あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、些末なことで苦悩する。(自我その349)

2020-04-27 14:56:15 | 思想
人間は、いついかなる時でも、ある構造体に所属し、ある自我を持して行動している。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。自我とは、構造体において、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体と自我の関係は次のようになる。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教頭・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・課長・社員などという自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。その自我を動かすのは深層心理である。深層心理とは、無意識の思考である。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。深層心理の動きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味している。しかし、人間には、深層心理という無意識の思考だけでなく、意識しての思考である表層心理での思考もある。多くの人が言う思考とは、人間の表層心理での意識しての思考である。多くの人は、深層心理の思考の存在に気付いていない。表層心理での意識しての思考しか思考が存在しないと思っている。しかし、人間の表層心理での思考は、深層心理から独立して存在していないのである。人間が、表層心理で思考する時は、常に、深層心理の思考の結果を受けて、それについて行うのである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理をコントロールできず、深層心理から、いろいろな思いが湧いてくるのである。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動くのである。まず、気分についてであるが、気分とは、言うまでも無く、感情と同じく、心の状態を表す。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽などの突発的に生まれる心の状態である。それは、気分は深層心理を覆っているものであり、感情は深層心理が生み出すものであるからである。気分は深層心理の中で変わり、感情は深層心理によって行動の指令とともに生み出されるのである。人間は、深層心理が、常に、ある気分や感情の下にあり、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は自分を意識する時は、常に、ある気分や感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある気分や感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になり、行動の起点になっているのである。人間は、得意な時には、すなわち、深層心理が爽快な気分や喜ばしい・楽しい感情の時には、現在の状況を変える必要が無いから、表層心理で意識して思考する必要はないのである。深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動すれば良いのである。しかし、人間は、不得意な時には、すなわち、深層心理が憂鬱な気分や怒り・哀しい感情の時には、現在の状況を変える必要があるから、表層心理で意識して思考する必要があるのである。これが考えるということである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。だから、人間は、深層心理が、憂鬱な気分や怒り・哀しい感情の状態にあって、早く、この状態から脱却したいと思えば、表層心理で意識して思考して、深層心理に喜ばしい・楽しい感情が訪れるような行動を考え出さなければならないのである。次に、自我を主体に立てるということについてであるが、自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて自我の行動について考えるということであり、自我が主体的に自らの行動を思考するということではない。なぜならば、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。次に、快感原則についてであるが、快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理に内在し、自我に感情をもたらし、自我を行動へと駆り立てる、欲望である。そして、欲動には四つの欲望が内在している。つまり、深層心理には、四つの欲望が内在し、それが自我を動かしているのである。さて、欲動、すなわち深層心理にに内在している四つの欲望とは、次のようなものである。第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。これは、自我の保身化(略して保身化)とも呼ばれている。生徒や会社員が、行くのが嫌でも、学校や会社に行ってしまうのは、生徒いう自我や会社員という自我を失いたくないからである。第二の欲望として、自我を他者に認めてもらいたいという欲望がある。これは、自我の対他化(略して対他化)とも呼ばれている。化粧するのも、成績を上げようとするのも、他者に自我を認めてもらいたいからである。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望がある。これは、対象の対自化(略して対自化)とも呼ばれている。国や学校や会社をコントロールしようとすること、家を建てるために木を利用しようとすること、哲学者が自らの志向性で現象を捉えようとすることなど、いずれも、この欲望から発している。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。これは、自我と他者の共感化(略して共感化)とも呼ばれている。カップルという構造体を形成しで恋人という自我を有していること、仲間という構造体を形成し友人という自我を有していること、呉越同舟の関係にあること(普段は仲が悪いのだが共通の敵がいるから協力し合っていること)など、いずれも、この欲望にかなっているのである。さて、欲動は四つの欲望によって成り立っている。それは、自我を存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象を支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。簡潔に言えば、性欲である。確かに、他の動物には、発情期があり、一定期間だけ性欲があるのに対して、人間は、言わば、一年中発情期であり、常に、性欲がある。そういう意味では、性欲が、全ての欲望の源になっていると言えないことはない。さて、人間の行動は、深層心理が欲動に基づいて生み出し、指令しているから、全ての行動には理由と意味がある。しかし、人間は、常に、全ての行動の理由と意味を意識して行動しているわけではない。なぜならば、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それが起点となって、人間は行動するからである。確かに、人間は、表層心理で、意識して行動することがある。また、人間は、表層心理で、意識して思考した後で行動することがある。しかし、それらは、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて行われるのである。人間は、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて行われるのである。人間は、深層心理が自我の欲望を生み出す前に、表層心理で、思考して、行動することは無いのである。しかし、多くの人は、全ての行動は、自ら表層心理で意識して、思考して、行っていると思い込んでいるから、行動している途中や行動した後で、時として、理痛や意味を理解せずに行動していることに気付き、驚くのである。また、人間の全ての感情にも理由と意味がある。それは、行動の指令と同様に、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すからである。しかし、行動と異なり、人間は、常に、自分の感情を意識している。