あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は深層肉体と深層心理に動かされて生きている。(日常の心理学1)

2023-09-18 02:43:09 | 思想
あなたは一人ではない。このように言うと、あなたは常に誰かに支えられて生きていると主張しているように捉える人が多い。東日本大震災の被災者の多くも「今回の地震で、生きるということは、生かされていることなのだということをつくづくと思い知らされました。」と語っていた。阪神・淡路大震災の際にも、被災者は、同じように語っていた。この言葉には、嘘偽りはない。愛する人、親しい人を喪い、途方に暮れ、自分の存在の不安を実感し、絶望の淵をさまよっていた時に、国内の人ばかりでなく、海外の人からも、励ましの言葉、衣食住の生活物資の援助、復興作業の支援を受けて、自分の存在が認められていることを嬉しく思い、生きる希望を取り戻したのである。愛する人、親しい人を喪い、家を失い、田畑を失い、生活基盤を全て失って、絶望の淵にさまよっていた時に、国内ばかりでなく、海外の人からも、励ましの言葉、衣食住の生活物資の援助、復興作業の支援を受けて、初めて、愛する人、親しい人に支えられて、自分がこれまで存在していたことを実感しつつ、これからも生きていくことができることを嬉しく思い、生きる希望を取り戻したのである。しかし、私がここで言うあなたは一人ではないという言葉の意味はそのような意味ではない。文字通り、あなたの中にもう一人のあなたがいるという意味である。しかも、もう一人のあなたはあなたを動かしあなたよりも力強いのである。もう一人のあなたとは深層肉体と深層心理のことである。あなたの体を動かしているのは深層肉体であり、あなたの心を動かし行動させているのは深層心理なのである。深層肉体とは、人間が自ら意志せず意識しなくても活動している肉体であり、深層心理とは人間が自ら意志せず意識しなくても活動している精神である。しかしながら、ほとんどの人は、深層肉体や深層心理の存在に気付いていないのである。自ら意識して体を動かし、自ら意識して思考し意志によって行動していると思っているのである。自らを意識した肉体の活動を表層肉体と言い、自らを意識した精神の活動を表層心理と言う。すなわち、ほとんどの人は、表層肉体で体を動かし、表層心理で思考して意志によって行動していると思っているのである。確かに、人間は、意識して、手を挙げたり、足を組んだりすることができる。それは、人間が、表層心理の意志によって表層肉体を動かしているのである。また、人間は、意識して思考し、数学の問題を解いたり、我慢して、意志によって登校したり出勤したりする。それは、人間が、表層心理で、思考しているのである。しかし、表層肉体や表層心理のできる範囲は限られているのである。たとえば、健康や美容のためにダイエットやエクササイズなどをして痩せようと努力をしている人が多いのは、言うまでもなく、表層心理で、痩せることを意識し、痩せようと意志しても、体は思うようにならず痩せないからである。人間は、表層心理で、意識し、意志するだけでは、深層肉体は動かないのである。また、人間は、眠ろうと意志しても眠れず、起きていようと意志してもいつか眠ってしまっていることが多い。これも、また、人間は、表層心理で、意識し、意志するだけでは、深層肉体は動かないことを示している。つまり、人間は、表層心理で意識して、意志して動かすことができる表層肉体の肉体の範囲は狭く、ほとんどの肉体の動きは人間の意識や意志に介さない深層肉体によってなされているのである。また、人間は、美しいものを見て、思わず感動する。これも、また、表層心理で意識して意志によってなされているではない。表層心理では感動することはできないのである。感動は、深層心理によってなされているのである。また、人間は、親しい人が亡くなると、悲しくなり、思わず涙するのであり、表層心理で、意識して、意志によって悲しんだり涙を流したりすることはできないのである。悲しみも、また、深層心理の範疇にあるのである。また、人間は、他者から悪評価・低評価を受けると、心が傷付く。もちろん、表層心理で、意識して、意志によって傷心しているのではない。誰が、傷心を意識し、意志で求めるだろうか。傷心も、また、深層心理の範疇にあるのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、意志で、感情を生み出すことはできないのである。全ての感情は、深層心理の範疇にあるのである。つまり、人間のほとんどの活動は深層肉体と深層心理によってなされているのである。だから、人間は、何も考えず、何もしていないように見える時があっても、それは、表層心理や表層肉体が動いていないだけで、いついかなる時でも、常に、深層肉体と深層心理は活動しているのである。深層肉体は、ひたすら生きようという意志を持って、活動している。深層心理は、快楽を求め、不快を避けて生きようと思考して、活動しているのである。だから、人間は、自ら意識して生きようと意志しなくても、生きていくことができ、自ら意識して快楽を求めようと意志しなくても、快楽を求めて生きていくことができるのである。しかし、深層肉体のひたすら生きようという意志も深層心理のひたすら快楽を求め不快を避けて生きようという思考も、人間は、表層心理で、自らが意識して、意志して生み出したものではない。だから、表層心理で、自らが意識して意志して消そうとしても、消すことはできないのである。それは、深層肉体そのもの、深層心理そのものに、生来、備わっている意志、思考であるからである。もしも、これらの意志、思考が、人間が自ら意識して意志して生み出しているならば、表層心理による意識、思考となる。しかし、深層肉体のひたすら生きようという意志も深層心理のひたすら快楽を求め不快を避けて生きようという思考も、全ての人間に生来備わっているものなのである。さて、聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」という言葉がある。言うまでもなく、パンとは、食糧のことである。パンを求めてひたすら生きようとしているのが深層肉体である。しかし、聖書は、人間は、生きていくためには、食糧以外に、神の言葉が必要だと言うのである。人間を生かしてくれるのは神であり、神の言葉に従えば、人間が生きていくために必要なものを神が備えてくれると言うのである。さすがに、キリスト教の教えである。しかし、キリスト教国ではない日本では、一般には、人間は、食べることだけを目的に生きるのではなく、文化的・精神的なことを追求することを目的にして生きるのだという意味で解釈されている。確かに、人間が生きていくためには、食糧だけでなく、他の物や他のことが必要である。それが、キリスト教国では神の言葉、日本では文化的・精神的なことだとされたのである。しかし、キリスト教国でも、それ以外の国でも、食糧が確保されても、聖書に記されているような高尚な生き方をする人は稀である。本人が、高尚な生き方をし、高尚な人間だと思い込んでいるだけでけである。