≪ 2019・7・21 掲載記事 ≫
数日後に、大河ドラマで西郷隆盛を、史実にもとづかない小説を、さらに面白おかしく、ポップコーンのごとく目一杯ふくらまして、放送開始される。
その宣伝のために、1月4日。4時間弱も垂れ流して、宣伝してたのを知り、あきれ果てた。
いくら、前作まで、低視聴率から抜け出せないままだったとはいえ・・・・・。
ウソは、ウソ。アリ地獄に、落ち込んでいるとしか、言いようがない。
それで、一番分かりやすい例として、西郷隆盛の顔とされる、あの上野公園に、今も建つ、犬といる顔のウソを記事化した1本を、引っ張り出してきた。
中盤に書いたので、読んで戴ければ、と。
日本史に興味ある方は、アタマから読み進めて欲しい。
(2017 ・3・22 掲載記事 )
[ 2017・3・31 再掲載記事 ]
《 2017・7・10 再再掲載記事 》
≪ 2018・1・4 再再再掲載記事 ≫
つい最近のこと。
小・中学校で学ぶ「社会科」の教科書の内容と、記述が、昔とガラリと変わってしまっているという事実を知った。
ええ~っ!? ホントかよ? というコトが、連発。
幼い頃から、「日本史」に興味があり、自分でガッコの図書室や、図書館、本屋で調べたりして育った私でさえ、驚くことがあった。
昔「教科書」に書かれていた「歴史的事実」なるものが、古文書や、手紙、通達、遺跡、古墳など、ありとあらゆるものを突き合わせて、真偽を調べていくと、時代が数年前後してたり、間違っていた記述が多く見受けられたので、とのこと。
なので、あの極めて腰が重く、「天下り」のあっ旋以外、仕事をしないことで有名な文科省が、前回の学習指導要領改訂の際に、「現時点」で判明した「史実」にもとづいて、書き直して下さい。
ないしは、変わってしまった理由の説明文を補足して、記述を重ねて下さい、というように現場の先生に間接指導している、というのだ。
例えば、いくつかの例を示そう。
この記事を読み進めるあなたに、聞きます。
「鎌倉幕府」の成立は、何年ですか?
多分、あなたはこう答えるでしょう!
「ええと、いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府、と覚えさせられたから、1192年です」と。
違います。1185年と、現在の、小・中学校の「社会の教科書には書かれているんです。
1192年は、源頼朝(みなもと よりとも)が、征夷大将軍に、任命されたトシ。
それが、鎌倉幕府成立のトシと、長ら~~く、国民は、教えられてきた。
ところが、近年では頼朝が朝廷に願い出て、全国各地にくまなく「守護」「地頭」を置くことを認められ、彼主導の全国的軍事支配が出来た、1185年が、真に「鎌倉幕府」が事実上成立したトシと認定されてしまった。
だから、その業績と実力を認められ、7年後には「征夷大将軍」に任ぜられたという流れになった、ということに落ち着いた。
じゃあ、試験に、「何年ですか?」という選択問題や、書き込みを求められたらどうするの?
