中尾正茂(ただしげ)。彼は今、生死の境をさまよいながら、リングの外で闘い続けている・・・・・・
頑張れ! 頑張れ!
4月20日、日曜日。私は、静岡県浜松市に向けて、ボクシング観戦へと旅立っていた。
丁度その頃、九州は福岡県春日市(かすがし)でも、ボクシングの興業が行なわれていた。
会場は、同市内にある「クローバープラザ」。JR鹿児島本線「春日駅」から、徒歩1分。というより、駅の真ん前に建つ県立の文化・体育総合施設だ。
第一試合開始が、その日の正午。この施設の閉館が、午後5時ということのため、ボクシングの開始時刻には少し早いが、逆算して、且つ、撤収に要する時間も考えると、その時刻が割り出された。
興行イベントタイトルは、「第19回 ドリーム・ファイトシリーズ」。キャッチ・フレーズが、「叶(かな)わんけん、夢やろうもん」。
九州弁で、大衆に呼びかけた。
そして、出場選手にも。
入場券は、全席自由で、当日5000円。前売り4000円。
九州の大都会、博多にほど近い春日にしても、なかなか日本、東洋・太平洋(OPBF)、そして世界チャンピオンへの道は険しい。
良くも悪くも、巧妙なマッチメイクが出来ない。九州という遠隔地のため、「力学」が弱いからだ。そのため、地元のジムで頭角を現した有望選手は東京・大阪のジムへと移籍し、羽ばたいていく。
はたまた籍だけは止む終えなく残し、練習は東京のジムでし続け、前人未到の五階級制覇を成し遂げた者さえいる。
かと思えば、自分の実力を過信し、東京のジムへと旅立って、やがてジム閉鎖の目にあう者。日本チャンピオンには、今一歩届かず、ジムの内部泥沼に嫌気がさして、生まれ故郷の九州のジムへと帰ってきた者。
まさに、人生いろいろ、ボクサー、いろいろだ。
そんななかでの、現実の慰めにも似たキャッチ・フレーズ。
昨年に続いて、自らのジムの興業を東京で終えたばかりの、元WBAジュニア・フライ級チャンピオンの具志堅用高が、「チャリティ・サイン会」に出席してくれた。
昨年は、興行の収益の一部に当たる10万円を、春日市に寄付。共に出席した、この興業の主催者・三松スポーツボクシングジム会長の松尾知徳とともに、全国紙の地域版に掲載された。
そんな流れのなかで、起こった出来事。
知ったのは、4月27日の朝。しかし、名前どころか、断片的なことしか、分からず。
リングで倒れて・・・・と言うのならば、KOか、TKOと言う名のレフェリーストップ。
で、すぐ目に付いたのが、デビュー戦の選手。
調べながら、どこかで、嫌だなあという感情が。
岡田哲慎(てっしん)のことが、頭をよぎったからだ。
昨年12月20日、東京・後楽園ホールで倒れ、立ち上がって控え室に戻ってみたものの、一気に体調悪化。
客席にいて、息子と会うために待っていた母が、急きょ控え室へ呼ばれた。
母は、青森県から上京。試合を終えた息子と、正月を青森で迎えるために、来ていた。
すぐ救急車が呼ばれ、近くの総合病院へ緊急搬送。
長時間の開頭手術が行なわれ、終了はしたものの、意識が戻らないまま・・・・・・父がすぐ郷里から、飛んで来た。
病床に付き添い続けて・・・・・。年末年始を経て、翌年の1月6日未明。
岡田哲慎は、21歳という若さでこの世を去った。そのいきさつを書きつつ、胸がしめつけられた。
記事は検索数から推し測ると、多くの人に読んでもらえたようだ。
プロテストの壁は厚いのに、死者が出てしまう。
頭の検査、体の検査をくまなくしてるのに、出てしまう死者。
この日の浜松でも、試合後すぐ、脈拍など、検査・診断が実施されていた。
今年、2人目になることは、避けたいなあ。嫌だなあ・・・・・・。
しかし、闇に葬られるのは、もっと忍びない。
で、デビュー戦の選手の顔写真をポスターで見ると、若いと言うより、幼い顔立ち。
妻子がいると聞いていたので、違うのではないか? と思いつつも、経歴等を調べていった。
その選手の所属ジムは、主催の三松スポーツボクシングジム。
だが、ここのジムもまた、選手のプロフィールどころか、データが、まるで無し。
===と、昨29日に打ち上げ、アップした1報の出た後、わずか1日弱で、あわてたのか、これまでの所属選手の試合結果データが、何故か、一気に一部、ジムの記事に追加されていた===
もう、悪戦苦闘。人名を間違って掲載は許されないこと。
う~ん、どうも違う・・・・・。ならば、誰?