だから、ことが起こると、簡単に化けの皮がはがれてしまう。快楽を求め不快から逃れようとして、自我の欲望に駆られて行動してしまう。それは、深層心理が、快楽を求め不快から逃れようと思考して、自我の欲望を生み出し人間を動かしているからである。そもそも、人間にとって、パンは食糧であるとともに、快楽を与えてくれるものなのである。人間は、パンを食べる時にも快楽を求め、それ以外の時にも全て快楽を求めているのである。高尚だと思われるな生き方も、究極は快楽に繋がっているから、それを求めるのである。しかも、人間は、意識して快楽を求めて思考する前に、無意識のうちに快楽を求めている思考しているのである。なぜ、人間は快楽を求めて行動するのか。なぜ、人間は、無意識に、快楽を求めて思考するのか。すなわち、深層心理が快楽を求めて思考するのか。それは、快楽を求めて思考する間、死の恐怖から逃れることができるからである。また、人間は、自我の欲望を満たすために行動している間、死の恐怖から逃れることができるのである。だから、深層心理は、常に、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。自我の状態を欲動に応じたものにすれば快楽が得られるので、深層心理は欲動に基づいて思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。つまり、人間は、自ら意識して思考して行動しているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、行動しているのではない。人間は表層心理で思考する以前に、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。自我の状態が欲動にかなったものになれば快楽が得られるので、深層心理は自我を欲動にかなった状態にしようと思考して、自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識し、それについて思考する時はあるが、自我の欲望を生み出すことはできないのである。だから、人間は、表層心理で、思考しても、行動できないのである。すなわち、人間は、主体的に思考することも行動することもできないのである。フランスの心理学者のラカンは「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。深層心理が、欲動に基づいて、快楽を求めて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望にとらわれて生きているのである。自我の欲望が、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが無意識の思考によって生きているのである。しかし、自らが意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が生み出しているのだから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自我の欲望は自らの欲望であるから、逃れることができないのである。つまり、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望にとらわれて生きるしかないのである。人間の行動は、全て、深層心理が生み出した自我の欲望の現れなのである。さて、深層心理は自我を主体に立てて思考して自我の欲望を生み出している人間を動かしているが、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我は娘、息子である。しかし、娘、息子は、家族を選べず、母、父という親を選べないのである。なぜならば、人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきていないからである。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。つまり、自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。だから、人間は、誰しも、親を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。その家族を構造体として、娘、息子を自我として存在しているのである。しかし、親も、子を選べないのである。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。生まれてきた子の母、父を自我として生きるしか無いのである。人間の悲劇とは、偶然持たされた命であり自我であるが、そこから、一生逃れられないということである。自殺すらも、自我の生き方の一つなのである。すなわち、人間にとって、自我の存在が、自らの存在を意味するのである。次に、深層心理は自我を主体に立てて思考して自我の欲望を生み出している人間を動かしているが、深層心理が自我を主体に立てるというこはどういうことを意味するか。それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我の行動について考えるということである。つまり、人間は、自らが主体となって、思考し行動していないのである。だから、人間は自己として存在し難いのである。自己とは、人間が表層心理で常に正義に基づいて思考して行動するあり方である。つまり、自己とは、人間が、正義に基づいて、自ら意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方である。だから、人間が、表層心理で正義に基づいて思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるのであるが、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされているので、自己として存在していると言えないのである。自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、人間は他者の思惑を無視して主体的に自らの行動を思考することはできないのである。そうすれば、構造体から追放され、自我を失う虞があるからである。また、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、本質的に、正義に基づく主体的な思考はできず、自己として存在できないのである。次に、深層心理は自我を主体に立てて思考して自我の欲望を生み出している人間を動かしているが、自我の欲望とは何か。自我の欲望とは感情と行動の指令が一体化したものである。深層心理が生み出した感情が動力となって、深層心理が生み出した行動の指令通りに人間を動かそうとするのである。人間の最も強い感情は怒りである。だから、人間は、怒りに駆られて、異常な行動を起こすのである。