そ~ゆ~ことも起きそうなので、近年は、「〇〇があったトシは、何年でしたか?」という問いは、入試問題や、統一模試などからは一掃されてしまい、出題されないうえ、学校現場では、年号を重要視しない傾向になっているという。
「大化の改新」。
これもまた、従来は645年とされていたが、史実にもとづき、翌646年に変わっている。
それも、大化の改新と言う名称は消えさり、「改新の詔(みことのり)」という名称が正しいと変わった。
従来の645年は、「乙巳(いっし)の変」になった。
また、「仁徳天皇陵」という古墳は、どうも仁徳天皇のモノではない。違うようだという見方が発掘も手掛けてきた専門学者の意見の大勢となり、名称そのものが、教科書から消えた。
従来の「仁徳天皇陵」とされていた古墳は、「大仏陵古墳」と、名称がガラリ変わってしまった。
また、松尾芭蕉が書いたとされている「奥の細道」。
彼が直筆で書いた原本が発見されたのだが、なんと表紙には「おくのほそ道」と書かれており、これまた、従来の「奥の細道」表記は間違いとなった。
日本で一番古い貨幣が、従来「和同開珎」(わどうかいちん)とされていたが、これまた新たな発見、発掘により、一転して、「富本銭」に変わった。
人物の評価も、変わった。
「徳川綱吉」。この実在の徳川家の将軍。
犬公方(くぼう)などと、さげすまれ、「生類憐(しょうるい あわれ)みの令」は、人間よりも「御犬様」を敬うという、悪法ではないか、いう評価が高かった。
ところが、史実を洗っていくと、経済改革などに力量を発揮。実は「名君」だったのではないか!?という評価に変わっているという。
んなもんで、書かれた内容も変わっている。
さらにいうなら、あの有名な「忠臣蔵」。
さすがに教科書にまでは載ってはいないが、事実とは全然違うデタラメ認知が、歌舞伎に始まり、下記掲載の映像化により、されまくっている。
吉良上野介(きら こうづけのすけ)が眠る屋敷に、赤穂浪士47人が討ち入り、大石内蔵助(くらのすけ)らが、警護していた武士たちを斬りまくり、最期に隠れていた吉良の首を斬ったとされる、世にも有名な、組織的仇討ち事件。
吉良が、謝礼という名目で、ワイロを慣例のように要求していたのは事実。
だが、一方の浅野内匠頭(たくみにかみ)と言う人物。
史実や、古文書に照らし合わせると、性格、すごい短気。すぐ、キレる。
例えば、赤穂の城で、自分に逆らった言動を、ちょっとでも見せた家来に、すぐさま切腹を命じていた。
その一方で、別の家来が「あの者は、謀反(むほん)を企ててるようですよ」と、根も葉もない作り話を浅野の殿に吹き込むと、ロクに真偽を調べもせずに、すぐ信じ込み、これまた謀反を理由に「切腹」を命じたというのが、古文書に、しばしば記載されている。
家来、重臣たちは、「いつか、自分が、そんな運命になるかも?」と、疑心暗鬼に駆られていたという。
さて、討ち入りの夜。
47人が、上記写真の様な有名な派手な衣装を、全員が身にまとって、揃って行ったというのは、まったくのウソ。
各人バラバラ。多くて2人。町人風情の着物を着て偽り、吉良邸近くにしめし合わせて、深夜秘かに集合。
刀、槍、縄バシゴなどは、荷車に隠し、全体を覆って、幾つにも分けて行った。
当時、幕府が、元・赤穂藩士たちの動向を探り続けて、討ち入りに気付いており、すべて目立たぬように、気付かれぬように、細心の注意を払った。
当夜、雪降ってたのも、ウソ。積もっていたのも、ウソ。
ましてや、大石内蔵助が、門前で山鹿流の陣太鼓叩いたのもウソ。
気付かれぬように、斬り付ける寸前まで、音も無く侵入したので、だから、討ち入りは成功した。
コトが終わってからだ、全員並んで歩いたのは。血染めの粗末な着物で、そのまま遠路10キロ以上歩いている。
先日の3月20日は、1人、大石の命で抜けた残り46名が、相次いで切腹死した日だ。
さらに、書くなら、教科書にも、かつて載っていた記憶がある、西郷隆盛の顔(写真下)。
これ、実は違う人、別人。この顔は、西郷家一族の親戚の者に極似。
なにしろ、あまりにも有名な、東京の上野公園に建つ銅像。
この顔も、上の顔と似ているかのようで、まるで違う。
この銅像の除幕式に立ち会った、妻の「イト」(写真左下)が、かぶされていた幕が取り除かれた瞬間、絶句!