全7試合中、4人が先述のジム所属。そのなかの、誰かだ。
ところが、ジムのホームページの類いには、このイベント成功と、試合結果こそ報じてはいるものの、緊急の「緊」も、病院の「病」も、ましてや手術の「手」の字も無い。
一切が、闇から闇へ・・・・・と言ったら、失礼だろうか。
日本ボクシングコミッションに尋ねる気は、無かった。日曜日で不在だから、ということでは無く、岡田の記事を読んで戴ければ分かるが、あの時の対応からして、後味の悪さが残るだけということは、透けて見えた。
隠し通せるものなら、言わないで、隠したい意思が、見え隠れする。不祥事が発生するたびに、キチンと答えない。
で、・・・・・・・・・数時間後、やっと判明した。
ポスター写真の中尾正茂。6回戦だが、サブの8回戦を押しやって、メインの試合に出た。
その人だった。1978年10月6日生まれ。現在、35歳。まだ、プロボクサーの「定年」までには、あと1年半あるが、中尾はこの試合を最後に、事実上の引退。
ラスト・ファイトにする決意を胸に秘めて、リングに上がったと聞いた。
だからこそ、それに華を添え、送り出すための、花道を飾る6回戦メイン・イベンターであった。
それまでの戦績。11戦して、6勝3敗2引き分け。
6勝のうち、5勝が、KOないしTKO。
サウスポーの強打者と、いっていい。
実際、彼の今までの試合の動画や、試合展開や、結果を見る限りにおいてではあるが、詰めの時には、ガード、がら空き。ノーガードに近いカタチで打ち合い、ぶっ倒す、強気なスタイルも、目に付いた。
いわゆる、当て勘も良い。右の強烈なフックから、すぐさま左のストレートのパターンを、連続速射砲の如く打ち出し、相手をリングに這わす。
判明した試合を、いくつか書き出してみる。
2009年11月14日、名古屋市公会堂で行われた「全日本新人王 西軍代表決定戦」。フェザー級で出場した中尾は、3ラウンド1分7秒、レフェリーストップ負け。
翌2010年5月30日。倒れた会場の、地元「クローバープラザ」で、再び全日本新人王戦。今度は一転、1ラウンド1分8秒、鮮やかな圧倒的レフェリーストップ勝ち。
この試合。ストレート中心に、打ちまくる中尾。打たれも、する。その影響で、目の上をカット。ドクターに呼ばれる。
もう1度呼ばれれば、試合を止められる危険性をはらみ、中尾は集中大反撃に出る! 20発ほどの、ワンサイドパンチを繰り出す。相手、ダウン!!
立ち上がったところを、すぐさま、また10発連打!勝ちたいという想いと、執念が拳に乗り移った!
レフェリー。それを見て取って、割って入って、試合ストップ!
翌年の2011年7月31日。
西日本総合展示場で行われた「西日本新人王戦」。40-37に、39-37が2人。文句なしの判定勝ち!
次いですぐの、8月14日。たった半月後に試合をしている。
今では驚くが、かつてのファイテイング原田や、海老原博幸の記録を調べたことがあるのだが、そんなもんじゃない!
今と違い、とてつもないボクシング熱があり、観客を呼べたからだろう。一週間に一度、試合をこなしていた。
毎日、減量。とめどもない減量生活。
のちに、原田は告白している。
「ジムと寮の水道のコックは、全て締められており、最後は自分の出した小便でもいいから飲もうとさえ思った。ノドがあまりに乾いていて・・・・・」と。
で、8月14日。会場は、宮崎市総合体育館。この日は、5回戦となる。激しい打ち合いの末に流血。3ラウンド、2分1秒、負傷判定に持ち込まれた。
結果は、29-30が、1人。二人目は、29-29。そして、最後の3人目は、30-29。
つまり、1-1のドロー。そして、優勢点の再判定により、中尾が「勝者扱い」になった。
辛くも勝ち上がった中尾。中尾は、短期間に次の試合に向かって突き進んでいた。
翌9月19日。惨敗した悔しさをぶつけるかのように、4戦4勝(4KO)という中日本フェザー級新人王を、強打の連続で、2ラウンドKOに葬っている。
強気さが、もろにのぞいた試合。右フックの威力は、相手を1発でぐらつかせるチカラを秘めている。
他方、攻めに専念するあまりに、自身のガードが、がら空きになる悪癖も、見せている。
短期間の試合の連続。中尾本人の、負けじ魂が爆発したころだ。
10月29日。「全日本西軍代表フェザー級新人王戦」で、強打で鳴る選手と、対戦する。辰吉二世と、ボクシング・マスコミがもてはやした相手は、6連勝5KOと勢いに乗っていた。
試合は3ラウンドに2回、中尾がダウン! 2分15秒、KO負けを喫した。
結局、この大会でその相手は、MVPを手にしたほどの激闘だった。
しかし、そのヤンキー的風貌の強打者をして、「やりにくいサウスポーでした」と言わしめた。
