あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、心にあるようにしか捉えることはできない。(自我その100)

2019-04-27 18:36:43 | 思想
「人間は、心にあるようにしか捉えることはできない。」とは、ハイデッガーの言葉である。この言葉の意味は、人間の心には、既に、関心の視点と関心の対象(対象物や対象事や対象者の範囲)が決まっていて、自らの関心のありようによって心に入って来ることが決まってくるということである。心が決めているのであるから、この関心のありようは、人間の意識しての行為では無く、つまり、人間の表層心理の行為では無く、深層心理(無意識という心的世界)の行為である。この関心のありようが志向性という関心の方向性である。志向性について、辞書では、「常に対象に向かう作用の中で、初めて、対象が一定の意味として立ち現れ把握される意識体験のあり方を言う。」と説明しているが、それは正しい。また、意識について、「意識とは常に何物かについての意識である。」と説明し、これも正しいが、「志向性とは、意識とは常に何物かについての意識であるということである。」と説明としているのは誤っている。まず、志向性があって、後に、意識があるからである。志向性と意識とは同じでは無いのである。さらに、志向性によって何物かが捉えられ、のちに、それが意識されるのは事実だが、それが為されるのは深層心理の意識であり、それが表層心理の意識に必ずしも上ってこないのである。深層心理が捉えて意識しても、表層心理の意識にならないことが多いのである。無くした腕時計を探すというような、表層心理による意識しての志向性の行動は、稀の現象である。深層心理の志向性だけで、人間はほとんどの行動ができるのである。なぜならば、人間は、深層心理が考え、深層心理によって動かされているからである。さて、「人間は、心にあるようにしか捉えることはできない。」をわかりやすく言い換えれば、人間は、自分が理解したい方向で理解したいものしか理解できず、自分が見たい方向で見たいものしか見えず、自分が聞きたい方向で聞きたいものしか聞くことはできないということである。このような関心の視点と関心の対象の傾向性を動物も有している。トカゲは葉が擦れるような微かな音には敏感だが、ピストルの発射音にはびくともしない。蛇などの天敵は微かな音を立てるから警戒するのである。ヒナコウモリは日暮れに声帯から超音波を発しながら障害物を探知しながら、巧みに飛び回る。日暮れは襲ってくる動物がいないから、障害物に注意すれば良いのである。犬の轢死体が少なく、猫や狸の轢死体が多いのは、犬は後天的に学ぶ能力が長けているから、自動車の動きを察知して避けることができ、猫や狸は本能という先天的なものに拘泥し、先天的な本能に埋め込まれていない自動車のスピードに対処できないのである。さて、人間の関心の視点、つまり、志向性の視点は、対自化、対他化、共感化である。対自化とは、対象物や対象動物や対象者を利用の視点で見ることである。対他化とは、対象者に自分がどのように見られているか考えることである。共感化とは、対自化、対他化の枠を取り払い、共通の敵と戦うために協力し合ったり、理解し合ったり、友情を交わし合ったり、愛を交わし合ったりすることである。そして、人間の関心(志向性)の視点と関心の対象(対象物や対象事や対象者の範囲)には、個人によって異なっている。山の樹木を見ても、木材業者は木材の用途として対自化して捉え、自然学者は対自化して分類し、画家は感動して共感化し、その後、絵の対象として対自化し、登山者は感動して共感化するだろう。飼い犬に対しても、飼い主は可愛いから共感化しているが、大きな犬に対しては、飼い主以外の人は、その犬の動向を対自化して観察して見たり、自分を襲ってくるのでは無いかと対他化して見たりするするだろう。同じ人に対しても、仲の良い人は共感化して見、初対面の人は自分をどのように思っているだろうと対他化して見、仲の悪い人や猜疑心のある人は欠点を見つけようと対自化して見るだろう。このように、人間も動物も、心に、既に、関心(志向性)の視点と関心の対象(対象物や対象事や対象者の範囲)が決まっていて、自らの関心のありようによってしか心に入ってこないのである。つまり、生きるとは、先入観によって生かされているということなのである。