あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自ら動いているのではなく、深層肉体と深層心理によって動かされている。(自我その345)

2020-04-18 16:44:10 | 思想
人間は、肉体にも精神にも、生来、意志が備わっている。だから、人間は、生きていけるのである。しかし、それは、自分が意識して思考して生み出した意志ではない。すなわち、人間が、表層心理で、意識して、思考して、生み出した意志ではない。言わば、肉体そのもの、精神そのものに、生来、備わっている意志である。この、人間が、自ら意識する前に、既に、自らに備わっている、生きる意志を持して存在している肉体を深層肉体、生きる意志を持って存在している精神を深層心理と言う。しかし、深層肉体にも深層心理にも、共通して、生きる意志が存在するが、その源の方向性は、必ずしも、一致しない。深層肉体の生きる意志の源は生命であり、深層心理の生きる意志の源は欲動である。ニーチェは「意志は意志できない。」と言う。それは、人間は、表層心理で、意識して、思考しても、深層肉体の意志も深層心理の意志も、生み出すことも変更することもできないという意味である。だから、深層肉体の生命の意志も深層心理の欲動の意志も、人間が、表層心理で、意識して、思考して、生み出した意志ではないのである。さて、聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」という有名な言葉がある。言うまでもなく、パンとは、食糧のことである。聖書は、人間は、生きていくためには、食糧以外に、神の言葉が必要だと言うのである。人間を生かしてくれるのは神であり、神の言葉に従えば、人間が生きていくために必要なものを神が備えてくれると言うのである。人間を生物として生かしてくれるのが食糧だが、人間を人間として生かしてくれるのは神の言葉だと言うのである。しかし、人間は、有史以来、神の言葉に従って生きていたことは一度もない。人間が神を創造したのは、神が存在しなければ生きていけないと思ったからである。人間は、有史以来、自らの欲望に従って生きてきたのである。ハイデッガーは「人間が、人間らしく生きた時代は一度としてなかった。」と言う。ハイデッガーの言う「人間が人間らしく生きる」とは「存在の言葉を聞く」ことである。ハイデッガーは、人間は、有史以来、存在の言葉を聞かず、自らの欲望に従って生きてきたと言うのである。さて、先に述べたように、聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」とあるが、パンを求めているのが深層肉体であり、パン以外のものを求めているのが深層心理である。深層肉体は、ひたすら生きようとする意志、何が何でも生きようとする意志、すなわち、生きるために生きようとする意志を持っていると言えるのである。つまり、深層肉体の生きる意志の源は生命なのである。しかし、深層心理の生きる意志の源は欲動である。人間は、構造体の中で、まず、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある気分の下で、欲動によって、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間の心理は、それによって、動き出し、それが行動へと繋がるのである。ラカンは「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考するが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。つまり、人間は、構造体の中で、まず、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある気分の下で、欲動によって、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、言葉を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間の心理は、それによって、動き出し、それが行動へと繋がるのである。まず、構造体と自我についてであるが、構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体でり、自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。人間は、いついかなる時でも、ある構造体に所属し、ある自我を持して行動しているのである。構造体と自我の関係は、具体的には、次のようなものになる。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。次に、気分についてであるが、深層心理は、常に、ある気分の下にある。気分は、感情と同じく、心の状態を表す。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は自分を意識する時は、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある気分やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、否応なく、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。感情は、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある気分の下で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、言葉を使って論理的に思考して自我の欲望を生み出す時、行動の指令ととともに誕生する。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、その思考の結果が意志であるからである。なぜ、人間は、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すことも変えることができないのか。それは、気分は深層心理を覆っていて、感情は深層心理が生み出すものであるからである。気分は深層心理の中で変わり、感情は深層心理によって行動の指令とともにに生み出されるのである。