だが、その後、「仕事」のため、試合も出来にくくなりつつあった。
中尾の職業は、国家公務員である、「自衛隊員」。妻子もいる、立派な社会人だ。
自衛隊体育学校に通って、オリンピック出場を目指した清水聡(さとし)のような、練習が「仕事」に変わるエリートではない。
勤務も通常にこなし、そして、そのあとの時間をジム通いに充てる。
この春日市。ジム近くに、2つの基地がある。
「航空自衛隊春日基地」と、「陸上自衛隊福岡駐屯地」。
個人情報と、自衛隊員という双璧の厚い壁がそびえ立っていたが、航空自衛隊に問い合わせると、「中尾さん? 聞いたことがありません」との返事。
どうやら「陸上自衛隊員」のようだ。
国家公務員のため、副業は許されず、なんと少額のファイトマネーと言えども受け取らず、受け取れず。すべて返上。
さらに、勤務目的の究極は日本防衛。そのため、2012年には、以下のような理由で、決定していた試合を欠場している。
[北朝鮮情勢悪化により、自衛隊任務のため、欠場することになりました]
任務先は、第4偵察隊。
また、沖縄にも、長期派遣駐留。
そのため、沖縄県豊見城市にある、元WBA世界ジュニア・ウェルター級チャンピオンの平仲明信が主催を務める「平仲ボクシング・スクールジム」で練習をし、スパーリングも重ねている。
かと思えば、東京都のはずれ、八王子中屋ジムにも訪れ、中尾の親友を自認するボクサーとも、スパーリングをしたり、旧交を温め合いながら、練習して九州へ帰ったりもしている。
人柄は、良さそうだ。
素直だったとの声も、聞かれた。
13年前には、山口県小郡市での、10キロ・ロードレースに出場。上位入賞で、36分台のタイムを叩き出している。
また、春日市のジムに来る前は、あのわがままスパンキー、鬼塚勝也が指導するジムで練習を重ねていた。その鬼塚が、「こいつは、強い!」と、常々クチにしていたという。
数年前には、ファイトマネーに加えた金額で、自ら車いすを購入。それを春日市に寄付をしている。
こころ優しい、プロボクサーでもあった。
試合内容も、こちらが分かっただけでも、11戦中6試合が判明。キャリアの割に、試合数が少ないのは、やはり勤務を優先してきたからであろう。
良き夫、良きパパとしても、奮闘。
そして、この4月20日、運命の日曜日の試合を迎える。
従来のフェザー級から、規定体重を1階級落としての、スーパー・バンタム級での試合となった。
相手は、同じ九州の大分県別府市にあるボクシングジムの選手。年齢は26歳。今までの戦績、8戦して、5勝3敗。KO勝利は、1試合だけ。
数字だけ見るならば、ラスト・ファイトでカッコ良く花道を飾るには、適正の相手。
だが、ボクシング。一寸先は、誰も分からない。
事実、フルラウンド戦っただけではなく、中尾は、なんとダウンを喰らっている。
堅いガードをせず、ガードがら空きとも思えるラフな戦法で、正面から打ち合った!
それまでのKO率からしても、倒す自信があったのであろう。良い所も、魅せて終わりたい。
それが、両拳の先に、乗り移った!
だが、倒せぬまま・・・・6ラウンド、終了。判定に持ち込まれたが、三者三様のジャッジ。
中尾から見るなら、56-57。55-60。そして、56-58。
0-3の負けで、終わった。
観ていた者に話しを聞くと、ダウンこそしたものの、その後、すぐ持ち直し、身体のおかしさなど感じさせることも無く、応援に来た者達の拍手に送られリングを、降りている。
体調不良を訴え始めたのは、控え室に戻ってから。
異変を感じたドクターと、周囲の者が、あわてて救急車を呼ぶ。
緊急搬送され、病院は緊急開頭手術を決断。
手術は、3時間を優に超えた。
意識は、残念ながら、いまだに戻って・・・・いない。
医療関連の学校を出て、中尾と同じジムの、それも同じ階級のボクサーの見立ても、ブログの行間から漂う印象は、あまり思わしくない。
先に書いた、岡田の経過に似ているのが、気がかりだ。硬膜下血腫だろうか・・・・・・・
所属ジムの会長に話しを聞くべく、連絡をとった。
先に書いたように、ジムからの情報のなかに、中尾が倒れたことすら、記載されていない。
むろん、地元紙にも。
長い呼び出し音を経て、女性が出た。
会長夫人だった。
「主人は、出かけております。何時に帰宅? 分かりません。明日? さあ、分かりません」
中尾選手の経過を聞いた。
「はい、倒れて、はい、入院して、手術を受けた・・・・のは、事実です。これ以上は、ちょっと・・・・私、詳しくありませんし、よく分かりません・・・主人に、余計なことは、しゃべるな!と、きつく言われておりますので」
「それに、中尾さんとは、いろいろありましたので」
いろいろとは?
