転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



私は小倉フェミニズムを詳しく知っているわけではないので
和央×花總の舞台とジェンダーの問題を
安易に結びつけて語ってはいけないとはわかっているが、
一連の「宙飛ぶ教室」を読んで感じたのは、
和央×花總が舞台で描き出した男女の姿は、もしかしたら、
小倉フェミニズムにおいては、ひとつの理想をかたちにしたもの、
だったのではないかということだった。

私の理解の範囲では、小倉氏の理論においては、
肉体を持つ男女は必ず「征服する男」と「屈服する女」
という関係で捉えられていたと思う。
小倉氏の過去の文章をいくつか読んだ限りでは、
肉体を伴うと、男女の関係はほぼ確実に征服と服従の関係性を帯び、
女性側が抑圧される役割から自由になれないという意味で、
結果的に、家父長制的イデオロギーに与することになってしまう、
だから、女性は、もし異性愛を受け入れたいと思うならば、
自分が男性に服従せざるを得ない側であることをよく自覚し、
諦念を持ったうえで初めてそうするべきだ、
と小倉氏はこれまで主張なさっている(ように私には読める)。

ただ、小倉フェミニズムは同性愛主義ではないから、
理念的には、男女間の愛はあり得ることになっている。
その観点から、和央×花總のふたりが演じる「男女」は、
小倉理想主義で肯定され得る男女関係の描出ではないかと私は思う。
現実のふたりは、言うまでもなく女性の肉体を持っているが、
舞台の上で「和央ようか」「花總まり」になるとき、
両者は本来の性別を超越した存在としての男女になる。
プラトニックなのではなく、最初から現実の肉体を持たない、
という意味で、完全に観念的な意味でだけ、男女になるのだ。

そのような「和央ようか」「花總まり」を実現し続けるために、
ふたりは、鍛錬によって肉体的な条件に徹底的な制限を加えている。
舞台の上で、純粋に理念上の男女になるためには、
まず現実の本人が持つ性別をゼロにしたうえで、
新たに特殊な「男」「女」という特性を表現して行かねばならない。
つまり、男でも女でもない、ただの「身体」としてのみ存在する、
特殊な肉体と表現力とを持たねばならないから、
演じる本人の本来の性別を感じさせるような、
余分な贅肉もニュアンスも、一切排除しなくてはならないのだ。
それは男性を演じる和央ようかだけでなく、
その相手として虚構の女性を演じる花總まりも同様だ。
だからふたりは、痩せているのだ。

『太ることはファンへの裏切り』という和央ようかの言葉を、
小倉氏は引用なさっているのだが(宙飛ぶ教室11)、
上に書いたような文脈で行くと、これは単に、
『スタイルが悪くなってファンをガッカリさせたくない』、
という意味ではなくて、
もしも彼女の身体に丸みが加わり、「女性」としての特性が表れたなら、
肉体性を消し去ることは今よりずっと困難になり、
舞台の上で性別を超越する『和央ようか』には、なりにくくなる、
だからファンの期待に応えられなくなる、という意味だと思う。

これが普通の女優であれば、太ることは、
印象が変化するという意味でのマイナスはあるとしても、
もとから女性であったこと自体は、なんら、変わらない。
ひとえに『和央ようか』だからこそ、肉体の条件は譲れないもので、
それが変化するというのは、
現在の彼女が舞台で表現しているジェンダーそのものを、
根幹から揺さぶることに繋がるのだ。


・・・しかし、私の、このとらえ方が、もし適切だとするなら、
当面、舞台人としての和央ようかが「女優」になることは
かなり、可能性が低いように思われるのだが、どうだろうか?

(続)

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