「亡くなった主人は、こげな顔は、しとらんです!」と言って、卒倒しそうになった逸話は、有名だ。
一昨日、ネットを見たら、顔の違いではなく、普段から犬などと散歩はしていなかったし、着てるものが粗末だったので抗議をしたとの”怪説”が引用されていたのが点在していて、絶句した。
そのなかにはイトが、立派な軍服を着た銅像が創られているはず、と思い込んでいたため、失意でそう言ったと思われるとの、これまた曲解がみられた。
軍服着用のパターン像は、その曲解を受けてか?鹿児島市に建立されている(写真左下)。
コレまた、んな顔と体型。私、取材に行きましたもん。
実は、このほかに、西郷隆盛の顔、とされる人は3人もいる(写真左下)。
全員、バラバラ。大きく差がある。
その中で、一番実際の顔に近いと言われているのが、この顔。 コレを書いた画家は、自分が幼い頃、西郷が近所に住んでおり、実際に西郷隆盛に常日頃、可愛がってもらっていた記憶にもとづいて、後年描いた。
実際、鹿児島市のはずれにある西郷の居住地跡に行ってみると、家系図、詳しい業績、そして顔、体型の真偽について詳しく、立て看板に書かれてあり、この顔がホンモノ、本人と想われると記載されてあった。
西南の役で、西郷が配下の者と5日間、立てこもったとされる洞窟(写真上)には、多くの観光客が、上の軍服姿の銅像の所にと同様、観に行く。
すぐ近くには、売店が並び、ウソの顔が刷り込まれたグッズが売られていた。
だが、遠路、まったく違う方向に、観光とは縁の無いバスに揺られ揺られして、且つ、7分ほど川沿いを歩いたところにある「居住跡」にまでは、よほどの熱心なファンでなければ行かない。
なもんで、ウソと間違いが、いまだ堂々とまかり通っている。
なにやら、鹿児島県では、西郷で有名な、「そうで、ごわす」。「おいどん、は」などの有名方言が、全滅。
県在住の子供や若者が、鹿児島弁をまったく使わないうえ、忘れ去られていることに県の教育委員会が危機感を持ち、「バイリンガル教育」を促進し始めたという。
「標準語も話せますが、もちろん、鹿児島弁も話せます」、と胸張って言える地域言語教育を浸透させる、のだと言う。
そうなった背景には、次期NHK大河ドラマで、西郷隆盛が取り上げられることがあるようだ。
なにしろ、今放送中のオンナ城主にしても、史実上、実在していない可能性が、とても大きいうえ、その生年月日や、産まれた地や軌跡も、古文書で書かれていない、幻の人物。
なもんで、女性脚本家が、想像ふくらまして、創り上げた人物像。
そこんところ、ねつ造や、でっち上げは、お得意のNHK。
西郷の顔にしても、ドラマのモデル顔は、おそらく・・・・あの上野にある・・・・で、ごわすか?
以前、歩きスマホの危険性を指摘した記事、「てめえら、死にたいのか!? 今、「二宮金次郎」は(後篇)」で、二宮金次郎の実像を取材。
実は、左の写真のような、こんなコトはしていなかった金次郎少年だった、と判明。
ガッコも満足に行けなかった貧乏話しも、大うそ。苦労無しの、良いトコの、お坊ちゃまだったし、後年は、金貸しに転じたオヒト。
そ~ゆ~「ねつ造偉人さま」を、道徳教育のモデルにと、国と文科省が起用し続けたことに、教育現場が静かに、ひそかに、危機感を蓄積。
折りしも、全国各地の小学校校舎が老朽化。
震災も相次ぎ、校舎の一部なり、全面建て直しの流れのさなかに、この「たき木を売って、貧しい家計を助けながら、歩きオベンキョした、貧しさにも耐え忍んだ、賢い少年銅像」を撤去。
全国から、次々と消え去り、と、ほぼ同時に教科書からも消えた。
それでも、文科省。教科書からは消えたが、右寄りの政治屋たちの声を受け、「道徳」の「小冊子」のなかに刷り込み、この二宮金次郎を取り上げている。
こ~ゆ~のは、しつこいが、文科省の基本政策は、コロコロと変わる。
かつて、「ゆとり教育」なるシロモノが実施されたことがある。その旗振り役をしたのが、この写真の、元・文部官僚だった寺脇研。
ところが、やがて「ゆとり教育」は、間違っていたという結論に、政府下のもとに変更され、この男自身は、どう思っているのだろうか?と、都内で追撃。
---寺脇さん、どう思っているんですか? 結果として、税金の無駄遣いしたわけですし。児童や先生は迷惑かけられたし。責任も含めて、一言。
ところが、この寺脇。何も答えず「いや・・・・」と、顔の前に手をかざして、逃げていった。
そんな人間が、退職後、近年になって、「ゆとり教育」は正しかったと言う趣旨の本を出し、且つ、辞職したあと、自身も天下りの組織のツテを頼ってか、大学教授に就任したこともあり、「天下りも良いこと」という主張をしている始末。
この見苦しい顔が、ここんところの「森友学園問題」で、ワイドショーに、なんとコメンテーターとして、自分の犯した問題には素知らぬ顔をしたまま、したり顔で「怪説」をのたまわっていたのには、おったまげた!