しかし、人間は感情を意識しようと思って意識しているのでは無く、感情が人間を覆ってくるから、人間は自分の感情を意識せざるを得ないのである。しかし、感情の存在が、すなわち、自分が意識する感情が常に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。これは、デカルトの「我思う故に我在り」(あらゆるものを疑えるとしても、このように疑っている自分の存在を疑うことはできない)という回りくどく、しかも、危うい論理よりも、確かなことなのである。確かに、人間は、常に、自分の感情を意識するが、しかし、その理由と意味を全て理解しているわけではない。後にそれが理解されることもあり、後々までわからないこともある。なぜならば、これも、また、全ての感情は、全ての行動の指令と同様に、人間の無意識のうちに、深層心理が欲動に基づいて思考して生みだしているからである。人間は、意識して、すなわち、表層心理で、思考して、決して、行動の指令と同様に、感情も生み出すことはできないのである。さて、なぜ、全ての行動と感情に理由と意味があるのか。それは、深層心理が、理由で過去と現在を繋げ、意味で将来と現在を繋げているからである。深層心理が、欲動に基づいて思考して、過去の出来事によって現在の感情と行動の指令を生み出し、将来の目的によって現在の感情と行動の指令を生み出しているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。つまり、深層心理が、欲動に基づいて思考して、過去の出来事、現在の感情と行動の指令、将来の目的を繋げているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。この、深層心理による、過去、現在、将来という一連の創造を、ハイデッガーは、時熟と表現している。だから、時熟とは、客観的な時間系列ではなく、深層心理による創造の時間系列なのである。客観的な時間系列は、人間にとって、他者との社会生活を営む上でだけ、意味も為しているのである。ハイデッガーの「存在と時間」は、時熟という志向性(観点・視点)から、読み解かなければならないのである。このように、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動くのである。深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、感情的な行動であり、往々にして、他者に惨劇、自我に悲劇をもたらすのである。犯罪も、深層心理が生み出した強い感情が原因である。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、人間は、所属している構造体から追放される可能性が大であったり実際に追放されたりした時、所属している構造体が破壊される可能性が大であったり実際に破壊されたりした時、自我を失う可能性が大であったり実際に自我を失ったりするので、苦悩するのである。さて、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望は、自我の対他化と言われている。自我の対他化は、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。さて、欲動の第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、対象の対自化と言われている。それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化とは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えている。)という言葉に表れている。さらに、対象の対自化は、「人は自己の欲望を心象化する」(人間は、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は観点・視点で冷静に捉え、趣向性は好みで感性として捉えていることである。さて、自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・現象を見ることなのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその意味・理由である。だから、人間は、リーダーという自我を失う可能性が大であったり実際に自我を失ったりした時に、苦悩するのである。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその意味・理由である。だから、わがままな行動でも、それを他者から止められた時、人間は、自我が傷付けられ、怒り、苦悩するのである。物という対象の対自化は、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。他者・物・事柄という対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、他者を支配しようとする。人間は、物を利用し、事柄を自らの志向性で捉えようとする。)という言葉に集約されている。さらに、対象の対自化は、「人は自己の欲望の心象を存在化させる(現実化する)」(人間は、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。これは、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって、苦悩を避け、心に安定感を得ようとすることがその理由・意味である。さらに、対象の対自化には、「人は自己の欲望を心象化する」(人間は、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という欲望があるが、これは、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ることがその理由・意味である。さて、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという欲望は、自我と他者の共感化と言われている。自我の対他化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるとともに仲間という構造体から追放される苦悩という理由・意味があるのであるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感という苦悩から脱しようというという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強過ぎるという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅するという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの苦悩だけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの苦悩もあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。しかし、共通の敵が消えると、以前のように、互いに相手を対自化し、イニシアチブを取ろう、相手のの言う通りにはならないでおこうと徹底的に対他化を拒否して、対自化を求めて苦悩するのである。さて、哲学者のウィトゲンシュタインも、「苦しいという感情が消滅すれば、苦悩の原因も解決されたと言うことができる。」と言う。だから、人間の苦悩が消えるのは、必ずしも、苦悩の原因となっている問題点が解決されたからだとは言えないのである。しかし、苦悩が消えれば、人間は、所期の目標が達成できたということであり、人間は、それ以上、踏み込むことはできないのである。なぜならば、苦悩は、深層心理がもたらすからである。人間は、自らの深層心理が生み出した、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望から逃れることはできないのである。人間は、ルーティーンが破られた時、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自らの表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、思考し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出したと行動の指令について思考することから逃れることはできないのである。つまり、深層心理がもたらす苦悩の中で、人間は、表層心理で、つまり、理性でどのような思考を形作っていくかが問われているのである。