人間の人間たる所以は、深層心理の思考によって生み出された自我の欲望によって動かされていることである。次に、深層心理は自我を主体に立てて欲動に基づいて快楽を求めて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かしているが、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲がある。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという承認欲がある。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲がある。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲がある。深層心理は、自我の状態を欲動の四つの欲望のいずれかにかなうようにすれば快楽が得られるので、自我をそのような状態にしようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。ほとんどの人の日常生活が、ルーティーンという同じようなことを繰り返す無意識の行動になっているのは、深層心理が欲動の第一の欲望である保身欲を満たそうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間を動かしているからである。ほとんどの人は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに無意識のうちに行動しているのである。それは、構造体にも自我にも異常なことがほとんど無く、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに行動して良く、表層心理で思考することが起こっていないことを意味するのである。人間は、表層心理で意識すること無く、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、行動しているから、毎日、同じような行動ができるのである。人間は、自らを意識して思考すること、すなわち、表層心理で思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。まさしく、ニーチェの言う「永劫回帰」である。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、それでも、時には、日常生活を脅かすようなことが起こる。たとえば、妻からきつく言われ夫としての心を傷付けられる。上司から厳しく注意され会社員としての心を傷付けられる。クラスメートに悪口を言われ心を傷付けられる。心が傷付いたのは欲動の第二の欲望で承認欲が阻害されたからである。そのような時、深層心理は夫、上司、クラスメートに対して、怒りの感情と殴れという行動の指令を自我の欲望として生み出し、人間を動かそうとすることもある。深層心理は、相手に暴力を振るうことによって相手の自我を下位に落とし、自らの自我を回復させようとするのである。暴力を加えるのとは、自我を傷付けた他者の自我を傷付けるために行うのである。しかし、暴力を振るえば、夫婦という構造体が壊れたり、会社という構造体から追放されたり、高校という構造体から追放されたりする可能性がある。そこで、深層心理の中にある超自我が暴力を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に内在する自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発した、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強いと、超自我は、深層心理が生み出した暴力という行動の指令を抑圧できないのである。超自我が抑圧できない場合、暴力という行動の指令に対する審議は表層心理に移されるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が生み出した暴力という行動の指令について、許諾するか拒否するかを審議するのである。人間は、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って思考して、諾否の結論を出すのである。人間の表層心理での思考が理性である。表層心理での思考の結果、すなわち、理性による思考の結果を行動に移そうとする心情が意志である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから思考して、諾否の結論を出そうとするのである。そして、当然の結果、拒否の結論を出し、意志によって暴力の行動の指令を抑圧しようと考える。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎれば、表層心理の意志も、超自我と同様に、深層心理が生み出した暴力という行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手に暴力を加えてしまうのである。さらに、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、表層心理で審議することなく、相手に暴力を加えてしまうのである。これらが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、深層心理が納得するような代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。それが、時には、精神疾患を招き、時には、自殺を招くのである。このように、深層心理の自我に対する執着は強く、人間は、表層心理の思考による意志には、限界があるのである。しかし、それでも、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した過激な行動の指令通りに行動したならば、自我がどうなるかということを、道徳観、社会的規約、他者の評価を考慮して、思考するから、悲劇や惨劇は、ここまででとどまっているのである。つまり、人間には、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激なために、自我が危機的な状況に陥った場合、表層心理で、自らの存在を意識して思考する機能があるから、人類は滅びずに存続できたのである。人間は表層心理で自らの存在を意識すれば、必ず、思考が始まるのである。すなわち、人間は表層心理で自らの存在を意識すれば、必ず、表層心理で思考するのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が必ず始まるのである。深層心理が強い感情を生み出したとき、人間は、表層心理で、自らを意識し、思考するようになっているのである。