あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自分という不可思議な存在(自我その76)

2019-04-03 19:31:57 | 思想
「人の気持ちを変えることはできない。」とよく言われる。確かに、他者の気持ちを変えるのは容易ではない。しかし、それと同様に、自分の気持ちを変えることも容易ではないのである。嫌いな人を容易に好きになることはできない。好きな人を嫌いになることも簡単ではない。だから、ストーカーになる人が出てくるのである。そもそも、自分という存在は、誰にも、わからない。しかし、それでも、一般に、これが自分だと言えるものは、体と心だと言われている。誰しも、自分の体と心だけは自分に所属していると自信を持って主張できると思い込んでいるからである。だから、自分の体と心にはこだわらない人はこの世に存在しないのである。しかし、その体にしても、他者から賞賛されるような容貌であったり、何ら問題のない健康状態であったりすれば、喜ばしいことだが、そのような理想はなかなか叶わない。ブス、ブオトコ、チビ、デブと陰口を叩かれ、面と向かって言われて、心が傷付く人は少なくない。しかし、遺伝だから、本人の責任ではない。しかし、両親を恨んでも、両親も、祖父母の遺伝だから、両親の責任ではない。しかし。陰口・悪口を言う人の人間性を疑っても、その事実は消えようがない。「人間は心だ。」と思い直そうとしても、自分自身がイケメン、美女、可愛い子が好きなのだから、むなしい気持ちになるばかりである。かてて加えて、体に、偏頭痛、慢性腰痛、胃弱、慢性便秘、赤面症などの持病があったならば、いっそう、厄介である。治癒させることは容易ではないばかりか、一生、連れ添わなければいけないものもある。これらも先天的なものだから、できるだけのことをして、後は、運命だとして諦めるしかない。さて、体が思い通りにならないならば、せめて心だけはと思うのだが、それが、なかなか思い通りにならない。体は生まれつきの容貌であり体質であるから、思い通りにならないことは理解できるのだが、心の現れである気持ちは常日頃すぐに変化するから、自分の意志で気持ちを簡単に変えられそうに思うのだが、それが、なかなかできないのである。なぜならば、心を支配しているのは深層心理であり、気持ちは深層心理の発露であるから、意志という表層心理では、変えることができないのである。表層心理は深層心理に届かない。だから、我々は、好き嫌いという感情ばかりでなく、飽きっぽい性格、短気な性格など、心に関連したことを変えることは非常に難しい。それゆえに、自らの心の傾向、気持ち、感情を認めつつ、失敗しないように、処世していくしかない。さて、これまで、我々は、自分の体と心だけは自分に所属していると自信を持って主張できるから、自分の体と心にこだわって生きていると述べ、心と体について説明してきたが、自分に所属しているものは体と心だけではない。また、我々は、自分が所属して構造体(組織、集合体)にもこだわって生きているのである。まず、体と心以外に自分に所属しているものとして、自家用車、持ち家、ペットの猫や犬、身につけている服・宝石・カバンなどである。自分の車、家、ペット、身につけている物を褒められると、自分が褒められたように喜び、それらがけなされると、自分がけなされたように心が傷つけられるのである。自分の体の現れである容貌や自分の心の現れである性格が、褒められたりけなされたりした時と、同じである。確かに、体や心は最も自分に身近であるが、自分そのものではない。だから、自分の意志通りには動かないのである。本質的に自分そのものは存在しないのである。つまり、我々は、体、心、家、ペット、身につけている物などの自分に所属しているもの、言い換えれば、自分のようなものを自分として、それにこだわって生きているのである。次に、我々は、自分に所属しているものだけでなく、自分が所属している構造体にもこだわって生きているのであるが、自分が所属している構造体には、国、県、学校、会社、家族などがある。もちろん、自分が所属している構造体には、他の人たちも所属している。その人たちも同じ構造体を形成しているから、その人たちにもこだわるのである。だから、ワールドカップやオリンピックで日本人チームや日本人選手が勝利すると、高校野球の甲子園大会で出身県の高校が勝利すると、春高バレーで出身高校が勝利すると、都市対抗野球大会で所属している会社が勝利すると、息子が有名校に合格すると、自分のことのように喜ぶのである。もちろん、それらが敗北したり不合格だったりすると、自分のことのように悲しむのである。それは、自分に所属しているものに対してと同じ現象である。つまり、我々は、自分に所属しているものと自分が所属している構造体を、自分として、こだわって生きているのである。我々には、本質的に自分は存在しないから、自分のようなものを自分として生きるしかないのである。このように、我々人間には、本質的に自分は存在しないから、自分に所属しているものと自分が所属している構造体を、自分として、生きるしかないのである。自分に実態が無く、それらに仮託して、自分を感じて生きるしかないのである。それらのいろいろな現れによって自分を感じているのである。思い通りに行かないことが多いから、それを叶えることが生きがいとなり、人生を形成しているのである。それゆえに、人生とは、それらの毀誉褒貶による、自分という心の移り変わりの現象とも言えるのである。