あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は深層心理が生み出す自我の欲望の派生態にしか過ぎない。(自我その341)

2020-04-08 14:13:14 | 思想
もしも、人間が、自我に捕らわれず、自分で意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動することができるのであれば、人間は、自由な存在であり、主体的なあり方をしていて、主体性を有していると言えるだろう。しかし、人間は、本質的に、自我に捕らわれ、自由に物事を考えることができず、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。なぜならば、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望を受けて、行動するからである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、行動することもあるが、その時でも、深層心理が生み出す自我の欲望を受けて、思考を開始するのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。表層心理とは、人間の意識しての思考である。また、自我とは、構造体の中での自分のポジションである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、構造体の中で、ポジションを担って、その役目を果たそうと行動するのである。すなわち、自我とは、構造体の中での、ある役割を担った自分の姿なのである。人間は、構造体の中で、ポジションでが与えられ、それを自己のあり方として行動するのである。つまり、人間は、自己によって生きているのではなく、構造体に自我を与えられ、自我によって生かされているのである。人間は、自己が自我となることによって、存在感を覚え、自信を持って行動できるのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。人間は、ハイデッガーの言うように、他の動物と同じく、世界内存在の生物である。しかし、他の動物は世界は一つであるが、人間だけが、世界が細分化され、構造体内存在になるのである。つまり、人間は、実際に生活する時には、細分化された世界の一つの構造体の中で、一つの自我へと限定されて存在するのである。世界が一つの構造体へと限定され、自己が一つの自我へと限定されるから、人間は、構造体の中で、自我というポジションに応じた行動ができるのである。人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を持って、行動している。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我から一つの自我を持ち、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我から一つの自我を持ち、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我から一つの自我を持ち、店という構造体では、店長・店員・客などの自我から一つの自我を持ち、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我から一つの自我を持ち、仲間という構造体では友人という自我を持ち、夫婦という構造体では、夫もしくは妻の自我を持ち、カップルという構造体では、恋人という自我を持ち、県という構造体では、県知事・県会議員・県民などの自我から一つの自我を持ち、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我から一つの自我を持って活動している。たとえ、人間は、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、一つの構造体に所属し、一つの自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。さて、人間は、常に、構造体の中で、自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体として暮らしているのであるが、その自我を動かすものは、深層心理である。深層心理とは、人間が自らは意識していない、心の中で行われている思考行動である。そのために、深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。深層心理の動きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。人間は、まず、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある気分の下で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、言葉を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのである。だから、人間は、最初から、表層心理で、自ら、意識して、思考して、行動することはできないのである。確かに、人間は、表層心理で意識して思考した後、行動することがある。しかし、人間の表層心理での思考は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が思考して生み出した感情の下で、深層心理が思考して生み出した行動の指令について許諾するか拒否するかを決めるために意識して行うのである。人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で思考することはできないのである。また、人間には、常に、気分がある。人間は、自分を意識する時は、ある気分を持している自分として意識するのである。しかし、人間は気分を意識しようと思って意識するのでは無く、気分が常に人間を覆っているから、人間は自分を意識するときには、同時に、気分を意識せざるを得ないのである。しかし、気分の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、自分が持している気分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分が常に自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。それは、感情についても同じことが言えるのである。すなわち、人間は、自分の感情に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理が感情を生み出した時に、変化する。しかし、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すことも変えることもできない。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。なぜならば、気分は深層心理を覆っていて、感情は深層心理が生み出すものだからである。気分は深層心理の中で変わり、感情は深層心理によって行動の指令ととに生み出されるのである。人間は、自分の気分や感情に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。それは、デカルトの「我思う故に我在り」(あらゆるものを疑えるとしても、このように疑っている自分の存在を疑うことはできない)という回りくどく、しかも、危うい論理よりも、確かなことなのである。しかも、デカルトの「我思う故に我あり」の「我」は、デカルトは自分を意図しているが、デカルトの意図と異なり、それは、単なる第一人称を指す自分ではなく、特定の自我なのである。