うーん、式場がサマになる男、よんである。
目一杯、遊んでいたら、、、前に書いた自分の首の不調が治っていました。
不思議ー。↓
http://blog.livedoor.jp/kaituukan/
さて、このまえ、あるお客さんの体験を聞いたので、ちょっとご紹介。
体のある部分がつらいので、とある治療院にいったところ、時間が来たのでまた次回、となり。
そこまでは、よくある話ですが、行くたびに「今日は、ここもやっておきましょう」「今回は、この部分も治しておきましょう」となり、本人さんが希望している「体のある部分」の治療からどんどん離れていってる気がした、というお話でした。
善意に解釈したら、本人さんが気付いていないところまでしっかり診てくれている、ということで。悪意に解釈したら「治療回数をひっぱっている」ようにも取れて、むつかしいところ。
説明が大事、ですよね。やる前の。
もっとも、かいつう館では、そもそも、そういう発想自体がないですが。
「ある部分」を施術対象とする時には「ここも」「この部分も」関係していると思うから、同じ日に全部、やってしまう、、、。それは
サービスが良い。
とかではなくて、「ここも」「この部分も」の異常があっての「体のある部分」の痛みだと思うから、なんです。
単独での異常なんて、そうそうあるものではありません。そんなやわなつくりを体はしていない。
「ここも」が悪くなるときには「この部分も」バランスをとるために「あえて」歪めることもある。そこが歪んだから、さらにあそこも反対方向に歪んで、結果として「ある部分」が痛くなる。
体は、カバーしあって、今の状態でキープしてくれている。
そう考えたら、施術や治療の「そこだけ」やって、残りはまた来週――――。も、まあ、、、できないことはないですが、結局、時間はかかりますよね。
これは、サービスの良さ、や、良心的、やと言った問題以外に、「痛みの原因をどのように捉えているか」にもつながるテーマなんです。
そして、自分がそう考えているなら、(回数をひっぱった方が経営的にはラクだけど)考えているようにやらざるを得ないですよね。僕だって(自分じゃ、そうは思ってないけど、経営のことを考えて)個別に施術しよう、、、なんて気持ち悪くてやってられないですから。
だから、上記のケースも悪意に解釈しなければ「単独で悪くなるから、個別に治療ができるはず」という思考のもとに治療を行なっている、という解釈も成り立つわけです。
結局、問われるのは、先生の「疾病観」です。
目一杯、遊んでいたら、、、前に書いた自分の首の不調が治っていました。
不思議ー。↓
http://blog.livedoor.jp/kaituukan/
さて、このまえ、あるお客さんの体験を聞いたので、ちょっとご紹介。
体のある部分がつらいので、とある治療院にいったところ、時間が来たのでまた次回、となり。
そこまでは、よくある話ですが、行くたびに「今日は、ここもやっておきましょう」「今回は、この部分も治しておきましょう」となり、本人さんが希望している「体のある部分」の治療からどんどん離れていってる気がした、というお話でした。
善意に解釈したら、本人さんが気付いていないところまでしっかり診てくれている、ということで。悪意に解釈したら「治療回数をひっぱっている」ようにも取れて、むつかしいところ。
説明が大事、ですよね。やる前の。
もっとも、かいつう館では、そもそも、そういう発想自体がないですが。
「ある部分」を施術対象とする時には「ここも」「この部分も」関係していると思うから、同じ日に全部、やってしまう、、、。それは
サービスが良い。
とかではなくて、「ここも」「この部分も」の異常があっての「体のある部分」の痛みだと思うから、なんです。
単独での異常なんて、そうそうあるものではありません。そんなやわなつくりを体はしていない。
「ここも」が悪くなるときには「この部分も」バランスをとるために「あえて」歪めることもある。そこが歪んだから、さらにあそこも反対方向に歪んで、結果として「ある部分」が痛くなる。
体は、カバーしあって、今の状態でキープしてくれている。
そう考えたら、施術や治療の「そこだけ」やって、残りはまた来週――――。も、まあ、、、できないことはないですが、結局、時間はかかりますよね。
これは、サービスの良さ、や、良心的、やと言った問題以外に、「痛みの原因をどのように捉えているか」にもつながるテーマなんです。
そして、自分がそう考えているなら、(回数をひっぱった方が経営的にはラクだけど)考えているようにやらざるを得ないですよね。僕だって(自分じゃ、そうは思ってないけど、経営のことを考えて)個別に施術しよう、、、なんて気持ち悪くてやってられないですから。
だから、上記のケースも悪意に解釈しなければ「単独で悪くなるから、個別に治療ができるはず」という思考のもとに治療を行なっている、という解釈も成り立つわけです。
結局、問われるのは、先生の「疾病観」です。