しかも、人間は、他者に面した時や他者を意識した時や一人でいてふとした時などに、何かをしている自分や何もしていない自分の状態に気付くのであるが、その時は、同時に、必ず、自分の心を覆っている気分や感情にも気付いている。しかし、自分が今行っている行為や行動は他者が代替できるが、気分や感情は掛け替えのない自分なのである。つまり、気分や感情こそ、他者が代替できない、自分の存在なのである。また、人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚しつつ、行為や行動を行ったり、何もしていない状態にあったりする。つまり、気分や感情が、自分が行っている行為や行動や何もしていない状態の価値判断になっているのである。次に、欲動についてあるが、深層心理は、欲動という志向性(観点・視点)に基づいて、論理的に思考している。欲動という志向性(観点・視点)は四つの欲望によって成り立っている。それは、第一の欲望として自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化である。高級官僚は、安部晋三首相に加担して、嘘の国会証言や公文書を改竄したのは、エリーという自我を守りたいためである。第二の欲望として自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化である。生徒が勉強するのは、教師や親や同級生に認められたいからである。第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象の支配したいという欲望がある。対象の対自化である。総理大臣や校長や社長になりたいのは、国や学校や会社を支配したいためである。大工は木という物を使って家を建てるのである。哲学者は、思想という志向性を使って、森羅万象を捉えるのである。第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我と他者の共感化である。結婚して安定的に愛情を交わそうとするのである。弱小国が協力して、強国と対峙するのである。次に、快感原則についてであるが、快感原則とは、フロイトの用語であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。だから、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について思考する必要があるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、自ら意識して、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について思考する。現実原則とは、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。人間の表層心理での思考は、自我に利益をもたらそうという長期的な展望に立って行っているので、深層心理の瞬間的に快楽を求める思考とは著しい対照を成している。しかし、人間の表層心理での意識しての思考は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許諾するか拒否するかを決めるために行うのである。人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で思考することはできないのである。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動する場合と表層心理で深層心理が生み出した自我の欲望を受けて思考してから行動する場合がある。前者の場合、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考してから、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、意識して思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、行動の指令を抑圧することを決め、実際に、行動の指令のままに行動しなかった場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、感情的な行動であり、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多いのである。犯罪はほとんどがこれが原因である。だから、誰でも犯罪者になる可能性があるが、特に、深層心理が敏感で、深層心理が生み出す感情の強い人は、その傾向が強いのである。しかし、人間の日常生活のほとんどは、深層心理が生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動によって成り立っている。つまり、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理でその行動の指令を意識すること無く、表層心理でその行動の指令の許諾・拒否を審議することなく、行動している。それは、当今の生活が、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望にかなっているからである。人間の毎日が同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、人間は、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ、楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。つまり、人間が、ニーチェの「永劫回帰」という思想にかない、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。さて、深層心理の欲動の第一の欲望である、自我を存続・発展させたいという欲望は、構造体を存続・発展させたいという欲望をも生み出している。それは、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、現在の自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、現在の構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、人間は、現在所属している構造体にも執着するのである。