あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自分らしく生きることと自分のように生きること。(自我103)

2019-04-30 21:19:09 | 思想
ある哲学者は、常に主体的に生きることを主張していたが、ある時、「時には、自分で考えず、自分に代わって考えてくれた人の言うままに生きたいと思うことがある。そんな自分を情けなく思う。」と呟くことがあった。彼は、主体性を重んじ、常に、「人間の本質とは、自分で考え、判断し、決断して、行動することである。」と主張していた。つまり、彼は、常に、自分らしく生きることが人間の正しい生き方だと説いていたのである。しかし、自分で考えることに疲れ、「時には、『自分に代わって考えてくれる人がいたならば、その人に付いていくのだが。』と思う時がある。そして、すぐに我に返り、そんな自分を情けなく思ってしまう。」と言うのである。つまり、彼は、考えることに疲れると、時には、人の考えたことを自分の考えたこととして、人の言ったことを自分の言ったこととして他者に主張して、自分のように生きたいと思う時があると言うのである。なぜ、彼は、普段は、自分らしく生きることを主張しているのに、時には、自分のように生きることに憧れるのか。それは、自分で考え、判断し、決断して、行動するという自分らしい生き方は、その結果が良ければ他者から高く評価されるが、結果が悪ければ他者から責任を追及されるからである。つまり、失敗の時の他者からの責任追及が恐いからである。それに比べて、自分に代わって考えてくれる人に従って行動するという自分のように生きていくことは、その結果が良ければ他者から自分の手柄として高く評価され、結果が悪ければその人に責任を押しつけられ他者からの自分への責任の追及を逃れることができると思うからである。つまり、結果が良ければ自分の手柄であり、結果が悪ければその人に責任だというわけである。ずるい生き方である。しかし、彼は、「そんな自分を情けなく思う。」と自らを恥じていて、誠実である。しかし、世の中の多くの人は、彼の恥じた生き方をしているのではないか。つまり、自分のように生きているのではないか。しかも、自分のように生きていながら、自分らしく生きていると思い込んでいるのではないか。私は、自分のように生きても良いと思う。しかし、その結果が良ければその人の手柄だと告白し、結果が悪ければ自分の責任だと認めるべきだと思う。その人の言に従ったのは自分自身だからだ。しかし、自分のように生きている人は、結果が悪いと、自分に責任はなくその人の責任だと主張するのだが、他者がそれを認めず、自分の責任だと責め立てる。当てが外れた彼は、どうして良いかわからず、悩むのである。世の中の多くの苦悩の原因はこれである。だから、長引くのである。しかし、自分で考え、判断し、決断して、行動するという自分らしい生き方をしている人は、結果が悪くて他者から責任を追及されても、その責任を潔く引き受ける。最初から、結果が悪かったら、責任を取る覚悟があったからである。もちろん、彼にも、苦悩はある。自らの思考が良い結果を結ばなかったのだから、苦悩が無いはずがない。しかし、苦悩は長引かない。なぜならば、この失敗の原因を分析し、それを糧にして、次の段階に向かうからである。自分で考え、判断し、決断して、行動することが、彼の生き方だからできるのである。しかし、自分らしく生きている人は稀で、自分のように生きている人がほとんどなのだから、自分らしく生きている人は、どのような構造体(人間の組織・集合体)であろうと、孤立することが多い。自分らしく生きている人は、孤立化を自ら望まないが、だからといって、無理に避けようとも思わない。なぜならば、現代において、いや、いつの時代もそうだったが、自分で考え、判断し、決断して、行動するという自分らしい生き方をしている人は、孤立することはわかっているからである。世の中には、「自分本来の生き方をする人が増えれば、世の中は良くなる。特に、若者は、自分本来の生き方を目指すべきだ。」と主張する人がいる。確かに、自分本来の生き方、つまり、自分らしい生き方をする人が増えれば、結果的には、世の中は良くなるだろう。しかし、この主張者は、主張者自身の望む生き方が自分本来の生き方であると主張しているのである。しかし、それは、主張者の生き方であり、聞いている人の本来の生き方、自分らしい生き方ではない。つまり、主張者の望む生き方を聞いている人がすれば、聞いている人は、自分らしい生き方ではなく、自分のように生きることになるのである。だから、このように主張する人は政治家に多いのだが、警戒すべきなのである。確かに、自分らしい生き方をする人が増えれば世の中は良くなるだろうが、それを目標にして行動すべきではない。もともと、世の中はそんなに簡単には変わらない。人間は、そもそも、変わろうと望んでいる人しか変わっていかないからである。世の中に、自分の周囲に、どれだけ、変わろうと望んでいる人がいるか考えてみればわかるはずである。ほとんどの人は、自我(構造体での自分のポジション)に囚われ、全ての価値観を排除して、他者存在のために(他者の評価を受けるために)、なりふり構わず、行動しているではないか。自分らしい生き方をしようとする人は、そのような人たちとは系譜を異にする人である。自分らしい生き方をしようとする人は、自我(構造体での自分のポジション)を意識するが、それに囚われず、他者存在(他者の評価)を意識するが、それに囚われず、自分で考え、判断し、決断して、行動し、その結果が良くて他者から高く評価されても、自分を自分を失わないために謙虚に対応し、結果が悪ければ、潔くその責任を認めるのである。なぜならば、それが、自分の生きている証だと信じているからである。