あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

愛国心は自我の欲望にしか過ぎない。(日常の心理学2)

2023-10-01 20:44:09 | 思想
「子供は正直だ」とよく言われる。言うまでもなく、「大人は嘘をつくことがあるから話したことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから話したことの全部を信用できる」という意味である。子供に対して好意的な言葉である。しかし、子供は、心の底から湧き上がってくる自我の欲望のままに行動しているだけなのである。自我の欲望に忠実なだけなのである。心の底から湧き上がってくると言っても、自然に湧き上がってくるのではない。深層心理が思考して自我の欲望を生み出しているのである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。すなわち、子供は意識していないが、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出し、子供を動かしているのである。詳しく言えば、子供の無意識のうちに、深層心理が、子供という自我を主体に立てて、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、子供を動かしているのである。子供は意識して思考していないから、心の底から湧き上がってくるように感じるのである。子供の深層心理は、大人に正直に話せば褒めてくれるのを知っているから、正直な答えるという行動の指令を出し、子供を動かしているのである。
すなわち、子供の深層心理は、大人に正直に話せば褒めてくれ承認欲を満たすことができるので、褒められ承認欲を満たすという快楽を得ようと思考して、高ぶった感情と正直に答えろという行動の指令を自我の欲望として生み出し、子供を動かしているのである。子供は自我の欲望に無反省に同調しただけなのである。しかし、大人は、そういうわけにはいかない。大人も、深層心理が、大人という自我を主体に立てて、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、大人を動かそうとする。確かに、大人の中にも、正直に話せば、尋ねた相手から感謝されるという承認欲が満たされるので、その快楽を求めて、子供と同じように正直に話す人も存在する。しかし、大人の中には、正直に話して困る人がいる場合や自分が恨まれると思われる場合は、正直な発言を控える人も存在するのである。むしろ、こちらの方が多いのである。少数だが、子供にも存在する。つまり、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望の通りに行動する場合もあれば、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動すればその後自我がどのような状態になるかを想像し、現実的な利得を求めて、行動の指令を抑圧する場合もあるのである。表層心理とは、自らを意識した精神活動である。つまり、深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動に応じて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。そして、自我の欲望に従って行動する人も場合もあるのである。しかし、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動すればその後自我がどのような状態になるかを想像し、現実的な利得を求めて、行動の指令を抑圧する人も場合もあるのである。さて、人間は自我の欲望に動かされ行動するが、自我の欲望とは何か。自我の欲望は感情と行動の指令とから成る。深層心理は、欲動に応じて快楽を求めて思考して、自我の欲望として、感情という動力を生み出すと同時に行動の指令という具体的な行動の仕方を生み出し、人間を動かそうとするのである。人間は表層心理の思考では行動できないのである。人間は表層心理で思考して、意志によって深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することはあるが、感情を生み出せないから行動できないのである。次に、深層心理は自我を主体に立てて思考するが、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。逆に言えば、構造体に所属していなければ、そして、自我を持たなければ、人間として行動できないのである。次に、深層心理は欲動に応じて快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かそうとするが、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かしている、四つの欲望である。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲である。第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我の状態を欲動の四つの欲望のいずれかに応じたものにすれば快楽が得られるので、自我の状態を欲動に応じたもにしようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。