そうして、人間は、深層心理の欲動に基づいた思考のままに、日常生活を守ろうとするのである。だから、人間の日常生活は、本質的に保守的になるのである。つまり、人間は、本質的に、同じことの繰り返しの日常生活を送ろうとするのである。人間は、表層心理で、意識して思考して、毎日、同じことを繰り返しながら生活しているのではなく、深層心理が、人間の無意識のままに、思考して、人間に、毎日、同じことを繰り返しながら生活するように仕向けているのである。誰に脅迫されているわけでもなく、誰に見張られているわけでもないのに、深層心理に導かれ、人間は、無意識のうちに、同じ生活を送っているのである。もちろん、人間が同じ生活を送ろうとするのは、人間の意志による。しかし、この意志は、人間の表層心理の意識しての熟慮による決断ではない。しかも、人間は、このような意志があることをすら意識していない。それは、深層心理が、人間の無意識のうちに、このような意志を生み出しているからである。つまり、人間は、自らの深層心理に導かれて、深層心理の意志によって、自ら意識しないままに、毎日、同じことを繰り返しながら生活しているのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こると、人間は、深層心理の思考のままに行動することはできず、表層心理で意識して思考することになる。失恋は、誰の日常生活においても起こりうる、異常なことである。恋愛関係が順調な時は、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動という四つの欲望に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、毎日、同じことを繰り返しながら、日常生活を送っていたのである。欲動の四つの欲望がかなえられていたのである。それは、第一の欲望としての恋人という自我を存続・発展させたいという欲望は、カップルという構造体が存在していることでかなえられていたのである。第二の欲望としての恋人という自我が他者に認められたいという欲望は、相手から恋愛相手として認められているという気持ちから満足できたのである。第三の欲望としての恋人という自我で他者を支配したいという欲望は、相手の愛情を独占しているという確信から、かなえられたのである。第四の欲望としての恋人という自我と他者の心の交流を図りたいという欲望は、デートする度に、互いの愛情を確認し合っていたから、満足できたのである。しかし、相手から別れを告げられ、失恋の状態に陥ると、全ての欲望の満足感は崩れていくのである。すなわち、第一の欲望としての恋人という自我を存続・発展させたいという欲望の満足感は、カップルという構造体が壊れたということで崩れ、第二の欲望としての恋人という自我が他者に認められたいという欲望の満足感は、相手から見て恋愛相手としてふさわしくないということで崩れ、第三の欲望としての恋人という自我で他者を支配したいという欲望の満足感は、相手の愛情が離れたということで崩れ、第四の欲望としての恋人という自我と他者の心の交流を図りたいという欲望の満足感は、二人で会うこともできないということで崩れたのである。もちろん、失恋においても、最初に動くのは深層心理である。失恋においても、深層心理は、道徳観や法律厳守の価値観を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けたいという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、表層心理で、道徳や社会的規約を考慮し、後に自我に利益をもたらし不利益を避けたいという現実原則という欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを、意識して思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかも、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことも多くあるのである。これが感情的な行動であり、ストーカー行為という犯罪はこの状態で起こるのである。さて、人間は、何もしていないように見える時でも、常に、深層肉体と深層心理は動いている。だから、人間は、何もしていないように見える時があるだけで、実際は、いついかなる時でも、常に、深層肉体と深層心理は活動しているのである。深層肉体は、ひたすら生きようという生命の意志を持って、活動している。深層心理は、欲動によって、快楽を求め、不快を避けて生きようと意志して、活動している。だから、人間は、自ら意識して生きようと意志しなくても、生きていくことができ、自ら意識して快楽を求めようと意志しなくても、快楽を求めて生きていくことができるのである。しかし、肉体のひたすら生きようという生命の意志も精神の快楽を求め不快を避けて生きようという欲動の意志も、人間は、自らが意識して、生み出したものではないばかりでなく、自らが意識して消そうとしても、消すことはできないのである。それは、肉体そのもの、精神そのものに、生来、備わっている意志であるからである。だから、深層肉体の意志、深層心理の意志と呼ぶのである。もしも、これらの意志は、人間が自ら意識して生み出しているならば、表層心理による意識しての意志となる。しかし、肉体のひたすら生きようという生命の意志と精神の快楽を求め不快を避けて生きようという欲動の意志は、全ての人間に生来備わっているから、深層肉体の意志、深層心理の意志と言えるのである。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという生命の意志を持っている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら生きようとするのである。自殺は、深層肉体の意志に反した行いである。自殺とは、深層心理が、欲動によって、快楽を求め不快を避けて生きようという快感原則の基づいて、生み出した自我の欲望である。深層心理が、自我が生きている間は、欲動によって、快楽から最も離れた苦痛という精神状態から逃れられないと思考し、自殺という自我の欲望を生み出したのである。それを受けて、人間は、表層心理で、現実的な利益を追求するという現実原則に基づいて思考し、自殺を抑圧するような結論に達したのだが、深層心理が生み出した苦痛の感情が強すぎるので、抑圧できず、自殺に突き進んでしまったのである。