つまり、人間は、常に、構造体の中で、自分が自我となり、自我を主体として他者と関わりながら暮らしているので、デカルトの「我思う故に我あり」の「我」にしても、そこには、単なる第一人称を指す自分は存在せず、つまり不特定の自分は存在せず、特定の自我しか存在しないのである。確かに、自我は自分であるが、社会的には、自分は存在せず、すなわち、社会的には、自分は意味を為さないのである。だから、デカルトの「我思う故に我在り」という論理は、この世にデカルト一人しか存在しないのであれば成り立つが、現に、社会的な存在として生きている人間には成り立たないのである。また、深層心理が、快感原則に基づいて思考するが、快感原則とは快楽を求める欲望である。それは、フロイトの用語であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。そこには、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。人間は、表層心理で、自ら意識して思考するが、それは、現実原則という現実的な利益を自我にもたらそうという欲望に基づいて、長期的な展望に立って行っている。だから、深層心理の瞬間的に快楽を求める思考とは著しい対照を成しているのである。また、深層心理は欲動によって思考するのであるが、欲動とは、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を行動へと駆り立てる、人間の内在的な欲望である。欲動は深層心理に存在しているから、内在的な欲望と言われるのである。フロイトは、欲動を、リピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。ユングは、欲動(リピドー)として、生命そのもののエネルギーを挙げている。しかし、フロイトが挙げている欲動(リピドー)は狭小であり、ユングが挙げている欲動(リピドー)は曖昧であり、両者とも、人間の全ての行動と感情の理由と意味を説明できないのである。さて、欲動は四つの欲望によって成り立っている。それは、自我を存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。自我を存続・発展させたいという欲望は自我の保身化(略して保身化)と呼ばれている。自我が他者に認められたいという欲望は自我の対他化(略して対他化)と呼ばれている。自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望は対象の対自化(略して対自化)と呼ばれている。自我と他者の心の交流を図り共感したいという欲望(略して共感化)と呼ばれている。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある気分の下で、自我を主体に立てて、保身化、対他化、対自化、共感化欲動という四つの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだしている。自我である人間は、それによって、動きだすのである。人間の行動は、深層心理が自我を主体に立てて欲動に基づいて感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それを基に行われるから、全ての行動には理由と意味があるのである。しかし、それは、深層心理が生み出したものであり、人間は、表層心理で、全ての行動の理由と意味を意識して行動しているわけではない。なぜならば、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動という四つの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それが起点となって、人間は行動するからである。確かに、人間は、表層心理で、意識して行動することがある。また、人間は、表層心理で、意識して思考した後で行動することがある。しかし、それらは、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて行われるのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、それを受けて、表層心理で、意識して、その行動の指令の諾否について思考することがあるのである。人間は、深層心理が自我の欲望を生み出す前に、表層心理で、思考して、行動することは無いのである。しかし、人間は、全ての行動は、自ら表層心理で意識して、思考して、行っていると思い込んでいるから、行動している途中や行動した後で、時として、理由や意味を理解せずに行動していることに気付き、驚くのである。また、人間の全ての感情にも理由と意味がある。それは、行動の指令と同様に、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すからである。全ての感情は、全ての行動の指令と同様に、人間の無意識のうちに、深層心理が欲動に基づいて思考して生みだしているからである。人間は、意識して、すなわち、表層心理で、思考して、決して、行動の指令と同様に、感情も生み出すことはできないのである。そして、時として、人間は、意識して、すなわち、表層心理で、意志で、感情を変えようとして苦悩するのである。本質的に、人間は、意志で、感情を変えることはできないのである。さて、それでは、全ての行動と感情の理由と意味とは何か。理由とは、深層心理が過去と現在を繋げたものであり、意味とは、深層心理が将来と現在を繋げたものである。深層心理が、欲動に基づいて思考して、過去の出来事によって現在の感情と行動の指令を生み出し、将来の目的によって現在の感情と行動の指令を生み出しているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。つまり、深層心理が、欲動に基づいて思考して、過去の出来事、現在の感情と行動の指令、将来の目的を繋げているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。この、深層心理による、過去、現在、将来という一連の創造を、ハイデッガーは、時熟と表現している。だから、時熟とは、客観的な時間系列ではなく、深層心理による創造の時間系列なのである。客観的な時間系列は、人間にとって、他者との社会生活をする上で、意味も為すのである。さて、先に述べたように、人間は、深層心理が自我を主体に立ててて欲動に基づいて思考することによって動き出す。欲動は、自我を存続・発展させたいという自我の保身化への欲望、自我が他者に認められたいという自我の対他化への欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという対象の対自化への欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという自我と他者の共感化への欲望という四つの欲望によって成り立っている。人間は、ある気分の下で、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動という四つの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのである。深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と表層心理で考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、行動の指令を抑圧することを決め、実際に、行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、感情的な行動であり、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多いのである。犯罪はほとんどがこれが原因であり、ストーカーによる犯罪は全てがこれが原因である。