欲動には、善事を行おうという欲望は存在しない。だから、深層心理は、善悪の区別なく、快楽を求めて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かそうとする。だから、深層心理が生み出す行動の指令には、悪事も存在している。深層心理が善事を行うように行動の指令として出すことがあるのは、そうすれば、他者から評価され、承認欲が満たされるからである。他者が見ていなければ、人間は、深層心理が出した行動の指令に従って悪事を行うのである。だから、人間は、自らを意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、深層心理が出した悪事の行動の指令を抑圧しなければならないのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動すればその後どのような状態になるかを長期的に展望し、現実的な利得を求めて、悪事の行動の指令を抑圧しようと考える。その際、道徳観や社会規約を考慮する。それらを無視すると、世間から指弾され、承認欲が満たされないからである。しかし、感情が強ければ、表層心理での思考の結果である意志は、深層心理が思考して生み出した行動の指令を抑圧できない時があるのである。その時は、悪事をそのまま実行してしまうのである。人間は、最初から自ら思考できれば、すなわち、最初から表層心理で思考できれば、悪事を思いつかないのだが、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているから、行動の指令の指令には悪事も含まれているのである。しかも、思考力の乏しい人間は、表層心理で思考することは無い。深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動してしまう。それが子供である。子供は、表層心理で思考できずに、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に正直に行動しているだけなのである。だから、子供は些細なことで喧嘩するのである。互いに、深層心理が子供という自我を基に生み出した自我の欲望を最大限に発揮することを良しとし、相手の事情を考慮しないから、喧嘩が絶えないのである。しかし、大人にも子供のように思考力の乏しい暴力的な人間は存在するのである。さて、現在、世界は国という構造体で区分され、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているから、愛国心がある。もちろん、日本人が日本という国に愛国心をあるのは、日本という構造体に所属し日本人という自我を持っているからである。しかし、愛国心もまた深層心理が国民という自我を基に生み出した自我の欲望である。だから、愛国心は決して崇高なものではない。世界が国に分断され、国民という自我を持たされたから存在するのである。だから、戦争によって戦死する国民ほど愚かな存在はない。
戦争とは、国民の愛国心を利用して自我の欲望を追求しようとする政治権力者と愛国心に取りつかれた右翼によって引き起こされるからである。つまり、政治権力者や右翼の愛国心という自我の欲望の発露による戦争も子供の自我の欲望に忠実な言動と同じなのである。表層心理で抑圧することなく、深層心理が生み出した自我の欲望に従って行動しているだけなのである。しかし、愛国心は、世界中の国民全てに巣くっている。どの国の人々も自らが所属している国を愛している。オリンピックやワールドカップで自国チームや自国選手を応援し一喜一憂するのも愛国心からである。自国チームや自国選手が勝利すれば歓喜し、敗北すれば絶望する。愛国心は、欲動の四つの欲望全てに支えられている。オリンピックやワールドカップで、自国選手とともに戦っているような共感欲、自国民とともに応援する共感欲が得られるのである。相手チームや相手選手に勝利すれば支配欲が得られるのである。自国チームや自国選手が勝利すれば他国の人々によって自国が認めてもらえるとい承認欲が満たされるのである。そして、自国チームや自国選手が勝利すれば国が発展し、国民という自我も発展するような保身欲が満足させられるのである。 しかし、政治権力者の国民の愛国心を利用しようという自我の欲望と右翼の愛国心に取りつかれた自我の欲望は、ワールドカップやオリンピックを楽しむことなどにとどまっていない。政治権力者は、容易に、戦争を引き起こす。政治権力者は、権力者としての承認欲を満たすために、戦争を引き起こすのである。そして、戦争がはじまると、愛国心に取りつかれた国民は、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、国民という自我を愛している自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、愛国心が生じ、愛国心にとらわれた政治権力者は戦争を引き起こし、愛国心にとらわれた国民は、戦場で、拷問、虐殺、レイプをためらいなく行うのである。しかし、国民は、政治権力者の容易に戦争を引き起こす自我の欲望にも、戦場において悪事を行う自らの自我の欲望にも思いが至らないのである。そして、戦場において、深層心理に動かされ、自我の欲望を満たすために、拷問、虐殺、レイプを行ってしまうのである。政治権力者、国民、共に、深層心理が生み出した愛国心という自我の欲望に従順である限り、この世から、戦争は無くならないのである。