深層肉体は、深層心理が自我を自殺に突き進めようとしても、生命の意志を捨てることは無いのである。だから、どのような自殺行為も、苦痛が伴うのである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の働きによって生かされようとしているのである。人間の肉体の内部には、肺や心臓や胃があるが、誰も、表層心理の意志で、肺や心臓や胃の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、表層心理で意識して、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまうはずである。深呼吸という意識的な行為存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為である。呼吸は、誕生とともに、既に、人間の深層肉体に備わっている機能であるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞という異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体として、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんのわずか知られていない。だから、人工的な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできないのである。このように、人間は、ほとんどの場合、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、肉体を動かしているのではなく、深層肉体が、肉体自身が肉体を動かしているのである。それが深層肉体の意志なのである。人間が、表層心理で、意識して行う肉体の活動、すなわち、表層肉体による活動は、深呼吸する、挙手する、速く走ろうとする、体操するなど、日常生活の中でも一部の活動である。そして、人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志よって、肉体そのものを創造することはできない。現に存在する肉体を模倣するしかない。肉体を創造できるのは深層肉体の細胞分裂による増殖、すなわち、肉体自身の働きでしかないのである。確かに、我々は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、体を動かすことができる。しかし、それは、先に挙げた例でもわかるように、深呼吸する、挙手する、速く走る、体操するなどの些細な動作である。しかも、表層心理による、意志的な動作も、動作の初発のほんの一部にしか関わっていない。例えば、歩くという動作がある。確かに、歩こうという意志の下で歩き出すことがある。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰も意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたら、意識しての行動、つまり、表層肉体は同じことを長く続けていられないから、途中で足がもつれ、うまく歩けなくなるだろう。万が一、目的地まで、意識して両足を差し出して歩いて行ったとしても、むしろ、必要以上に、疲れてしまうだろう。だから、最も意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという行動すら、意識して行っているのではなく、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということも、歩くことに意識が行っていないから、可能なのである。このように、ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、為されているのではなく、深層肉体が肉体を動かしているのである。つまり、人間は、深層肉体によって、生かされているのである。深層肉体の生きようとする意志は並大抵のものではない。私の父は亡くなった翌日も、遺髪の毛も爪も伸びていた。髪の毛も爪も、つまり、深層肉体は父が亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。それほど、深層心理の生きようとする意志は強いのである。さて、人間は、指を少し切っただけでも、痛みを感じ、血が出る。血は、その部分を白血球で殺菌し、傷口を血小板で固め、その部分の再生を助けるために、出るのである。深層肉体は、自ら、再生能力を持っているのである。更に、深層肉体は、痛みによって、深層心理に、そこに異状があることを知らしめるのである。深層心理は、習慣的なことは、自ら、思考し、処理し、それは無意識の行動にとどまるが、異常事態の時は、人間は、深層心理が、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理が、深層心理が生み出した自我の欲望について、思考し、その結果が、行動となるのである。人間は、指を切っただけでも、痛みがあれば、異常事態だから、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令を受けて、思考し、原因を追究し、同じ過ちを繰り返さないようにし、また、治療法も考えるのである。深層肉体は、これほどまでに、肉体を、すなわち、人間の生命を長らえさせようとしているのである。さて、深層心理も、また、深層肉体と同じく、人間の無意識の活動であるが、深層心理の活動は、人間が自我を持つことによって始まるのである。深層心理が、欲動によって、快楽を求め不快を避けて生きようという快感原則の基づく思考の活動は、自我を主体に立てての思考なのでる。人間は、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立て、欲動によって、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。すなわち、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我として、生きるしかないのである。人間は、深層心理は、まず、構造体の中で、ポジションを得て、他者からそれが認められ、自らも自らのポジションに満足している状態にあることを望む。それは、深層心理の欲動の第一の欲望である、自我の保身化である。