さて、人間の日常生活は、ほとんど、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の欲望にかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動しても何ら問題が無く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。高級官僚たちが、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会などでの、「記憶にございません」を繰り返す国会答弁、証拠隠滅、書類消去、書類改竄をするのは、安倍晋三首相に恩を売り、立身出世ためである。彼らは、自らの自我のために、国民を欺いているのである。彼らは、国民を欺くことがルーティーンになっているから、表層心理で、自らの行動の諾否について、審議することは無いのである。校長・教頭・教諭が校内のいじめを隠蔽するのは、自らの自我を守るためである。そこには、被害生徒への思いよりも、自らの自我が大切なのである。いじめっ子の親も、自らの自我を守るために、いじめの原因を、被害生徒や被害生徒の家族関係に求めるのである。嫌々ながら学校や会社へ行くのは、生徒や会社員という自我を守りたいためである。さて、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望は、すなわち、自我の対他化は、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。悪評価・低評価が傷心という感情の理由である。不登校・不出勤は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうという意味である。その後、人間は、表層心理で、理性で、現実原則に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望をみたそうという理由・意味からである。だが、傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、加害者である同級生・教師や同僚や上司という他者を数年後襲撃したり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚や上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の理由であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するという意味である。また、受験生が有名大学を目指すこと、少女がアイドルを目指すことの理由・意味も、自我が他者に認められたいという欲望を満足させることである。さて、欲動の第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対他化は、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。対象の対自化とは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えている。)という言葉に表れている。さらに、対象の対自化は、「人は自己の欲望を心象化する」(人間は、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は観点・視点で冷静に捉え、趣向性は好みで感性として捉えていることである。さて、自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・現象を見ることなのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその意味・理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。他者・物・事柄という対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、他者を支配しようとする。人間は、物を利用し、事柄を自らの志向性で捉えようとする。さらに、対象の対自化には、「人は自己の欲望を心象化する」(人間は、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という欲望があるが、これは、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ることがその理由・意味である。さて、人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、表層心理で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、深層心理で、エディプスを抱いたのは一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという理由から起こしたのであるが、表層心理で、エディプスの欲望を抑圧した意味は、そうするすることによって、家族という構造体の中での男児の自我を守ることである。さて、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという欲望は、すなわち、自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。このように、人間は、まず最初に、深層心理が、ある気分の下で、欲動という四つの欲望によって、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、そのまま、行動することがある。それが、無意識の行動である。表層心理で、深層心理の思考の結果である自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について思考して、行動することもある。表層心理とは、人間が、意識して、思考し、その結果を、意志として行動するあり方である。その思考は、理性とも呼ばれている。人間が、表層心理で、意識して思考するのは、常に、深層心理の思考の後である。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定し、それを意志として行動しようとするのである。それは、長期的な展望に立ち、深層心理の瞬間的な思考とは対照を成している。しかし、人間の表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて行われ、表層心理が独自に動くことはないのである。さて、先に述べてように、人間は、まず最初に、深層心理が、ある気分の下で、自我を主体に立てて、快楽を求める欲望である快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのであるが、深層心理は、自我を存続・発展させること、自我が他者に認められること、自我で対象を支配すること、自我と他者を理解し合うこと・愛し合うこと・協力し合うことを欲望するいう欲動の状態のいずれかを作り出すことによって、快楽を得ようとする。さて、欲動の第一の欲望である自我の保身化は、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出すのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。男児は、家族という構造体から追放されないために、母親に対する恋愛感情というエディプスの欲望を抑圧したのである。ストーカーが発生するのは、自我の対他化していた相手を失うことの苦痛でもあるが、相手から別れを告げられ、カップルという構造が消滅し、恋人という自我を失うことの苦痛からでもあるのである。次に、欲動の第二欲望である自我の対他化は、深層心理は、自我を他者に認めらてもらいたい欲望を生み出している。