起用する局も局、出るこいつも、こいつだ。
寺脇研などのせいで、いつもいつも、迷惑をこうむっているのは、コロコロと変わる指導要領を手にして、教えている教師と、教えられている全国の生徒たちだ。
その「被害」に、少子化傾向が年々増加しているとはいえ、2014年の集計で、小・中学校の総生徒数、1010万人がいる。
文科省と、寺脇研の、責任は重い!
いまだ、謝罪はしていない。
さらに、かの昔から、教科書に記載されていた「士農工商」という、江戸時代の身分・階級制度を現す4文字熟語。
ところが、コレも消えた!
理由は、こうだ。
史実をつぶさに追っていくと、そのような確たる身分の上下関係と、制度そのものが、無かったのではないか、という結論に達したとのこと。
別に、武士が飛び抜けて偉く、商人が低い?という差別表記が問題になった訳では無い。
それどころか、商人がカネを武士に貸し付けていたり、ワイロに使っていた実態は、時代劇にでさえ、しばしば、描かれている。
「〇〇屋、お前もワルよのお・・・・・ひひひひ」と、武家屋敷で、悪徳大名が、ワイロの小判を袖に仕舞い込みつつ、言うセリフは、あまりにも有名だ。
ワイロ、だけではない。
商人が、カネさえ、それ相当に出せば、「武士」の身分と家柄が買えたという実例が、古文書を調べると、驚くなかれ、どんどん出てきた。
したがって、士農工商という身分制度そのものが、正式な言葉、実態も無かったてぇことになった。
確かに、農が2位で、商がケツと言うのは、子供心にも、なんか変!とは思っていたが、それにしても、おいおいおいおい!だ。
「鎖国(さこく)」。
これもまた、表記として当たらない、誤解を生むということで、この単語も消えていた。
が、なにか、おかしいことに、また「復活」させるらしい。
真偽と離れ、歪んだ日本史が、ねじれに、ねじれまくっていく。
で、さらに。
「聖徳太子(しょうとくたいし)」という歴史上の人物は、厳密に言うと、この世にいなかった、というのが現在の「社会科」の教科書。
世に知られているどころか、かつては1万円札にも刷り込まれていた、この顔(写真左上の真ん中)。
これもまた、不確かというか、厳密に言うと虚偽。
というのも、聖徳太子という名前は、このヒゲをはやした人物が死んでから、俗称として後世に付けられたもの。
生前中は、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」や「厩戸王(うまやどのおう)」との名称が付いていた。
で、このヒトが、教科書に載ったのは、「冠位十二階」とか、「十七条憲法」などを創ったとされたから。
ところが!