「これ以上は・・・失礼ですが、?を切らして戴きます」
そう言い終えるなり、?は切れた。
翌日掛けても、呼び出し音が、むなしく続くばかり。
また、むなしい想いが、突き上げる。
やりきれない思いが、胸を貫く。
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ボクシングの試合で、クリンチのさなかに、しばしば見られる後頭部打ちは、禁止されている。
だが、当たり前のことながら、前面やサイドから頭部への、ストレート、ジャブ、フック、アッパーなどのパンチは、認められている。
それが無ければ、ボクシングではない。
そう、確かにそうだ。
ましてや、スパーリング用の分厚いヘッドギアと、グローブを装着して試合をしていきませんか?などと、提示したら笑われるか?
連打を浴び続けたら、素早く試合を止める。
その傾向は、日ごとに早まり、強くはなっている。
同じ日、浜松の第3試合の記事で書いたが、5カウントで試合をストップ。
意表を突く、突然の終わり方だったが、その時点ではすでに中尾の試合が終わり、緊急搬送されていた。
おそらく、レフェリー出身の浦谷・事務局長も、九州で起こった異変の連絡を受けて、未然の措置としての、5カウント、だったと見る。
早く終えさせれば、リング禍が、防げるのかどうか?は、分からない。
折りも折り、4月26日、日本プロボクシング協会の理事会が開かれた。
そこで、「プロテストの受験資格年齢」を、従来の17歳以上を、16歳に引き下げて欲しいと、日本ボクシングコミッションに要求することを決議したとのこと。
ある選手は、言う。
「それならそれで、アマチュアのボクシングを経験させてから、受験させて欲しい」「じゃないと、危険が伴う可能性があります」
早くデビューさせて、史上最年少でチャンピオンになったということに、どれほどの意味合いが、あるだろうか?
ボクシング・マスコミの記事キャッチが増えるだけのことでは、無いのか?
引退する年齢が、スライド式に早まるだけのことでは、無いのか?
私は、「拳年齢」は、17年。だましだまし叩き使って、18年。取材を重ねるなかで、ますます間違いないと、思い始めている。
その前後で、ガクッと体力、視力とともに、落ちていく。あれ?こんなはずでは? と、当人たちが軒並みクチにしている。
元来、人間の両拳は、肉体や、物を叩くために備わったモノではない。
それなのに、毎日毎日、ミット打ち、サンドバッグ打ち、スパーリング、そして試合。
日ごとに、パンチのスピード、重さ、強さが増していく。それは、目を見張るほどに。
つぶさに、それを見続けてきた。
だが、拳に使用年齢制限がある。限度が、ある。
ほとんどの選手が、1度ならぬ数度、指、手、拳、手首を骨折している。ボクシング・ファンを沸かせる強打者に、それが圧倒的に多いのも、また事実。
だから、男子プロボクサーの定年が、37歳が適正かどうか?は 断定出来ぬが、おおむねはずれていないのではないか。
そうも、思っている。
なかには、担当トレーナーが来ないからという理由で、ストレッチ運動だけやって、日々、ジムから帰る特異なボクサーや、ミットを直接叩かず、マス打ちだけやって帰る変わり者ボクサーも、世の中にはいる。
そんなのは論外。ボクサーに、2人のことを話したら、全員が驚いていた。
さらに、「パンチ・ドランカー」問題。何人か、親しくさせてもらっているボクサーに顕著に表れ始めて来ている。
また、女子の40歳過ぎも、例外許可したり、王座決定戦乱発のデタラメにも、首を傾げている。
んにしても、「頭部への衝撃」
医師でもない私に、現在、最良策があるのか? と、問われれば、「無いです」と、答えるしか、今は無い。
日本プロボクシング協会理事会には、「16歳」より、「硬膜下血腫に至る防止策」問題を、考えて欲しい。
コトは、生死に直結することだ。スパーリングが原因で、死んだボクサーや、練習生もいる。
真剣に、議論、提言、医師など招き、論議、打開策を講じて欲しい!第二の、岡田哲慎を出さないためにも!!
もしも。
考えたくないことだが、自衛隊員である中尾正茂の試合は、業務外の出来事であり、防衛省から、見舞金の類いは1円も拠出されない。
ともかく、今は、生還を祈りたい。
第二の岡田哲慎は、見たくない・・・・・・
頑張れ! 頑張れ! 中尾正茂、闘い続けろ!