自我の対他化とは、自分が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、その人の視線から、自分がその人にどのように思われているかを探ろうとする。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、他者の視線の意識化は、誰しもに起こることなのである。しかし、ただ単に、他者の視線を感じ取るのではない。そこには、常に、ある思いが潜んでいる。それは、その人から好評価・高評価を得たいという思いである。つまり、人は、他者に会ったりそばにいたりすると、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」という言葉は、端的に、自我の対他化の欲望を表している。大学受験者が、有名大学や偏差値の高い大学を狙うのは、合格することによって、他者に自我を認めてもらいたいという欲望があるからである。だから、その大学の内実を知っていないことが多いのである。だから、対他化とは、自我を他者の評価にさらそうとすることなのである。だから、サルトルは、「見られることに価値におくのは、敗者の態度だ。見ることの方が大切なのだ。」と言うのである。言うまでもなく、見られることに価値におくのは対他化であり、見ることに価値をおくのは対自化である。人間の主体的な思考・主体的な行動を主張するサルトルならば、当然の論理である。しかし、深層心理が、自我の対他化を行っているのであり、人間は、表層心理の思考は、深層心理の思考の結果をうけて、動き出すのであり、深層心理の思考そのものを動かすことはできないのである。次に、欲動の第三の欲望である対象の対自化は、深層心理は、他者・物・現象という対象を対自化することによって、対象を支配したいという欲望を生み出している。深層心理が、対象を対自化するのは、それらをそのままにしておくことは不安であり、対象として捉えることによって安心感という快楽を得ようとするのである。人間は、自我で、他者・物・現象という対象を支配して、初めて、安心できる動物なのである。それが、対象の対自化という作用である。それは、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」という言葉に集約されているのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。日本人が、木を切ってきたのは、木を物として利用しようとしてきたからである。哲学者が、思考するのは、事柄を、自らの志向性で、捉えたいからである。対象という他者の対自化の究極のあり方が、ニーチェの言う「権力への意志」である。最後に、欲動の第四の欲望である自我と他者の共感化であるが、深層心理は自我と他者と理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって快楽を得ようとする。自我と他者の共感化が、対他化と対自化の相克を留めるのである。それは、相手に一方的に身を投げ出す対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対自化でもない。互いに、対他化と対自化を繰り返すのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。このように、人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、そのまま行動することもあり、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の諾否を考えて行動することもあるのである。それが理性と言われるものである。理性と言われる表層心理の思考は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指令を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、意志で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、理性による思考は長く続き、それは苦悩であるが、偉大な思想を生み出すこともあるのである。偉大な思想の誕生には、常に、苦悩が伴うのである。このように、人間の行動の目標や目的は、二つ存在するのである。それは、深層心理の快楽と表層心理での利益を獲得することである。人間は、快楽と利得を獲得する欲望に動かされて生きているのである。快楽と利益は、方向性が異なるように感じられるのは、当然のことである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、その行動の指令のままに行動することが多いのである。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さて、人間は、自分の社会的な位置が定まらなければ、深層心理は、欲望は生み出すことはできないのである。自分の社会的な位置が定まるということは、自我を持つということである。人間は、自己のままでは、深層心理から、欲望が生まれてこないのである。人間が自己のままでいるとは、動物のままでいるということである。動物の深層心理が生み出すのは、欲望ではなく、食欲・性欲・睡眠欲などの欲求である。人間は、自己が自我となることによって、自己として生きることができなくなり、その代わりに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則によって、保身化・対他化・対自化・共感化という四種類の欲望からなる欲動によって、快楽を得ようとして、自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとするのである。そこにおいて、主体は存在しない。主体は自我のように見えるが、深層心理が、自我を主体に立てて思考しているのであり、自我は思考していないからである。しかし、深層心理は自我を主体に立てて思考しているのであり、深層心理も主体ではない。また、深層心理が自我と一体化していると考えることもできない。なぜならば、深層心理が生み出した行動の指令が、人間の表層心理での思考によって、抑圧されることがあるからである。そして、人間の表層心理が自我と一体化していると考えることもできない。なぜならば、人間の表層心理での思考によって、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合には、行動の指令を抑圧できず、そのまま行動することがあるからである。また、人間には、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、その行動の指令のままに行動するという無意識の行動もある。だから、人間の表層心理が自我と一体化していると考えることは決してできないのである。確かに、人間は、自己によって生きているのではなく、自我によって生かされている。それは、深層心理が生み出す言語によって、社会的に生きている人間の宿命である。このように、人間は、人間になるために自己を失い、自我となり、しかも、自我が主体となることはなく、まず、深層心理が最初に自我を主体に立てて思考し、感情と行動の指令を生み出す。その後、そのまま行動することもある。人間の表層心理の介入がよって行動の指令が抑圧されることもある。その時は、表層心理で、深層心理が納得するような代替の行動を考えなければならない。しかし、その創出には、長時間かかり、苦悩に陥ることが多い。また、人間の表層心理の介入がよって行動の指令が抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、それに押し切られ、そのまま行動してしまう。そして、他者に惨劇、自らに悲劇を生み出されるす。ここに、人間の存在の難しさがあるのである。つまり、主体の思考が定められないところに、人間の存在の難しさがあるのである。