の一面も、書いた。
冷静に見ると、決して演技の上手い俳優では、無かった。むしろ、ヘタな部類に入る俳優かも知れぬ。
しかし、その存在。画面に居て、たたずむだけで、それだけでいい俳優という、唯一無二の男だった。
18日から、打ち始めている間に、当初書こうと思い描いていたことを、河北新報社の記事で、翌19日、書かれてしまった。
「一枚の写真」
高倉健の手による「日本経済新聞」デジタル版。映画「あなたへ」の宣伝も兼ねてのものではあったが、東北・三陸沖大津波による大震災の、1年後に綴られた、上記題名のもとの、この1枚の写真。
これに胸を打たれた健さんは、この写真を、台本の裏表紙に張り付け、自分の気持ちを奮い立たせ、自らを励ましていたという。
被災者たちの辛い日々と、想いに胸を馳せ、時として、自分の病の行く末に待ち構える恐怖と闘っていたのであろう。
撮影当時、小学4年生であった彼は、現在、岩手県気仙沼市の中学2年生になっている。
名前を書くのは、本意ではない。彼にマスコミの取材が行き、注目を浴びることで降りかかる迷惑を、健さんが恐れていたからだ。
時の人とばかりに、20日には早速テレビが、少年の今を映し出していた。
誰か、良かれと思い、調べて、健さんに教えたのだろう。
書いた1年後の昨年、健さんは彼に手紙をしたためている。
被災のこれ以上無い辛すぎる経験を乗り越えて、彼に羽ばたいて欲しいと切に願って、この長文を終える。
惜しい・・・・惜しい人が、この世を去ってしまった・・・やりきれない・・・