このヒトが産まれたのが、西暦でいうところの574年2月7日。
で、亡くなったのが、622年4月8日。
つまり、まだ48歳で他界したのだが、上記十二やら、十七やらを創ったとされるのが、史実を追っていくと、29~30歳。前後、多少ズレがあったとしても、若き20歳代。
なのに、老成したような顔つきのうえに、口ひげはおかしいし、あごひげも、ねぇだろう!という結論に。
さらに、十二に十七。
厩戸のカレが、独りで考えたものではなく、何人もの人間たちが、何度も合議を重ねて、練り上げて作成したものと判明。
彼がその代表格として、突出して名前が出るのは許容されてるのだが、そもそも、このクチヒゲ顔が、想像上のシロモノ。
そのうえ、死んでから創った物でもない。
あくまで、厩戸の、若き時代に創ったモノなのに、聖徳太子はおかしいし、虚偽表記となるではないかとの結論に。
しかし・・・・世間では、長きに渡って「聖徳太子」が流布されてきた。
で、教科書では、おかしく、まぎらわしい表記で、落ち着いた。
小学校の「社会」の教科書では、4社全部が「聖徳太子」に。
だが、中学校では、8社のうち、6社が「聖徳太子(厩戸皇子)」。
1社が、「聖徳太子(厩戸王)」。残る1社が、「厩戸皇子」に。
これが、学校現場で混乱を生じさせているとか、アタマだけで考えた文科省が、学校現場に聞きもせず、さらにアンケートも取ること無しに、一方的に流布させた。
で、やったことは本末転倒なやり方。
文科省の言う「パブリックコメント」。
国民・一般からの意見を聞きましょうというフレコミ。
ところが、この手法。具体的に、何人に? どんな年代層に、何人づつ? 男女別は? などなど、詳しいデータは、以前から非公表。
だから、勘ぐれば、いくらでもでっち上げ、ねつ造は可能な手口。
で、今月末にデッチ上がる、「学習指導要領」では、なんと!聖徳太子が復活し、教科書全面統一に戻っていくらしい。
先に書いたように、全国の小・中学校の「社会科」を教えている全員の先生にアンケートと、実情と、附帯意見を書いてもらい、ソレを集計してから勘案すれば良いこと。
それで、「聖徳太子」全面復活ならば、納得も出来なくも無い。
安倍晋三・昭恵夫妻や、夫妻ともに3つの変名を使いわけてきた籠池夫妻を始め、妙な右傾化で「社会科」の動かしがたい「史実」が、間違った方向に走ってはいけない。
にしても、20歳代後半で、口ひげ、あごひげは、ねえだろう!
いくら、想像で、描いたシロモノにしてもさあ・・・・・・。
また、まだ48歳で「厩戸」が死んだとき、ひげをたくわえていたか、どうか?も、まったく判っていない。
お札と、史実は、あくまで別。
間違いは間違い、と認めなければ、日本史は歪んだ方向にいってしまう。
最期に、お札といえば、現・5000円札の樋口一葉。
むろん、実在の作家だが、このヒト。死ぬまでおカネに苦労したヒト。死んでから、評価が高まり、著作が売れた。
人生、あまりにも皮肉だわ・・・・・。
墓の下で、そう、つぶやいているにちがいない。
もひとつ、最期の締めに、伊藤博文。
このヒトも、「千円札」に刷られた歴史上の偉人で、教科書にも、その名が出てくる。
読者も、記憶があるはず。
だが、この偉人。教科書には、絶対に載せられない「史実」が有る。
ソレは、無類のオンナ好き、ドスケベだったこと。
芸者遊びが、大好き。
公務を終えたら、一目散に芸者の待つ部屋へ。
もう、ハメまくり、やりまくり。
妻がいながら、公然、隠さず。
ついには、17歳の芸者に入れあげ、妻と離婚し、この芸者と結婚。
しかし、ビョーキは収まらず。
ついには、13歳の芸者まで囲っちゃったほど。
明治天皇にまで呼び出され、注意されたが、いっこうに聞かず。
老いても、3Pもして、川の字になって寝ていた。
そのこと、本人が、しゃべってる。
いやはや、史実。
んでも、千円札の明治の大偉人サマ。
なんともはや・・・・・・。