転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



mixiのほうで、お友達の日記を見ていたら、
今朝はネーミングのことが話題になっていた。
名付けとは何か、名前の持つパワーやイメージ、等々について。

それで思い出したのだが、『三国志』などを見るとわかるように、
中国では歴史的に姓はともかく、名のほうは呼ばないのが礼儀、
という考え方が支配的だった。
実名は大変意味の深いもので、君主や親などよほど目上の人でなければ、
相手の名前を直接に呼ぶなどという大それたことはできなかった。
他人に名前を教えるのは、お互いに首を狙い合う間柄になるなど、
命を賭けた決意をした場合に限られた。
だから普段の呼び名として「字(あざな)」が別につけられたり、
さほど親しくなければ「姓+官職名」で呼ぶことが優先されたり、
死後であれば「諡(おくりな)」が新たにつけられたりしたわけだ。

そう考えると、今の日本の日常生活で、
相手の名前を言わずに「総理」「社長」「先生」とだけ呼んだり、
教師が目の前の相手に「お母さん」「おたくのお子さん」と言ったり、
夫婦で「おい!」「あなた」などと互いに呼び合ったりするのも、
元を正せば、名前に対する並々ならぬ畏れがあったから、
このような習慣が出来上がったのではないかと私には思われる。

かつて「私は『おい!』ではありません」とお怒りになっていたのは、
今は亡き、ジャーナリストの千葉敦子さんだった。
アメリカでは、夫婦がお互いの人格を認め合い、平等だからこそ、
その人固有の名を大切にし、きちんと名前や愛称で呼び合っている、
とアメリカナイズされた考え方の千葉氏は書かれていた。
その点、肩書きや続柄や「おい!」で代用する日本人は無礼だ、と。

初めてこうした主張に触れた頃、私はまだ若かったので、
そうか、『課長さんの奥さん』『○ちゃんのママ』なんて言うのは
女性蔑視なんだから、やめなくちゃ!ちゃんと名前を呼ばなくちゃ!
と思ったものだった。
が、今は少し考えが変わった。
確かに、会社名や、配偶者の姓から離れた、固有の名前で呼ぶことが、
個人とその人格を重視した態度であることは間違いないと思う。
しかし、儒学の影響、かの国の「字」の習慣を思うと、
固有の名前であるからこそ、命にも等しい重大さをそこに見出し、
無遠慮に素手で触れないようにしてきた、という態度のほうにも、
他人への深い尊重の気持ちがあるのだと思えるようになったのだ。

名前とは、やはり、なかなかに重い意味があり、
それゆえに、文化的背景をおろそかにして考えては
いけないものなのだと、今朝、改めて、思った。

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