あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

考えるということには、常に、苦悩が伴う。(自我その346)

2020-04-20 13:58:38 | 思想
人間の思考には二種類存在する。深層心理の思考と表層心理での思考である。深層心理の思考とは、人間の無意識のうちでの思考である。表層心理とは、人間の意識しての思考である。しかし、多くの人は、自ら意識して思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らない。深層心理の思考に気付いていない。だから、多くの人は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らしていると思っている。そして、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの妨害や束縛があるからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れる。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。しかし、それは大きな誤解である。まず、人間は主体的ではない。人間は、自由であっても、主体的になれないのである。なぜならば、人間は、常に、自我の欲望に動かされて生きているからである。自我の欲望に動かされて生きている人間を主体的に生きているとは言えないのである。さて、自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、いついかなる時でも、ある自我を有して、ある構造体に所属し、自我の欲望に動かされて行動しているのである。そして、その自我の欲望を生み出しているのは深層心理なのである。確かに、人間は、自ら意識して思考すること、すなわち、表層心理で思考することはある。しかし、人間の表層心理での思考は、常に、深巣心理の思考の後で行われるのである。人間は、構造体の中で、まず、深層心理が、ある気分の下で、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動き出すのである。最初に、気分についてであるが、深層心理は、常に、ある気分の下にある。気分は、感情と同じく、心の状態を表す。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は自分を意識する時は、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある気分やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、否応なく、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。感情は、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある気分の下で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、言葉を使って論理的に思考して自我の欲望を生み出す時、行動の指令ととともに誕生する。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時、同時に、必ず、自分の心を覆っている気分や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、気分や感情は掛け替えのない自分なのである。つまり、気分や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。次に、主体に自我を立てるということについてであるが、それは、深層心理が自我を中心に据えて考えるということであり、自我が主体的に自らの行動を思考するということではない。なぜならば、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。次に、欲動についてであるが、欲動は深層心理を突き動かす源であある。欲動には四つの欲望が内在している。深層心理はそれによって感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動へと駆り立てるのである。欲動に内在している四つの欲望とは、次のようなものである。第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。これは、自我の保身化(略して保身化)とも呼ばれている。嫌でも学校や会社に行くのは、生徒いう自我や会社員という自我を失いたくないからである。第二の欲望として、自我を他者に認めてもらいたいという欲望がある。これは、自我の対他化(略して対他化)とも呼ばれている。化粧するのも、成績を上げようとするのも、他者に自我を認めてもらいたいからである。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望がある。これは、対象の対自化(略して対自化)とも呼ばれている。国や学校や会社をコントロールしようとすること、家を建てるために木を利用しようとすること、哲学者が自らの志向性で現象を捉えようとすることなど、いずれも、この欲望から発している。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。これは、自我と他者の共感化(略して共感化)とも呼ばれている。カップルという構造体を形成しで恋人という自我を有していること、仲間という構造体を形成し友人という自我を有していること、呉越同舟の関係にあること(普段は仲が悪いのだが共通の敵がいるから協力し合っていること)など、いずれも、この欲望がかなっているのである。次に、快感原則についてであるが、快感原則とは、フロイトの用語であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。さて、ラカンの言葉に「無意識は言語によって構造化されている。」がある。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。つまり、人間は、構造体の中で、まず、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある気分の下で、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、言葉を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動き出すのである。この後、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動する場合と表層心理で深層心理が生み出した自我の欲望を受けて思考してから行動する場合がある。前者の場合、無意識の行動と呼ばれている。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。人間の日常生活は、ほとんど、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の欲望にかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動しても何ら問題が無く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。また、深層心理は、自我が存続・発展するためには、構造体を存続・発展する必要があるから、そのためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。