なぜならば、その状態にあると、心に充足感があり、安定感を覚えるからである。つまり、それが、深層心理の快感原則に合致しているのである。それが、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、アイデンティティーという英語は、自己同一化と翻訳されることが多く、これでは、自らの気持ちが優先する意味になる。アイデンティティーは、確かに、自らが自らのポジションに満足している状態だが、それは、他者から認められて、初めて、成立するのである。さて、人間は、一生、家族、小学校、会社などというさまざまな構造体に所属し、父・母・息子・娘、小学一年生、会社員などというさまざまな自我を持つことになる。さて、人間は、構造体の中で、自我を持つと同時に、深層心理が、ある気分の下で、自我を主体に立て、欲動によって、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。深層心理が生み出した自我の欲望が、人間の行動の起点になるのである。深層心理は、自我の保身化、自我の対他化、対象の対自化、自我と他者の共感化という四種類の欲望である欲動から、快感原則を満たそう、すなわち、その時その場でひたすら快楽を求めようとする。深層心理は、自我を保身化させようという欲望によって、自我を存続・発展させようとして、そして、構造体を存続・発展させようとして、構造の中で、自我を主体に立て、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。深層心理が、自我を存続させようと自我の欲望を生み出するのは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、新しい自我の獲得には、何の保証も無く、不安を覚えるからである。深層心理が、自我を発展させようと自我の欲望を生み出するのは、そうすれば、他者から認められ、自我の対他化という欲望が満たされ、喜びが得られるからである。深層心理が、構造体を存続させようと自我の欲望を生み出すのは、構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい構造体の所属には、何の保証も無く、不安を覚えるからである。深層心理が、構造体を発展させようと自我の欲望を生み出すのは、そうすれば、自我が所属している構造体であるから自我が他者から認められたように気持ちになり、快感を覚えるからである。もちろん、現在よりも上位の構造体や上位の自我が用意されていたならば、人間の深層心理は、現在の構造体が消滅し、現在の自我を失うことに、ためらいも不安も覚えない。深層心理は、自我の対他化の欲望によって、他者に認められたいという思いで、自我を対他化して、他者が自我どのように思っているかを探る。深層心理は、対象の対自化の欲望によって、他者や物や現象という対象を支配したいという思いで、他者や対象物や対象事を対自化して、他者の欲望を探り、対象物の利用を考え、現象を志向性(自分の視点)で捉えようとする。深層心理は、自我と他者の共感化という欲望によって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという思いで、自我と他者の心の交流を図ろうとする。このように、深層心理は、構造体において、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、保身化・対自化・対他化・共感化のいずれかの欲望の欲動を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。人間は、精神活動においては、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、ある気分の下で、自我を主体に立て、欲動によって、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。表層心理の思考のすぐ後で、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令について、意識して思考し、行動の指令の採否を決めるのである。現実原則とは、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらそうという欲望である。また、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動することがある。これが、無意識による行動である。日常生活において、無意識による行動が非常に多い、だから、人間は、ルーティーン通りに毎日送れるのである。しかし、大切なことや異常なことが起こると、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を決めるのである。それが、広義での、理性と言われる表層心理の思考である。人間は、広義での、理性と言われる表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令を許諾してそのまま行動するか、行動の指令を拒否してその行動を抑圧するかを決定するのである。人間が、表層心理で、深層心理の出した行動の指令を拒否し、その行動を抑圧するように決定したのは、そのように行動したら、後に、自我に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を拒否し、抑圧することに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、意志で、抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。それが、狭義での、理性による思考である。なぜ、狭義での、理性の思考が必要か。それは、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。殺人事件の犯人も、表層心理では、自分が、親に暴力を加えたり、殺害すれば、犯罪者になることはわかっていたはずである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎるので、表層心理の意志で、その行為を止めることはできなかったのである。このように、人間は、何もしていないように見えるでも、常に、深層肉体と深層心理は動いているのである。