あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、醜くても、自我の欲望を直視できない間は、自分が生きていると言えない。(自我その516)

2021-07-04 15:02:38 | 思想
人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って、行動している。そして、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。まず、深層心理であるが、深層心理とは人間の無意識の精神活動である。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて生きているのである。次に、構造体であるが、構造体とは、人間の組織・集合体である。次に、自我であるが、自我とは、構造体の中で、他者からある特定の役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある女性は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。ある男性は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では来客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。次に、自我を主体に立てるであるが、」自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。だから、人間は、表層心理で、自我に執着しているのではなく、深層心理が、自我に執着しているのである。表層心理とは人間の自らを意識しての精神活動である。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。すなわち、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではなく、無意識のうちに、自我に執着しているのである。だから、自我の執着から逃れられないのである。次に、心境であるが、心境とは、感情と同じく、情態という心の状態である。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する情態である。ルーティーンという毎日同じようなことを繰り返す生活を可能にしているのは、心境である。感情は、喜怒哀楽などの情態であり、深層心理が思考して、行動の指令と一体化させて自我の欲望として生み出したものである。深層心理が生み出した感情が、自我である人間に、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動させる動力になっているのである。すなわち、心境がルーティーンという毎日同じようなことを繰り返す生活の動力となり、感情が行動の動力になっているのである。情態を表す言葉として、他に、気持ち、気分などがあるが、気持ちは感情に近く、気分は心境に近い言葉である。人間の心は、すなわち、深層心理は、たいていは、心境、時には、感情という情態にある。そして、情態は心境と感情が並び立つことがない。すなわち、心境が存在する時は、感情は存在せず、感情が存在する時は、心境は存在しない。人間は、常に、一つの心境という情態、もしくは、一つの感情という情態にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。また、人間は、心境によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚する。深層心理は、得意の心境の情態の時には、自我を現在の状態を維持させようと思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出さず、自我である人間に、現在の心境のままにいつもと同じような行動をさせ、現在の状態を維持させようとする。深層心理は、不得意の心境の情態の時には、自我である人間を現在の状態から脱却させようと思考する。しかし、深層心理は、どれだけ思考しても、強い感情を伴った行動の指令という自我の欲望を生み出さなければ、自我は、すなわち、人間は、ルーティーンという毎日同じようなことを繰り返すのである。なぜならば、深層心理には、超自我という機能が存在するからである。超自我とは、自我にルーティーンを守らせる機能である。深層心理には、超自我という機能も存在するのである。超自我が、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、長く時間が掛かる。それは、深層心理は、快感原則という快楽を求める欲望に基づく思考だから、瞬間的に行われるが、表層心理での思考は、現実原則という自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に基づく思考だからである。人間は、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうと思考するのである。道徳観や社会規約を考慮せずに行動すると、後に、他者から顰蹙を買う可能性があるからである。しかし、人間の表層心理での思考の役割は、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議のみである。つまり、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を離れて思考することはできないのである。すなわち、表層心理独自で思考することはできないのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。もしも、超自我が、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できなかったなかったならば、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について思考することになるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則という自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動すると、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令をついて受け入れるか拒否するかについて思考するのである。例えば、人間は、誰しも、朝起きると、学校・職場に行くことを考えて不快になることがある。この、学校・職場に行くことを考えて不快になったのは、人間の自らを意識しての表層心理の思考の結果ではなく、無意識の深層心理が思考して生み出したのである。表層心理での思考からは感情は生まれないのである。人間が、無意識のうちに、深層心理が思考して、不快な感情と学校・職場に行かないでおこうという行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。しかし、たいていの場合、不快な気持ちを振り切り、登校・出勤する。それは、超自我という機能が働いたからである。もしも、超自我が、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を抑圧できなかったなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、学校・職場に行かなかったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令をついて受け入れるか拒否するかについて思考するのである。そして、たいていの場合、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を抑圧し、学校・職場に行こうとするのである。しかし、深層心理が生み出した不快な感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志も、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、学校・職場に行かないのである。そして、人間は、自宅で、表層心理で、不快な感情の下で、この不快な感情と学校・職場に行かないでおこうという行動の指令という自我の欲望から逃れるためにはどうしたら良いかと思考するのである。なぜならば、学校・職場に行かないことは、自我に現実的な利得をもたらさないからである。しかし、たいていの場合、良い方法が思い浮かばず、苦悩するのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧でき、学校・職場に行くことができたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、すぐには不快な感情は消えることがないからである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、不快な感情のままに、毎日、学校・職場に行くのである。そして、ルーティーンの生活に紛れて不快な感情は消えていけば良いが、不快な感情が積み重なると、その不快な感情から逃れるために、深層心理が自らに鬱病などの精神疾患をもたらすことがあるのである。深層心理は、鬱病などの精神疾患に罹患して、現実から逃れようとするのである。つまり、心境や感情という情態が人間を動かしているのである。心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情が人間に行動を起こさせるのである。それは、常に、心境や感情という情態が深層心理を覆っているからである。さらに、深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろなものやことががそこに存在していることを前提にして、思考し、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろなものやことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろなものやことの存在が証明できるから、自分やものやことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして、思考し、活動しているのである。