高級官僚たちが、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会などでの、「記憶にございません」を繰り返す国会答弁、証拠隠滅、書類消去、書類改竄をするのは、安倍晋三首相に恩を売り、立身出世したいがためである。彼らは、自らの自我のために、国民を欺いているのである。彼らは、国民を欺くことがルーティーンになっているから、表層心理で、自らの行動の諾否について、審議することは無いのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考してから、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。さて、人間が、表層心理で、自ら意識して思考するのは、ルーティーンが破られたからである。つまり、日常生活において、異常なことが起こると、すなわち、ルーティーンが破られると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、傷心・怒りなどの過激な感情と相手を侮辱しろ・相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、意識して思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、行動の指令を抑圧することを決め、実際に、行動の指令のままに行動しなかった場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに相手を侮辱したり殴ったりしてしまうのである。それが、感情的な行動であり、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多いのである。犯罪はほとんどがこれが原因である。だから、誰でも犯罪者になる可能性があるが、特に、深層心理が敏感で、深層心理が生み出す感情の強い人は、その傾向が強いのである。そして、人間が、表層心理で思考して、深層心理の行動の指令を抑圧しようするのは、たいていの場合、他者から悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を侮辱しろ・相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、周囲から顰蹙を買い、時には、社会的に罰せられ、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。さて、苦悩は、人間が、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、苦痛の感情を取り除く方法を長期にわたって苦慮している状態を言う。しかし、傷心・怒りという苦痛の感情を生み出しのは、深層心理である。深層心理が、自我が、他者から悪評価・低評価を受け、快感原則に基づいて、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を侮辱しろ・相手を殴れなどの過激な行動を指令したのである。しかし、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理の行動の指令の通りに、相手を侮辱したり殴ったりすると、後で、その相手から復讐されたり、周囲に人から顰蹙を買ったり、法的に罰せられたりして、自我が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧したのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、自らの現実原則が納得し、深層心理の快感原則が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になるのである。この時、人間は、自らの思考の力を最大限に発揮しなければならないのである。これが、理性である。そこで、ニーチェは、「人間は、安楽の時、自分自身から離れ、苦悩の時、自分自身に近づく。」と言うのである。安楽も苦痛も深層心理がもたらした感情である。しかし、人間は、安楽の時には、表層心理で、考えることをしない。反省する必要が無いからである。人間は、苦痛の時、表層心理で、苦悩の状態に陥って深く考えるのである。だから、偉大な思想は、全て、苦悩の中から生まれている。理性が、偉大な思想を生み出したのである。デカルト、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガーなど、全てそうである。しかし、一般的には、苦悩とは、人間が、苦しいと感情の中で、その苦しみから逃れる方法を、表層心理で案出するためにもがいている現象である。人間は、その時、自分が苦しみにあることを課題にして、苦しみがもたらされた原因を分析し、苦しみから脱却する方法を思考するのである。これが理性による思考である。確かに、理性による思考によって、苦しみから脱却する方法が考え出すことができ、それを実行し、実際に、苦しみから脱却できる者も存在する。しかし、苦しみから脱却する方法を考え出すことができなくても、時間とともに、苦しいという感情が薄れゆき、苦しみから脱却する者も存在する。そして、苦しいと感情という感情が強すぎるので、また、苦しみから脱却する方法が考え出す自信がないので、他者との会話や遊びや趣味やアルコールや医薬品などに頼って、苦しみから逃れようとする者も存在する。つまり、表層心理でしっかり受け止め、理性による思考に終始する人と、表層心理で受け止めきれず、時間や気分転換に頼る者が存在するのである。しかし、後者の場合であっても、それを非難することはできない。その理由は二つある。一つは、人間の意識という表層心理で与り知らぬ所で、すなわち、無意識という深層心理が苦しいという感情を生み出しているからである。もう一つは、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した苦しい感情から脱却するための行動の指令のままに行動すると自分にとって利益の結果になると判断したから、行動の指令を抑圧したのである。つまり、人間の表層心理による所期の目標は、深層心理が生み出した苦しいという感情を消滅させることという一点だからである。だから、哲学者のウィトゲンシュタインも、「苦しいという感情が消滅すれば、苦痛の原因も解決されたということができる。」と言うのである。だから、人間の苦悩が消えるのは、必ずしも、苦悩の原因となっている問題点が解決されたからだとは言えないのである。しかし、苦悩が消えれば、人間は、所期の目標が達成できたということであり、人間は、それ以上、踏み込むことはできないのである。確かに、深層心理は、何かの出来事によって、欲動によって、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という欲望を生み出すから、その出来事が、他者にとっては、些末であったりすることはままあることである。しかし、他者にとっては、些末に見えることも、本人の深層心理には、課題となる大きなことだから苦痛になるのである。人間は、自らの深層心理が生み出した、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望から逃れることはできないのである。また、人間は、ルーティーンが破られた時、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自らの表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、思考し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出したと行動の指令について審議するから逃れることはできないのである。つまり、苦悩の中で、理性がどのような思考を形作るかが問われているのである。





コメントを投稿