あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自分の気持ちを正直に話せば、全ての人間関係は壊れてしまう。(自我その348)

2020-04-25 13:46:15 | 思想
正直とは、嘘・偽りの無いこと、素直なこと、ありのままということである。正直と同じ意味の言葉に、腹蔵無しがある。腹蔵無しとは、心の中に思っていることを包み隠すことが無いということである。しかし、「私について思ったことを、正直に、腹蔵無く話して下さい。」と言われて、文字通り、相手について、正直に、腹蔵なく話してしまうと、二人の関係は壊れてしまう。それは、どんなに親しくしていても、どんなに信頼していても、どんなに愛し合っていても、時には、深層心理が、相手に対して、不信感、嫌悪感を抱くことがあるからである。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、無意識と言っても、それは何もしていないということではない。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。深層心理の動きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味している。しかし、人間には、深層心理という無意識の思考だけでなく、意識しての思考である表層心理での思考がある。多くの人が言う思考とは、人間の表層心理での意識しての思考である。多くの人は、深層心理の思考の存在に気付いていない。表層心理での意識しての思考しか思考が存在しないと思っている。しかし、人間の表層心理での思考は、深層心理から独立して存在していないのである。人間が、表層心理で思考する時は、常に、深層心理の思考の結果を受けて、それについて行うのである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理をコントロールできないから、いろいろな思いが湧いてくるのである。そして、人間は、相手が自分に対して不信感や嫌悪感を抱いている(いた)ということを知った段階で、二人の関係は壊れてしまうのである。ひびが入り、修復が難しいのである。なぜならば、人間の深層心理の欲動(心の根本の動き)の欲望の中に、自我を他者に認めてもらいたいという強い欲望があるからである。これは、自我の対他化(略して対他化)とも呼ばれ、喜怒哀楽という感情は、主に、この欲望が叶うか叶わないかによって生まれてくる。これは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているか常に探っている。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そして、人間は、表層心理で、意識して思考し、その苦悩から脱却する方法を模索するのである。しかし、良い方法は容易に思いつかないのである。なぜならば、苦悩の原因は他者の評価であり、自我の範疇外にある他者の心は容易に動かせないからである。だから、人間は、二人の関係を壊さないようにするには、不正直で、腹蔵を持って、暮らしていくしか無いのである。もちろん、不正直であること、腹蔵を持つことは、ストレスを感じることであるが、それはどうしようもないことなのである。また、キリスト教に、「懺悔」という制度がある。「神の代理とされる司祭に罪を告白し、許しと償いの指定を受けること。」である。キリスト教の結婚式において、神の前で、相手を永遠に愛することを誓うのだから、結婚すれば、人間は、「懺悔」しなければいけないことになる。夫(妻)が妻(夫)への愛を失ったり、別の女性(男性)に心を奪われたりするのは、深層心理がなすことだから、人間は、どうしようもできないのである。キリスト教信者の既婚者は、一生、「懺悔」しなければいけないことになるのである。また、「子供は正直である。」と言われる。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直である。」からこそ、些細なことで喧嘩するのである。相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。さて、人間は、皆、常に、ある構造体に属し、ある自我を持って、暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中での自分のポジションである。人間とは、構造体に所属し、ポジションを担って、その役目を果たそうと行動する存在なのである。すなわち、自我とは、構造体の中での、ある役割を担った自分・自己の姿なのである。人間は、構造体の中で、他者からポジションが与えられ、自らがそれを認めることによって自我が成立する。それによって、アイデンティティが確立するのである。人間は、自我を自分・自己と読み替え、自分・自己として行動するのである。つまり、人間は、構造体で他者から自我を与えられ、自我によって生かされているのであるが、自分・自己によって生きていると思い込んでいるのである。しかし、人間は、自分・自己が自我となり、自我を自分・自己とすることによって、存在感を覚えて行動できるのである。さて、人間は、常に、一つの構造体に所属し、一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て、常に、他者と関わって生活をしている。すなわち、社会生活を営んでいるのである。人間は、さまざまな構造体に所属し、その構造体に応じてさまざまな自我が持って行動するのだが、代表的な構造体と自我には次のようなものがある。家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、夫婦という構造体には、夫・妻の自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があり、県という構造体には、県知事・県会議員・県民などの自我があり、国という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。さて、人間は、毎日のように、同じ構造体で暮らしていると、必ず、自分が嫌いな人、自分を嫌う人が出てくる。そして、自分が相手を嫌いになれば、相手がそれに気付き、相手も自分を嫌いになり、相手が自分を嫌いになれば、自分もそれに気付き、自分も相手を嫌いになるものである。だから、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになるのである。また、嫌いになった理由は、意地悪をされたからとか物を盗まれたからというような明確なものは少ない。多くは、自分でも気付かないうちに嫌いになっていて、嫌いになったことを意識するようになってから、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、他者に対する態度、声、容貌など、全てを嫌うようになる。好き嫌いという感情は、深層心理が決めることだから、その理由がはっきりしないのである。自分が明白には気付かないたわい無いことが原因であることが多いのである。しかし、一旦、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが表情や行動に表れ、相手も自分も嫌いになり、同じ構造体で、共に生活することが苦痛になってくる。その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、相手が不倶戴天の敵になってしまう。しかし、嫌いという理由だけで、相手を構造体から放逐できない。また、自分自身、現在の構造体を出て、別の構造体に見つかるか、見つかってもなじめるか不安であるから、とどまるしかない。そうしているうちに、深層心理が、嫌いな人を攻撃を命じるようになる。深層心理は、相手を攻撃し、相手を困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れようとするのである。ここで、小学生・中学生・高校生ならば、自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。しかし、大人は、そういうわけには行かない。いじめが露見すれば、法律で罰せられ、最悪の場合、一生を棒に振るからである。もしも、相手が上司の場合、相手にセクハラ・パワハラがあれば、訴えれば良いが、気にくわないということだけでは、上司を更迭できない。逆に、それを態度に示すだけで、上司に復讐され、待遇面で不利になる。また、同輩・後輩が嫌いな場合、陰で悪口を言いふらして憂さを晴らす方法もあるが、自分がネタ元だと露見すれば、復讐されるだろう。だから、深層心理の言うがまに、相手を攻撃してはいけないのである。では、どうすれば良いか。言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接すれば良いのである。しかし、それは、偽善ではないか。確かに、深層心理には、背いている。しかし、相手を嫌いな理由が、不明瞭であるかたわいないものであるのだから、相手には不愉快な思いをさせず、自分も迷惑を被っていないのだから、これが最善の方法なのである。もしも、第三者に納得できるような明瞭なものであるならば、既に、訴えるか、誰かに相談しているはずである。訴えることもできず、誰にも相談できないような理由だから、一人で抱え込み、悶々と悩んでいるのである。確かに、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接することは、自尊心が傷付けられるかも知れない。しかし、幼い自尊心は捨てるべきである。「子供は正直である。」と言われるが、深層心理に正直な行動は子供だから許されるのである。深層心理に正直な行動は、瞬間的には憂さは晴れるかも知れないが、後に、周囲から顰蹙を買い、相手から復讐にあい、嫌いだという不愉快な感情を超えて、自らを困難な状況に追い込んでしまうのである。また、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接していると、相手が自分のことを好きになり、自分も相手を好きになることがあるのである。少なくとも、人に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接している限り、誰からも、非難されることは無いのである。


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