人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在、ものの存在、ことの存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。確信があるから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分やものやことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換によって、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の変換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境を変えるのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。次に、欲動であるが、欲動とは、深層心理に内在していて、深層心理を動かしている四つの欲望である。欲動には、第一の欲望として自我を確保・存続・発展させたいという欲望があり、第二の欲望として自我を他者に認めてもらいたいという欲望があり、第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望があり、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。すなわち、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動の四つの欲望に基づいて、快感原則によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて生きているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。そうしないと、自分の力を発揮できないのである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけず、生きる目標を失ってしまうから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できず、自分の力を発揮できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。愛国心という自我の欲望を直視しなければならないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。この欲望がかなえば、自我が伸張し、自分の力が発揮できたように思うのである。だから、深層心理は、自我が他者から見られていることを意識して思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。ラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。ラカンのこの言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自分の力を発揮したことの現れなのである。だから、逆に、自我が他者に認められないと、深層心理は、すなわち、人間は苦悩に陥るのである。人間が、朝起きると、学校・職場に行くことを考えて不快になるのも、学校・職場という構造体で、同級生、教師・上司、同僚などの他者から評価されていないからである。また、人間にとって、最も強い感情は怒りである。深層心理が怒りの感情を生み出し、自我である人間を、深層心理の行動の指令通りに動かそうとするのである。人間は、激しい怒りの感情を抱くと、超自我や表層心理で抑圧しようとしてもできずに、他者を侮辱しろ、他者を殴れ、他者を殺せなどの深層心理の指令通りに、過激な行動を起こしてしまい、悲劇、惨劇を生むのである。さて、それでは、なぜ、深層心理が怒りの感情を生み出したのか。それは、自我が他者に叱責されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたりなどしたからである。自我が他者に叱責されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたりなどすることは、自我が他者によって下位に落とされたことを意味するのである。深層心理は、常に、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとしているから、自我が他者によって下位に落とされたので、怒りの感情を生み出したのである。つまり、プライドが傷付けられたから、怒ったのである。深層心理は、常に、自我が他者に認められたいという欲望を持っているから、それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、傷付き、その傷心から立ち上がろうとして、プライドを傷つけた他者に対して、怒りの感情と侮辱しろ、殴れ、殺せなどの過激な行動の指令を自我の欲望として生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、深層心理は、他者によって自我が下位に落とされたから、その他者に対して、怒りの感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、過激な行動の指令通りに自我を動かし、その他者を下位に落として、自我を上位に立たせようとするのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。それは、「人は自己の欲望を対象に投影する。」という一文で言い表すことができる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。」という意味である。深層心理は、対象の対自化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者を支配することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、喜び・満足感が得られれるのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民からの承認欲を満足させるためだけでなく、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快楽を得られるのである。自我の対他化による快楽は、自我が他者に好評価・高評価を受けることによって得られるが、対象の対自化による快楽は、自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を支配することによって得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、「人は自己の欲望を心象化する。」という一文で言い表すことができる。それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むという意味である。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うこともある。それが、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象である。この欲望は、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の立場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。だから、この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。「呉」の国と「越」の国の仲が悪いのは、二国は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化が自我の力が発揮できると思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)のである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。しかし、中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめるのは、友人と連帯感ができて仲間という構造体が形成されているという快楽を得ているとともに、一人で生きている者への嫉妬心からである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまであるのは、自分の代わりの恋人や夫に対する嫉妬心からである。自民党・公明党政府がオリンピックにこだわるのは、国民が自国の選手やチームが活躍すると、共感欲を満足し、狂喜乱舞して、政権の支持が高まるからである。自民党・公明党政府は、中国、北朝鮮、韓国を敵視することによって、国民を煽り、「呉越同舟」の現象を作り出し、支持を得て、戦争をして相手国民を殺そうと思うまでに愛国心を高めるのである。次に、快感原則であるが、快感原則とは、深層心理に存在する、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望である。次に、感情と行動の指令という自我の欲望であるが、感情と行動の指令という自我の欲望とは、深層心理が思考して、生み出したものである。深層心理が生み出した感情が、自我である人間に、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動させる動力になっているのである。このように、深層心理は、醜い自我の欲望も生み出してくる。しかし、人間は、醜くても、自我の欲望を直視し、表層心理で対処しない限り、自分が生きているとは言えないのである。