なぜならば、深層心理が強い感情を生み出すときは、自我が日常生活のルーティーンから外れ危機的な状況にある時だからである。また、深層心理が強い感情を生み出さなくても、人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時にも、深層心理の中にある他者に認めてほしいという承認欲から、表層心理で、自らを意識する。人間は、自らを意識しながら、他者が自分をどのように見ているか思っているかを思考するのである。さらに、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに無意識に行っている行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。そして、それと同時に、表層心理での思考が始まるのである。つまり、人間は、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激な時だけでなく、他者の存在を感じた時や他者がそばにいない時にも、表層心理で自らの存在を意識して思考するのである。なぜ、そうなのか。それは、人間は、常に、他者に脅威を感じ、自我に危うさを感じているからである。さて、深層心理は、欲動の第一の欲望である保身欲に基づいて、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、構造体が存続しなければ自我も存続できないからであり、構造体が発展すれば自我も発展したように思い込んでしまうからである。さらに、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、現代においては、誰しも、愛国心を持っているのである。つまり、世界中の人々が、国という構造体と国民という自我にプライドを持ちたいのである。そして、深層心理は、欲動の保身欲から、愛国心という自我の欲望を生み出し、所属している国とその国に所属している国民という自我の存続を望むのである。そして、深層心理は、欲動の承認欲から、愛国心という自我の欲望を生み出し、所属している国の発展を望むのである。国のために戦うというのは国という構造体が存続することの自我の欲望から生まれたものである。しかし、戦死すれば、国民という自我を失い、国が存続しても意味をなさないのである。そこで、政治権力者は、戦死者を英雄としてたたえ、戦死しても国民という自我が存続しているように思わせるのである。また、国という構造に所属して国民という自我を持つことから、深層心理は愛国心という自我の欲望が生まれ、自国のすばらしさを他国の人々に認めてほしいという承認欲から、ワールドカップやオリンピックで自国チームや自国選手を応援するのである。それと同様に、自我が郷土という構造体に所属しているから愛郷心を、家族という構造体に所属しているから家族愛を、会社というという構造体に所属しているから愛社精神を、学校という構造体に所属しているから愛校心を、カップルという構造体に所属しているから恋愛感情を、仲間という構造体に所属しているから友情を、宗教団体という構造体に所属しているから信仰心という自我の欲望を深層心理が生み出すのである。構造体と自我の関係から深層心理が生み出すのである。ただそれだけのことなのである。しかし、深層心理は、自我を確保・存続・発展させるために、そして、構造体のを存続・発展させるために、戦争以外にも、人間に罪を犯させるのである。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。正義という志向性で思考して自己と存在するならば、このような残虐なことはできないはずである。よく兵士とは国を守るための重要な存在だと言われるが、そうではない。この世には、守るべき国も、破壊すべき国も存在しない。国を守るということを金科玉条に言い立てる人は、愛国心という自我の欲望に埋没している国家主義者か支配欲という自我の欲望をかなえようとしている政治権力者である。自衛隊員を含めて兵士が政治権力者や上官の国を守るとか治安のためとかの理由による命令で人を殺すことができるのは保身欲から来る自我の欲望に動かされているからである。また、裁判官が首相に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして首相に迎合するのは、立身出世という保身欲から来る自我の欲望がなせる業である。裁判官や公務員という公明正大であるべき人々が自己としての正義に基づいて思考していないのである。次に、欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲であるが、人間は好評価・高評価を得られれば快感を得るのである。そのために、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。深層層心理は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、承認欲から、他者の自分に対する気持ちを推し量っているのである。フランスの心理学者のラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言う。それは「人間は、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。つまり、人間は、主体的な思考ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得すれば承認欲が満たされ、深層心理は快楽を得るのである。だから、逆に、自我が他者に無視されたり侮辱されたりして承認欲が阻害され心が傷付いたたならば、深層心理は、怒りの感情と他者に対する攻撃の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かし、傷心から解放されようとするのである。つまり、人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れ、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが自我の目標となっているのである。学生や生徒が勉強するのは、成績を上げて、教師や同級生や親から褒められたいからである。会社員が懸命に働くのは、業績を上げて、上司や先輩や同輩に褒められたいからである。逆に、自我が他者に貶められると、深層心理は、すなわち、人間は苦悩に陥るのである。そして、その苦悩から逃れようとして、往々にして、他者を攻撃するのである。他者を攻撃することで他者を下位に落とし、下位に貶められた自我を上位にもっていこうとするのである。人間は常に承認欲をもって他者と接しているから、いついかなる時でも、人間は怒りや苦悩に襲われる可能性があるのである。しかし、深層心理が感情を生み出すから、人間は怒りや苦悩などの感情から逃れることはできないのである。しかし、感情があるからこそ、人間は自分の存在を意識できるのである。