さて、愛国心は、国民の誰にも存在するが、それを標榜し、それに強く取り付かれているのが右翼である。さて、愛国心は国民の誰にも存在するが、国民の愛国心を利用して。自らの自我の欲望を追求しているのが政治権力者であるが、愛国心を標榜し、それに強く取り付かれているのが右翼である。右翼とは、愛国心を声高に唱える愛国主義者、国粋主義者、全体主義者、民族主義者と呼ばれているナショナリストである。そして、右翼に反対する考えの人々を左翼と言う。リベラルな思想を持っている。しかし、左翼にも、愛国心はある。なぜならば、現代において、全ての人々は、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているからである。右翼になるのは簡単である。愛国心に取りつかれ、愛国心に従ってひたすら行動する者が右翼だからである。しあし、左翼は容易にはなれない。なぜならば、深層心理が生み出す愛国心の欲望を抑圧しながら他国民の自我の欲望を考慮するからである。だから、子供は容易に左翼になれないのである。子供は自我の欲望に忠実だから右翼から始まるのである。戦争は、国民の愛国心を利用した政治権力者と愛国心に取りつかれた右翼によって引き起こされ、左翼は戦争に反対する。それは、政治権力・右翼と左翼は、愛国心のあり方、すなわち、国の愛し方は異なっているからである。政治権力者・右翼は、「国家を至上の存在と見なし、個人を犠牲にしても国家の利益を尊重する」考えを抱いている人々である。左翼は、「個人を至上の存在と見なし、国家・個人ともに、利益を尊重しようとする。個人の利益と国家の利益が対立することは無いとし、もしも、そのような状況に陥いとすれば、それは、誤った思想に導かれている」という考えを抱いている人々である。だから、国家を第一に考える右翼と、国家と個人は対立した概念では無いと考える左翼とは、本質的に、相容れないのである。もちろん、左翼も国民であるから、愛国心を有している。愛国心が無い国民は存在しない。だから、国民の誰もが、いつでも、右翼的な心情に陥るなる可能性があるのである。ラグビーのワールドカップで日本チームを応援している時も、戦前の太平洋戦争などの戦争に積極的に参加した時も、日本人は、右翼的な心情に陥っているのである。だから、右翼は、敢えて、国民を右翼的な心情に陥らせるような状況を作ろうとするのである。左翼も、もちろん、愛国心を有しているが、愛国心に溺れることを潔しとしない。それは、個人の存在を第一と考えるからである。だから、左翼は、敢えて、反権力・反右翼の立場を取るのである。政治権力者・右翼と距離を置き、自らを活かすために、自国の動き、自国民の動き、他国の動き、他国民の動き、国際的な動きを観察して、行動するのである。しかし、右翼は、愛国心に浸り、感情的に行動する。行動右翼という言葉があるが、実際には、行動しない右翼は存在しない。隠忍自重という言葉は右翼には似つかわしくない。国の立場が不利だと思えば、いつでも、右翼は、感情的に、激しい行動をする。それが、愛国心に埋没している者の宿命である。しかし、確かに、右翼の行動は感情的であるが、決して、無目的でも、無論理でもない。愛国心によって突き動かされた行動だからである。愛国心が、国益、国威発揚という目的、国の汚辱や屈辱を晴らすにはどうすればよいかという論理の下で思考させ、行動させるのである。愛国心という感情が動力の主体になっているから、容易に、右翼は激しく行動するのである。だから、右翼は、暴力を厭わない。右翼は、暴力を暴力と思わず、国家のための自己犠牲だと思っている。だから、暴力的には、右翼が左翼より優っている。右翼と左翼が喧嘩をすれば、必然的に、右翼が勝つことになる。また、右翼自体、暴力を振るうことをためらわない。暴力が、彼らの愛国心の現れだからである。それは、国同士が戦争をした場合、残虐な国の方が勝利するのと同じである。また、右翼は、国家権力と一体化する傾向がある。それは、右翼は、国家の存在を第一と考えるから、国家権力にとって都合が良いからである。だから、左翼が、国が民主主義を失っている時は、もちろんのこと、民主主義で運営されている時でも、右翼や国家権力を批判する場合、暴力による反撃、不当な逮捕、拷問、そして、死さえも引き受ける覚悟が必要である。現に、日本には、明治維新以来太平洋戦争に敗北するまで、民主主義・民主政治は存在せず、左翼は、右翼と国家権力から、暴力、不当な逮捕、拷問、暗殺、冤罪による死刑という被害を受けて来たのである。しかし、日本国憲法をいただき、民主主義国家になったはずの戦後においても、皇室、アメリカ、右翼、現政権を批判すると、暴力、不当な逮捕、暗殺の虞があるのである。日本は、戦後においても、せっかく、日本国憲法という民主主義を原則とした憲法を頂いたのに、民主主義国家となりえなかったばかりでなく、時代に追うごとに、ますます、民主主義から離れていくのである。また、右翼は、愛国心から発生し、国家を至上の存在と見なし、個人を犠牲にしても国家の利益を尊重する考えを抱いてい人々であるから、その成立時期は早い。子供でも、簡単になれる。なぜならば、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている者ならば、誰しも、愛国心を抱き、その人が、個人を犠牲にしてでも国家を尊重するという考えに到達するのは、容易なことだからである。







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