あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は自らを脱構築しなければいけない。(自我その518)

2021-07-11 12:17:52 | 思想
ほとんどの人は、自らが、快楽を求めて、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きていることに気付いていない。つまり、ほとんどの人は、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、人間を動かしているのに気付いていないのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理が思考して生み出した感情は、深層心理が思考して生み出した行動の指令を実行する動力になっているのである。深層心理が思考して生み出した行動の指令は、人間を、具体的な行動へと促しているのである。深層心理が思考して生み出した感情と深層心理が思考して生み出した行動の指令が一体化して、自我の欲望になり、人間を動かしているのである。しかし、ほとんどの人は、最初から最後まで、自ら意識して、他者に配慮し、道徳観・社会規約に基づいて、思考し、意志によって行動していると思っているのである。確かに、人間には、自らを意識しての思考も存在する。それが、表層心理での思考であり、一般に言われている思考である。つまり、ほとんどの人は、最初から最後まで、表層心理で、自らを意識して、他者に配慮し、道徳観・社会規約に基づいて、思考し、意志によって行動していると思っているのである。しかし、表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて行われるのである。表層心理での思考は、常に、現実的な利得を求めることを目的に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかを審議するためだけに行われるのである。すなわち、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めることを目的に、他者に配慮し、道徳観・社会規約に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかを審議するのである。人間が、表層心理で、自らを意識して、他者に配慮し、道徳観・正義感・社会規約に基づいて、思考するのは、道徳観・社会規約に基づいて行動しなければ、後に、他者から、罰せられたり非難されたりして、現実的な利得を得られないからである。また、感情も行動の指令も深層心理の範疇に属しているから、人間は、表層心理での思考では、感情も行動の指令も生み出すことができないのである。つまり、人間は、表層心理での思考だけでは、行動できないのである。さて、人間は、表層心理での思考で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れると決定すれば、行動の指令のままに実行する。人間は、表層心理での思考で、深層心理が生み出した行動の指令について拒否すると決定すれば決断すれば、意志によって、行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、意志によって行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。また、意志によって行動の指令を抑圧することができたとしても、今度は、人間は、表層心理で、深層心理が納得するような行動を考え出さなければならないのである。深層心理が納得するような行動を考え出さない限り、深層心理が生み出した感情が心の中に居座り、人間を苦しめるのである。人間が、表層心理で、深層心理が納得するような行動を考え出そうとして、考え出せない情態が、苦悩である。このように、深層心理と表層心理が関わっているのである。例えば、人間は、誰しも、時には、失礼なことを言われたり、失礼なことをされたりして、自我が傷つけられることがある。その時、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、怒りの感情とともに相手を侮辱しろ、殴れなどの行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。稀には、深層心理が、怒りの感情とともに相手を殺せなどの過激な行動の指令という自我の欲望が生み出すことがある。しかし、この後、人間は、まず、深層心理の超自我というルーティーン通りの行動をしようとする機能が、相手を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧しようとする。そして、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めようと、思考して、行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、相手を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧しようとする。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動した後のことを考慮し、行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、怒りの感情が強過ぎる場合、相手を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧できず、行動の指令のままに実行するのである。そして、悲劇、惨劇をもたらすのである。また、意志で、相手を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧できたとしても、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような、傷心・怒りの感情から解放されるための行動を考えなければならない。そのような行動を考えだし、それを実行しなければ、傷心・怒りの感情に苦しめられるからである。しかし、それは容易に考え出されることがなく、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。それは、深層心理が自ら精神疾患に陥ることによって、現実から逃れようとしているのである。さて、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのであるが、自我とは、何か。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。だから、人間は、自我に執着して生きているのである。つまり、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではなく、深層心理が、人間を自我に執着させているのである。深層心理とは、人間の無無識の精神活動であるから、人間は、自ら意識せず、自ら意志しなくても、深層心理によって、自我に執着して生きているのである。だから、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。人間は、孤独であっても、孤立していたとしても、常に、構造体が所属し、自我を持って、他者と関わりながら。暮らしているのである。つまり、人間は、誰しも、自分そのものは存在せず、別の構造体に入れば、別の自我を持つだけなのである。また、人間は自己としても存在できないのである。自己とは、人間が、自ら意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方である。だから、人間が、最初から最後まで、表層心理で思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるのであるが、人間は、深層心理に動かされているから、自己として存在していると言えないのである。人間は、自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。また、そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。さて、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのであるが、どのようにすれば快楽は得られるのか。それは、欲動に応ずることである。すなわち、深層心理は、欲動に応ずれば、快楽が得られるのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在していている四つの欲望である。すなわち、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動の四つの欲望に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて生きているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。そうしないと、自分の力を発揮できないのである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけず、生きる目標を失ってしまうから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できず、自分の力を発揮できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。この欲望がかなえば、自我が伸張し、自分の力が発揮できたように思うのである。だから、深層心理は、自我が他者から見られていることを意識して思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。ラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。ラカンのこの言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自分の力を発揮したことの現れなのである。だから、逆に、自我が他者に認められなければ、深層心理は、怒りの感情と他者に対する攻撃の指令という自我の欲望を生み出し、人間を行動の指令通りに動かし、自我が他者に認められなかった傷心から解放されようとするのである。すなわち、自我の力を知らしめ、他者に自我を認めさせようするのである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民に、自我の力を知らしめるためである。人間は、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我が抑圧しようとしても、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した行動の指令について、拒否すること決定し、意志で抑圧しようとしても、抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、殺したりしてしまうことがあるのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。それは、「人は自己の欲望を対象に投影する。」という一文で言い表すことができる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。」という意味である。深層心理は、対象の対自化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者を支配することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、喜び・満足感が得られれるのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民からの承認欲を満足させるためだけでなく、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快楽を得られるのである。自我の対他化による快楽は、自我が他者に好評価・高評価を受けることによって得られるが、対象の対自化による快楽は、自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を支配することによって得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、「人は自己の欲望を心象化する。」という一文で言い表すことができる。それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むという意味である。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うこともある。それが、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象である。この欲望は、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の立場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。だから、この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。「呉」の国と「越」の国の仲が悪いのは、二国は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化が自我の力が発揮できると思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)のである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。しかし、中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめるのは、友人と連帯感ができて仲間という構造体が形成されているという快楽を得ているとともに、一人で生きている者への嫉妬心からである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまであるのは、自分の代わりの恋人や夫に対する嫉妬心からである。自民党・公明党政府がオリンピックにこだわるのは、国民が自国の選手やチームが活躍すると、共感欲を満足し、狂喜乱舞して、政権の支持が高まるからである。自民党・公明党政府は、中国、北朝鮮、韓国を敵視することによって、国民を煽り、「呉越同舟」の現象を作り出し、支持を得て、戦争をして相手国民を殺そうと思うまでに愛国心を高めるのである。




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