あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自己の利益にこだわる人と自我にこだわる人(自我その82)

2019-04-09 19:00:15 | 思想
自己の利益にこだわる人を利己主義者と言う。一般的な概念になっている。しかし、利己主義と言っても、そのような思想は存在せず、自己の利益にこだわる傾向が強いと思われる行為をした人が、利己主義者だと非難されるのである。だから、この世には、自らを利己主義者だと思っている人は存在しない。他者が、その人を利己主義者だと決めつけ、非難するのである。もちろん、利己主義者と言われて、喜ぶ人は一人も存在しない。怒り、悲しみ、絶望を感じる。それは、誰しも、利己主義者は自己の利益にこだわる人、悪人だと思っているからである。しかし、自己の利益にこだわる人は利己主義者と言い換えることができ、悪人を意味しているということは普遍化しているのに比べ、自我にこだわる人の定義づけ、意味づけが一般的に明確になされていない。そもそも、自我の意味が明確ではない。もちろん、自我は、自分や自己と同じ意味ではない。しかし、全く別個のものかと言えば、そうでもない。辞書は、自我について、「哲学で、認識・意志・行動の主体として、外界や他人と区別されて意識される自分。」と説明している。しかし、この説明では、自分や自己との違いが明確ではない。もっと踏み込んで説明すれば、自我とは、具体的に自らが行動している姿であり、自分や自己は、それをが自らだと意識するあり方なのである。つまり、自我とは、ある構造体(人間の組織・集合体)において自らが占めるポジションに応じて行動することであり、自分や自己は、時折、それをが自らだと意識することなのである。端的に言えば、自我は、夢中で、自らのポジションに応じて行動しているが、時折、はっと我に返り、自らがそのような行動をしている意識すると、そこに、そのように行動している自分や自己が存在しているのに気付くのである。例えば、山田由美の自我は、山田家という構造体において、夢中で、母親の役目を果たしているが、時折、はっと我に返り、母親として行動している、自分(自己)を意識するのである。また、山田由美の自我は、夢中で、日本信用金庫という構造体において、預金係の役目を果たしているが、時折、はっと我に返り、預金係として働いている、自分(自己)を意識するのである。このように、人間は、いついかなる時でも、ある構造体に属し、夢中で、あるポジションを自我として行動しているが、時折、はっと我に返り、そのように行動している、自分(自己)を意識するのである。だから、自己の利益にこだわる人(利己主義者)と自我にこだわる人のあり方は、全くと言って良いほど、異なっているのである。誰しも、自己の利益にこだわる人(利己主義者)に成る可能性があり、利己主義者だと非難される可能性があるが、自我にこだわるのは可能性ではなく、誰でもが、皆、常に、自我にこだわっている人なのである。また、自己の利益にこだわる人(利己主義者)と自我にこだわる人の欲望のあり方も異なっている。自己の利益にこだわる人(利己主義者)は、現金・家財・商品・株・公社債などの動産や土地・建物などの不動産を求め、苦労をいとい、楽を求める。動産や不動産を求めるのは、それらは社会的な力があり、他者を動かす大きな原動力になるからである。自我にこだわる人は、自らが属している構造体が存続するように、自らのポジションを失わないように行動する。なぜならば、構造体、ポジションがあって、初めて、自我が成立するからである。また、自我にこだわる人は、そのポジションでの自らの働きが他者から評価されるように行動する。これが、人間の対他存在のあり方である。対他存在とは、他者からの視線を気にし、他者から高評価を得たいという欲望である。対他存在こそ、人間が社会的な動物であることにゆえんであり、人間の人間たるゆえんである。次に、具体例を挙げて、自己の利益にこだわる人(利己主義者)と自我にこだわる人の反応・行動の違いを見てみよう。まず、いじめっ子の母親は、我が子がいじめ仲間に加担し、被害者を死に追いやった事件に対し、どのように反応し、行動するだろうか。自己の利益にこだわる母親(利己主義の母親)ならば、どうすれば、世間の批判が大きくならないように、賠償金が大きくならないように、我が子を連れて、被害者の家を訪れ、両親に謝罪するだろう。できれば、我が子に涙を流させ、自分も涙を流せば、効果が大きいと考えるだろう。しかし、現実は、いじめっ子の母親は、皆、我が子にも謝罪させず、自らも、謝罪しないのである。それは、母親という自我にこだわっているからである。もしも、我が子が謝罪し、自らも、謝罪すれば、被害者の両親・マスコミ・世間の人々から、我が子はいじめっ子だと非難され、自分自身は母親失格だと非難される可能性が大だからである。彼女は、母親という自我にこだわり、対他存在に執着するあまり、我が子にも謝罪させず、自らも、謝罪しないのである。次に、交際していて、突然、彼女から別れを告げられた男性は、どのように反応し、行動するだろうか。自己の利益にこだわる男性(利己主義の男性)ならば、どうすれば、早く、失恋の苦しみから解放されるためにはどうすれば良いか考えるだろう。友人に相談し、彼女を軽蔑したり、失恋は良い人生経験になると考えるようにしたり、旅行。カラオケ。音楽鑑賞などで気を紛らわせ、できるだけ早く、彼女のことを忘れ、立ち直ろうとするだろう。しかし、自我にこだわる男性は、彼女につきまとい、時には、殺すことまでするのである。それは、カップルという構造体、恋人というポジションの自我にこだわり、それらを失うことが最大の苦痛をもたらすからである。次に、竹島・尖閣諸島の帰属をめぐって、韓国・中国と争っているが、それに対して、どのように反応し、行動するだろうか。自己の利益にこだわる日本人(利己主義の日本人)ならば、どうすれば、現実的な利得を上げられるか考え、徹底的に、交渉し続けるだろう。決して、戦争に向かわないようにするだろう。竹島・尖閣諸島は無人島であり、人の命を犠牲にするほど価値は無いからである。しかし、自我にこだわる日本人は、戦争をしてまで、竹島・尖閣諸島を手に入れようとするだろう。彼らは、愛国心という言葉に突き動かされ、冷静な判断ができないのである。次に、燃え盛る自宅に、我が子が取り残されているのに気付いた時、母親は、どのように反応し、行動するだろうか。自己の利益にこだわる母親(利己主義の母親)ならば、自分が救いに行けば。自分共々焼死し、消防士に迷惑を掛け、他の家族により大きな悲しみをもたらすことを考え、苦しみ・悲しみに堪えながら、そこに留まるだろう。しかし、自我にこだわる母親は、自らの死を省みず、我が子を救うために、火事の中に入っていくだろう。それは、その子のいない人生は考えられず、その子を助けようとしなかったという負い目に堪えられそうに無いからである。一般に、自己の利益にこだわる人(利己主義者)の行動は非難され、自我にこだわる人の行動は評価される。しかし、母性愛、恋愛、愛国心などの情念に突き動かされた、自我にこだわった人が、どのような惨劇をもたらすか、よく考えてみるべきである。中国で、愛国無罪などという言葉に酔い、愛国心に乗っかった、自我にこだわった人が、どのようなひどいことをしたか、よく考えてみるべきである。戦前の日本で、愛国心に酔い、自我にこだわった軍人・政治家・官僚・大衆が、どのようなひどいことをしたか、よく考えてみるべきである。