次に、欲動の第三の欲望が支配欲である。深層心理は、自らの志向性で自我・他者・物・現象という対象を支配することによって、快感や満足感を得ようとするのである。志向性とは、対象を捉える方向性である。端的に言えば、観点・視点である。しかし、人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているのではなく、深層心理が、人間の無意識のうちに、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えるのである。深層心理の対象への対自化というあり方は志向性で捉えていることである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、志向性で、他者という対象を支配しようとし、物という対象をで利用しようとし、現象という対象を捉えているのである。まず、他者という対象の支配欲であるが、それは、自我が、他者を牛耳ること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることを望むことである。これらがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、快感や満足感が得られるのである。さらに、わがままも、支配欲から起こる行動である。わがままを通すことができれば快感や満足感が得られるのである。政治家になること、ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、ウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による無差別の殺戮は、支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという満足感が得られるのである。次に、現象という対象に対する支配欲であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快感や満足感が得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、この世に存在していないように思い込んでしまうことである。犯罪者中には、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込んでしまう人がいる。次に、無の有化であるが、それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、この世に存在しているように思い込んでしまうことである。人間には自らの存在の保証に神が必要だから、深層心理は実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安定が得られるのである。最後は、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、快感や満足感が得られるのである。カップルという構造体は、恋人という二人の自我によって成り立っている。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人として自我を認め合うことができれば、自らの存在を実感でき、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。また、仲間という構造体は、友人という二人以上の自我によって成り立っている。友情という現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。人間が友人を作ろうとするのは、仲間という構造体を形成し、友人という自我を認め合うことができれば、そこに安心感が生じるからである。友人いう自我と友人いう自我が共感すれば、そこに、信頼感が生じ、一人の自我で受ける孤独感から解放され、力がみなぎって来るのである。しかし、人間、誰しも、表層心理で、自らを意識して思考して、誰を恋人にするか、誰を友人にするかは、決めているわけではない。深層心理が、趣向性によって、選んでいるのでいる。趣向性とは、好みという感性である。感性は深層心理の範疇に属している、人間は表層心理で恋人も友人も決めることはできないのである。また、呉越同舟という共通の敵がいたならば仲が悪い者同士も仲良くすることも、共感化の現象である。二人の仲が悪いのは、二人の趣向性が異なり、そこで、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、協力するということは、互いに相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で協力して共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで一つになるということも、呉越同舟の現象である。そこに共通の敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通の敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の支配欲で自我の力が発揮しようと思うから、共通の敵がいなくなると、自我を主張するようになるのである。また、小学校、中学校、高校で、自我の深層心理の趣向性が合わないために、いじめが起こる。いじめの原因は、毎日、閉ざされ、固定されたクラス、クラブという構造体で、クラスメート、部員という自我で暮らしていることである。毎日、同じクラスメート、部員と暮らしていると、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくる。好きな部員、友人ばかりでなく、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの感情は、自ら意識して、自らの意志で、生み出しているわけではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、好きなクラスメート、部員と嫌いなクラスメート、部員を峻別しているわけでは無い。深層心理が趣向性がそれを出現させるのである。しかし、小学生、中学生、高校生は、クラス、クラブに嫌いなクラスメート、部員がいても、それを理由にして、自分が別のクラス、クラブに移ることもその嫌いなクラスメート、部員を別のクラスに移すことも許されない。わがままだと非難されるだけである。だから、現在のクラス、クラブという構造体で生きていくしか無いのである。しかし、クラス、クラブという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな人と共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、嫌いな人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵にしてしまう。すると、自らの深層心理が、自らに、その嫌いなクラスメートに対して攻撃を命じる。しかし、自分一人ならば、勝てないかも知れない。また、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れない。そこで、自分には、仲間という構造体の友人がいるから、彼らに加勢を求め、いじめを行うのである。彼らも仲間という構造体から、自分が放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。クラスという構造体では、担任の教師は、いじめに気付いていても、いじめている生徒たちはクラスのイニシアチブを握っていることが多く、彼らを敵に回すと、クラス運営が難しくなり、担任教師という自我の力量が問われるから、いじめに気付いても、厳しく咎めることはせず、軽く注意するか見て見ぬふりをするのである。また、カップルという構造体で恋人という自我にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまでするのは、カップルという構造体が壊れ、恋人という自我を失うのが辛いからである。このように、深層心理が、欲動の自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、自我が他者に認められたいという承認欲、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲という四つの欲望のいずれかに基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているが、それに無反省に従っている限り、犯罪は絶えることは無く、それが殺人や戦争にまで及ぶのである。一般に、自我を傷つけられた人間が殺人事件や戦争を引き起こす。人間は自我を傷つけられると、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して人間を動かし傷ついた自我をいやそうとする。自我を傷つけられた人間の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた人間を殺せという自我の欲望を生み出して、傷ついた人間を殺人へと駆り立てるのである。他国の政治権力者から自我を傷つけられた政治権力者の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた政治権力者を倒せという自我の欲望を生み出して、戦争へと駆り立てるのである。人間は、正義に基づいて思考し行動するという自己に目覚めない限り、自我の欲望に従って生きるしかないのである。しかし、自己に目覚めるのは至難の業である。人間は、日々、自我の欲望に従って行動しているからである。しかし、自己に目覚めない限り、人類は殺し合って滅びるしかないのである。さて、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、心境の下で、欲動に基づいて、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのであり、常に、心境と感情という情態が人間に付きまとうのである。ほとんどの人は思考や行動を重要視するが、人間にとって重要なのは、むしろ、心境や感情という情態である。人間は、心境と感情という情態によって、自らの存在を意識し、自らが得意の状態にあるか不得意の状態にあるかわかるからである。人間が自らの存在を意識するとは、ある情態の下で、ある思考にあることやある行動をしていることを意識するのである。情態とは、深層心理を覆っている心境や深層心理が生み出した感情のことである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心に存在しているのである。つまり、心境や感情という情態こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。人間は、自分の存在を感じ取る時は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取るのである。それは、意識しての確信であると共に無意識の確信でもある。つまり、表層心理しての確信であると共に深層心理の確信である。だから、深層心理は自我を主体に立てて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かすことができるのである。さて、心境も感情も情態であるが、心境は、爽快、陰鬱など、深層心理に比較的長期に持続する情態であり、感情は、快感、不快、怒り、哀しみなどの、深層心理が突発的に生み出す情態である。深層心理は、感情を生み出す時は、行動の指令と一体化させて、自我の欲望として生み出すのである。心境と感情は並び立つことがない。人間は、常に、一つの心境という情態、若しくは、一つの感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、その人自身の心境であり感情である。深層心理は、心が空白の状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境という情態性に影響されて思考しているのである。人間は、心境によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間が得意の心境の状態の時には、深層心理は、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す場合、現在の状態を維持させるような方向に行うのである。人間が不得意の心境の状態の時には、深層心理は、現在の状態から脱却させようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいという心境から逃れるために、苦悩の原因となっている問題を解決しようとするのであり、苦しいという心境から逃れられれば、苦悩の原因となっている問題を解決しようがしまいが、気にならないのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境から抜け出すことが唯一の目的だからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境という情態が大切なのである。それは、常に、心境という情態が深層心理を覆っているからである。もちろん、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は感情を生み出し、それに対処しようとする。例えば、美しい花を見ると感動という感情、誰かに侮辱されると怒りという感情を、深層心理は生み出して対処しようとするのである。



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